平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

私たちを雲のように取り巻く証人たち

2016-09-02 07:48:37 | 祈り会メッセージ
2016年8月31日祈り会メッセージ
『私たちを雲のように取り巻く証人たち』
【ヘブル12:1】

12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

はじめに
 最近の祈祷会と礼拝の説教で私は、私たちがイエスの証人になることの重要性を繰り返し説いています。今年の2月に隣の土地を購入し、来年にはここに新しい礼拝堂を建設したいと私たちは願っています。神様は様々に私たちを助けていて下さいますから、ここまで来ることができ、これからも神様は助けて下さると私たちは確信しています。しかし、これまでがそうであったように、これからの闘いも決して楽なものではありません。たくさんの困難が予想されます。この困難の中を私たちは歩んで行かなければなりません。
 1世紀の使徒たちも様々な困難に遭いました。しかし困難に遭いながらも使徒たちは力強くイエス・キリストを宣べ伝えることができました。それは使徒たちが聖霊の力を受けていたからです。
 もう何度も繰り返し味わっているみことばですが、復活したイエス・キリストは天に帰る前に使徒たちに言いました。

「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

 このイエスさまのことばの通りに使徒たちは聖霊を受け、聖霊の力を受けてイエスさまの証人になりました。私たちもまた聖霊を受けていますから、聖霊の力を受けているはずです。しかし、もし私たちがイエスさまの証人になろうとしないなら、せっかく受けている聖霊の力がうまく働かないことになります。聖霊の力が働かないなら教会の働きは祝されません。ですから私たちはイエスさまの証人としての働きをこれからますます強めて行きたいと願っています。そのために私たちの教会では、来月から第1聖日の礼拝には証しの時間を設けることにして、トップバッターとしてAさんが立って下さることになりました。また先日の幹事会では10月と11月の証し人も決めることができましたから感謝でした。このメッセージの後のお祈りの時間では、この証しが祝されて私たちにますます聖霊の力が与えられますようにも、お祈りすることにしたいと思います。

私たちを雲のように取り巻く信仰の先輩たち
 さて今日のメッセージも「証人」ということにこだわって見て行きたいと思います。今日の聖書箇所のヘブル12:1を、もう一度ご一緒に読みましょう。

12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

 私たちは信仰の先輩たちに雲のように取り巻かれているのですね。私たちがイエスさまの証人になる時、私たちの一人一人は孤立しているわけではなく、私たちは信仰の先輩たちに雲のように取り巻かれています。私たちが力強い聖霊の力を受けることができるのは、それゆえであるとも言えるでしょう。いつも礼拝の最後にお読みしている第二コリント13:13には、

13:13 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。

とあります。この聖霊の交わりとは、私たちを雲のように取り巻く信仰の先輩たちも含めた交わりとも受け取ることができます。
 或いはまた、私が好んで引用する第一ヨハネ1:3と1:4には、

1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。

とあります。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。そして、この交わりによって私たちに全き喜びが与えられます。この私たちの交わりもまた聖霊の交わりです。私たちがイエスさまの証人になる時、私たちの背後では信仰の先輩たちも含めた聖霊の交わりが働き、そうして私たちには聖霊の強い力が与えられます。

これからの学びについて
 ヘブル人の手紙が記している信仰の先輩たちは主に旧約の時代の先輩たちで、それは11章に記されています。しかし、21世紀の私たちにとっては新約の時代の先輩たちも含まれていて、もちろん20世紀の先輩たちも含まれます。10月にはまた召天者記念礼拝を行いますが、この沼津教会の信仰の先輩たちもまたもちろん、私たちを雲のように取り巻く証人たちの中に含まれています。
 さて、ここまで説教を準備して来て、これからしばらくの間、祈り会では私たちを取り巻く信仰の先輩たちをシリーズで取り上げて行こうかしらという思いが与えられています。先ずはヘブル書11章で取り上げられている先輩たちを順次見て、このヘブル11章が終わったら、まだわかりませんが例えば新約聖書の時代の先輩たちについて見て、それから2世紀以降の先輩たちについて見て行くのも良いかなあという気がしています。
 いま礼拝のほうでは使徒の働きのシリーズをずっと続けて見ていて、使徒の働きの終わりのほうを学ぶ頃には、新しい礼拝堂ができていて、この新しい礼拝堂の中で使徒の働き28章の説教を是非とも行いたいと願っています。
 祈り会では、ここしばらくは特にシリーズでは行っておらず、その時々で私が示された箇所についてのメッセージを取り次いで来ました。しかし、来週以降はヘブル書11章の信仰の先輩たちを順次見て行くことにしたいと思います。ですから、来週の祈り会からは、ヘブル11章の学びを始めたいと思います。

ヘブル人への手紙の宛先の読者
 きょうの残りの時間は、あと5分ほど、このヘブル人への手紙がどのような読者に宛てて書かれたのかを、いくつかの箇所を見ながら探って行きたいと思います。
 まずきょうの12章1節をもう少し味わってみたいと思います。12章1節の後半には、

「私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」

 この箇所を読むと、この手紙の宛先のヘブル人たちは、色々と困難な目に遭っていることが想像されます。ただし、困難な目に遭っていると言っても、4節を見ると、

12:4 あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。

と書いてありますから、この手紙の読者はまだ迫害に遭っているわけではありません。そのような読者に対して、この4節の上の段の11章36節と37節には、

11:36 また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるめに会い、
11:37 また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、

というように迫害にあった信仰の先輩たちの例を挙げています。この先輩たちは迫害に遭っても信仰を全うしました。
 これらのことから、この手紙の読者は、まだ迫害には遭っていないけれども、迫害に遭うことを恐れて信仰から離れそうになっている人々であるようです。そのような人々に対してこの手紙の記者は、12章の1節で、「忍耐をもって走り続けようではありませんか」と勧めています。
 以前、私はこのことがよくわかっていなかったので、このヘブル書のこともあまりよくわかっていませんでした。しかし、迫害を恐れて信仰を捨てそうになっている人々に宛てた手紙だということがわかって、このヘブル書をもっとよく味わうことができるようになりました。

大人に成長すべき私たち
 最後にあと一箇所だけ開くことにします。ヘブル書5章の11節から14節までを交代で読みましょう。11節の始めにある「この方について」、の「この方」とはイエス・キリストのことです。ここでヘブル書の記者は、信仰から離れそうになっている読者に対して少々厳しいことを言っています。

5:11 この方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。
5:12 あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。
5:13 まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。
5:14 しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。

 なかなか厳しいことばですね。特に12節がきついです。

5:12 あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。

 私たちはどうでしょうか。私たちもまだまだ乳ばかり飲んでいる幼子であるような気がします。しかし私たちの教会が用いられるためには、私たちは大人になって行く必要があります。そして、多くの幼子たちを新たに迎えて、共に成長して行きたいと思います。その際には私たちの皆が幼子でいるのでは教会は成長して行くことができませんから、まずは私たちがもっと成長して行きたいと思います。
 そのために、お祈りしたいと思います。お祈りいたしましょう。
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