平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

主と共に食事の席に着く(2014.12.28 礼拝)

2014-12-29 06:43:55 | 礼拝メッセージ
2014年12月28日年末感謝礼拝メッセージ
『主と共に食事の席に着く』
【ヨハネ13:1~7】

はじめに
 早いもので、今日が今年最後の聖日礼拝になります。きょう、この年末感謝礼拝の場に皆さんと集うことができましたことを、心より主に感謝したく思います。
 きょうのメッセージの構成は、始めに今日の聖書箇所を短く見て心を整えて、それから、この1年間の出来事を皆さんと共に振り返り、最後にまた聖書を開いて、来たる年に備えたいと思います。
 きょうは先ず、ヨハネの福音書の13章の始めのほうを見ることにします。ここから、最後の晩餐の場面が始まります。きょう私たちも、この礼拝の後で愛餐会を行います。この食事の場には主イエスも共にいて下さいますから、きょうの聖書箇所はイエスさまと弟子たちとの食事の場面から選びました。
 ヨハネの福音書の最後の晩餐の場面は13章から17章までの、5章に亘る非常に長いものです。ヨハネの福音書は全部で21章ですから、章で言えば全体の約4分の1が最後の晩餐の場面ということになります。ページ数で言えば13章から17章までで10ページ半あります。ヨハネの福音書は全体で55ページありますから、ページ数で言っても全体の5分の1ということになります。ちなみにマタイの最後の晩餐の場面は1ページの4分の3、マルコが1ページ弱、ルカの最後の晩餐の場面が2ページ弱ですから、ヨハネの10ページ半がいかに長いかということが良くわかると思います。

誰に対しても注がれるキリストの大きな愛
 では13章の1節から見て行きます。

13:1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。

 イエスさまが残るところなく示された愛とは、一体どれくらいの愛なのでしょうか。去年から今年に掛けて何度も説明して来ましたが、ヨハネの福音書の1章から11章までは、「旧約聖書の時代」と「福音書のイエスさまの時代」と「使徒の働きの時代」の三つの時代が三段に重なった重厚な構造になっています。その1章から11章までの三つの時代が12章で一つに合流して、ここで三つの時代の神の愛がぎゅっと濃縮されます。そして、その重厚で濃厚な神の愛がこの13章から弟子たちに対して注ぎ出されます。その象徴となる場面が、イエスさまが弟子たちの足を洗った場面であると言えるでしょう。2節から4節、

13:2 夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、
13:3 イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、
13:4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。

 2節ではイスカリオテのユダの裏切りについて言及しています。そして4節でイエスさまが弟子たちの足を洗うために夕食の席から立ち上がってことが書かれています。ということは、イエスさまはユダの足もまた洗ったということです。イエス・キリストの大きな愛は誰に対しても分け隔てなく注がれます。5節、

13:5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。

 イエスさまは弟子たちの前にひざまずいて、弟子たちの汚れた足を洗いました。外を歩いて汚れた足を洗うのは奴隷の役割であったと言われています。6節と7節、

13:6 こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」
13:7 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」

 7節のイエスさまが言った、「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります」。これは何を意味するのでしょうか。これは、ピリピ人への手紙2章を見ればわかると思います。ピリピ2章6節から8節までを交代で読みましょう。8節はご一緒に読みます。

2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

 イエスさまが弟子たちの足を洗った出来事は、パウロがピリピ2章のこの箇所で書いたことを象徴していると言って良いでしょう。
 イエスさまがこのようにご自分を卑しくして私たちのために働いて下さっていますから、私たちは守られています。この1年、私たちの一人一人にとっても、また教会にとっても様々なことがありましたが、イエスさまが共にいて下さり、守って下さったことに心から感謝したく思います。

一年間の歩みを振り返る
 さて、これから暫くの間、教会のこの1年間の歩みを振り返ってみたいと思います。
 今年の1月、私たちの教会は週報の1ページ目にも掲げてある、ヨハネ6:27の「永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」のみことばと伴に、この1年の歩みを始めました。来年からは新しいみことばを掲げますが、永遠のいのちに至る食物のために働くことは、私たちがこの世にいる限り終わることはありませんから、これからもこのために働いて行きたいと思います。
 そして1月の終わりには教会総会がありました。この時に申し上げたことは、もし私たちが2017年に新会堂の献堂をしたいと本気で思っているなら、2015年には具体的な動きをしなければならない。そのためには2014年には目に見える形で変化がなければならないということでした。私の頭の中にあった変化とは、教勢と財勢が増えることでした。教勢のほうは残念ながら増えることはありませんでしたが、財勢のほうは祝されたと思います。そして主は別の面から私たちに変化を見せて下さり、私たちの背中を押して下さったと思います。それは、この会堂の屋根の腐食がもはや限界に近い状態にあるということですね。このことについては、また後で話します。
 2月からは会堂祈祷会を始めました。教会の皆さんが交代で司会の御労を担って下さっていますから、とても感謝に思います。様々な方が司会をして下さることで、違う視点から会堂問題を考えることができていることもまた感謝です。まだ司会を担当していない方で、もし司会をしても良いという方がいらっしゃいましたら、是非おっしゃっていただけるとありがたく思います。
 3月にあった大きな出来事としては私たちの教会から送り出した廣瀬いずみ先生が聖宣神学院を卒業して、下関教会の主任牧師に着任したということですね。3月の第2聖日には、この教会に来ていただき歓送礼拝をすることができました。献身者を送り出すことは教会にとっては痛みを伴うことです。しかし神様は、その痛みに優る恵みを教会に与えて下さいます。献身者を送り出す教会は必ず祝福されます。ですから献身者を送り出したこの沼津教会が祝福されない筈がありません。このことは新会堂に向かって行く上で、私たちの心の大きな支えになっていますから、廣瀬いずみ先生を喜びを持って送り出すことができたことは本当に幸いなことであったと思います。私たちはこれからも、廣瀬いずみ先生のためにお祈りする教会でありたいと思います。
 4月の聖日は聖餐式をもって始めることができました。聖宣神学院の院長の河村従彦先生をお迎えして幸いなメッセージを聞き、聖餐式を執り行っていただいた後で愛餐会も祝されて、とても感謝でした。そして、この4月からは幹事会をスタートさせました。これまでの役員会と伝道委員会とを合流させて、さらには教会の様々なご奉仕の重荷を負って下さっている方々も加えて多くの方々と話し合いながら教会を運営する形に持って行くことができるようになったこともまた感謝でした。
 また、この4月は悲しい出来事があった月でもありました。先ず4月10日の朝に、片浜駅の近くの松長の交差点で、登校中の小学5年生の男の子が交通事故で死亡するという悲しい事故がありました。私もこの事故の現場に行って祈りを捧げて来ましたが、私はこの教会の祈祷会で地域の子供達の安全のために祈って来なかったことを悔やみました。前任地の姫路教会にいた時に、京都で登校中の小学生が死亡するという痛ましい交通事故がありました。その事故以来、私は姫路教会の祈祷会では毎週、地域の子供達の交通安全のために祈るようにしていました。それが沼津に来てからは祈らなくなっていましたから、本当に悔やんだことでした。私たちは地域の方々のため、特に地域の子供達やお年寄りのために祈る教会でありたいと思います。
 4月にはまた27日にK兄が天に召され、29日に前夜式、30日に告別式を原の葬祭場で行いました。私自身が葬儀の司式は初めてという不慣れな中でしたが、主の御守りによって全て滞りなく葬儀を行うことができ、また良い伝道の機会にもなったことは、とても感謝なことでした。教会の皆さんにはご奉仕や参列をいただいたことに感謝いたします。私たちはK姉のためにもお祈りして行かなければならないと思います。
 次の5月は、会堂問題にとって大きな動きがあった月でした。5月の下旬に、梅雨入りを前にして屋根の点検と補修のために屋根に上がったところ、屋根の鋼板の腐食が思っていた以上に深刻であることがわかりました。それで、このことを5月の幹事会で幹事の皆さんに報告し、さらに教団のブロックアドバイザーと静岡教区の主事にも報告しました。そうして6月は、屋根の葺き替えを行うのか、或いは屋根の葺き替えにお金を使うことはしないで新会堂の実現に向かって新たな一歩を踏み出すことにするのかを、考える期間となりました。
 そうして教会では7月の第2聖日に会堂建設委員会を招集して、屋根の葺き替えは行わずに新会堂の建設へと向かうことを確認しました。そして、この会堂建設委員会の決定は、教会の皆さんにお伝えするとともに、教団の代表と教団の会堂委員会の委員長の先生にも報告しました。また、この7月に実施した上半期感謝献金では目標金額の半額を会堂積立金に充当することとして目標額を上げたところ、皆さんそれまでよりも多く捧げて下さって目標額が満たされましたから、これもまた感謝なことでした。こうして私たちは新会堂の建設に向けて新たな一歩を踏み出し、8月には会堂問題勉強会をスタートさせ、またこの8月には会堂献金として多額の献金が捧げられて新会堂へ向けての前進に弾みがつきましたから感謝でした。
 8月にはまた礼拝でF兄に証をしていただきました。10月にはT姉にも証をしていただきました。この礼拝での証は続けて行きたいと思いますから、この方の証を聞きたいというようなご要望がありましたら、お寄せいただきたいと思います。
 9月には特別伝道会を千本プラザで行うことができました。12月のクリスマスの集いも千本プラザで行う予定でしたが、あいにく会場の予約が既に入っていましたから、千本では行うことができませんでした。来年の伝道会をどのように行うか、これから考えて行かなければなりませんから、ご意見がありましたら、お寄せいただきたいと思います。そして9月の第3聖日にはシオン教会の荻野倍弘先生をお迎えして聖餐式礼拝を行うことができました。愛餐会ではシオン教会が新会堂の建設に取り組んだ時の貴重な証を聞くことができましたから、これもまた感謝なことでした。
 10月の前半には2週続けて大きな台風の通過がありました。特に台風18号ではJR東海道線が土砂崩れで普通になったり、原の方の広い地域が冠水したりする大雨が降り、この教会でも私が着任して初めて雨漏りがありました。こうして神様は私たちの背中を押して下さっているように思います。
 10月の第4聖日には召天者記念礼拝を行い、N姉とK兄、そしてKさんのご一家がそろって礼拝に参加して下さり感謝でした。愛餐会ではT兄の幸いなお証しを聞くことができたこともうれしいことでした。
 11月の出来事としては、私は個人的には教会のブログの訪問者数が3万人を越えたことがうれしいことでした。インターネットは上手く用いるなら伝道のツールとして、とても有効だと思いますから、教会の皆さんのご協力も是非いただきたいと思います。ブログに掲載している教会員の証にも、ぜひ原稿を寄せていただけたらと思います。そして11月の第5聖日からアドベントに入りましたね。今年はハンドベルを行うことが難しいということで、会衆賛美をコーラスで行う形式にしました。これはこれで良かったと思いますが、やはり少し物足りない感じがしたのも事実ですから、来年はどうするか、また考えて行けたらと思います。
 そして12月の第1聖日のアドベント第2礼拝には高津教会との交換講壇があって、沼津教会でも高津教会でも共に祝されて感謝でした。先ほど3月に廣瀬いずみ先生をこの教会から送り出したことが感謝であると言いましたが、今回私は私を送り出して下さった高津教会に短い間でしたが戻ることができて、私自身もとても感謝に思いました。教会が献身者を出すということは、送り出す側も送り出される側も共に多くの恵みをいただけるのだと思いました。そうしてキリスト教会は2千年間続いて来ることができたのだと思います。ですから先ほども言いましたが、献身者を送り出した私たちの沼津教会が祝福されないはずがありませんから、私たちは新会堂に向かって力強く進んで行きたいと思います。
 そして12月の第2聖日の午後のクリスマスの集いと24日のキャンドルサービスには両方とも新しい方が来て下さり感謝だったと思います。新しい方が来て下さって思いましたが、私たちはやはり、この教会の内観・外観をもう少し教会らしい雰囲気になるように努めるべきではないかなと思いました。きょうの愛餐会では、そんなことも少しご相談できたらと思っています。
 この1年は、とても早く過ぎてしまったように思いますが、このように1年を振り返ってみると、いろいろなことがあった1年であったと思います。悲しいこともありましたが、その大部分が感謝なことであったことは主の御守りであるがゆえですから、御名を崇めます。きょうの愛餐会ではこれらのことにも感謝しながら、主と共に食事を楽しみたいと思います。

私たちが一つとなるために
 最後に、この最後の晩餐の終わりのほうの17章をご一緒に見て、メッセージを閉じたいと思います。13章でイエスさまが弟子たちの足を洗った場面から始まった最後の晩餐は、イエスさまの天の父へのお祈りで終わります。
 17章の20節を見て下さい。17章20節、

17:20 わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。

 彼らのことばによってわたしを信じる人々というのは私たちのことですね。イエスさまは私たちのためにも天の父にお願いして下さっています。それは、私たちが一つになるということのためです。イエスさまは私たちが一つになることができるよう、天のお父様にお願いして下さいました。
 新会堂に向かって前進する私たちが来年、一つになって進んで行くことができますよう、願いながら21節から23節までを交代で読みましょう。23節はご一緒に読みます。

17:21 それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。
17:22 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。
17:23 わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。

 お祈りいたしましょう。
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