平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

三つの時代を三度提示したヨハネのプロローグ

2013-06-06 05:20:47 | 祈り会メッセージ
2013年6月5日祈り会メッセージ
『三つの時代を三度提示したヨハネのプロローグ』
【ヨハネ1:1~18】

はじめに
 6月2日の礼拝の聖書交読では、このヨハネ1章1~18節のプロローグと呼ばれる箇所をご一緒に読みました。きょうのこの祈祷会のメッセージでは、このプロローグの部分がヨハネの福音書全体の中でどのような役割が与えられているかということを話したいと思います。
 このプロローグの部分は、ヨハネの福音書全体をこの短い部分で語っている、そのように感じている方は多いと思います。それは、その通りで間違いないと思います。しかし、単に全体をまとめているということにとどまらず、ここには私たちが思っている以上にもっと多くの情報が詰め込まれています。私自身もすべてを理解しているわけではありませんが、これまでにわかっていることをお話ししたいと思います。

1.三つの時代から一つの時代への滑らかな連結
 まず、このプロローグの部分はヨハネの福音書の全体の構造の縮図である、ということが言えます。ヨハネの福音書の全体がどのような構造になっているかは、これまでも説明して来ているように、まず1章から11章までは三つの時代が重ねられています。三つの時代とは、「旧約の時代」、「イエスの時代」、「使徒の時代」の三つです。そして11章の終わりから12章に掛けて「イエスの時代」の一つの時代にまとまり、13章の最後の晩餐へと入って行き、イエス・キリストの受難へと続いて行きます。
 私は特に11章から12章に掛けて「旧約の時代」が「イエスの時代」に合流して行く連結部分が、読者にそのつなぎ目を感じさせずに滑らかにつながって行くことには、本当に感心しています。まず始めに、そこの所をご一緒に見てみようと思います。
 私は10章が好きですので、10章から説明させていただきますが、これまで何回も言っているように、ヨハネ10章1節の、「羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です」というのは、「旧約の時代」にあってはエルサレムが滅亡する寸前の時代と重ねられていて、それは外国人の略奪隊、すなわち「カルデヤ人の略奪隊、アラムの略奪隊、モアブの略奪隊、アモン人の略奪隊」(Ⅱ列王24:2)がエルサレムに攻め入った時のことです。そして、10章35節でイエスが「聖書は廃棄されるものではない」と言っているのは、エレミヤが語った主のことばが書かれた巻物を、エホヤキム王が暖炉の火で燃やしてしまったこと(エレミヤ36:23)と重ねられています。その後、エルサレムの人々は捕囚となってバビロンへ引かれて行ったため、ヨルダン川の東岸に移動します。そのことがヨハネ10章40節の、「イエスはヨルダンを渡って」で表されています。そして、11章でイエスは再びヨルダンを渡ってヨルダンの西側に戻ります。これはエルサレムの人々がバビロン捕囚を解かれてエルサレムに帰還したことと重ねられています。そして、ラザロのよみがえりはエズラ・ネヘミヤの時代の、エルサレムの神殿と城壁の再建のことです。
 ここまでが「旧約の時代」の出来事です。この後に「イエスの時代」へと連結部分を経て入って行くわけですが、その連結部分というのが、私は11章57節であると読んでいます。ヨハネ11章57節、
「さて、祭司長、パリサイ人たちはイエスを捕えるために、イエスがどこにいるかを知っている者は届け出なければならないという命令を出していた。」(ヨハネ11:57)
 このような文はマタイ・マルコ・ルカにはありませんから、ヨハネ独自の文です。私は、この文はイエスが生まれた時に、当時のヘロデ王がイエスを殺そうと探しまわったことと重ねていると考えています。ヘロデは幼子のイエスがどこにいるかを知っている者は届け出なければならない命令を出したはずです。しかし、結局見つからなかったので、2歳以下の男の子を全部殺してしまったのですね(マタイ2:16)。ヨハネ11:57は、そのことと重ねることで、ここでイエスが誕生したことを暗に示していると私は読んでいます。そうして12章では「イエスの時代」の一つだけの時代に収束しています。
 ヨハネのプロローグに戻ります。ヨハネのプロローグは、このヨハネの福音書の全体構造の縮小版でもあります。プロローグの1章1節から13節まででは、三つの時代が重ねられていることを示しています。そして、14節の、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」は、イエスが誕生したことを表していますから、ヨハネの福音書の11章の一番最後と、この1章14節は、ここで「イエスの時代」の一つに収束したことを示しています。

2.三度繰り返される三つの時代の存在の予告
 では次に、1章1節から13節までで、ヨハネが三つの時代の存在を提示しているということの説明をして行きます。私はこれまで、ヨハネの福音書には三つの時代が重ねられているということを、1章の19節以降で説明して来ました。しかし、実はそれ以前にもこのプロローグで、三つの時代が存在することをヨハネはちゃんと示していたのですね。
 ヨハネは1章1節から13節までで、三つの時代の存在を三度予告しています。一度目の予告は1章1節、二度目の予告は2節から8節までで、三度目の予告は9節から13節までに於いて、です。
 まず1章1節の、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」と、「ことば」という単語を3回使うことで、ヨハネは三つの時代をこの書に重ねることを示し、しかも「ことば」であるイエス・キリストは、この三つの時代の全てに存在したことを示しています。この「ことば」はギリシャ語で「ロゴス」と言います。注解書を見ると、ギリシャ語の「ロゴス」は「理性」の意味も持ち合わせ、古代ギリシャ哲学では「世界万物を支配する理法・宇宙理性」をも示すという解説を良く目にします。確かに、そういう面もあるのかもしれませんが、私としては、そのようにギリシャ哲学に目を奪われてしまうことには、サタンの策略を感じます。この冒頭の1章1節でギリシャ哲学の方に目を向けてしまってヘブル語聖書、つまり旧約聖書の神のことばから目が離れてしまうなら、サタンの思うツボではないかと思います。私としては、ここは素直に、「ことば」はギリシャ哲学の「ロゴス」というよりは、単純に「神のことば」と理解して、イエス・キリストが「旧約の時代」にも「イエスの時代」にも「使徒の時代」にも存在して神のことばを人々に告げ知らせたのだと解釈すべきだと思います。
 そして1章2節から8節までで、また「三つの時代」が繰り返されます。2節の「この方は、初めに神とともにおられた」というのは、明らかに「旧約の時代」のことですね。続いて、3節の「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」。この3節は、「旧約の時代」のことを言いつつ、次第に次の「イエスの時代」へと徐々に移って行っています。なぜなら、「イエスの時代」の人々の命も、イエスが造ったものだからです。そして、4節の「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった」は、「旧約の時代」のことも残しつつも、ほぼ「イエスの時代」に移り、5節の、「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」は、「イエスの時代」のことでしょう。そして次の6節の「神から遣わされたヨハネという人が現れた」は、「イエスの時代」と「使徒の時代」の両方が重ねられていると考えられます。この6節の「ヨハネ」は、バプテスマのヨハネと使徒ヨハネの両方のヨハネのことだと思います。7節の「この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである」というのも、バプテスマのヨハネと使徒ヨハネの両方についての説明だと思います。ただし、次の8節でわざわざ「彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである」と書いているのは、この8節のヨハネは「使徒の時代」の使徒ヨハネのことだけであろうと私は考えます。こうして2節から8節までで、「旧約の時代」、「イエスの時代」、「使徒の時代」の三つが存在することをヨハネは示しています。
 そしてさらに、9節から13節までで、もう一度、三つの時代が提示されています。9節の「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた」というのは、「旧約の時代」ですね。続く10節の「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった」は、「旧約の時代」と「イエスの時代」が混じり合っていると思います。次の11節「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」は、「イエスの時代」のことですね。そして12節の「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」は、「イエスの時代」を残しつつも、もう「使徒の時代」に移っていますね。そして13節の「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」というのは、「使徒の時代」に聖霊によって新しく生まれた人々のことを指します。
 このようにヨハネは、1章の1節から13節までで、三つの時代が存在することを三度も繰り返しています。ヨハネは三度繰り返すことで、この三つの時代は時間順に直列的につながって存在するのでなく、同時に並列的に並存しているのだということを示しているのだと思います。ヨハネはここまで入念に三つの時代が存在することを予告した上で、19節からの三つの時代を始めています。ちなみに19節の、「ヨハネの証言は、こうである」の「ヨハネ」は、「旧約の時代」のアブラハムと、「イエスの時代」のバプテスマのヨハネと、「使徒の時代」の使徒ヨハネとが重ねられています。

3.霊的な目が曇らされていた私たち人類
 私は、1章のプロローグの1節から13節までで三つの時代を三度も繰り返すという、ヨハネがここまでしつこく説明していることを、かなり親切なことだと思っています。恐らくこれは、絶妙のサジ加減なのであろうと思います。親切に説明するのだったら、もっともっと親切に、丁寧に、「三つの時代を並べていますよ」と明白に分かる形で説明して欲しかったと思う方もいるかもしれません。しかし、あまりに丁寧に説明するなら、それは理性において理解することになってしまいます。ヨハネとしては、あくまで霊的に感じ取って欲しかったのだと思います。神の霊は理性では決して理解できるものではありません。神は霊ですから、霊性で感じるものです。ヨハネとしては、その理性と霊性の境い目のギリギリまでの大サービスで、親切に教えてくれているのだと、私は思います。
 では、この大サービスの説明を、2世紀以降、21世紀の現代に至るまでの1900年もの間、なぜ人類は気付くことができなかったのでしょうか。少し前まで私は、それは神が私たちの霊的な目を閉じていたからではないかと思っていました。しかし、どうもそうではなく、サタンの策略(Ⅱコリント2:11、エペソ6:11)が優れていたためのような気が、最近はしています。ヨハネも、ヨハネに霊感を与えた神さまも、ヨハネの福音書に三つの時代が重ねられていることを、隠す意図は無かったということが、この大サービスでわかると思います。ですから、人類はサタンの策略で霊的な目が曇らされて、三つの時代を霊的に感じることができなくなっていたのではないか、そんな気がします。
 サタンによって曇らされていた目が晴れて、私たちはヨハネの福音書1章の1節から13節までもわかるようになりました。そして、三つの時代を感じながら14節以降を読むなら、なお一層、三位一体の神のことをよく理解できるでしょう。14節、

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」

 そして16節と17節、

「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである」

 この恵みの上にさらに恵みを受けたというのは、律法の恵みの上に聖霊の恵みを受けたということですね。

おわりに
 6月2日の礼拝の最後は、エレミヤ書31章で締めくくりました。そのエレミヤの箇所は、このヨハネ1章16節,17節とぴったりと重なります。ですから、ヨハネの福音書が大好きな私は、このエレミヤ31章の31節から34節も大好きです。しつこくて恐縮ですが、きょうもまたエレミヤ書31章の31節から34節までをご一緒に読んで、きょうの説教を閉じることにしたく思います。交代で読みましょう。

31:31 見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
31:32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。──【主】の御告げ──
31:33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──【主】の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
31:34 そのようにして、人々はもはや、『【主】を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。──【主】の御告げ──わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」

 お祈りいたしましょう。
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