那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

高畠華宵

2013年03月15日 | 愛媛自慢
腱鞘炎治療のため、なるべく引用だけで済むタイトルを選んでいます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%95%A0%E8%8F%AF%E5%AE%B5より
高畠 華宵(たかばたけ かしょう、1888年4月6日 - 1966年7月31日)は愛媛県宇和島市裡町生まれの大正から昭和初期に活躍した、日本の画家である。本名は、高畠幸吉。京都市立美術工芸学校日本画科卒業。宇和島市長・衆議院議員を務めた高畠亀太郎は、実兄。

栄光の日々 [編集]

上京して生活苦の中、1911年に「華宵」の名で描いた津村順天堂の「中将湯」広告画が一躍有名になる。アール・ヌーボーやユーゲントシュティール、特にオーブリー・ビアズリーの影響を受けたとされるシャープなペン画はそれまでの広告イラストとは一線を画したもので[1]、そのモダンさは時代の注目を集めた。
その後『少女画報』(東京社)『少女倶楽部』『少年倶楽部』(いずれも講談社)『日本少年』『婦人世界』(いずれも実業之日本社)などの少女向け雑誌や少年雑誌、婦人雑誌などに挿絵として描いた独特の美少年・美少女の絵や美人画は一世を風靡し、たちまち竹久夢二らと並ぶスター画家となった。1926年には華宵便箋・封筒を発売するなど、現代でいうメディアミックス風のプロモーションも行うことによりさらに名声は高まり「銀座行進曲」(正岡容作詞、1928年)中で「華宵好みの君も行く」と歌われるほどになった。鎌倉・稲村ヶ崎一の谷(いちのやと)に建てた異国情緒あふれる豪邸は「華宵御殿」と呼ばれ、華宵の趣味が凝縮したものとして注目を集めた。華宵御殿には、全国の女性(とくに女学生)からのファンレターが殺到した。極端な例では、地方の令嬢が華宵御殿見たさに家出するという事件も起こった。
しかし戦争色が色濃くなってきたこともあり、絶頂の1937年ごろから雑誌などの活動を停止。一般大衆の間ではその爆発的人気は永続せず、戦後華々しいカムバックとはいかなかった。近年に再評価を受ける(後述)まではやや歴史の中に埋もれた存在となっていた。それでも完全に忘れ去られることはなく、昭和中後期における少年少女、婦人雑誌の人物の挿絵は華宵の影響を受けたものが多い。漫画家の丸尾末広も華宵の画風に影響を受けていることがよく知られている。

画風 [編集]

人物画が中心。連載小説の挿絵・雑誌口絵・レターセットなどの小物の意匠などに使われた。独特の三白眼を有する、無国籍風な表情と中性的な雰囲気をもつ人物を描く。妖艶さと清楚さを併せ持つ少女画・美人画と、凛々しく潔い、しかしやはりどこか色香を漂わせる少年画はいずれも一目で彼の作品とわかるほどの個性を放っている。また、明治から昭和初期にかけての和装・洋装を含むありとあらゆる服装・髪型・アクセサリが画題となっていることも注目される。描かれるファッションのレパートリーは幅広く、たとえば和服については生涯にわたって同じ柄の着物を二度以上描いたことがないと豪語したとも伝えられるほど衣服デザインは多彩だった。実際、彼は浴衣や洋服のデザインを行いそれが雑誌口絵に鳴り物入りで掲載されるなど、時代のファッションをリードするデザイナーとしても活躍した(雑誌口絵にはそのデザイン服は「華宵好み」という名を冠して掲載された)。そのレパートリーの広さを存分に生かした渾身の大作が「移り行く姿」(昭和初期、現在は個人蔵)である。これは明治から昭和初期にかけての女性ファッションの移り変わりを、六曲一双の屏風の中に配された60人以上の女性の姿として描きあげた作品である。暑い季節に寝食を忘れてこの絵を描き挙げた華宵はそのためすっかりやせ衰えてしまったという弟子の証言があるほどの、一世一代の力作であった。
幾多の美女・美少女・美少年を描き続けたが、特定のモデルはいなかったとされている。また自身はまったく浮いた話がなく、実際生涯独身であった。縁談を勧められたとき「私には絵の中の女たちがいますから」といった切り返しで答えた話は有名である。

失意の戦後と幸せな晩年 [編集]

戦後しばらくは夢を抱いて渡米するも経済的・健康的にうまくいかず帰国するなど失意の日々を過ごし、子供向けの怪盗ルパンシリーズや童話などの挿絵仕事を細々と続けながらも全盛期とは比べ物にならないほど注目されない人生を送っていた。晩年はかつて絶縁した実家の兄を頼るほど生活に困窮し、神戸の老人福祉施設に入っている。しかし幼少の頃華宵の絵(とくに「さらば故郷!」)に感動した弁護士・鹿野琢見が華宵の現在を伝える記事を偶然雑誌で読み、本人と文通を開始した(その後華宵は「新・さらば故郷!」と題した水彩画を新たに描き、鹿野に贈っている)。鹿野らの奮闘やかつて華宵の絵に熱狂した世代の要望により首都圏で回顧展が開催され、人気が爆発的に再燃した。その人気の隆盛を見届けた直後の1966年7月31日に、東京にて鹿野と加藤謙一(元「少年倶楽部」編集長)に見守られて生涯を閉じた。同日付けで挿絵画家としては初となる勲五等双光旭日章を受けた[2]。墓所は神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園であり、養子の華晃ものちに同じ墓に葬られている。鹿野らは1984年に東京都文京区に「弥生美術館」を開き、華宵の作品の常設展示を始めた(後述)。

展示施設 [編集]

現在、生まれ故郷に近い愛媛県東温市下林に「高畠華宵大正ロマン館」があり自筆を含む多くの作品、書簡写真などが展示されている。また華宵の故郷である愛媛県宇和島市には高畠華宵作品の常設展示室「華宵の部屋」(宇和島市歴史資料館)が開設され、3ヶ月毎に展示替えが行われている。首都圏では「竹久夢二美術館」に併設される挿絵美術館である「弥生美術館」の3階にて鹿野らが集めた多くの作品が常設展示されている。これらの美術館では華宵作品を中心として当時の風俗・ファッション・イラスト・少年少女の生活などを対象とする研究が積極的に行われている。
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上記、青色の部分には秘密がある。私が宇和島の展示会に行ったときの記憶だが、彼は同性愛者で、晩年は美青年と暮していた。養子がその相手だったかどうかは定かではない。