2017年5月10日祈り会メッセージ
『預言者たちの中にいるイエス』
【ヨハネ10:30、12:49-50】
10:30 わたしと父とは一つです。
12:49 わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。
12:50 わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。
はじめに
今年の四月から祈り会に協力牧師の先生も参加して下さり、共に祈る恵みをいただいています。そして説教者の私にとっては、メッセージを先生に毎回聞いていただけるということもまた大変な恵みです。これは神様のご配慮ではないかという気がしています。それゆえ祈り会ではまた、ヨハネの福音書を学ぶことを4月から始めました。
今月の終わりか来月の始めには『ヨハネの福音書』に関する本が出版されますが、先生とは、この福音書の深層部にはどんなメッセージが隠されているかということについて、是非分かち合いたいと願っています。それは、今まで気付かれていなかったヨハネの福音書の深層部には世界を変える力があると私は確信しているからです。
変えられるべき世界
「世界を変える」なんて、随分と大げさなことを言う人だとお思いだと思います。しかし私は本気でヨハネの福音書の深層部によって世界が変えられる必要があると思っています。
「世界を変える」とか「世界が変わる」とか言いますが、世の中には変わらなくても良いこともあると思います。例えば携帯電話はどうでしょうか。携帯電話の普及によって私たちの生活は劇的に変わりました。携帯電話があることで私たちの生活は随分と便利になりました。しかし携帯電話はどうしても必要な物でしょうか。例えば、世界の中にはまだ携帯電話を使っていない未開の地域もあることと思います。それらの地域の人々も携帯電話を使うべきと思うでしょうか。それらの地域の人々も携帯電話を使うことで変わるべきだと思うでしょうか。携帯電話会社の人々は(採算さえ合えば)使ってほしいと思うでしょう。でも私たちは別に携帯電話会社に勤めているわけではありませんから、未開の地域の人々にも携帯電話を使って欲しいとまでは思わないでしょう。携帯電話は便利である一方で、私たちの生活をとても忙しいものにしてしました。ですから、それらの未開の地域の人たちには、のんびりとした生活を送ってほしいという気持ちが私の中にはあります(自分勝手な思いかもしれませんが)。
では未開の地の人たちが聖書を読むことはどうでしょうか。これは是非そうあってほしいですね。万物を創造し、私たちの一人一人に命を与えて下さった神様とは、すべての人が聖書を通してつながっていただきたいと思います。未開の地の人々の生活はゆったりしているでしょうから、聖書の世界に静かに思いを巡らすことで、きっと神様と豊かにつながることができるようになるでしょう。
忙しい現代人には届きにくい聖書のメッセージ
ここで、今の私たちの忙しい生活と、ヨハネの福音書の深層部のことをつなげて考えてみたいと思います。かつて、パソコンも携帯電話も使っていなかった頃ののんびりしたアナログの時代の人々には聖書のメッセージが今よりも深く届いていただろうと思います。ヨハネの福音書の深層部のことなど明らかになっていなくても、魂で何となくそれを感じることができていたのだと思います。
しかし、現代の忙しいデジタル時代の人々は違って来ているのだろうと感じます。現代のデジタルの時代の現代の人々は、たとえパソコンや携帯電話を使っていなくても大部分の人は、テレビぐらいは見るでしょう。現代のテレビ番組は万事情報量が多くて、画面の切り替えも多くて、のんびりした番組は少ないと思います。私たちは、もうそういう忙しさにすっかり慣らされてしまっています。聖書の深いメッセージが魂に届きにくいのは、こういう背景があるのではないでしょうか。マルタとマリヤの姉妹のマルタのように、バタバタと忙しくしていてはイエスさまのみことばを深く理解することができません。現代は世の中全体がマルタのようになってしまっている気がします。そうして今の世界はどんどん平和から遠ざかって悪い方向に向かっています。
ですから現代の人々にも届くような聖書のメッセージを語る必要に迫られているのではないかと私自身は思っています。今までの伝道の良い面は残しつつも、様々に工夫する必要もまたあるのではないかと思います。その一つが、ヨハネの福音書の深層部を語ることです。昔の人々が魂で感じていたことを、現代の人々は感じにくくなっているようですから、感じることができるように助けて差し上げなければならないだろうと思います。そうして多くの人々が聖書の深い世界を知るようになるなら、世界は変わるだろうと私は確信しています。
「旧約の時代」の重なりは何を示すのか?
では、きょうの聖書箇所を見てみたいと思いますが、
10:30 わたしと父とは一つです。
12:49 わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。
12:50 わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。
ここで「父と一つ」とおっしゃっているイエスさま、そして「父が言われたとおりをそのまま話している」とおっしゃっているイエスさまは、紀元30年頃の人間のイエスさまのことだけではなく、あらゆる時代のイエスさまについてであることを覚えたいと思います。あらゆる時代のイエスさまと言うのは、聖霊が注がれた人の内に住んでいる霊的なイエスさまのことをも含むということです。
きょうは、どうして、そういうことが言えるのかについて、お話ししたいと思います。
もう6年も前のことになりますが、2011年に私はヨハネの福音書には「旧約の時代」がきれいに重ねられていることに気付きました。後に「使徒の働き」の時代もまた重ねられていることに気付きましたが、まずは「旧約の時代」が重ねられていることに気付きました。ヨハネ1章には創世記の時代が重ねられており、ヨハネ2章にはイスラエル人がエジプトを脱出した出エジプトの時代、3章には律法が授けられた時代からヨシュア記、サムエル記にまで至る広い時代が、4章にはソロモン王からアハブ王に至る列王記第一の時代、5章にはその頃の南王国が、6章には列王記第二に入ってエリシャの時代と北王国が滅んだ時代、7章にはヒゼキヤ王の宗教改革の時代、8章にはマナセ王・アモン王の悪魔の時代、9章には律法の書が発見されたヨシヤ王の時代、10章にはエホヤキム王・ゼデキヤ王の南王国が滅んで行く時代、そして11章にはペルシアのクロス王以降のエルサレムが再建された時代が重ねられていて、12章からは新約のイエスさまの時代に合流します。
注解書にはこういう「旧約の時代」との重なりのことは全然書いてありませんでしたから、私はこれは大発見だと思い、有頂天になった何人かの先生方にメールで報告しました。しかし、反応は薄く、スルーした先生も複数いました。そして、反応して下さった先生にも、「仮にそういう重なりがあったとしても、ヨハネはどうしてそういう構造にしたの?」と聞かれました。その問いに対して私は答えることができませんでした。そういうことは私などよりも、もっと偉い先生が考えるべきことで、私ごときが無い知恵を絞って考えるようなものではないと思っていました。
しかし、ヨハネの福音書の時代の重なりについての反応が薄かったことから、「なぜヨハネがそうしたか」については私が考えることにしました。そうして辿り着いた結論が、モーセやエリヤやエレミヤのように聖霊が注がれた預言者たちの中には霊的なイエスさまがいて、預言者たちが語る神のことばは、預言者たちの中にいるイエスさまが語っているのとだということでした。
預言者たちの中にいるイエス
もう一度、12章の49節と50節をお読みします。
12:49 わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。
12:50 わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。
50節でイエスさまは、「父がわたしに言われたとおりを、そのままに話している」とおっしゃっています。そうして、たとえばヨハネ10章1節を読みます。
10:1 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。
「羊の囲い」というのはエルサレム市街を囲む城壁のことであり、「盗人で強盗」というのはカルデヤ人たち外国人の略奪隊のことです(Ⅱ列王24:2)。すると、ここからはイエスさまがエレミヤの口を通してエホヤキム王たちにエルサレムが滅ぶことの警告をしている様子が見えて来ます。たとえばエレミヤ25章の8節と9節をお読みします(旧約聖書p.1289)。
25:8 それゆえ、万軍の【主】はこう仰せられる。「あなたがたがわたしのことばに聞き従わなかったために、
25:9 見よ、わたしは北のすべての種族を呼び寄せる。──【主】の御告げ──すなわち、わたしのしもべ、バビロンの王ネブカデレザルを呼び寄せて、この国と、その住民と、その回りのすべての国々とを攻めさせ、これを聖絶して、恐怖とし、あざけりとし、永遠の廃墟とする。
ここでエレミヤは神のことばを人々に伝えていますが、預言者のエレミヤには聖霊が注がれていてエレミヤの内にはイエスさまが住んでいますから、エレミヤが語る神のことばはイエスさまが語っているのと同じだということになります。
これらが感じられるようになると、ヨハネ11章35節のイエスさまが涙を流された場面も、イエスさまが単にラザロの死を悲しんでいるだけではなく、神の警告を無視したエルサレムがバビロン軍によって滅ぼされて廃墟になってしまったことを悲しんでおられるのだということも感じられるようになります。
現代人のほうが受け入れやすいであろう「重なり」
アメリカやヨーロッパの国々は、いわゆるキリスト教国でありながら、戦争を繰り返して来た歴史があります。これらの戦争は、ヨハネの福音書の深層部にあるイエスさまの深い悲しみを知ることなく繰り返されて来ました。そして現代においても、なお繰り返されています。
ヨハネの福音書の深層部を多くの人々が知れば世界が変わるであろうと私が確信しているのは、以上のような理由からです。これは戦争と平和の問題のことだけではなく、聖霊が注がれた者たちの内にはイエスさまがいるということが「旧約の時代」にも当てはまるということを感じることができるようになると、聖書をもっと身近に感じることができるようになります。
もう一度始めに言ったことに戻ると、現代の人々には、聖書のメッセージは伝わりにくくなっていると思います。しかし一方で、何かの複数の「重なり」ということに関しては、現代人のほうが昔の人々よりも受け入れやすくなっているという面もあると思います。例えば、光は「波」と「粒子」の両方の性質を持っているというようなことです。「波」は広がりを持ち、「粒子」は局所的な存在ですから、まったく合い反する性質です。その両方の性質を併せ持つということは、なかなか受け入れ難いことですが、もうこのことがわかってから百年が経ちますから、現代人の多くはこのことを受け入れていると思います。ですから、イエスさまも紀元30年頃の人間のイエスさまと、それ以外のあらゆる時代にいる霊的なイエスさまが重なって存在するのだということも、昔の人々よりも現代人の方が案外受け入れやすいのでないかという気もします。
ですから、私たちは伝統的な伝道方法の良い面は残しつつ、新しい工夫も取り入れて、救霊のため、平和のために働いて行きたいと思います。
お祈りいたしましょう。
『預言者たちの中にいるイエス』
【ヨハネ10:30、12:49-50】
10:30 わたしと父とは一つです。
12:49 わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。
12:50 わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。
はじめに
今年の四月から祈り会に協力牧師の先生も参加して下さり、共に祈る恵みをいただいています。そして説教者の私にとっては、メッセージを先生に毎回聞いていただけるということもまた大変な恵みです。これは神様のご配慮ではないかという気がしています。それゆえ祈り会ではまた、ヨハネの福音書を学ぶことを4月から始めました。
今月の終わりか来月の始めには『ヨハネの福音書』に関する本が出版されますが、先生とは、この福音書の深層部にはどんなメッセージが隠されているかということについて、是非分かち合いたいと願っています。それは、今まで気付かれていなかったヨハネの福音書の深層部には世界を変える力があると私は確信しているからです。
変えられるべき世界
「世界を変える」なんて、随分と大げさなことを言う人だとお思いだと思います。しかし私は本気でヨハネの福音書の深層部によって世界が変えられる必要があると思っています。
「世界を変える」とか「世界が変わる」とか言いますが、世の中には変わらなくても良いこともあると思います。例えば携帯電話はどうでしょうか。携帯電話の普及によって私たちの生活は劇的に変わりました。携帯電話があることで私たちの生活は随分と便利になりました。しかし携帯電話はどうしても必要な物でしょうか。例えば、世界の中にはまだ携帯電話を使っていない未開の地域もあることと思います。それらの地域の人々も携帯電話を使うべきと思うでしょうか。それらの地域の人々も携帯電話を使うことで変わるべきだと思うでしょうか。携帯電話会社の人々は(採算さえ合えば)使ってほしいと思うでしょう。でも私たちは別に携帯電話会社に勤めているわけではありませんから、未開の地域の人々にも携帯電話を使って欲しいとまでは思わないでしょう。携帯電話は便利である一方で、私たちの生活をとても忙しいものにしてしました。ですから、それらの未開の地域の人たちには、のんびりとした生活を送ってほしいという気持ちが私の中にはあります(自分勝手な思いかもしれませんが)。
では未開の地の人たちが聖書を読むことはどうでしょうか。これは是非そうあってほしいですね。万物を創造し、私たちの一人一人に命を与えて下さった神様とは、すべての人が聖書を通してつながっていただきたいと思います。未開の地の人々の生活はゆったりしているでしょうから、聖書の世界に静かに思いを巡らすことで、きっと神様と豊かにつながることができるようになるでしょう。
忙しい現代人には届きにくい聖書のメッセージ
ここで、今の私たちの忙しい生活と、ヨハネの福音書の深層部のことをつなげて考えてみたいと思います。かつて、パソコンも携帯電話も使っていなかった頃ののんびりしたアナログの時代の人々には聖書のメッセージが今よりも深く届いていただろうと思います。ヨハネの福音書の深層部のことなど明らかになっていなくても、魂で何となくそれを感じることができていたのだと思います。
しかし、現代の忙しいデジタル時代の人々は違って来ているのだろうと感じます。現代のデジタルの時代の現代の人々は、たとえパソコンや携帯電話を使っていなくても大部分の人は、テレビぐらいは見るでしょう。現代のテレビ番組は万事情報量が多くて、画面の切り替えも多くて、のんびりした番組は少ないと思います。私たちは、もうそういう忙しさにすっかり慣らされてしまっています。聖書の深いメッセージが魂に届きにくいのは、こういう背景があるのではないでしょうか。マルタとマリヤの姉妹のマルタのように、バタバタと忙しくしていてはイエスさまのみことばを深く理解することができません。現代は世の中全体がマルタのようになってしまっている気がします。そうして今の世界はどんどん平和から遠ざかって悪い方向に向かっています。
ですから現代の人々にも届くような聖書のメッセージを語る必要に迫られているのではないかと私自身は思っています。今までの伝道の良い面は残しつつも、様々に工夫する必要もまたあるのではないかと思います。その一つが、ヨハネの福音書の深層部を語ることです。昔の人々が魂で感じていたことを、現代の人々は感じにくくなっているようですから、感じることができるように助けて差し上げなければならないだろうと思います。そうして多くの人々が聖書の深い世界を知るようになるなら、世界は変わるだろうと私は確信しています。
「旧約の時代」の重なりは何を示すのか?
では、きょうの聖書箇所を見てみたいと思いますが、
10:30 わたしと父とは一つです。
12:49 わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。
12:50 わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。
ここで「父と一つ」とおっしゃっているイエスさま、そして「父が言われたとおりをそのまま話している」とおっしゃっているイエスさまは、紀元30年頃の人間のイエスさまのことだけではなく、あらゆる時代のイエスさまについてであることを覚えたいと思います。あらゆる時代のイエスさまと言うのは、聖霊が注がれた人の内に住んでいる霊的なイエスさまのことをも含むということです。
きょうは、どうして、そういうことが言えるのかについて、お話ししたいと思います。
もう6年も前のことになりますが、2011年に私はヨハネの福音書には「旧約の時代」がきれいに重ねられていることに気付きました。後に「使徒の働き」の時代もまた重ねられていることに気付きましたが、まずは「旧約の時代」が重ねられていることに気付きました。ヨハネ1章には創世記の時代が重ねられており、ヨハネ2章にはイスラエル人がエジプトを脱出した出エジプトの時代、3章には律法が授けられた時代からヨシュア記、サムエル記にまで至る広い時代が、4章にはソロモン王からアハブ王に至る列王記第一の時代、5章にはその頃の南王国が、6章には列王記第二に入ってエリシャの時代と北王国が滅んだ時代、7章にはヒゼキヤ王の宗教改革の時代、8章にはマナセ王・アモン王の悪魔の時代、9章には律法の書が発見されたヨシヤ王の時代、10章にはエホヤキム王・ゼデキヤ王の南王国が滅んで行く時代、そして11章にはペルシアのクロス王以降のエルサレムが再建された時代が重ねられていて、12章からは新約のイエスさまの時代に合流します。
注解書にはこういう「旧約の時代」との重なりのことは全然書いてありませんでしたから、私はこれは大発見だと思い、有頂天になった何人かの先生方にメールで報告しました。しかし、反応は薄く、スルーした先生も複数いました。そして、反応して下さった先生にも、「仮にそういう重なりがあったとしても、ヨハネはどうしてそういう構造にしたの?」と聞かれました。その問いに対して私は答えることができませんでした。そういうことは私などよりも、もっと偉い先生が考えるべきことで、私ごときが無い知恵を絞って考えるようなものではないと思っていました。
しかし、ヨハネの福音書の時代の重なりについての反応が薄かったことから、「なぜヨハネがそうしたか」については私が考えることにしました。そうして辿り着いた結論が、モーセやエリヤやエレミヤのように聖霊が注がれた預言者たちの中には霊的なイエスさまがいて、預言者たちが語る神のことばは、預言者たちの中にいるイエスさまが語っているのとだということでした。
預言者たちの中にいるイエス
もう一度、12章の49節と50節をお読みします。
12:49 わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。
12:50 わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。
50節でイエスさまは、「父がわたしに言われたとおりを、そのままに話している」とおっしゃっています。そうして、たとえばヨハネ10章1節を読みます。
10:1 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。
「羊の囲い」というのはエルサレム市街を囲む城壁のことであり、「盗人で強盗」というのはカルデヤ人たち外国人の略奪隊のことです(Ⅱ列王24:2)。すると、ここからはイエスさまがエレミヤの口を通してエホヤキム王たちにエルサレムが滅ぶことの警告をしている様子が見えて来ます。たとえばエレミヤ25章の8節と9節をお読みします(旧約聖書p.1289)。
25:8 それゆえ、万軍の【主】はこう仰せられる。「あなたがたがわたしのことばに聞き従わなかったために、
25:9 見よ、わたしは北のすべての種族を呼び寄せる。──【主】の御告げ──すなわち、わたしのしもべ、バビロンの王ネブカデレザルを呼び寄せて、この国と、その住民と、その回りのすべての国々とを攻めさせ、これを聖絶して、恐怖とし、あざけりとし、永遠の廃墟とする。
ここでエレミヤは神のことばを人々に伝えていますが、預言者のエレミヤには聖霊が注がれていてエレミヤの内にはイエスさまが住んでいますから、エレミヤが語る神のことばはイエスさまが語っているのと同じだということになります。
これらが感じられるようになると、ヨハネ11章35節のイエスさまが涙を流された場面も、イエスさまが単にラザロの死を悲しんでいるだけではなく、神の警告を無視したエルサレムがバビロン軍によって滅ぼされて廃墟になってしまったことを悲しんでおられるのだということも感じられるようになります。
現代人のほうが受け入れやすいであろう「重なり」
アメリカやヨーロッパの国々は、いわゆるキリスト教国でありながら、戦争を繰り返して来た歴史があります。これらの戦争は、ヨハネの福音書の深層部にあるイエスさまの深い悲しみを知ることなく繰り返されて来ました。そして現代においても、なお繰り返されています。
ヨハネの福音書の深層部を多くの人々が知れば世界が変わるであろうと私が確信しているのは、以上のような理由からです。これは戦争と平和の問題のことだけではなく、聖霊が注がれた者たちの内にはイエスさまがいるということが「旧約の時代」にも当てはまるということを感じることができるようになると、聖書をもっと身近に感じることができるようになります。
もう一度始めに言ったことに戻ると、現代の人々には、聖書のメッセージは伝わりにくくなっていると思います。しかし一方で、何かの複数の「重なり」ということに関しては、現代人のほうが昔の人々よりも受け入れやすくなっているという面もあると思います。例えば、光は「波」と「粒子」の両方の性質を持っているというようなことです。「波」は広がりを持ち、「粒子」は局所的な存在ですから、まったく合い反する性質です。その両方の性質を併せ持つということは、なかなか受け入れ難いことですが、もうこのことがわかってから百年が経ちますから、現代人の多くはこのことを受け入れていると思います。ですから、イエスさまも紀元30年頃の人間のイエスさまと、それ以外のあらゆる時代にいる霊的なイエスさまが重なって存在するのだということも、昔の人々よりも現代人の方が案外受け入れやすいのでないかという気もします。
ですから、私たちは伝統的な伝道方法の良い面は残しつつ、新しい工夫も取り入れて、救霊のため、平和のために働いて行きたいと思います。
お祈りいたしましょう。