平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

「本来の自分との出会い」の助け人(2017.3.12 礼拝)

2017-03-13 09:26:03 | 礼拝メッセージ
2017年3月12日礼拝メッセージ
『「本来の自分との出会い」の助け人』
【ヨハネ1:35~40】

はじめに
 一昨日、私は聖宣神学院の卒業式に出席して来ました。高津教会出身の神学生の兄弟が卒業生の一人でしたから、高津教会の皆さんと共に祝うためと、もう一つ、教団の先生方と話をするためでした。教団の先生方とは、もっとコミュニケーションを良くする必要があることを、6日に教団の先生方をお迎えして話し合った時に痛感したからです。この会堂問題の件に関しては、礼拝後の勉強会で話すこととして、まず卒業式に出席して私が感じたことから、話を始めたいと思います。

原点への回帰
 おとといの卒業式には高津教会の皆さんもたくさん出席していました。それで私は、チャペルは異なりますが、久しぶりで高津教会の礼拝に一人の信徒として出席しているような気分になりました。3年前のいずみ先生が卒業した時の卒業式には、私はいずみ先生の出身教会の沼津教会の牧師として出席しましたし、高津の教会員はほとんどいませんでしたから、そういう気分にはなりませんでした。また5年前に私自身が卒業した時は、高津教会の皆さんはたくさんいたものの、式では卒業生は会衆席の一番前に座りますから、高津の皆さんは私の席からは見えません。それに卒業生は卒業証書を受け取ったりコワイヤを歌ったりで壇上にも上がりますから、一信徒として礼拝に出席しているという気分には当然なりません。また、神学生の時と牧師になってからも、通算で何回か高津教会の礼拝に出席しましたが、神学生の時には神学生としての役割がありましたし、牧師の時には牧師としての役割がありましたから、やはり一信徒として礼拝に出席するという感じではありませんでした。
 しかし、おとといは違いました。私には何の役割も与えられておらず、ただ出掛けて行って会衆席に座り、高津教会の皆さんと一緒に賛美歌を歌ったりメッセージを聞いたりするだけで良いわけですから、本当に高津教会の一信徒であった頃に戻ったようで、あまりに懐かしくて涙が出てしまいました。そうして、私が高津教会に導かれた頃のことを懐かしく振り返ることができました。そして、そのことによって、人が教会に導かれるとはどういうことか、また、イエス・キリストと出会うとはどういうことかについて、原点に戻って改めて考えることができましたから、とても感謝なことでした。

現代のヨハネであるべき私たち
 ここから先は、きょうの聖書箇所と、私自身の経験とを絡めながら話を進めて行くことにします。まずヨハネ1章の35節から37節までを交代で読みましょう。

1:35 その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、
1:36 イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊」と言った。
1:37 ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。

 ここでヨハネは、二人の弟子をイエスさまに引き合わせる働きをしました。この二人のうちの一人がアンデレであったことが40節に書かれています。40節、

1:40 ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。

 このように、二人のうちの一人はアンデレでした。では、もう一人は誰でしょうか。それは、この福音書の性質を考えるなら、読者である私たちと取るべきでしょう。私たち読者がヨハネの導きによってイエスさまと出会うということです。そして読者はイエスさまと旅を続けながら次第に成長して「愛弟子」(イエスが愛した弟子)になります。ヨハネの福音書で「愛弟子」が13章からしか登場しないのは、そのためだと私は考えます。
 さて、1章の二人のうちの一人がこの福音書の読者なのですから、このヨハネがどのヨハネかということも、人間のイエスさまが宣教を開始した時はバプテスマのヨハネだったかもしれませんが、イエスさまが天に昇って霊的な存在になって以降は、この福音書を書いたヨハネであると考えるべきでしょう。私たちはこの福音書を書いたヨハネの導きによって霊的なイエスさまと出会います。或いは私たちもまた現代のヨハネになって、誰かを教会に連れて来て、その人とイエスさまが出会うことができるようにもします。これから私たちは伝道活動を積極的に展開しなければなりませんから、このことはとても大切なポイントです。

イエスと出会うとはどういうことか
 では、イエスさまと出会うとは、どういうことでしょうか。今度はそのことを考えてみましょう。教会に来ればイエスさまと出会える可能性は大きくなります。しかし教会に来れば必ずイエスさまに出会えるとは限りません。或いはまた、聖書を読めばイエスさまと出会える可能性は大きくなります。しかし聖書を読めば必ずイエスさまに出会えるとは限りません。それは21世紀の私たちにとってイエスさまは霊的な存在だからです。
 イエスさまと出会うとはどういうことか、私はそれを、「良い心(いわゆる良心ですね)を持つ本来の自分と出会うこと」であると言いたいと思います。私たちは良い心を持って生まれ、他の人を幸せにする力を持っています。生まれたばかりの赤ちゃんの笑顔は、ただそれだけで人を幸せにします。赤ちゃんは存在自体が人を幸せにする力を持つ存在です。しかし、成長過程でさまざまな歪みが加わって行くのが人の常です。
 一番わかりやすいのは、アメリカの大統領のトランプさんではないでしょうか。トランプさんは、絶えず人をののしっているという印象があります。そんなトランプさんも、幼い頃には良い心が表に出た良い子の時代があったのではないかと思います。それが、様々な経験を積むに従って、良い心が次第に心の奥のほうに隠されて行ってしまったのではないかと思います。しかし、それは隠れてしまっただけで、決して失われたわけではないと思います。きっとトランプさんの心の奥には良い心がしっかりと存在しているはずです。イエスさまに出会うとは、そういう心の奥のほうに隠れてしまった、自分が本来持つ良い心と出会うことであると言いたいと思います。
 皆さんが良くご存知の『靴屋のマルチン』も、そのような流れになっていると言えるでしょう。靴屋のマルチンは、いろいろと不幸な経験が重なって、人付き合いの悪い老人になってしまいました。しかし、本来のマルチンは、寒い日に外で凍えている人がいれば家の中に入れてあげて親切にしてあげることができる、良い心を持った人でした。イエスさまは、マルチンの心の奥に隠れてしまっていた、そのような良い心を上手に引き出して下さいました。

心の奥深い所にいるイエス
 イエスさまは、私たちが生まれた時から私たちの中にいて下さり、成長して悪人になったとしても、いつも私たちの心の内から声を掛けて下さっていると言えるでしょう。しかし、良い心の部分は心の奥深い片隅に押しやられてしまっていますから、そんなにハッキリと聞くことはできません。ほとんど聞こえないぐらいの微かなレベルのものです。それが聖霊を受けると奥深い片隅から解き放たれますから、もっと良く聞こえるようになり、聖霊に満たされると全身でイエスさまを感じることができるようになりますから、とても良く聞こえるようになります。そうして聖霊に満たされて自分と共にいるイエスさまの声を常にはっきりと聞くことができるなら、私たちは平安でいられます。
 ヨハネ1章38節で、イエスさまは弟子たちに「あなたがたは何を求めているのですか」と聞きました。そして39節で、「来なさい。そうすればわかります」とおっしゃいました。
 私たちが心の奥底で何を求めているのか、イエスさまに付き従って行くと、やがてわかるようになります。私たちが心の奥底で求めているもの、それは平安であり、それは私たちの内にいるイエスさまと出会うことで得られます。それはつまり、ゆがんでいない、本来の自分らしい自分と出会うことだと言えるでしょう。

奥深い声に忠実に生きる
 どうして私がきょう、このようなことを言っているかというと、日本においてはキリスト教というと、どうしても西洋の宗教であるというイメージがあるからです。キリスト教は西洋人の宣教師によって日本に伝えられました。そして人々が思い描くイエスさまの姿も、やはり西洋人風です。そうすると、やはり日本人としてはどうしても仏教の仏像のほうに親しみを感じるのは仕方のないことだと思います。私はキリスト教の牧師ですが、今でも仏像の穏やかな顔を見ると、心が癒されます。これはもちろん信仰とは違います。誤解されないように言い添えると、私はイヌやネコの穏やかな顔を見ても、やはり心が癒されます。イヌやネコで癒されると言っても、イヌやネコを信仰の対象にしているわけではもちろんありません。ですから私の場合はたとえ仏像を見て心が癒されても、別に仏像を信仰の対象にはしていません。しかし、多くの日本人は仏像を信仰の対象にします。それは日本人にとっては西洋人風のイエス・キリストよりも東洋人風の仏像のほうが心の深い部分で親しみを感じるからだと思います。そういう日本において人々にイエス・キリストを信じましょうと訴えても、なかなか難しいように思います。
 そんな日本人をイエスさまへと導く上で有効なのが、自分の中の奥深い声に耳を傾け、その奥深い声に忠実に生きることを勧めることではないかと思います。それは私自身の体験がそうだからです。私は高津教会に導かれる10年前から、なるべく自分の中の奥深い声に耳を傾けたいと願い、そのことを心がけるようにしていました。そして、このことで私は教会に導かれました。自分の中の奥深い声というのは、つまりイエスさまの声です。私はイエスさまのことをぜんぜん知りませんでしたが、実はイエスさまの声に導かれて教会にたどり着き、信仰に導かれたのでした。
 高津教会に導かれる10年前、私は名古屋にいて、この『自己愛とエゴイズム』(講談社現代新書)という本と出会いました。この本のことを、この沼津教会でも紹介したことがあるかもしれませんが、これはハビエル・ガラルダというカトリックのイエズス会の神父さんが書いた本で、日本人のために日本語で書かれた本です。一般の日本人にもわかるように、この本の中には聖書の話はほとんで出てきません。大部分は有名な映画や小説、そして身近な出来事を題材にしながら、「自己愛」と「エゴイズム」の違いを説明しながら、自分の中の奥深い声に忠実に生きることを勧めています。「自己愛」とは本来の良い心の自分を愛することで、これは推奨される良いことです。一方の「エゴイズム」とは偽りの自分を愛することで、これは排除すべき悪いことです。トランプさんのような人は、今のゆがんだ自分を自分ではカッコイイと思い、そういう自分を愛していると思いますが、それはエゴイズムです。悪い自分ではなくて良い自分を愛することができるようになるためには、奥深い声に耳を傾ける必要があります。そして、これは実は聖書のメッセージだったのだということを教会に導かれた後で知りました。

奥深い声に導かれて教会にたどり着いた私
 高津に導かれる前の名古屋にいた頃の私は大学の助手をしていましたが、だいぶ無理をしていました。研究室の教授はその分野では世界的に認められていた先生でした。それで私も世界的に認められたいと願って頑張っていたわけですが、それが本当に自分のやりたい事なのかは、疑問を持っていました。それで私はいつも心の中にモヤモヤを感じながら研究を続けていました。それで、教授に付いて行くことに限界を感じていた時に、この『自己愛とエゴイズム』という本の勧めに従って、奥深い自分の声に忠実に生きようと思い、とにかく職場を辞めることにしました。とは言え、次に何をしたら良いかは、すぐにはわかりませんでした。そうして色々と悩んだ結果、日本語教師になろうと決め、そのための勉強を開始して、名古屋の大学を辞めてから1年半後に東京の大学の留学生センターという部署に日本語の教員として就職することができました。そうして、その大学の通勤圏内なら、どこに住んでも良かったわけですが、不思議な導きで高津教会の近くに住むことになり、そこに住み始めてから6年後に父の死をきっかけにして、高津教会へと導かれました。高津教会に導かれるまでの高津での6年間においても、私はこの『自己愛とエゴイズム』を折に触れて読んでいました。そうして奥深い自分の声に忠実に生きることをなるべく実践したいと思っていました。そういうわけで、私にとってこの本は聖書と同じくらいに大切な書物です。教団の『つばさ』誌に「私の一冊」という連載がありますね。もし私に原稿依頼が来たら、この本を紹介するだろうと思います。
 おととい聖宣神学院の卒業式に出席して、高津教会に導かれた頃のことを懐かしく思い出し、この『自己愛とエゴイズム』のこともまた考える機会となりましたから、感謝でした。きのう私はこの本を改めて少し読み返しました。それで私にとってのヨハネ、つまり私をイエスさまに引き合わせてくれたヨハネは、実はこの本だったのかもしれないと思いました。私に教会へ行くことを最初に勧めてくれたのは韓国人であったことは既に証ししていると思います。ですから、この韓国人が私にとってのヨハネであることに変わりはありませんが、この本もまた私にとってのヨハネであると言っても良いのかなという気がしています。

おわりに
 これから私たちは伝道に本当に一生懸命に取り組まなければなりません。なぜなら、新しい人が与えられなければ、この教会を維持することができないからです。少し前まで私は新しい会堂が建ったら頑張ろうと暢気なことを考えていましたが、もはやそういう悠長なことは言っていられなくなりました。
(中略)
 最後に、ヨハネの福音書1章の35節から37節までを、もう一度交代で読みましょう。

1:35 その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、
1:36 イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊」と言った。
1:37 ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。

 ここでヨハネは二人の弟子にイエスさまのもとに行くように特に勧めたわけではありません。ヨハネが「見よ、神の小羊」と言ったら、それを聞いた弟子たちが自発的にイエスについて行きました。このような導き方を、私たちは神様に祈り求めながら、様々に考えて行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
コメント