平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

熱く燃えなければ伝わらない(2014.6.8 礼拝)

2014-06-08 19:46:33 | 礼拝メッセージ
2014年6月8日ペンテコステ礼拝メッセージ
『熱く燃えなければ伝わらない』
【黙示録3:14~22】

はじめに
 きょうは五旬節、ペンテコステの礼拝です。ペンテコステはイエス・キリストが復活したイースターから50日目に当たります。この日、まずペテロやヨハネなどのガリラヤ人の弟子たちに聖霊が注がれました。
 きょうは聖書交読でも聖書朗読でも使徒の働き2章の有名な箇所を読みませんでしたが、やはり、この箇所はペンテコステの礼拝には欠かせないと思いますから、ご一緒に見ておきたいと思います。使徒の働き2章の1節から4節までを交代で読みましょう(新約聖書p.228)。

2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。
2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

 このように、聖霊は天から地上の弟子たちに下りました。聖霊は復活したイエス・キリストが天に上った10日後に、天の父の御もとから遣わされました。

聖霊により一つになる
 この聖霊については、ヨハネの福音書のイエス・キリストは次のように言っています(ヨハネ14:26、週報p.3)

「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」

 聖霊は天の御父がイエス・キリストの名によって遣わす神の霊です。聖霊は私たちにすべてのことを教え、またイエス・キリストが弟子たちに話したすべてのことを私たちにもまた、思い起こさせて下さいます。ですから私たちが天の御父の愛、そしてイエス・キリストの愛を感じることができるのは、私たちの内に聖霊が入り、住んでいて下さるからですね。以前の私たちは神から離れていた者たちでしたが、そのことを悔い改め、イエスが神の子キリストであることを信じましたから私たちには聖霊が注がれ、神の愛を豊かに感じることができるようになりました。
 私たちには一つの神である聖霊が注がれていますから、御霊の一致を保つことができます。私たちは同じ地域に住んでいますが、育った環境は色々と違いますし、性格も違います。年齢も違いますし、得意な分野も能力も違います。こんなに違う私たちですがバラバラにならずに一つになることができるのは、一つの神である聖霊が注がれて一つになることができるからですね。ただ、どれくらい一つになっているかは、教会によって大きな幅があると思います。一つになっているとは言え、かろうじてバラバラにならない程度でしかない教会から、本当に皆が御霊の一致を熱心に保って一つになっている教会まで、いろいろでしょう。私たちの教会は、どの辺りにあるのでしょうか。
 きょう始めに聖書交読で読んだローマ人への手紙ではパウロがローマの教会の人々に、聖霊によって一つになることを勧めています。たとえば12章の4節と5節でパウロは次のように書いています。

12:4 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、
12:5 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。

 そうして、それぞれの賜物を活かして教会のために働くように勧めています。6節から8節までをお読みします。

12:6 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。
12:7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。
12:8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。

 そして、聖書交読では読みませんでしたが、パウロはまた15節と16節で次のように書いています。

12:15 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。
12:16 互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。

 これらのことをパウロが随分と熱心に勧めているところを見ると、ローマの教会は、一見すると一つにまとまっているようでいて、内実は結構バラバラだったのかな、という気もしますね。パウロはこの手紙の書き出しのほうでは、ローマの教会を持ち上げて褒めています(週報p.3のローマ1:8)

1:8 まず第一に、あなたがたすべてのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します。それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。

 このようにパウロはローマの教会のことを賞賛していますが、内実は分裂含みだったのかもしれません。

霊に燃えるなら一つになる
 特にユダヤ人のクリスチャンと異邦人のクリスチャンの間の対立が深刻であったことが伺えます。今度は14章を見てみましょう。14章の1節と2節でパウロはこのように書いています。

14:1 あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。
14:2 何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。

 ここにある野菜よりほかに食べない弱い人とは、律法を守るユダヤ人クリスチャンのことのようです。律法によれば豚肉は食べてはいけませんが牛や羊や鳥の肉は食べても良いので、どうして野菜よりほかに食べないのかは良くわかりませんが、いろいろと心配なことがあるのでしょう。ローマはユダヤから遠く離れていてローマの人々は豚肉も平気で食べるでしょうから、牛肉や鶏肉に豚肉が混入している恐れがあるのかもしれません。その辺りの事情はよくわかりませんが、キリスト教には何かを食べてはいけないという食物の規定はありませんから、食べ物のことを気にするクリスチャンは、信仰の弱いクリスチャンであるということになります。そしてパウロは、そういう信仰の弱い人も受け入れなさいと手紙に書きました。そして3節、

14:3 食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。

 食べる人も食べない人も、神様は両方の人を受け入れて下さっています。そして、少し飛ばして15節でパウロは、

14:15 もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。

とまで書いていますから、このローマの教会はほとんど分裂し掛かっていたのかもしれません。このようなローマの教会の人々に対して、パウロは12章で「霊に燃え、主に仕えなさい」と書いています。12章に戻って、11節をご一緒に読みましょう。

 12:11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

 霊に燃えて主に仕えるとき、私たちは一つの同じ方向を向くことができます。霊に燃えていない時は分裂しそうであっても、霊に燃えるなら一つの方向に向かって進んで行くことができるのではないでしょうか。

生ぬるい信仰ではいずれバラバラに
 では、霊に燃えていない教会とは、どのような教会でしょうか。ローマの教会がそうだったのかもしれませんし、きょうの聖書朗読で読んだ黙示録3章のラオデキヤの教会のような、生ぬるい信仰の教会も霊に燃えていない教会と言えるでしょう。
 黙示録3章の15節と16節を見てください。ラオデキヤの教会に対して、主はこのように言っておられます。

3:15 わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。
3:16 このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。

 教会の信仰が生ぬるいものであれば、その時はたまたまバラバラになっていなかったとしても、ゆるい結束しかありませんから、いずれはバラバラになってしまうでしょう。20節の有名な聖句で主は、

3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

と言っておられますね。この有名な聖句の最後にある、「彼もわたしとともに食事をする」には、いろいろな解釈の仕方があると思いますが、今日これまで話して来たことに沿って解釈するなら、「彼もわたしとともに食事をする」とは、教会の者が皆、主の方向という一つの方向を向くことと解釈することができると思います。
 そうなるように主は19節で、

3:19 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。

と言っておられます。主は「熱心になりなさい」と言っておられます。これはローマ人への手紙の「霊に燃え、主に仕えなさい」と同じですね。
 生ぬるい信仰しか持てないのであれば教会はいつかバラバラになりますが、熱心になるなら、教会は一つにまとまることができます。

良い結果をもたらす熱心さ
 信仰に限らず何事も、熱心にならないよりは熱心になった時のほうが大抵の場合は、良い結果をもたらすことは、皆さんも良くご存知のことと思います。
 熱心で私が思い出したのは、私が前の職場の大学の留学生センターで、日韓プログラムという韓国人留学生を受け入れる留学プログラムの担当になった時のことでした。その留学プログラムは、日本と韓国が国費で半分ずつ費用を出して、韓国の高校を卒業したばかりの韓国人を毎年100名、日本の大学に受け入れるというものでした。大学によって受け入れる人数は異なりましたが、私が勤めていた大学では毎年5~6名を受け入れました。この韓国人留学生に中級・上級の日本語教育(初級は韓国で既に学んで来ていますから)と、高校レベルの数学と理科を日本語で教える教育プログラムの担当に私はなりました。
 その頃の私は、韓国のことをあまり知りませんでしたから、かなり不安になりました。大学院生ですと、かなり大人ですが、高校を卒業したばかりですと、まだまだ幼さもあります。そのような若い韓国人たちの保護者のような役割を務めなければならないということで、私はともかくも、韓国について学ぶことにしました。まずプライベートで韓国に旅行に行きました。それですっかり韓国が気に入りました。それはちょうど2000年のことで、まだ『冬のソナタ』が放送される前のことでしたが、韓国ブームが起きる気配が漂い始めているような時期でした。その頃に『シュリ』という韓国映画が日本でもヒットして、東京では韓国映画を掛ける映画館が増えていた時期でしたから、私はなるべく韓国映画を観に行くようにして、そして韓国語の勉強も始めて、どんどん韓国が好きになって行きました。それは無理をして好きになったわけではなく、韓国映画を本当に面白いと感じましたし、韓国語の勉強も楽しかったですから、熱心に学びました。そんな風に私が韓国のことを熱心に学んでいることが学生にも自然と伝わりますから、彼らの方でも私に好感を持ってくれて、良い関係が築けたと思います。このことがやがて、私が韓国人クリスチャンに教会に連れて行ってもらうことにもつながって行くわけですが、何事においても熱心であることは、時と場合にもよると思いますが、大抵の場合、良い結果をもたらすと思います。
 韓国に熱心になったおかげで私はクリスチャンにもなりましたし、その後は、下関と釜山の日韓の高校生の交流を描いた『チルソクの夏』という映画を応援するようになり、そのことから映画関係の友人が出来て、また映画の応援だけでなく映画音楽の作曲家や演奏家のコンサートにも行ったり、俳優の舞台公演も観に行ったりして、音楽や演劇の応援もするようになりました。これらは私の世界を広げてくれて、とても良い経験をさせていただいたと思っています。私が応援した映画関係者や、音楽家や俳優さんたちは、皆さん本当にご自身の仕事に熱心に取り組んでおられますから、なおさら応援したくなるのですね。何かに熱い想いで取り組んでいる人々は本当に魅力的で、その魅力に引き込まれて応援したくなります。

『アオギリにたくして』
 いま私は、この会堂にもチラシを貼った、『アオギリにたくして』という映画を応援したいと思っています。先週の5日の木曜日に沼津で無料の試写会がありましたから、観て来ました。そして7月17日の沼津で空襲があったという日には有料の上映会があります。7月17日は木曜日で私は特に予定もありませんから、また必ず観にいくつもりでいますし、1000円の前売券を余分に買ってありますから、皆さんの中で観に行って下さる方がいれば、お分けしたいと思います。この『アオギリにたくして』のアオギリとは、広島の原爆で被爆した木のことです。このアオギリの木は被曝して黒焦げになりましたが、何とその翌年に新芽を吹いて葉っぱを付けて、広島の多くの人々に希望を与えたと言われています。この映画のヒロインのモデルになった沼田鈴子さんという広島の原爆被害の語り部も、このアオギリの若葉を見て勇気をもらい、ドン底から立ち上がることができました。このように人々に希望を与えた黒焦げのアオギリを、私は復活したキリストのようにも感じます。ですから、この映画を私は沼津の上映においてはもちろん応援しますし、これからも全国各地で上映されますから、応援し続けて行きたいと思います。
 この映画は原爆と被爆者という重い内容の映画ですので、一般の映画館ではあまり興行収入が見込めず、商業ベースには全く乗らない映画です。それでも、この映画の製作者たちは、この映画はどうしても世に出さなければならないという熱い想いを持ち続け、最終的に何千万円掛かったかわかりませんが、借金をして撮り、今回の7月17日の沼津での上映会のように1日単位の上映会を全国で行いながら、細々と資金を回収して借金を返済しているのだと思います。会場を借りるにも使用料が掛かりますし、舞台挨拶をされるプロデューサーさんの交通費や滞在費も掛かるわけですから、もし観客が集まらなければ却って赤字が膨らんでしまいます。それで少しでも資金を回収できるように会場ではアオギリのイラストが入ったTシャツやエコバックを募金用ということで、少々高い値段で販売しています。そういう涙ぐましい努力をしてでも、何としてでも、この被爆者の体験を世に伝え、平和のために働くんだという熱い気持ちがありますから、その熱い想いが全国各地のボランティアの心を動かして上映会が開かれています。来年には海外での上映も行いたいとプロデューサーさんは挨拶で言っておられました。その熱い想いに触れると、私のようにお金があまり無い者でも心を動かされて前売券を何枚も買ったり、Tシャツを買ったりします。

熱い想いで前進したい
 人の熱い気持ちには、このように周囲の人々を動かす力があります。逆に熱くなっていない人には、誰も協力しようという人はいません。私は教会の会堂の問題も同じであろうと思います。先日の幹事会で、この会堂の屋根の葺き替えにどれくらいの費用が掛かるかの見積りを取ることになりました。BAからもそのような助言がありましたから、一応私も業者との連絡を取り始めていますが、見積りをしに来てもらうには至っていません。それは、私が屋根の葺き替えだけを行うことには、あまり熱心でありませんから、その雰囲気が業者さんにも伝わってしまっているのだと思います。もし他の選択肢が無くて屋根の葺き替えだけが唯一の選択肢であれば私も熱心に業者さんと交渉をして、良い工事をしてもらえるように頑張ると思います。しかし、屋根の葺き替えだけを行うことに私は熱心になれません。それはそうですよね。廣瀬先生の時から新会堂、新会堂と言い続けて来たわけですから、新会堂の建設に着手せずに屋根の葺き替え工事だけを行うことに熱心になれるわけがありません。そんな雰囲気が業者さんにも伝わってしまって、来てもらえないのだろうと思っています。
 私たちは、屋根の葺き替えという、熱くも冷たくもない選択肢を残しておくべきでしょうか。私たちは、いつかは熱くなる時を持たなければなりません。だったら早いほうが良いのではないでしょうか。ですから私は屋根の葺き替えという熱くも冷たくもないことには熱心になれません。もっともこれは、私の個人的な考えですから、皆さんと共に考えて行かなければなりません。
 一つ、今の私たちにハッキリと分かっていることは、私たちにはあまりお金が無いということです。では、お金が無い時には、あまり熱くなって動かないほうが良いのでしょうか。私は必ずしもそうではないと考えます。何故なら、私たちには「ヨハネの永遠観」という素晴らしい宝物が与えられているからです。これを上手に活用するなら、私たちは多くのものを得ることができると私は信じています。
 私は今年の2月まで半年以上掛けて、『ヨハネの福音書の永遠観』というA4で約100ページの原稿を書き上げました。残念ながら、この原稿はあまり理解していただくことができませんでしたから、いま私は第二弾に取り掛かり始めているところです。この第二弾にどれくらい時間を掛けるかわかりませんが、同じく半年ぐらい掛けてみて、それでもダメなら第三弾に取り組もうと思います。そうしていつかはヨハネの永遠観という宝物は私たちに必ずや多くのものをもたらすと信じています。
 最近になって私が取り組み始めた第二弾では、私はヨハネの第一の手紙に返信するという形式を取っています。ヨハネの永遠観の場合、私は2世紀以降のオリゲネスやアウグスティヌス、ルターやカルヴァン、そして20世紀や21世紀の注解者たちのヨハネ文書に関する注解はほとんど参考にならないという立場を取っています。そういう傲慢なことを言っていては、なかなか聞いてもらえませんね。それで私は、ヨハネの第一の手紙に直接返信するという手法で文章を書き始めています。ヨハネの第一の手紙には宛先が書いてありませんから、私に直接宛てて書かれた手紙だと思って私もヨハネに直接返信を返すことにすれば、途中の時代のアウグスティヌスやルターを飛ばしても構わないわけです。
 この試みが上手く行くかは、私の文章力に掛かっています。あまり自信がありませんが、いまNHKの朝ドラで放送している『花子とアン』の花子も自分で書いた新しい小説が編集者に認められたところですから、私も、こぴっと頑張らねばと思っています。このヨハネへの返信はツイッターでもつぶやき始め、それらをまとめたものを教会のブログにもアップさせていただいていますから、皆さんにも応援していただけたらと思います。

おわりに
 このように、いまお金が無くても、私たちが何かに熱く取り組み始めるなら、事態は少しずつ良い方向に動いて行くのではないか、そんなふうに私は思っています。特にインターネットの活用には皆さんにも熱心に参加していただければ感謝だなと思っています。いずれにしても、どんな方向に行くにしても、私たちはもちろん、御霊の声に耳を傾けなければなりません。
 最後に、3章22節をご一緒に読みましょう。

「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」

 御霊の言われることを聞き、霊に燃えているなら、御霊は必ずや私たちを良い方向へと導いて行って下さると思います。ペンテコステの日の今日、そのことを信じて、御霊の導きに従って行く私たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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