平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

9.11から15年(2016.9.11 会堂祈祷会)

2016-09-12 08:03:15 | 折々のつぶやき
2016年9月11日会堂祈祷会メッセージ
『9.11から15年』
【ヨハネ11:32~38】

ヨハネ11:32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
11:33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
11:34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
11:35 イエスは涙を流された。
11:36 そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」
11:37 しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか」と言う者もいた。
11:38 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。

はじめに
 きょうの会堂祈祷会に当たり、私はメッセージの原稿を書くことにしました。
 会堂祈祷会の司会は、教会の皆さんにお願いしていますが、5回に1回は私が担当するようにしています。ですから私はもう既に5回か6回は会堂祈祷会の司会を担当したと思います。これまで私は、この会堂祈祷会のメッセージを原稿に書いて残すことはあまりして来なかったと思います。
 しかしきょうは9.11の同時多発テロから15年という特別な日ですから、原稿に書いて、教会のブログにもアップしてメッセージを残すことにしました。私は平和の働きのために牧師の職に召し出されましたから、やはり今日の9月11日のメッセージはどうしても残しておきたいと思います。

9.11後の悲惨な状況
 15年前のきょうアメリカで起きた同時多発テロでは4機の旅客機がテロリストによって乗っ取られ、そのうちの2機がニューヨークの貿易センタービルのツインタワーに激突し、1機はワシントンの国防総省のペンタゴンの建物に激突し、そして残る1機はホワイトハウスまたはアメリカ議会の議事堂を狙ったと推測されていますが、それは免れて建物のない地上に激突して大破しました。これらのテロ攻撃によって3千人以上の方が亡くなりました。
 この9.11のテロ自体も大変に痛ましいものでしたが、この後、ブッシュ大統領が率いるアメリカはアフガニスタンを攻撃し、さらに2年後の2003年にはイラクをテロリスト支援国家で大量破壊兵器を隠し持っているとして攻撃しました。このイラク戦争によってフセイン大統領は捕らえられて処刑されました。しかしイラクは大量破壊兵器を保有していないことが後にわかりました。
 フセイン大統領が支配していた頃のイラクは圧政によって多くの人々が苦しんでいたようですが、国は一応は治まっていました。それがフセイン大統領がいなくなったことで国は混乱し、それがIS(イスラミック・ステート)が生まれる温床になったと言われています。そして今やイスラミック・ステートが関係しているテロ事件が世界中で起きており、非常に深刻な事態になっています。或いはまた、北朝鮮が核兵器の開発を進めていて、つい最近の一昨日の金曜日にも核実験を行いました。この核兵器の開発もアメリカが1945年に世界で最初に成功させました。もしアメリカが最初に成功させていなければ、他の国も核兵器を作ることにはなかなか成功しなかったでしょう。

大統領が聖書に手を置く国で何故?
 アメリカという国では大統領が就任する時には聖書の上に手を置いて宣誓します。そのアメリカが1945年には原爆の製造に成功するやいなや直ちに広島と長崎で使用し、2003年にはイラクを攻撃してイスラミック・ステートの誕生の原因を作るという本当にひどいことをしました。そして今年の11月の大統領選挙ではまさかと思っていたトランプ氏が当選する可能性も半々ぐらいであります。もしそんなことになったら、世界はますます混乱する方向へと加速して行くことでしょうし、トランプ氏が核ミサイルの発射ボタンを押すことを本気で心配しなければならなくなります。
 大統領が就任する時に聖書に手を置いて宣誓する国であるアメリカが、どうしてこんなことをする国になってしまっているのでしょうか。
 私はその原因の一つとして、ヨハネ11章35節でイエスさまが涙を流された背後に戦争の惨禍があることに気付かれていないことにあると考えています。ですから私はヨハネの福音書に関する本を何が何でも今年中には出版できるところまで漕ぎ着けたいと思っています。実際に出版されるのは来年の始めになったとしても、今年中には出版の目途が立つようにしたいと思います。

ヨハネ11章の前後の流れ
 ヨハネ11章35節でイエスさまが涙を流していることの背後にはエルサレムがバビロンの攻撃によって滅亡して廃墟になってしまったことがあることは、きょうはあまり詳しい説明はしませんが、前後の流れから見て明らかなことです。
 何度も繰り返し説明していることですがヨハネの福音書10章の1節でイエスさまは「羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です」と言って、エルサレムが外国人の略奪隊によって攻撃されようとしている(Ⅱ列王24:2)ことを警告しています。この場合のイエスさまは紀元1世紀のイエスさまではなくてアブラハムが生まれる前からいる霊的なイエスさまのことであり、イエスさまは預言者エレミヤの口を通してエルサレムの人々に警告しています。そしてヨハネ10章の終わりでイエスさまはヨルダン川を渡りますが、これはエルサレムの民が捕囚として引かれてヨルダン川の向こうのバビロンに行ったことを示します。
 そして11章のはじめでラザロが病気になって死にました。これはエルサレムが滅亡したことを示します。バビロン捕囚はエルサレムが滅亡する少し前から始まりましたから、このことは列王記第二の記述と良く合います。そしてイエスさまはラザロが死んでからまたヨルダン川を渡ってユダヤに戻り、ラザロをよみがえらせました。これは捕囚になっていた民がエルサレムへの帰還を許されてエルサレムの神殿と城壁を再建したことを示します。
 さらにあともう一箇所だけ説明すると、ヨハネ11章54節に「イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをしないで」とあります。これはエルサレムが再建された後は聖書がマラキ書を最後に400年間の沈黙の時代に入ったことを示します。いのちのことばであるイエスさまは聖書に記されている時代には公然と歩き、聖書が沈黙している時代は公然とは歩かないお方です。そうしてヨハネ11章までは旧約聖書の時代であり、12章からは新約聖書の時代と合流してエルサレムにロバに乗って入京し、最後の晩餐を経て逮捕されて十字架に掛かって死にます。いまヨハネ10章からのことを説明しましたが、ヨハネ1章から9章までも創世記から始まって列王記第二に至るまでのイスラエルの歴史と対応させることができます。

戦争の惨禍に涙を流すイエス
 ヨハネ11章の最初にご一緒に読んだ箇所に戻ると、11章35節でイエスさまが涙を流されたことが書かれている前後の節に2箇所、イエスさまが憤ったことが書かれています。まず33節に「ユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え」とあります。そして37節に「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか」と言う者もいたことで、38節でイエスさまはまたも心のうちに憤りを覚えました。これは霊的に鈍感であったユダヤ人たちがエレミヤの警告に耳を傾けずにいたためにエルサレムが滅亡してしまったのに、エルサレムの滅亡後も相変わらず霊的に鈍感なことを言っているためにイエスさまは憤っています。ですから、35節でイエスさまが涙を流したのはエルサレムが廃墟になった戦争の惨禍に対してであることに、もし私たちが気付いていないとしたら、私たちの霊的な鈍感さに対してもイエスさまは憤っており、この鈍感さのゆえに戦争やテロは、これからも無くならずに起き続けることになります。ですから私たちはもっと霊的なイエスさまの声を聞くことができる者たちでありたいと思います。

教会の外と中とでイエスの声を聞く
 イエスさまの声は慣れて来れば、静かな所であればどこにいても聞くことができるようになります。騒々しい所にいるなら、どんなに霊性が優れた人でも無理だと思いますが、イエスさまの声を何度も聞いたことがある人なら、静かな所であればイエスさまの声を聞くことができます。しかし、一度も聞いたことがない人にとっては、イエスさまの声が特に強い特別な場所が必要です。それは広島や長崎の平和公園のような場所であったりニューヨークの貿易センタービルが建っていた場所であったりするでしょう。そして教会もまたそういう場所です。
 きょうの会堂祈祷会は9.11から15年目の日ということで、教会の会堂を広島や長崎と同じような場所として並べて考えました。それは私が、広島の平和公園でマタイ5:9の「平和をつくる者は幸いです」というイエスさまの声を聞いたことがあるからです。そうして毎週教会に通う中で、あれは確かにイエスさまの声だったのだと確認して行きました。
 教会と教会の外とは、そのように補完し合う関係にあるのだと思います。皆さんは教会へは週に1回か2回来て、あとは教会の外にいます。ですからイエスさまは多くの場合、一人一人違う場所でその人に特別な役割を与えます。そして、その人は教会にまた次の週に来ることで、それがイエスさまの声であったのだと確認します。
 教会の会堂は、先ずは礼拝を捧げる場です。そうして、礼拝を捧げることで一人一人がイエスさまとの関係を築きます。そして次にイエスさまは、一人一人が教会の外で積んだ経験を神様のために使うように語り掛けます。その語り掛けは教会の外で聞くことが多いでしょう。そしてその語り掛けを聞いた人は教会でイエスさまと交わる中でそのことの確認をします。
 教会の会堂とはそのように非常に大切な場です。私たちはそのための礼拝堂を来年、建設するために備えています。

おわりに
 ここで、しばらく黙祷する時を持って、テロの犠牲者、戦争の犠牲者を追悼するとともに、神様が私たちの一人一人にどのようなことを期待しておられるか、思いを巡らす時を持ちたいと思います。
 しばらくの間、黙祷しましょう。
 では、ご一緒にしばらくの間、新会堂の建設のために、お祈りしましょう。
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打ち上げ前の仕込み中の花火(2016.9.11 礼拝)

2016-09-12 07:49:26 | 礼拝メッセージ
2016年9月11日礼拝メッセージ
『打ち上げ前の仕込み中の花火』
【使徒5:12~20】

はじめに
 きょうは9月11日で、15年前にアメリカで同時多発テロが起きた日です。この9月11日に因んだメッセージについては、礼拝の後の会堂祈祷会の担当がちょうど私の番になっていますから、そこで語らせていただくことにしています。

先週のおさらい
 さて、きょうは使徒の働き5章の2回目の学びです。先週話した通り、私は先週ご一緒に見た5章の始めのアナニヤのサッピラの箇所のことが、使徒の働きの学びを始めた時から、ずっと気になっていました。アナニヤとサッピラの夫妻は、自分たちの持ち物を売ってお金に替えました。持ち物を売った代金を捧げるためですが、アナニヤとサッピラは代金の全額を捧げずに一部を自分たちのものにしました。そして、このことを咎められて打たれて死んでしまいました。この箇所からどういうメッセージを語ったら良いのか、使徒の働きの学びを始めた時から、ずっと気になっていました。それは私たちもまた、自分の財産のすべてを教会に捧げているわけではないからです。
 もしアナニヤとサッピラが打たれて理由が、財産の一部を自分のものにしたことによるのなら、私たちもまた、そのことを咎められなければなりません。しかし、現代の私たちは自分の財産のすべてを捧げていなくても、そのことで咎められることはありませんから、理由は他にあるはずです。そのことをメッセージで語ることができなければ説教にはなりませんが、私はアナニヤとサッピラが打たれた理由をメッセージでどう語ったら良いか、目途が立っていませんでした。それゆえ5章の説教をどうしようかと、ずっと気になっていたわけです。
 そうして、ついに5章の学びの時が来てしまいましたから、説教の準備のために思いを巡らしていたところ、5章3節の「聖霊を欺いて」という言葉に目がとまりました。そして、この「聖霊を欺く」ことの罪という観点から、マルコの福音書に出て来る「聖霊を汚す」という言葉とも絡めて一つの説教にすることができましたから感謝でした。
 教会は聖霊を注がれた者たちが集っている場所です。まだ聖霊が注がれる前の段階の人たちが教会を訪れて下さることも、もちろん大歓迎ですから私たちはそのような方々をお誘いしますが、教会員になることができるのはイエス・キリストを信じて聖霊が注がれた者たちだけです。ですから私たち教会員の交わりは、イエス・キリストを中心にした霊的な交わりです。
 私たちに注がれる聖霊は私たち一人一人の信仰を成長させるとともに、教会員のイエス・キリストを中心にした霊的な交わりのレベルを引き上げるために働いています。そうして教会全体の霊的な交わりのレベルが上がって行くなら教会はイエス・キリストのかぐわしい香りを放つようになり、地域の方々を引き付けるようになります。アナニヤとサッピラがしたことは、この教会全体の霊的な交わりのレベルを引き下げるものであり、教会がかぐわしい香りではなくて悪臭を放つ元となるものでした。それゆえに教会から排除されたのだと思います。
 先週の説教のポイントは、聖霊の働きについて、個人の信仰を引き上げる働きではなくて、教会全体の霊的なレベルを引き上げる働きに注目したことでした。もし教会が悪臭を放って周囲の方々に躓きを与えるようであれば、周囲の方々は教会へ来ようとは決して思わないでしょう。それは周囲の方々が救われる機会を永遠に奪ってしまうことになります。それはとても大きな罪であると言えるでしょう。

なぜ高頻度で奇跡が起きたか
 先週はこのようにしてアナニヤとサッピラの箇所からメッセージを取り次ぐことが許されましたが、最初に言ったように私は以前からこの箇所にずっと気を取られていましたから、その後のことは全然考えていませんでした。今は使徒の働きの説教のシリーズをずっと行っていますから、聖書箇所は考えなくても大体は決まっています。それで、きょうの聖書箇所のためのメッセージの準備を始めた途端に、とても戸惑いました。きょうの聖書箇所を読んで、一体ここからどんな説教をしたら良いのか、途方に暮れました。
 きょうの箇所には奇跡がたくさん出て来ます。しかし、こんなに次々と短い期間にたくさんの奇跡が起きることは現代では全く有り得ないことです。現代においても奇跡はもちろん起きますが、それは非常に稀なことであり、きょうの箇所にあるような高い頻度で起きることは絶対にありません。例えば、きょうの箇所の5章16節には、このように書かれています。

5:16 また、エルサレムの付近の町々から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた。

 ここには「全部がいやされた」とあります。これは普通は有り得ないことです。現代の病人にも奇跡的に癒される人はいますが、全員が癒されることはありません。
 そもそも奇跡が起きるのは、神が本当にいるのだという「しるし」を示すためでしょう。病気を治してこの世で長生きすることができるようにすることが第一の目的ではないはずです。私たちの真の目的地は天の故郷です。ですから私たちはこの世では旅人に過ぎません。旅人なのですから、この世に長居する必要は必ずしもありません。私たちの多くは重い病気にならずにできるだけ長生きしたいと思いますが、そうならなかったからと言って神様が私たちを見放しているわけではありません。むしろ天の神様に気に入られて早くに天に召されることもあるわけです。

この世では私たちは旅人
 私たちが旅人であることは、ヘブル書の11章に書いてあることです。ご一緒に確認しましょう(新約聖書p.438)。13節から交代で読みますが、ここでヘブル書の記者は、アブラハムと妻のサラの信仰について述べる中で次のように書いています。13節から16節までを交代で読みましょう。

11:13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
11:14 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
11:15 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
11:16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

 アブラハムは父テラの故郷のウルの地を出てハランの地に移り、さらにハランの地を出てカナンに向かいました。そしてカナンの地においても放牧をしながら天幕の生活をしていました。ですから、アブラハムはまさに旅人でした。
 そして、私たちもまた、この世においては旅人です。ですから、たとえ病気や事故や自然災害で倒れることがあっても天の故郷に行けるなら良いのです。そういうわけで奇跡は高い頻度で起こる必要はありません。神様が本当にいらっしゃることがわかる程度に稀に起きれば良いわけです。
 すると、16節にあるように、病人や汚れた霊に苦しめられている人々が全部いやされたり、19節にあるように留置場に入れられた使徒たちを主の御使いが牢の外に出したり、普通ではありえないことが、こんなにも立て続けに起きるのは一体どうしてでしょうか。

大輪の花が開いた花火
 そして、このことを思い巡らしていて示されたのが、使徒の働きの8章1節から4節に書いてあることです。使徒8章の1節から4節までを交代で読みましょう。

8:1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。
8:2 敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のために非常に悲しんだ。
8:3 サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。
8:4 他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。

 7章でステパノが迫害に遭って殺されてしまいますが、この時には教会員の数が非常に増えていました。そして、増えた教会員がステパノが殺されたことが引き金になって散らされて行きました。そして散らされた人たちは行く先々でみことばを宣べながら、巡り歩きました。こうしてイエス・キリストの教えは広い地域に拡散して行きました。
 もし散らされた教会員が少ししかいなかったのだったら、イエス・キリストの教えは大きく広まることはなかったでしょう。
 神様のご計画は本当に素晴らしいなと思います。この紀元1世紀の時代はローマ帝国が広い地域を支配していて平和が保たれており、交通網も発達していましたから、人々は広い地域を安全に自由に行き来することができました。パウロがヨーロッパの方面にまで伝道旅行することができたのも、このローマ帝国の支配という恩恵があったからです。しかし、その前の段階でエルサレムという大都市で教会員の数が十分に増えていなかったなら、ステパノの迫害があった後にキリスト教が爆発的に広がることはなかったでしょう。
 いま爆発的にと言いましたが、これは本当に花火のようです。花火にも小さい花火と大きな花火があります。私たちが夏のキャンプで上げるような打ち上げ花火は、ごくごく小さなものです。しかし、花火大会で上がる尺玉クラスの大きな花火は本当に大きな大輪の花を咲かせます。ただし尺玉クラスの花火を作るには、中にたくさんの火薬を詰めなければなりません。
 きょうの聖書箇所も、この5章の段階の教会を打ち上げ前の花火の仕込みの段階に例えれば理解できるでしょう。この時期に奇跡的なことが立て続けに起きたのは、エルサレムの教会の教会員の数を増やすためだったのだと理解したいと思います。そして、このことで先週のアナニヤとサッピラのことももっとよく理解できます。質の悪い火薬が混じっていたら、花火の花は、きれいに開くことはできません。それゆえアナニヤとサッピラは排除されてしまったのでしょう。この花火に仕込まれた火薬は非常に質の良い純度の高いものでした。教会員の全員が自分たちの財産を100%教会に捧げていました。このエルサレムの教会という花火には、それだけ純度の高い火薬が高密度で仕込まれていましたから、ステパノの迫害をきっかけにして散らされた時に、キリスト教は一気に広い地域に拡散することができたのですね。

おわりに
 会堂の建設において高い頻度で奇跡が起きるのも、会堂が地域の伝道の拠点になるからなのでしょう。病気や自然災害から助かることに関しては奇跡は稀にしか起きませんが、会堂建設においては必ずと言ってよいほど奇跡が起きます。今の私たちもそのことを経験しています。隣の土地が手に入ったことだけでも、わずか2年前から考えると奇跡的なことです。ですから、来年私たちが予定している新しい礼拝堂の建設に関しても、主が御業を為して下さることを信じて進んで行きたいと思います。そうして、5章14節にあるように、主を信じる者が男も女もますます増えて行くよう、お祈りしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

「主を信じる者は男も女もますます増えていった。」
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