平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

「聖霊の光」が心に灯るキリスト者

2016-12-05 10:17:36 | 礼拝メッセージ
2016年12月4日アドベント第2礼拝メッセージ
『「聖霊の光」が心に灯るキリスト者』
【ヨハネ8:12、マタイ5:14~16】

・ヨハネ8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
・マタイ5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

はじめに
 いまヨハネとマタイの御言葉をお読みしましたが、この箇所は次回もまた取り上げたいと思います。と言うのは、きょうは礼拝後の会堂問題勉強会で皆さんと意見交換する時間をなるべく多く取りたいと思いますから、説教は短くします。ですから、きょうは導入的な話にして、来週もう少し詳しく話すことにします。そして、再来週も同じテーマにします。今回のテーマは、それほど大切なことです。
 それは、「これからのキリスト教会は何を目指すべきか」ということについて私が考えていることを、皆さんと共有したいと私が強く願っているからです。私は必ず共有できると信じていますが、私の説明の仕方がまずくて、すぐには理解できないかもしれません。ですから回数を掛けて説明したいと思います。

弱い方々にどう寄り添うべきか
 おととい私は沼津コーストFMのスタジオで、12月10日放送予定の「潮風の中で」のメッセージの収録に行って来ました。今回で6回目の収録でした。いつもは放送日の前日に収録をしますが、今回は録音の技師さんの都合で、12月3日の放送分と10日の放送分の2回分を収録しました(12月は毎週放送があります)。それで私は自分の収録の前に、もう一人の先生のメッセージをすぐ近くでお聞きする機会に恵まれました。そして、この先生は本当に名説教者だなと思うと同時に、信徒さんの日常に身近に寄り添っている牧師先生だなとしみじみと思いました。
 ご承知の通り、私は信徒の皆さんのお一人お一人に寄り添うということができていませんし、説教にしても私の説教のキーワードは「平和」であったり「永遠」であったりで、平和関連の国際情勢や国内情勢、それに科学的なことや時間論の話などは多くしますが、人の日常生活に寄り添う話はほとんどしません。この点は、私自身も気にはしています。弱い方々にもっと寄り添う牧師にならなければいけないという思いは私も持っています。しかし、私はそうはしていません。なぜなら、やはり私は「平和」を告げ知らせることで召し出された者ですから、それを最優先にする責務があると思っているからです。
 そうは言っても、今回、FMラジオのスタジオで、もう一人の先生の、信徒さんに寄り添う姿勢に感銘を受け、私がそれをしていない問題点を改めて突き付けられていると感じました。そして皆さんの中でも私が信徒に寄り添うタイプの牧師でないことに疑問を持っておられる方もいると思います。ですから、今月は私が考えていることを、じっくりとお話したいと思います。

二つの寄り添い方
 私がなぜ、「平和」や「永遠」にこだわるのか、もう何度もご一緒に開いている箇所ですが、ヨハネの福音書11章を開いて下さい。32節から38節までをお読みします。ここはイエスさまが死んだラザロの墓に来られた場面です。

・ヨハネ11:32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」35 イエスは涙を流された。36 そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」37 しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか」と言う者もいた。38 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。

 もう何度も説明しましたから今日は詳しい説明はしませんが、ここには人間のイエスさまと同時に霊的なイエスさまもいて、霊的なイエスさまはエルサレムが廃墟になってしまったことを深く悲しみ、涙を流しています。そして前章の10章で、エレミヤの中にいる霊的なイエスさまが人々に警告していたにも関わらず、人々の霊的な鈍感さのためにエルサレムが廃墟になってしまったことに憤りを覚えています。表層部の人間のイエスさまはラザロを愛していましたが、深層部の霊的なイエスさまはエルサレムを愛していました。 
 このようなヨハネの福音書の深層部の霊的なイエスさまはヨハネ11章だけではなく、1章の深層部の創世記、2章の深層部の出エジプト記に始まって、11章に至るまでのすべての章にいます。ヨハネ4章のイエスさまは表層部ではサマリヤの女に寄り添っていますが、深層部ではエリヤの時代のやもめに寄り添い、アハブ王とイゼベルの不信仰を深く嘆いています。
 表層部の人間のイエスさまも深層部の霊的なイエスさまもどちらもイエスさまです。そして、キリスト教会では、これまでは専ら表層部の人間のイエスさまだけに注目して、説教ではサマリヤの女やラザロに寄り添うイエスさまについて語って来ました。そうして教会の牧師は信徒に寄り添って来ました。一方、私は深層部にいる霊的なイエスさまに注目して、人々の不信仰ゆえに滅んでしまった北王国や南王国のことをイエスさまが深く悲しんでいることを語り、平和の大切さを語ります。
 私は表層部のイエスさまももちろん語られなければならないと思っています。しかし、我田引水的に言うなら、私はこれからのキリスト教会は、もっと霊的なイエスさまを語る必要があるだろうと考えています。こう言うと私が信徒さんに寄り添う牧会ができていないことへの言い訳とも聞こえるかもしれません。確かにそういう面もあるかもしれません。しかし、21世紀の現代は行政面でもNPO活動などにおいても、マスコミの報道においても、弱い方々に寄り添う活動が20世紀の昔と比べれば為されていると思います。もちろん、まだまだ不十分でしょう。ですから、もっともっと弱い方々に寄り添う活動が為されなければなりません。しかし、こう言ったら何ですが、それは教会でなくてもできることです。

霊的に寄り添うことができるキリスト者
 一方、人々に霊的に寄り添うことは聖霊が与えられたキリスト者の私たちにしかできないことです。「霊的に寄り添うこと」とは言葉で言い表すのは難しいですが、霊的な恵みを知っている者が、その素晴らしさを伝えるべく努力することと言えるでしょう。霊的な恵みの素晴らしさは、聖霊が注がれた者にしかわかりません。聖霊が注がれるとこんなに素晴らしい恵みがあるのだということを伝えて、その人にも聖霊が注がれるように導く働きに、キリスト者はもっと取り組む必要があるだろうと私は考えます。
 このことは来週以降、さらに深めますが、きょうの聖書箇所の一つめの、ヨハネ8:12をご一緒に読みましょう。

・ヨハネ8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

 聖霊が注がれて霊的な目が開かれた者は、「世の光」であるイエスさまが内にいることを感じます。聖霊によって光であるイエスさまが内にいることがわかるのですから、これを「聖霊の光」が灯ると呼びたいと思います。イエスさまは、この「聖霊の光」を私たちの心に灯すために、人として、この世にお生まれになりました。
 そして、もう一つのきょうの聖書箇所のマタイ5:14~16を交代で読みましょう。

・マタイ5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

 イエスさは、「あなたがたは、世界の光です」とおっしゃいました。この「世界の光」とは「聖霊の光」が内に灯っているキリスト者のことです。このように聖霊が注がれている者なら、マタイ5:9にある「平和をつくる者」になることができます。逆に言えば、私たちの内に聖霊の光が灯っていないなら、敵を愛して迫害する者のために祈ること(マタイ5:44)など、到底できませんから、平和をつくる者になることは難しいでしょう。私たちの内にイエスさまがいないなら自分に対して罪を犯した兄弟を、七度を七十倍するまで赦すこと(マタイ18:22)など、絶対にできないでしょう。人を赦すことができない者が平和をつくることはできません。

おわりに
 私たちはこのように「聖霊の光」が内に灯っている者として、人々に霊的に寄り添うことができる者たちでありたいと思います。それが、これからのキリスト教会が目指すべきことだと私は考えます。
 さて最後に、このことを念頭に置いて、会堂問題勉強会への備えを少ししておきたいと思います。
(後略)

 お祈りいたしましょう。

「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
「あなたがたは、世界の光です。・・・あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」
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