那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

風狂の話・2

2013年03月03日 | 風狂考察
春一番のあとの大雨の中、余りにも用事が集中したので、風狂の続きでお茶を濁す。

wikiによれば次のような歴史的背景がある。
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風狂(ふうきょう)は、中国の仏教、特に禅宗において重要視される、仏教本来の常軌(戒律など)を逸した行動を、本来は破戒として否定的にとり得るものを、その悟りの境涯を現したものとして肯定的に評価した用語である。禅宗とともに日本にも伝わり、一休がその代表者である。

本来、風狂という用語は仏教語ではない。「風」字も「狂」字と同様に風疾あるいは瘋疾の意味である。瘋癲(ふうてん。寅さんのフーテンの語義)や癲狂と同義語である。よって、雅やかで世俗を超越したさまを表す「風流」とは本来、用法が異なっている。但し、日本では、江戸時代になって、松尾芭蕉の俳風に用いられたりして、風流と同義語の如く扱われるようになった。

風狂の風は、古くは中国への仏教伝来より余り時間の経過していない東晋頃より南北朝にかけて、すでに史伝に現れている。杯度や宝誌という僧が、その代表である。また、北周の廃仏で武帝を煽動したという衛元嵩も、その還俗前には、蜀(四川省)の成都で風狂の所行があり、杯度・宝誌の流と目されたと、『北史』や『周書』に見える。

唐代になると、万廻という僧が玄宗朝に見られるが、この時期になり、新興の禅宗と結びつくことで、その存在意義を前面に打ち出すようになる。その代表は、「臨済録」中で当の臨済義玄以上に活躍する普化である。天台山国清寺に伝わる寒山拾得や豊干も風狂の代表であり、特に「寒山子詩」に収録される風狂の禅詩で名高く、その風姿は禅画の画題となっている。また宋代になって、普化の名に托した普化宗という禅の一派も現れている。

また、唐末五代の江南に現れたという布袋も風狂僧の一人であるが、弥勒の化身として信仰を集め、寺院の本尊として安置されるまでになる。また、日本に伝わって七福神の一人となる。
宋以降の風狂の僧といえば、南宋の済顛が第一である。済顛は済公の名で知られ、明清の章回小説の主人公となり最近ではテレビドラマ化され、あたかも日本の一休の如き存在である。
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http://kotobank.jp/word/%E9%A2%A8%E7%8B%82によれば

もとは瘋癲(ふうてん)などと同じ精神病者,狂人,狂者を意味する言葉であったが,のち世間の常識的生き方や価値観の俗悪さにがまんがならず,それへの強烈な反発,批判として,狂人と見まがうような奇行,狂態を演じること,ないしその人をいうようになった。古い時代の風狂は多くの場合宗教人で,わけても禅林では寒山・拾得がその象徴的存在として渇仰された。また禅林以外では〈名聞コソ苦シカリケレ。乞食(かたい)ノミゾタノシカリ〉(《発心集》)とうそぶいていたという増賀上人が,風狂の先達として西行,長明,兼好,芭蕉らに慕われている。


①精神の平衡を失っていること。また,その人。
②風雅にひたりきること。 「此の中,産を破りて-し,家を忘れて放蕩せるもあり/近世畸人伝」
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となっている。

一般社会では対立概念だが風狂は、狂人=見性者=超俗=風雅(超俗のファッション化)、と意味内容が絡み合っている様が面白い。なるほど、十牛図の十番目にくる布袋様は弥勒の化身で酒を飲みながら町をふらつくのだと分かる。

そこで増賀上人について検索すると
http://kotobank.jp/word/%E5%A2%97%E8%B3%80?dic=sekaidaihyakka

ぞうが【増賀】 917‐1003(延喜17‐長保5)

平安時代の僧。狂人をよそおって名利を逃れ,道心を貫いた高僧。橘恒平の子。幼いときから仏法に志し,慈恵大僧正(良源)の弟子となった。比叡山で学ぶうちに遁世の思いがつのり,周囲の人々の制止にもかかわらず多武峰(とうのみね)に籠居し,法華経読誦と念仏にあけくれた。しかし聖僧としての名声は高まり,冷泉天皇の護(御)持僧(ごじそう)に召し出されたが逃げ帰った。また三条太皇太后の出家の戒師に召されたとき,儀式が終わるや,下痢でたえられないといって宮中の所かまわず汚物を落とした話など,その奇行の数々は,いずれも道心を貫くためのもので,世俗化した大寺院の仏教に批判的な人々の間で,増賀が遁世者,極楽往生者の理想として語り伝えられたことが知られる。
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とあり、高校時代に「今昔物語」でこの人の逸話を読んだ記憶が蘇る。
 奈良時代の風狂のオリジンはこの人だったわけだ。さらに詳しい伝記は
http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/f561a52ee8453c60730013205c8b3236に紹介されている。

長過ぎるので内容は貼り付けないが、ハンパではない人物で圧倒される。勿論説話なので後代に粉飾された部分も多いだろうが、話半分としても痛快すぎる。
 
この僧も夢にヒントを得て境地を広げていった事実を知り、かなり前に河合隼雄が明恵上人(1173年─1232年)の夢をユング派の立場から分析した本を読んだ記憶が蘇ってきた。

風狂と禅に密接な関係があるという前提で言えば、日本の最初の禅者として行表(ぎょうひょう、養老6年(722年) - 延暦16年2月(797年)。最澄の師)の名前が残っているがほとんど広まらず、本格的には明庵栄西 (1187年入宋し虚庵懐敞の禅を伝灯)から始まる。
 だから、法華経と念仏の増賀上人の風狂は、書物のレベルでは中国の影響は受けている可能性もあるが、かなり突然変異的な発生の仕方で、彼の強烈な個性に帰する部分が多いと思える。

最澄→日蓮の真面目系に対して、増賀→一休の風狂系(トリックスター系)を比較するのも面白い。
 人間は対立する性格が混在しているから真面目な部分とカブク部分がある。どっちが良くてどっちが悪いという問題ではなく、都市のコスモロジーから見ても、官庁街、歓楽街、悪場所、住宅街、聖域等々があるのが当然で、こういう多種多様な地域が多重に生活を取り囲んでいるからこそ、人間はしなやかな生き方が出来る。

お茶を濁すつもりがつい長くなってしまった。このテーマは閉塞状況のど真ん中にある今の日本を生き抜くためのいいヒントになると思うので、おりに触れて考えていくことにする。