えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

年の瀬のこと

2011年12月29日 | 雑記
「年が暮れるとまた新しい年がくる。それを繰り返して長い長い時間が果てしなく続いている。
 もし月日にくぎりをつけなかったら、それは果てしのない長さと気の遠くなるような思いにされるであろうが、一年一年のくぎりをつけてゆくことで、人は気分を新たにしながら生きてゆくことができる。」―『宮本常一著作集13 民衆の文化』(傍線筆者)

 だいたいの企業であれば、昨日が仕事納めの日だったのではないだろうか。私が働く会社も昨日で一年の仕事が終わり、今日から新しい年を迎えるための休みの時期にはいる。けれど企業のほんとうの一年のくぎりは3月31日で、新しい始まりはいつも4月からで、正月は一年のくぎりではなく、一年の内のくぎりにすぎない感覚がある。でも一年のくぎりがぎりぎり正月に保たれているのは、家でその間の時間を過ごすからではないだろうか。

 実家がある人は実家に帰り、親と住む人は一緒に掃除をしたり、飾り物を買いに行ったり。そうして年が暮れるにつれてだんだんと高まってくる気分がある。家のなかが普段と異なる空気に包まれる。ちりのない玄関には小さな松飾、神棚(宅には神棚が2つある)に張られる新しいしめ縄が用意され、銀器を磨くシンナーのにおいがリビングに漂う。窓を磨いて、カーテンを洗いなおして、書きながら掃除のゆううつを覚えるけれども迎える朝のすがすがしさを思い描いてなんとかがんばる。休む元日は背を丸くして過ごす。

 家の中で若さと老いがよく見えるようになってきた。気分を新しくするということは、ただ年を取るということではなくて、年をとることで変わるものをながめてゆくことでもある。積み重ねてきた年の回数をいやおうなく数で見せられる。何かができるようになった、とか、資格を取った、とか、形にできてわかりやすいものならばよいけれど、たとえば考え方とか、ものの見かたとか、心の置き方とか、見えづらいもの、特にそばで接していればいるほど違いが分からなくなるものは、とにかく重ねた年と成長してゆく姿でかすかに感じてゆくしかわからなくなる。

 耳の遠くなった祖母はゆるやかに私たちとの距離が遠くなってゆく。母がわたしに話すことに嫁らしい愚痴がふえた。年上のいとこたちがてきぱきと相手を見つけて相手の家に入っていってしまった。全体的にいろんなことが遅くなってしまった家のなかのくぎりは、20を過ぎて少し経った今加速度的に増えている。家のそとのくぎりは人を知らずに突風のように吹いてゆく。

 立っている足元に何があるのか、踏みしめているものはなにか、もっているものは何か、静かに静かに知らないうちに、関わるものから人は変わってゆく。一年のくぎりは、誰にでも平等にかわるということを教えてくれる。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« うつわ・揃い | トップ | 最後のうさぎ年 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

雑記」カテゴリの最新記事