平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

ことばへの愛の応答(2013.6.2 礼拝)

2013-06-03 13:42:23 | 礼拝メッセージ
2013年6月2日礼拝メッセージ
『ことばへの愛の応答』
【詩篇119:1~16】

はじめに
 6月に入りました。今月は、会堂祈祷強化月間となっています。
 礼拝プログラムとしましては、特別礼拝は来週からで、今週は通常の礼拝ということになっています。しかし、私自身としては、きょうの礼拝は、会堂祈祷強化月間の中の特別な礼拝の一つとして位置付けていて、次の週から始まる特別礼拝に向けて心を整えるための礼拝であると考えています。
 先月までも、私たちは、新会堂実現のための祈りを捧げて来ました。また、来月の7月以降も、もちろん祈りを捧げ続けて行きます。しかし、今月は特に普段以上に意識をして、新会堂実現のための熱い祈りを捧げる私たちでありたいと思います。

1.神の愛への応答
 では、私たちには何故、会堂が必要なのでしょうか。それはもちろん、神様に礼拝を捧げるためですね。
 それでは、私たちは何故、神様に礼拝を捧げるのでしょうか。
 「なぜ私たちは神様に礼拝を捧げるのですか?」この質問に対する答え方は、一通りではなく、幾通りもあることでしょう。今月の教団の教報の神学院報の欄には、今年の授業風景の写真が出ていて、その写真の下には、「今年から始まった新しい科目『礼拝学』のクラスです」という説明書きが添えられています。生徒は二人だけの少し寂しい授業風景ですが、「礼拝学」という講義は私が在籍していた時にはありませんでしたから、とてもうらやましく感じます。きっと、この礼拝学の始めのほうで、私たちは何のために礼拝を捧げるのか、ということがきちんと整理された形で提示されるのでしょう。しかし、きっと先生は、その答を教える前に、生徒に対して、「私たちは何のために礼拝を捧げるでしょうか」と聞く気がします。私が先生だったら、そのように聞くだろうと思います。その先生の質問に対して、皆さんだったら、何と答えるでしょうか。
 もし私が今そのように質問されたなら、私は次のように答えたいと思います。
「それは、神様の私たちへの愛に、応答するためです」
これが私の答です。
「私たちが礼拝を捧げるのは、神様の私たちへの愛に応答するためです」
と私は答えたいと思います。
 神様は私たちを愛して下さっています。その神様の愛に私たちは力一杯応答したいと思います。
 ヨハネの福音書の21章には、イエス・キリストとペテロとのやり取りが記されています。この箇所は有名な箇所ですから、皆さんもご存知の方が多いと思いますが、イエスさまはペテロに「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」と聞きました。それに対してペテロは、イエスさまに、こう答えました。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」
 「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」
 私たちは、このことを形で示すために、礼拝を捧げます。4月の礼拝で私たちは、ダビデが神の箱の前で力の限り踊ったことを学びました。このダビデのように、私たちも神の愛に、力の限り応答できたらと思います。
 きょうの聖書の交読では、ヨハネの福音書1章のプロローグと呼ばれている箇所をご一緒に読みました。ヨハネの福音書のプロローグは、有名な書き出しの、

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)

で始まります。そして、14節に「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」とヨハネの福音書は書いています。イエス・キリストはことばでした。神が人を造り、人に霊を吹き込んで命を与えて以来、神はみことばによって人に愛を伝えて来ました。神は主(おも)に、預言者たちを通じて、人々に神の愛を伝えて来ました。
 神様が私たちを愛して下さっている、ということがわかる最も直接的なみことばは、イザヤ書43章でしょうか。神様は、このようにおっしゃっています。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)

 このみことばは、よく引用される、人気のあるみことばですね。神様は、このように私たちを愛して下さっています。旧約聖書には、このように「わたしはあなたを愛している」という直接的な表現を使う場面は、ほとんどありませんが、神様から人への熱心な語り掛けを読むと、いかに神様が私たちを愛してくださっているか、ということが、よく伝わってきます。そのように神様は、私たちにみことばによって熱心に語り掛けて下さり、私たちに愛を伝えて下さいました。

2.ことばへの愛の応答である詩篇119篇
 きょうの聖書箇所の詩篇119篇は、そのようなみことばに対する、人の側からの「愛の応答の詩」と呼ぶことができると思います。詩篇119篇の詩人は、みことばへの熱い愛を余すところなく、伝えています。
 詩篇119篇は全部で176節もある長大な詩篇ですが、節と節の間の空行の入り方を見ると、8節ずつが一つのグループになっていることが分かります。きょうの聖書箇所も8節と9節との間に空行が入っていて、1節から8節までと9節から16節までが、それぞれグループになっています。そして、そのグループは全部で22あります。8節×22グループで、全部で176節になります。
 日本語訳ではわかりませんが、もともとのヘブル語では1節から8節までは、全部、同じ文字で始まります。その文字は、ヘブル語のアルファベットの最初の文字のアレフです。そして9節から16節までは、全部、ヘブル語の2番目の文字のベートで始まります。そしてへブル文字は全部で22文字ありますから、22のグループというのは、へブル文字の数に相当します。
 英語のアルファベットはaからzまで26文字あります。ギリシャ語はアルファからオメガまで24文字です。ギリシャ語の1番目の文字をアルファ、2番目をベータと言いますから、アルファ・ベータでアルファベットです。ですからヘブル語のアルファベットをアレフベートと呼んだりもします。
 詩篇119篇はアレフベート22文字のそれぞれの文字を最初に持って来た8節を、1つのグループにした構成になっています。このことだけで、この詩篇119篇の詩人が、いかに、ことばを愛していたか、ということが良くわかると思います。
 このように、詩篇119篇は一つの文字を頭にした節が8節ずつあるという技巧を使ってことばへの愛を表現していますし、また「ことば」という単語も、この詩の中では数多く使われています。例えば、きょうの聖書箇所の1節から16節までうちの後半の9節から16節までの間に、3回、「ことば」という単語が使われています。9節に、
「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたの【ことば】に従ってそれを守ることです。」

とあります。また、11節に、
「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたの【ことば】を心にたくわえました。」

とあります。そして、16節に、
「私は、あなたのおきてを喜びとし、あなたの【ことば】を忘れません。」

 このようにして、119篇の詩人は9節から16節で、【ことば】への愛を表現しています。一方、1節から8節までには【ことば】という単語は見当たりません。ここには【ことば】という単語に代わる別の単語が使われています。それらは、【みおしえ】、【さとし】、【戒め】、【おきて】、【仰せ】、です。1節は、
「幸いなことよ。全き道を行く人々、【主】の【みおしえ】によって歩む人々。」

の【みおしえ】がそうですね。2節は、
「幸いなことよ。主の【さとし】を守り、心を尽くして主を尋ね求める人々。」

の【さとし】がそうです。3節は無くて、4節の、
「あなたは堅く守るべき【戒め】を仰せつけられた。」

の【戒め】、5節は、
「どうか、私の道を堅くしてください。あなたの【おきて】を守るように。」

の【おきて】、そして6節の、
「そうすれば、私はあなたのすべての【仰せ】を見ても恥じることがないでしょう」

の【仰せ】ですね。8節には、もう1回、【おきて】が出て来ます。また、先ほどは見ませんでしたが、10節にも【仰せ】があり、12節には【おきて】、14節には【さとし】、15節には、【戒め】、そして16節にはまた、【おきて】が使われています。

 これらの【みおしえ】、【さとし】、【戒め】、【おきて】、【仰せ】からわかることは、【ことば】というのは、実は律法のことなのですね。119篇の詩人は、律法のことばに対して愛の応答をしています。律法は神がご自身の民を愛しているがゆえに与えたものであり、詩篇119篇の詩人は、その神の愛に応答しています。

3.律法は神の愛の表現
 律法は神様の側からの、ご自身の民への愛の表現である、ということが分かると、聖書を、より豊かに理解することができるようになります。律法は、人を縛るために与えられたものでなく、神様が人を愛しているがゆえに、人の心が神から離れてしまうことがないように、神様が人に与えて下さったものです。
 このことを、神様は私に、不思議な聖霊体験を通じて教えて下さいました。この聖霊体験のお証しは、祈祷会では既にさせていただいたものですが、この礼拝でもさせていただきます。それは、ちょうど2年前の6月のことでした。当時、私は神学生の4年生で、インターン実習生として姫路教会に滞在していました。この時、姫路教会の主任牧師は竿代信和先生でしたが、竿代先生のご自宅は神戸にあって、先生は日曜日にだけ姫路教会に通って来ておられました。ですから私は一人で姫路教会に滞在していました。この時の私の朝の過ごし方は、だいたい朝食の前の1時間半ほどを、祈りと聖書通読とディボーションのために使う、というものでした。
 さて2年前の6月17日の金曜日の朝でした。私はひとしきりお祈りをした後で、その日の聖書通読の箇所を開きました。その日はレビ記の1章から10章あたりまでを読むことにしていました。当時はだいたい1日に10章ほど読むことを日課にしていましたから、そのつもりでいました。すると、レビ記の1章を読み始めてまもなく、涙がボロボロと出始めて、止まらなくなりました。
 私は神学生の4年生でしたから、それまでにレビ記はもう何度も繰り返し読んでいました。しかし、こんなことは初めてでした。というより、それまでの私にとって、レビ記は全く苦手な書でした。実は私は神学院を受験するために聖書を一生懸命読み始めるまでは、聖書の通読に一度も成功したことがありませんでした。それは、いつもレビ記で挫折してしまっていたからです。
 私は高津教会の一般信徒であった時に、2回ほど聖書通読に挑戦したことがありましたが、2回ともレビ記で挫折してしまっていました。創世記の1章1節から始める聖書通読では、出エジプト記のモーセの十戒の辺りまでは、物語風ですから、面白く読めますね。しかし、出エジプト記の後半の幕屋の作り方の箇所に入ると、「~しなければならない」、「~しなければならない」という文章の連続になります。しかも、幕屋の各パーツの寸法をこと細かく指示するだけの文章ですから、極めて退屈です。そうして、幕屋の作り方の退屈な話が終わってホッとしたのも束の間、レビ記に入ると、今度はいけにえの捧げ方の細かい説明という、現代の私たちとはほとんど何の関係もない儀式の細かい規定がくどくどと続いて、もうそれ以上、ページをめくる気力がなくなってしまうんですね。特に神学院に入る前の私は、自由を愛する人間でしたから、「~しなければならない」のオンパレードには、本当にウンザリしました。
 神学院の受験のために聖書を通読した時は、さすがに途中で挫折するわけにはいきませんでしたから、レビ記も何とか我慢して読みましたが、ほとんど頭の中には入って来ず、ただ機械的に目が字の上をなぞり、機械的にページをめくるだけでした。ただ、そんな私でしたが、神学院に入ってレビ記の授業を受けてからはレビ記の重要性がだいぶわかるようにはなりました。それでも、やはり好きな書ではありませんでした。
 私にとってレビ記とは、そのような書でした。しかし、2年前の6月17日の朝に不思議なことが起こり、この時から突然のように、私は律法のみことばから、天の父の愛を感じることができるようになりました。そして、天の父の大きくて深い愛に感動したことと、私がそれまでは天の父の愛を少しも理解していなかった申し訳なさから、涙がボロボロと出て来て、止まらなくなりました。それで、その日はレビ記1章の途中までしか読むことができませんでした。それまでの私は、レビ記とは退屈な書であると思っていたのですから、これは明らかに聖霊の働きによるものでした。この不思議な聖霊体験により、私は律法に込められた神の愛がわかるようになりました。
 律法は、神がご自身の民を愛しているがゆえに、まだ信仰が幼いイスラエルの民の心が神から離れないように、与えたものです。ですから、それは私たちの身近な例で言えば、親が子に門限などの規則を与えるようなものだと思えば良いでしょう。まだ一人前になる前の子どもは判断力が十分ではありませんから、親が子に門限などの規則を与えて、子供を危険から守ります。それは、親が子を愛しているからです。モーセの時代、イスラエルの民の信仰はまだ幼いものでした。ですから、神は愛するご自身の民のために律法を与えたのでした。律法のみことばが出エジプト記から始まってレビ記、民数記と延々と続き、そして申命記でまた繰り返されるのは、神様がそれだけご自身の民を愛しておられるからです。

4.ことばを愛することはイエスを愛すること
 詩篇119篇は、その神様の愛への応答の詩です。詩篇119篇の詩人は、神を愛し、神のみことばを愛していました。それは、すなわち詩人は、私たちの主イエス・キリストを愛していた、ということです。なぜなら、イエス・キリストはことばだからです。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことは神であった。…ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」(ヨハネ1:1,14)とヨハネが書いた通り、イエス・キリストはことばでした。
 イエス・キリストがペテロに「あなたはわたしを愛しますか」と聞いた時、ペテロは、「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです」と答えました。詩篇119篇の詩人の応答は、このペテロの返答と同じと言ってよいでしょう。
 ペテロは主イエスを愛していました。それなのに、イエスがゲッセマネの園で逮捕されると逃げ出してしまい、その後、大祭司の家の庭では、鶏が鳴くまでに三度、イエスのことを「知らない」と言ってしまいました。ペテロは自分の心が主イエスから離れてしまうことなど、考えてもいませんでした。それなのに、イエスを知らないと三度も言ってしまいました。
 詩篇119篇の詩人も、神のみことばへの愛を熱烈に歌っています。しかし、この詩人といえども、時に神から離れてしまうこともあったのではないでしょうか。それゆえ5節、8節のように、主に頼んでいるのではないでしょうか。5節、
「どうか、私の道を堅くしてください。あなたのおきてを守るように。」
8節、
「私は、あなたのおきてを守ります。どうか私を、見捨てないでください。」

 しかし私たち人間は弱いですから、どんなにそう願っていても、いつの間にか神から心が離れてしまうことがあります。そして、気付いた時には神様から大きく離れている、ということにもなりかねません。それゆえ、神様はそんな私たちのために、イエス・キリストを送って下さり、その後に聖霊を遣わしてくださり、私たちの心に、律法を書きしるして下さいました。エレミヤ書31章に書いてある通りです。前にも、このエレミヤ31章を開いたと思いますが、きょうもこのエレミヤ書をご一緒に読んで終わりたく思います。エレミヤ書31章の31節から34節までを交代で読みましょう。

31:31 見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
31:32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。──【主】の御告げ──
31:33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──【主】の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
31:34 そのようにして、人々はもはや、『【主】を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。──【主】の御告げ──わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」

おわりに
 私たちが神様を礼拝するのは、この神様の大きな愛に応答するためです。このようにおっしゃって下さる神様の御名を崇め、ダビデのように力の限り応答するためです。その礼拝のための場として私たちは新会堂を祈り求めています。この古くなった会堂に代わる、新しい会堂を祈り求めています。私たちは新しい会堂で神様の愛のみことばに応答したいと願っています。私たちが、熱心に祈り求めるなら、神様は必ずや、私たちの祈りに応えて下さることでしょう。
 そのために、一言、お祈りいたしましょう。
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