平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

古い自分の打破(2017.3.26 礼拝)

2017-03-28 19:16:19 | 礼拝メッセージ
2017年3月26日礼拝メッセージ
『古い自分の打破・・・「深海聖書館」(例)』
【ヨハネ5:1~9】

はじめに
 いま私たちの教会は、大変な困難の中を通っていますから、『使徒の働き』の連講は中断して、その時その時に示された箇所からメッセージを取り継いでいます。ただし、なるべく『使徒の働き』から離れないようにはしているつもりです。例えば、この1ヶ月間でヨハネの福音書4章の最後の箇所である、王室の役人の息子が癒された「第二のしるし」の箇所を2回開きました。ここは、使徒10章で異邦人のコルネリオとその家族、そして知人たちが聖霊を受けた場面と重ねられています。このように、なるべく何らかの形で『使徒の働き』から離れないようにしてはいるつもりです。
 さて、きょうはヨハネ5章を見ることにしていますが、このヨハネ5章もまた、『使徒の働き』と関係があると私は考えています。具体的には、使徒15章のエルサレム会議の箇所です。それから『使徒の働き』には記されていませんが、紀元70年のローマ軍の攻撃によって神殿が焼失したことも重ねられていると私は考えています。『ヨハネの福音書』の魅力は、単にここに書かれている文章を通してだけでなく、その深層部にある他の聖書箇所を重ねて読むことで、聖書のメッセージをより深く受け取ることができる点にあると思います。そして、この深い所からの聖書のメッセージを受け取ることで、いま困難の中にある私たちが失望することなく歩んで行く上での力をいただきたいと願っています。

的外れな受け答えをした病人
 それでは早速、ヨハネ5章の1節から読んで行くことにします。まず1節、

5:1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。

 4章の終りでは、イエスさまは北方のガリラヤのカナにいましたが、祭りに参加するために南方にある都のエルサレムに上京しました。2節と3節、

5:2 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。
5:3 その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。

 そして、4節がなくて5節に飛ぶのですが、下に脚注があって、異本には3節後半と4節として、次のように書いてあるとあります。

「彼らは水の動くのを待っていた。
 主の使いが時々この池に降りて来て、水を動かすのであるが、水が動かされたあとで最初に入った者は、どのような病気にかかっている者でもいやされたからである。」
 
 この脚注からは、この4節の部分がヨハネの福音書の元々の原典に含まれていたかどうかは別にして(恐らくは無かった可能性が高いということで4節を削除しているのだと思いますが)、当時の人々はこのように考えていたようだ、ということがわかります。そして、5節、

5:5 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。
5:6 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」

 この6節のイエスさまの「よくなりたいか」は、とても重要な一言ですね。病気の人で良くなりたくないと思う人は、恐らく一人もいないでしょう。病人なら誰でもみんな、良くなりたいと思っているはずです。この38年間病気に掛かっていた人も、当然、良くなりたいと思っていたでしょう。
 ですから、この病人は単純に、「主よ、私の病気を治して下さい」と言ってイエスにすがれば良かったのです(マタイ・マルコ・ルカの「長血の女」参照)。ところが、この病人はイエスさまに次のように言いました。7節です。

5:7 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」

 このような病人の、信仰の本質の的を外した的外れなことばを聞いたら、イエスさまでなければ、こんな風に答えるかもしれませんね。「あ、そう。あなたは良くなりたくないのですね。では、さようなら。」
 しかし、イエスさまは、この病人を見捨てたりはしませんでした。8節と9節、

5:8 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
5:9 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。

 このように的外れな受け答えをした病人は、どこか私に似ているのかもしれません。私は何か困った事態に遭遇した時でも、まずイエスさまに「助けて下さい」と懇願すれば良いのに、まず自分の力で何とかしようとして的外れで頓珍漢なことをしている場合がけっこうあるような気がします。それでもイエスさまは私を見捨てたりはしませんから、本当に感謝なことだと思います。

形式に囚われていた割礼派
 さて、最初の方で私は、このヨハネ5章は『使徒の働き』15章のエルサレム会議と、それから紀元70年のエルサレムの神殿の焼失と重ねられていると考えていると話しました。エルサレム会議では何が問題になり、何が議論されていたのかを、次に簡単に見ましょう。『使徒の働き』15章(新約聖書p.258)を開いて下さい。1節と2節を交代で読みましょう。

15:1 さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。
15:2 そしてパウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバと、その仲間のうちの幾人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。

 1節に、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」とあります。ここにある「あなたがた」とは異邦人のことです。異邦人はユダヤ人ではありませんから、割礼を受けていませんでした。そして、この1節の主張をする人々は、「割礼派」と呼ばれる人々です。彼らは、「割礼を受けなければイエス・キリストを信じても決して救われない」と主張していました。一方、パウロやバルナバは、「イエス・キリストを信じる信仰のみが大切なのだ。その信仰によって義と認められるのだから割礼は必要ない」と主張していました。この両者との間に激しい対立と論争が生じたので、エルサレムで会議が開かれることになったのでした。そして、皆さんご承知の通り、異邦人は割礼を受けなくても救われるということが確認されました。それゆえ割礼の慣習のない私たち日本人もまた、イエス・キリストを信じる信仰があれば救われるのですね。
 ここに登場した割礼派の人々は、ヨハネ5章の病人と同じだと言えるでしょう。病人は目の前にイエスさまがいました。ですから、イエスさまを救い主と信じさえすれば救われるのに、彼は自分を池に入れてくれる人がいないと嘆いていました。この病人は、「池に入る」という形式に囚われていたという点で、割礼という形式に囚われていた割礼派の人々と同じです。

神殿礼拝という形式
 このように割礼という形式に囚われていた人々はまた、神殿礼拝という形式にも囚われていたことでしょう。イエスさまはヨハネ4章でサマリヤの女に対して言いました。21節から24節までを交代で読みましょう。

4:21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

 21節でイエスさまは女に、父を礼拝するのはエルサレムでない、そういう時が来ます、と言い、23節で真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です、と言いました。21節のエルサレムというのはエルサレムの神殿のことです。神殿礼拝という形式に囚われていた人々は、神殿で礼拝するのでなければ「真の礼拝」とは言えないと考えていました。しかしイエスさまは、霊とまことによって礼拝するのが「真の礼拝」であって、場所は関係ないとおっしゃいました。
 しかし、エルサレムの神殿が存在している間は、ユダヤ人のクリスチャンは神殿礼拝の形式から離れるのが困難だっただろうと思います。ところが紀元70年にローマ軍の攻撃によって神殿が焼失しました。それで、ようやくこの心の縛りから解き放たれることになったのだろうと思います(心の整理には長い時間を要したと思いますが)。
 古い慣習は、本当に強く私たちの心を縛るのだということを、ヨハネ5章の病人の記事は教えてくれています。そして私はこのことを、決して他人事ではないと考えます。私たちもまた、必ずしも必要ではない古い考え方に縛られている場合が多いのではないかと思います。戦後の日本ではキリスト教ブームの時期があったのに結局は根付かなかったのは、キリスト教を日本人に伝えた欧米の宣教師が、欧米流の考え方に縛られていたことにも一因があると言われています。
 イエスさまやパウロは、当時の古い考え方からしたら驚愕的なことを言いました。キリスト教とは、そもそも、このように非常に斬新な教えが出発点になっていました。
 ですから私たちも守るべきことはもちろん守らなければなりませんが、変えても構わないことは発想の転換をして変えて行くべきなのだと思います。
 きょう、このような話をしているのは、いま私たちが直面している問題は、大胆に発想を変えないと、なかなか乗り切れないと私は感じているからです。
(後略)

 お祈りいたしましょう。

5:6 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
5:7 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
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