雑文の旅

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猫爺の連続小説「能見数馬」 第九回 江戸の痴漢

2013-06-20 | 長編小説
【能見数馬 第一回 心医】から読む

 ある日の午後、小石川養生所に数馬が訪れた。浪人新井良太郎の見舞いに来たのだ。
  「ご気分は如何でございますか」
  「あ、これは数馬殿、お蔭様でこの通り、明日にも帰宅のお許しが頂けそうでございす」
  「それは宜しゅう御座いました、くれぐれもご無理をなさいませんように」
  『うりゃうりゃ』
 数馬の脳裏で新三郎の声がした。
  「ありがとう御座います、それもこれも、数馬殿のお蔭です」
  『うりゃうりゃ』
  「うるさいなあ、何をうりゃうりゃいっているのですか」
  「はぁ、どうかしましたか」
  「いえ、何でもありません、蠅が飛んでおりましたもので…」
  「そうでしたか」
  「すみません、ちょっと用足しに行って参ります」と、数馬は立ち上がる。

 厠に来ると、新三郎に話かけた。
  「さっきから何を言っているのですか」
  『早くお貴さんの事を聞きなせえよ』
  「お貴さんの見舞いに来たのではないでしょう」
  『うりゃうりゃ、耳が熱くなりましたぜ』

 厠から戻ると、新井良太郎にさりげなく訊いた。
  「今日は、御嬢さんがおいでになりませんね、お使いにでも…」
  「長屋に掃除をしに行きました」
  「ご帰宅のご準備ですね」
  「左様、左様」 良太郎は嬉しそうに答えた。

 数馬が新井良太郎の長屋にやってくると、お貴が入り口の外でもじもじしている。
  「お貴さん、どうしました」
  「あ、これは数馬様、お元気そうでなによりで御座います」
  「はい、お貴さんもお元気そうで」
  「今日は、どちらへ」
  「お父上さまのお見舞いに行ってきました、もうすぐご帰宅が許可されそうですって」
  「はい、そうなのです、それでお掃除をしておこうと戻ったのですが…」
  「お済になりましたか」
  「いえ、それが…、恐くて中へ入れないのです」
  「幽霊ですか」
  『あっしは何も恐がらせていませんぜ』
  「違います、蜘蛛なのです、天井に大きな蜘蛛が張り付いているのです」
  「なんだ、蜘蛛ですか、追い払ってあげましょう」
  「今にも跳びかかってきそうなので、気を付けて下さい」
 中に入り天井を見ると、大きな灰色の蜘蛛が居た。
  「あれは人に危害を加えない家蜘蛛です、蠅や蚊を捕って食べるので殺さずに追い出しましょう」
  「助かります、わたくしは恐いから外へ出ております」

 数馬が箒の柄で天井を「トン」と叩くと、蜘蛛が驚いて糸にぶら下がって「するするっ」と下がってきた。途中の糸を掴んで外へ出そうとしたが、蜘蛛の重みで糸が「つつつ」と繰り出されて床に届きそうになったので、数馬は自分の着物にとまらせた。そのままそっと外へ出て、長屋の近くの草むらに逃がした。

 数馬が手伝って掃除も終え、「小石川養生所までお送りしましょう」と、家の外へでようとしたとき、新三郎が囁いた。
  『お貴さんを抱き寄せて、チュッと接吻をしてやりなせえ』
  「そんなこと、出来ませんよ」
  『お貴さんは、それを待っていなさる、それが女心というものですぜ』
  「それ、いつするのです」
  『それは今でしょう』

 貴が先に立って戸を開けようとしたとき、数馬が声をかけた。
  「お貴さん!」
  「はい」と、お貴が振り向いたとき、数馬は抱き寄せて「好きです」と、額にチュッと口づけをした。お貴は豹変した。
  「何をするのです、落ちぶれ果てても貴は武士の娘、無礼は許しませんぞ!」と、胸に差した懐刀に手を掛けた。
  「すみません、あまりにも可愛いかったものでつい…」と、数馬は土下座をした。
  「もう、わたくしの前に、姿を見せないで下さい、汚らわしい!」
 貴は、さっさと外へ飛び出し、振り返りもせずに小石川養生所に向けて早足で戻っていった。
  「あのねえ新さん、話が違うのだけど」
  「町娘と、武士の娘の違いかなあ、申し訳ねぇ」
  「私はあんな恐い女は苦手です」
  「あっしもですぜ」
  「どうでもいいけど、新さん無責任ではありませんか」
  「あははは」
  「笑って誤魔化しましたね」

 ある日、数馬が帰宅すると、母上が血相を変えて出迎えた。
  「数馬、あなた新井良太郎というご浪人の御嬢さんになにをしたのです」
  「はい、あまりにも可愛いかったもので抱き寄せて額にチュッとしました」
  「それだけですか」
  「はい、それだけです」
  「ご浪人は、娘を傷物にされたと仰っています」
  「それで傷物になったと仰るのならば、そうなのでしょう」
  「何を呑気なことを言っているのです、相手様は五十両もの大金を要求されているのですよ」
  「すみません、私が働いて返します、それまで父上に拝借しとうございます」
  「父上は激怒されて、あなたを手討ちにするかも知れません」
  「その時は仕方がありません、討っていただきます」
  「一度味を占めたら、何度もお金を要求してくるでしょう」
  「それでは、お奉行様に一部始終を申し上げて、お裁きを受けます」
  「わかりました、今夜お父上に打ち明けましょう」

 数馬の父上は話を聞いて、怒るどころか大笑いをした。   「いつまでも子供だと思っていたら、すっかり大人になっていたのだなぁ」  寧ろ感慨深そうですらあった。数馬は、父上の大きさを感じて「この父上の子に生まれて良かった」と、しみじみ思うのであった。
  「よし、五十両は私が工面しよう、数馬は明日奉行所へ行きなさい」
  「はい、父上」
 その夜、数馬は新三郎に語りかけていた。
  「どんな親切を尽くしても、一つの失敗で消えてしまうものですね」
  『あっしの所為です、面目ねぇ』
  「新さんの所為だけではありませんよ」
  『いえ、あっしが数馬さんにやらせたのですから…』
  「もう、止めましょう、こんな押し問答は…」
  『へえ』
  「ところで新さん、最初新さんと出会ったころは、暗闇では私に新さんの姿が見えていました」
  『はい、縞の道中合羽に三度笠姿ですかい』
  「そうそう、それがすっかり見えなくなったのは何故です」
  『それは、あっしが人間不信になり、恨みを持っていたからでござんす』
  「信じられるようになったのですか」
  『数馬さんに出会ってから、すっかり』
  「あははは、そうだったのですか」

 母上が廊下から窘(とが)めた。
  「数馬、夜中に何を独りで笑っているのですか 気でも狂ったのですか」
  「あ、母上、済みません、ちょっと思い出し笑いをしていました」
  「気持ちがわるい、早くお休みなさい」
  「はい」
   翌朝、数馬は北町奉行所に赴き、お奉行の遠山影元に自訴した。数馬はお奉行にも大笑いをされた。
  「額にチュッで、五十両か、随分と吹っ掛けたものだ」
  「でも、罪ですから」
  「よし、わかった、新井良太郎を呼んで、お白洲(しらす)で裁こう」
  「お手数をかけます」
  「神妙だなあ、数馬」
  「恐れ入ります」

 数馬の父能見篤之進が見守る中、新井良太郎と、お貴がお白洲に姿を見せた。暫くして数馬がお縄を受け、お白洲に引き出されてきた。白洲に敷かれた筵に座らされ、やがてお奉行が出座した。
  「能見数馬、面をあげい」
  「ははあ」
  「そちは、そこなるお貴が嫌がるのを抑え込んで、無理矢理に押し倒し、娘を傷物にしたと訴えられておるが相違ないか」
  「少し違います、立ったまま抱き寄せて、額に接吻をしました」
  「それだけか」
  「はい、迂闊なことを仕出かしてしまいました」
 貴は、異議を唱えるでもなく、黙って下を向いていた。
  「そうか、それでは五十両で和解をしたいとの訴願者からの申し出であるが、奉行の前にある五十両は、その和解に応じるために用意したものであるな」
  「はい、父上が持参いたしました」
  「ところで新井殿、そちは小石川養生所で病が治癒したそうであるな」
  「はい、お上のお蔭をもちまして…」
  「そうか、その小石川養生所へ入れるように懇願して参ったのはそこの下手人能見数馬であったのは存じておるか」
  「それはそれ、これはこれでございます」
  「では、それを許可したのは、この奉行であったが、やはりそれはそれで御座るか」
  「はい、この事件とは別のことでございます」
  「よくわかった、この五十両はそちの物じゃ」
  「ありがとう御座います」と新井。
 貴は下を向いて黙ったままであった。能見篤之進が差し出した五十両は、奉行の前にの三宝の上置かれていた。役人に合図をすると、新井良太郎の前に三宝が移された。
  「ところで新井殿、小石川養生所は、貧しい者にお上が手を差し伸べるところである」
  「はい、よく存じております」
  「養生所で新井殿に使った費用は五十両であった」
  「さようでしたか、ありがとう御座いました」
  「新井殿は、五十両もの大金を所持した金持ちであるな」
  「たった今、頂戴しました」
  「では、その五十両は、養生所へお返し頂こう」
  「えっ、そんな御無体な」
  「何が無体なものか、それが道理というものであろう」
  「おそれいりました」
  「もし今後、能見家に金を要求した時は、恐喝として縄目を受けることになろう」
 数日後、五十両は奉行所からこっそりと能見家に戻された。数馬は新井父娘のことが気がかりで、そっと覗きに行ってみたが、そこは空き家だった。近所の者に尋ねると、夜逃げ同然に引っ越していったという。数馬は、己の軽はずみな行動で、新井父子に辛い思いをさせたことを申し訳なく思い、これからは祝言を挙げるまでは女性に手を出すまいと誓うのだった。

   (江戸の痴漢・終) ―続く― (原稿用紙14枚)

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