平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

新会堂建設への心備え④(2014.2.5 祈り会)

2014-02-06 06:51:44 | 祈り会メッセージ
2014年2月5日祈り会メッセージ
『新会堂建設への心備え④』
【歴代誌第一29:10~30】

はじめに
 今週も、歴代誌の学びを続けて行きます。きょうは29章の30節まで読んで歴代誌の第一を終わらせてしまおうと思っています。

きよいダビデの信仰
 まずは19節までを、交代で読みましょう。

29:10 ダビデは全集団の目の前で【主】をほめたたえた。ダビデは言った。「私たちの父イスラエルの神、【主】よ。あなたはとこしえからとこしえまでほむべきかな。
29:11 【主】よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。【主】よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。
29:12 富と誉れは御前から出ます。あなたはすべてのものの支配者であられ、御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてが偉大にされ、力づけられるのです。
29:13 今、私たちの神、私たちはあなたに感謝し、あなたの栄えに満ちた御名をほめたたえます。
29:14 まことに、私は何者なのでしょう。私の民は何者なのでしょう。このようにみずから進んでささげる力を保っていたとしても。すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。
29:15 私たちは、すべての父祖たちのように、あなたの前では異国人であり、居留している者です。地上での私たちの日々は影のようなもので、望みもありません。
29:16 私たちの神、【主】よ。あなたの聖なる御名のために家をお建てしようと私たちが用意をしたこれらすべてのおびただしいものは、あなたの御手から出たものであり、すべてはあなたのものです。
29:17 私の神。あなたは心をためされる方で、直ぐなことを愛されるのを私は知っています。私は直ぐな心で、これらすべてをみずから進んでささげました。今、ここにいるあなたの民が、みずから進んであなたにささげるのを、私は喜びのうちに見ました。
29:18 私たちの父祖アブラハム、イサク、イスラエルの神、【主】よ。御民のその心に計る思いをとこしえにお守りください。彼らの心をしっかりとあなたに向けさせてください。
29:19 わが子ソロモンに、全き心を与えて、あなたの命令とさとしと定めを守らせ、すべてを行わせて、私が用意した城を建てさせてください。」

 ダビデのこの主をほめたたえている言葉を読むと、心が洗われるような気持ちがします。ここでダビデは真にへりくだって、すべてを主に明け渡しています。この歴代誌に記されているダビデの信仰こそが、きよめの信仰が目指すべきところではないだろうかという気がします。
 14節でダビデは、「まことに、私は何者なのでしょう。」と言っています。ダビデはサウル王の側近になる前は羊飼いでしたから、金や銀を持っていたわけではありません。ダビデは、ちゃんとそのことが分かっていました。ダビデは主の宮の建設のために、たくさんの金や銀を捧げましたが、それらは皆、主が与えて下さったものであることを、ちゃんとわかっていました。
 また、ダビデは、「私の民は何者なのでしょう」とも言っています。イスラエルの民は、皆、アブラハムの子孫でした。アブラハムは、もともとはユーフラテス川の流域のウルの地に、父テラと共に住んでいました。それがある時、父テラと共にハランの地に移り住み、父テラの死後に神の声を聞いてハランの地を出立してカナンの地に入ったのでした。その後、ヤコブとヨセフの時代に一旦はカナンの地を離れてエジプトに移住しましたが、モーセの時代にエジプトを脱出し、モーセの後継者のヨシュアの時代に再び戻って来ることができたのでした。そうして、この地においてダビデの時代に繁栄の時代を築くことができたのは、すべて主の力であることを、ダビデは知っていました。ですから、ダビデは、このように言いました。

「このようにみずから進んでささげる力を保っていたとしても。すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。」

 私たちも、もともとは何も持っていませんでしたが、今はそれぞれが、何がしかの物を持っています。それを、私などは、つい自分の力で獲得したような気になってしまう時があります。この14節を読んで、改めて反省させられました。皆さんは、いかがでしょうか。私たちは、いつでも、どんな時でも、この歴代誌のダビデの信仰を保っていることができたらと思います。

罪赦されたダビデが描かれている歴代誌
 さて、いま私は敢えて「歴代誌のダビデ」の信仰と言いました。実は皆さんもご存知の通り、「サムエル記のダビデ」は、もっといろいろな所を通り、時にはバテ・シェバ事件のようなことも起こしているのですね。歴代誌はダビデの良い面しか記していませんが、サムエル記は、もっとダビデのドロドロした面も描いています。歴代誌ではダビデが人口調査を行ったこともサタンのせいにしていますから、ダビデはそれほど悪者にはなっていません。また、ダビデの子のソロモンについても、悪いことは書いてありません。歴代誌のダビデとソロモンに関する記述は、ほとんどがおめでたいことばかりです。
 では、サムエル記のダビデや列王記のソロモンのことを知っている私たちは、この歴代誌のダビデとソロモンのおめでたい記事を、どのように観たら良いのでしょうか。少し割り引いて観たほうが良いのでしょうか。そんな必要はありませんね。私は、歴代誌の記事は、主がエレミヤを通して預言した、次の言葉を重ねて観たら良いのではないかと感じています。私が良く引用するエレミヤ31章の34節で、主はエレミヤを通して次のように告げています。

「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さない」

 歴代誌のダビデとソロモンのきよい姿は、主が彼らの罪を二度と思い出さないことにした姿だと思って観れば良いのではないかと私は感じています。「ヨハネの永遠観」で聖書を読むなら、【過去・現在・未来】は渾然一体になっていますから、ダビデ・ソロモンの罪もまたイエス・キリストの十字架によって赦されるのです。そうして、十字架の血によってきよめられた歴代誌のダビデが主をほめ讃える言葉から、きよめの信仰を学び取ったら良いのだと思います。
 そしてサムエル記の苦悩するダビデからは、ダビデがバテ・シェバ事件以降、坂道をころがり落ちるようにして家庭の中がドロドロになって行った時期にあっても、ダビデは主から離れることなく信仰を持ち続けたことを学び取れば良いのだと思います。
 歴史には必ず主観が入り込むと思いますから、歴代誌からは「歴代誌のダビデ」の信仰を学び取り、サムエル記からは「サムエル記のダビデ」の信仰を学び取れば良いのだと思います。
 このように、歴史観には、どっちが正しいということは無いのだと思います。いま日本と中国・韓国との間では歴史認識の問題でいがみ合っていますが、どちらの歴史認識が正しいかで争うのでは不毛の争いが続くだけだと思います。私は、双方がお互いの歴史観をへりくだって学び、双方が反省すべき点を反省するようにすれば良いのにと思います。自分の側が正しいと主張するばかりでは、いつまで経っても解決しないだろうと思います。

罪赦された恵みを味わう
 歴代誌第一に戻りましょう。29章の20節から、30節までを、交代で読みましょう。読む時には「ヨハネの永遠観」の中に入って、エレミヤ書の「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さない」という主の言葉を意識しながら読むと、咎が赦され、罪が二度と思い出されないことが、いかに祝福された恵みであるかを感じることができるのではないかと思います。

29:20 そして、ダビデは全集団に向かって、「あなたがたの神、【主】をほめたたえなさい」と言った。すると全集団は、父祖の神、【主】をほめたたえ、ひざまずいて、【主】と王とを礼拝した。
29:21 その日の翌日、彼らは【主】にいけにえをささげ、全焼のいけにえをささげた。雄牛千頭、雄羊千頭、子羊千頭、これらに添える注ぎのぶどう酒、それに全イスラエルのためのおびただしいいけにえをささげた。
29:22 彼らはその日、大いに喜んで、【主】の前に食べたり飲んだりし、あらためてダビデの子ソロモンを王とし、油をそそいで、【主】のために、君主とし、ツァドクを祭司とした。
29:23 こうしてソロモンは、【主】の設けられた王座に着き、父ダビデに代わり、王となって、栄えた。全イスラエルは彼に聞き従った。
29:24 すべてのつかさたち、勇士たち、および、ダビデ王のすべての子たちまでも、ソロモン王に服した。
29:25 【主】はソロモンを全イスラエルの目の前に非常に大いなる者とし、彼より先にイスラエルを治めたどの王にも見られなかった王の尊厳を、彼に与えられた。
29:26 このようにして、エッサイの子ダビデは全イスラエルを治めた。
29:27 彼がイスラエルの王であった期間は四十年であった。ヘブロンで七年治め、エルサレムで三十三年治めた。
29:28 彼は長寿に恵まれ、齢も富も誉れも満ち満ちて死んだ。彼の子ソロモンが代わって王となった。
29:29 ダビデ王の業績は、最初から最後まで、予見者サムエルの言行録、預言者ナタンの言行録、先見者ガドの言行録にまさしくしるされている。
29:30 それには、彼のすべての統治、彼の力、また、彼およびイスラエル、それに各地の諸王国が過ごした時代についてしるされている。

おわりに
 私たちもまた、主から離れずに主と共に歩むなら、このダビデに与えられたような素晴らしい祝福が私たちにも与えられることを信じて、信仰の道を歩んで行きたく思います。
 そして、この地域の多くの方々と共に、ひと所に集って、主をほめ讃えることができる会堂を私たちが献堂することができますよう、きょうもお祈りしたいと思います。
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