飛鳥への旅

飛鳥万葉を軸に、
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中将姫伝説を訪ねて11:何故、中将姫往生の地が当麻なのか?

2009年07月16日 | 中将姫伝説を訪ねて
 中将姫が発願して修行した後剃髪したところが当麻寺中之坊、その後蓮茎を集めその糸を染め上げたところが石光寺、蓮糸で曼荼羅を織り上げたのち成仏したところが当麻寺、と当麻の地に数々の伝説のあとが残されている。

 では、何故中将姫往生の地が当麻なのかを探っていこうと思う。


1.中将姫の母方の祖は当麻氏である

 中将姫の母百能の母方は当麻氏であった。当麻氏の祖先は聖徳太子の異母弟・麻呂子皇子だという。麻呂子皇子の父・用明天皇、祖父・欽明天皇であるが、祖母が蘇我稲目の娘・堅塩媛である。要するに中将姫は藤原の血のほかに蘇我の血が入っていたのである。古代よりこの地に勢力を張った豪族の当麻氏は、もともとは二上山を中心とする葬送儀礼に携わる人々であったと言われている。飛鳥時代の帝王たちが死ぬと、遺体を収めた柩は大和の飛鳥の地を出発して西に向かい、二上山の東に居住して葬送儀礼を司る当麻氏によって、魂鎮めの儀を執行された後、山の南側の竹内峠を越えて河内に入り、山の西の谷間に埋葬された。大和からは夕日が沈む場所がまさに二上山なのである。当麻寺創建につながる大きな理由でもある。中将姫が出家した先が母方と深いつながりのある当麻寺であったのは当然ともいえる。ただ単純にそれだけの理由ではないようだ。





2.藤原一門の出であることで、蘇我氏への鎮魂
 藤原氏の祖は、大化の改新で蘇我入鹿を倒して功のあった中臣鎌足であった。また聖徳太子の子である山背大兄王が一門とともに自害に追い込まれた際に、軽皇子(のちの孝徳天皇)が加担していたのは中臣鎌足の策略であったようだ。
すなわち中臣鎌足によって、蘇我入鹿と蘇我系である聖徳太子一族が滅亡し、蘇我氏は没落へとたどったのである。
その子藤原不比等が文武天皇に娘宮子を嫁がせ首皇子(聖武天皇)を産ませ、さらに橘三千代との間の娘である光明子を聖武天皇に嫁がせた。光明子は不比等の死後、不比等の息子の藤原四兄弟の力によって光明皇后となり、藤原氏の繁栄を確固のものとしていった。
いくたびか血に塗られた抗争をくぐり抜けてきたが、藤原四兄弟が相次いで天然痘で病死したことが、蘇我氏の怨霊によるたたりとされた。

 奈良市奈良町に中将姫伝説が多く見られることを前述したが、元興寺は蘇我氏の怨霊を封じ込める寺であったこと、藤原豊成邸はその寺の南面の守りであったこと、その豊成邸に中将姫が誕生したこと、その後中将姫の仏教への帰依は、まさに藤原一族のために犠牲になった蘇我氏・聖徳太子一門への懺悔の心が根底にあったのである。 


3.蘇我氏の奥都城(おくつき)は二上山のうしろにあった

大和から二上山の麓に沿って竹内街道を通り峠を抜けると磯長谷(しながだに)である。ここ磯長谷は蘇我氏の奥都城があったところで、敏達天皇陵に始まり・用明天皇陵・推古天皇陵・母親穴穂部間人(はしひと)皇女との合葬で知られる聖徳太子陵・最後の王墓である孝徳天皇陵と、「王家の谷」と言われている。
まさに蘇我氏の怨霊のもととなる場所である。二上山は黄泉の国への結界とされたのである。
 従って、蘇我氏の怨霊を最後の砦として鎮めることろが二上山であり、その鎮魂のための寺が二上山の麓にある当麻寺であったということになる。
その後に藤原四兄弟が相次いで天然痘で病死したことで、さらなる怨霊を鎮める必要が生じてきた。その役割を担って登場したのが中将姫ということになる。
中将姫に蘇我氏の血が入っていたことが、より贖罪意識を高めたようだ。
中将姫が当麻寺に出家し当麻曼荼羅を奉納することで、霊鎮めに大きく寄与したのであろう。

中将姫伝説を訪ねて10:当麻寺(奈良県葛城市)

2009年07月01日 | 中将姫伝説を訪ねて
中将姫が感得し蓮糸を染めて織りあげたという当麻曼荼羅が、ここ当麻寺(たいまでら)に伝えられている。




中将姫の蓮糸曼荼羅(当麻曼荼羅)の伝説で名高い当麻寺がある奈良県葛城市当麻地区は、奈良盆地の西端、大阪府に接する二上山(にじょうざん、ふたかみやま)の麓に位置する。二上山は、その名のとおり、ラクダのこぶのような2つの頂上(雄岳、雌岳という)をもつ山で、大和の国の西に位置し、夕陽が2つの峰の中間に沈むことから、西方極楽浄土の入口、死者の魂がおもむく先であると考えられた特別な山であった。


当麻寺は、飛鳥時代創建の寺院。創建時の本尊は弥勒仏(金堂)であるが、現在信仰の中心となっているのは当麻曼荼羅(本堂)である。宗派は高野山真言宗と浄土宗の並立となっている。開基(創立者)は聖徳太子の異母弟・麻呂古王とされ、この地に勢力をもっていた豪族「当麻氏」の氏寺として建てられたものとされている。奈良時代 - 平安時代初期建立の2基の三重塔(東塔・西塔)があり、近世以前建立の東西両塔が残る日本唯一の寺としても知られている。
東西両塔と金堂の間には後世に中之坊、護念院などの子院が建てられている。
中将姫伝説を訪ねて8:当麻寺 中之坊(奈良県葛城市)で、当麻寺中之坊は中将姫が剃髪して尼になった寺であることを記した。


当麻曼陀羅
国宝当麻曼陀羅(天平時代)は当麻寺の本尊である。観経浄土変相図のことで中将姫が感得し蓮糸を染めて一夜で織り上げたと伝えられている。
ただ当麻曼荼羅の原本(根本曼荼羅)は損傷甚大なので安置されておらず、現在当麻寺奥の院に秘蔵されている。縦横とも4メートル近い大作で、絵画ではなく織物である。ただし、伝説に言うような蓮糸の織物ではなく、絹糸の綴織(つづれおり)であることが研究の結果判明している。
現在当麻寺の本尊として安置されているのは重文文亀本當麻曼陀羅(室町時代)で、文亀年間(1501~3)に転写されたものである。

曼陀羅厨子
国宝曼陀羅厨子(天平時代)は扁平な六角形漆塗厨子で曼陀羅を安置しているもの。厨子のところどころに美しい花鳥文や山水などが金平脱文や金銀泥絵で描かれている。
厨子を支える国宝須弥壇(鎌倉時代)は寛元元年(1243)の銘文があり、特に螺鈿(貝)の紋様が美しいことで知られている。


中将姫座像二十九歳像(伝御自作)
曼荼羅堂には、中将姫の自作と伝えられる「中将姫二十九歳像」が、本尊の文亀曼荼羅の右側に安置されている。清楚な袈裟を身にまとい、数珠を手にかけて合掌している小さな座像である。潤んで充血したような眼や、かすかに半開きになって紅をさした唇など、まるで生きているような像の表情である。作家の五木寛之氏は、はじめてこの像を見て、”大和のモナ・リザ”と称えている。

中将姫池
中将姫がすっくと立っている銅像が、境内の蓮を配した池の中央に立っている。


中将姫絵伝 四幅(江戸時代)
当麻寺奥の院に所蔵している中将姫の生涯を美しく描いた絵伝。
図版は”ひばり山親子対面から中将姫が出家して蓮糸を染めて織りあげる場面”の一幅である。


毎年5月14日に行われる練供養会式(ねりくようえしき)には多くの見物人が集まるが、西方極楽浄土の様子を表わした「当麻曼荼羅」の信仰と、曼荼羅にまつわる中将姫伝説を題材にした儀式である。
本堂(曼陀羅堂)を西方極楽浄土に見立て、東の娑婆堂を人間世界に見立てて長い橋を渡され、二十五菩薩が人間世界から中将姫を蓮台に乗せて浄土に導く様を表現したものである。天童を先頭に菩薩が介添人に手を引かれ本堂と娑婆堂の間約100mを渡り、中将姫の化身に見立てた阿弥陀如来像が蓮台に載せられ行く。この寺内の稚児さんも一緒に練り歩くさまは大変可愛らしくもある。二上山の向こうに夕陽が沈むころ菩薩は本堂の浄土へと戻って行き儀式が終わる。

 中世以降に当麻寺僧侶(浄土宗西山派の祖・証空ら)により当麻曼陀羅の複製が多く作られ、全国に流布された。現在各地の寺院に残る当麻曼陀羅はこれを示している。江戸時代以降、広く曼荼羅信仰が発展し、それとともに中将姫伝説も流布していったのである。

中将姫伝説を訪ねて9:石光寺(奈良県葛城市)

2009年05月16日 | 中将姫伝説を訪ねて
中将姫が当麻曼茶羅を織りあげた際、材料となる蓮糸を染めたのが、ここ石光寺の井戸である。


石光寺は近鉄南大阪線「二上神社口駅」下車、徒歩13分。
奈良県当麻町にある石光寺(せっこうじ)は山号を慈雲山と号する浄土宗の寺院である。當麻寺の北、二上山を背景に位置し、牡丹で有名な寺で、通称、染寺と呼ばれている。天智天皇の時代670年頃、染野の地に、不思議な光を放つ大石があった。その場所を掘ると弥勒三尊の石像が現れ、役行者(えんのぎょうじゃ)が開山となり天皇の勅願により寺院を建立することになった。このとき、天皇が石光寺と名づけ、今に至っている。


境内
山門を入った正面に本堂、並びに弥勒堂、奥に入ると鐘突き堂などがある。本堂には本尊の阿弥陀如来が安置している。弥勒堂を平成3年に建て替えたとき、堂の下から白鳳時代の弥勒石仏が出土し、現在、弥勒堂に安置している。当時の本尊で日本最古の石仏である。他に瓦や仏像を型押した、せん仏が出土している。

染の井
中将姫(747~775)ゆかりの「染の井」と「糸掛桜」がある。右大臣藤原豊成(704~765)の娘、中将姫は17歳で出家、当麻寺にこもるうち霊感を得て蓮の茎を集め、糸を採り出した。そして石光寺の庭に井戸を掘り、糸を浸したところ五色に染まった。それが染の井で、傍らの桜の枝にかけたのが糸掛け桜。中将姫はその蓮糸で一夜のうちに当麻曼茶羅を織りあげたという。


牡丹
ボタンの花で有名な石光寺。境内には約500種類、3000株ものボタンが植えられ、初夏には百花爛漫のにぎわいを見せる。また、11月から1月ごろ咲く、ワラ帽子に包まれた寒ボタンも見もので、冬咲きのボタンはここだけのものという。二上山を背景に牡丹の咲き乱れる様は格別である。


中将姫伝説を訪ねて8:当麻寺 中之坊(奈良県葛城市)

2009年05月02日 | 中将姫伝説を訪ねて
当麻寺中之坊は、中将姫が剃髪して尼になった寺である。


当麻寺塔頭である中之坊は南大阪線「当麻寺」駅から徒歩約15分、当麻寺の境内にある。
當麻寺には現在、十数ヶ寺の塔頭寺院があるが、中之坊は白鳳時代(645-710)、役行者が開いた道場で、當麻寺創建当時からの歴史を持つ代表的な塔頭寺院である。創建当初は三論宗であったが弘仁14年(823)に弘法大師が真言宗を伝えたのがきっかけに改宗し、現在では高野山真言宗の別格本山になっている。
本堂である中将姫剃髪堂は中将姫が剃髪して尼になった場所である。
彼女の守り本尊の十一面観音菩薩(心身健康の徳)、大和13仏弥勒尊(禅定の徳)、大和七福神 布袋尊(家庭円満の徳)、を安置している。本尊は導き観音として信仰されている。


姫は都を離れ二上山の麓を訪れ、当麻寺に入門を願い出た。当時女人禁制であった当麻寺への入山はなかなか許されなかったが、姫は観音菩薩の加護を信じ、一心に読経を続けたところ、不思議にもその功徳によって岩に足跡が付いた(中将姫誓いの石)。姫の尊い誓願が認められ、翌年、入山が許された姫は、中之坊にて髪を剃り落とし、法如という名を授かって正式に尼僧となった。中将姫が下ろした髪で刺繍をしたという故事に因んで建立された髪塚が境内にある。
足利時代、世阿弥は尼の名前を中将姫として當麻曼荼羅の縁起に基づいて念仏の効力を説いた謡曲「當麻」を作曲し、今日に至っている。


宝物室に飾られている「幻想蓮糸曼荼羅」: 堀澤朱鷺(ほりさわとき)筆。


香藕園
本堂の左手にある庭は、片桐石州が改修したことで知られる大和三名園の「香藕園」(国保存指定名勝史跡)である。「回遊式庭園」であると同時に「観賞式庭園」二つの面を持たせる巧みな設計になっている。奥を見上げると東塔が目に入る。

中将姫伝説を訪ねて7:得生寺(和歌山県有田市)

2009年04月18日 | 中将姫伝説を訪ねて
ここ雲雀山得生寺は、中将姫が継母の暗殺から逃げ延びた場所であり、逃げ延びた旧跡はここと日張山青蓮寺の2箇所に伝承している。



紀伊宮原駅よりバス下車。得生寺は右大臣藤原豊成の娘の中将姫が継母の暗殺から逃げ延びた旧蹟である。得生寺の由来を語る伝承では、家臣の名は伊藤春時になっている。春時夫婦は13歳の中将姫を当地まで連れ出し雲雀山で殺害しようとしたが、姫の徳に打たれて殺すことができなかった。そこで、春時夫婦は剃髪してそれぞれ名を得生と妙生尼に改め、姫を守ることにし、当地に庵を結び安養院と号した。それがこの寺の始まりとされている。その後、承平(931~7)の頃山号を雲雀山得生寺と改め、享徳(1452~4)の頃に浄土宗の寺になったという。中将姫が3年間隠れ棲んだとされる雲雀山は、峰が2つに分かれている。得生寺から見て、左の峰には中将姫本廟の祠が建ち、近くに春時の墓がある。
(ちなみに、菟田野(うたの)青蓮寺に残る伝承では、姫の殺害を命じられながら、姫の心優しさを知っていた家臣の松井嘉藤太が、姫を菟田野の日張(ひばり)山へ連れて行き、そこに隠れ住まわせたとなっており、異なる伝承となっている)

今の得生寺本堂は、寛永5年4月の建立である。中将姫をおまつりしている開山堂は正平6年(今から660年前)の建立である。有田川の清流に近く、熊野古道に沿うて建立され、境内には万葉の歌碑一里塚(県指定)等あり、能の雲雀山。歌舞伎の中将姫古跡の松。浄瑠璃のひばり山姫捨松。などで有名である。
浄土曼茶羅(重要美術品)。二十五菩薩(面及び金欄装飾付)。中将姫一代画伝。縁起書三巻。中将姫山居の語。糸繍仏。等をはじめ多くの宝物がある。


開山堂には中将姫及び春時夫妻の座像が安置されている。これは永禄元年(1558)に大和の当麻寺から贈られたものである。


「中将姫会式」は中将姫の大往生の様子を再現した行事で二十五菩薩練供養とも言い、中將姫の命日にちなんで毎年5月13日、14日に行われる。練供養では、姫のように美しく聡明な徳を得させてもらおうと、地蔵菩薩を先頭に二十五菩薩の面をつけた子供たちが開山堂から本堂までかけた朱塗りの橋を渡る。当日は「嫁をとるなら糸我の会式、婿がほしけりゃ千田の祭り」といわれるほど遠近の人々で賑わう。
ちなみに、この会式は県の無形文化財に指定されている。

中将姫伝説を訪ねて6:青蓮寺(奈良県宇陀市)

2009年03月28日 | 中将姫伝説を訪ねて
ここ日張山「青蓮寺」は、中将姫が継母により捨てられた地である。


 近鉄大阪線榛原駅からバス終点下車。宇賀川の源流に架かる小さな無常橋を渡って、日張山(標高595m)中腹の長い参道を上がったところに、浄土宗の尼寺、日張山「青蓮寺(せいれんじ)」がある。760年(天平宝宇4年)右大臣藤原豊成の娘、16才の中将姫が継母・照夜ノ前の讒言によって日張山に捨てられ、哀れに思った家臣の松井嘉藤太春時とその妻・静野に保護されて、ここで草庵を結び、6年6ケ月念仏三昧の生活を送り、後に父と偶然に再会を果たした。19才のとき、再びこの地を訪れ、小さなお堂を建立、そこに自身の影像と松井夫妻の彫像を彫って安置した。これが青蓮寺の起こりである。寺宝に中将姫の画像や彫像、曼陀羅図などがある。


本尊は中将姫十九歳像である。境内には松井夫妻の墓も建っている。


山門の手前に、中将姫の歌碑 “なかなかに山の奥こそすみよけれ 草木は人のさがを言わねば”がある。

世阿弥の謡曲「雲雀山(ひばりやま)」は、この青蓮寺を舞台に中将姫伝説を脚色したものである。豊成と中将姫の思わぬ再会がかなったことから、会いたい人と再会できる寺としても人気があるという。

中将姫の雲雀山の伝承の詳細はこうである。
11歳の時、父の豊成は、諸国巡視の旅に出た(一説には、一族の藤原仲麻呂と橘奈良麻呂との乱を、天皇に速やかに報告しなかったとされ、筑紫へ左遷されたと言われている)。これを好機として、継母は中将姫に汚名を被せ、家臣・松井嘉藤太に、菟田野(うたの)の日張(ひばり)山で姫を殺すように命じた。しかし、日頃から念仏に勤しみ亡き母の供養を怠らない姫の心優しさを知っていた嘉藤太は、中将姫を殺すことができなかった。彼は、照夜の前を欺いて、姫を菟田野の雲雀山(青蓮寺)へ連れて行き、そこに隠れ住まわせた(一説には、14歳の時に継母によって雲雀山に捨てられたともいう。また、日張山の伝承は他に有田市糸我町と橋本市恋野の2地方にも残っている)。


中将姫が考案したという”中将湯”が現在でも販売されている。
「バスクリン」で知られるツムラ(以前は津村順天堂)の創始者である津村重舎はは大和国宇陀郡出身で、母方の実家・藤村家(奈良)はその昔、逃亡中の中将姫をかくまった御礼に製法を教えられた薬(中将湯)が、代々伝えられていたという。 中将姫は當麻寺で修行していた頃、薬草の知識を学び庶民に施していたが、その処方を藤村家にも伝え、それが家伝の薬「中将湯(ちゅうじょうとう)」となった。明治30年発売の日本初の入浴剤「バスクリン」の最初の名前である。

中将姫伝説を訪ねて5:奈良町に中将姫伝説が数多く見られる理由は?

2009年03月14日 | 中将姫伝説を訪ねて
通称奈良町の中の鳴川町から井上町にかけて一帯には、藤原豊成卿の屋敷跡と伝えられ中将姫とその両親藤原豊成卿、紫の前の三人の御殿が三つ並んだ三棟殿が建つ広大な屋敷があった。
現在史跡としては、中将姫生誕の地として産湯に使われたという井戸が残る誕生寺、豊成卿の廟塔を護り豊成卿と中将姫の父子像をお祀りする高林寺、豊成の別宅跡がある徳融寺、それに安養寺、と中将姫ゆかりの寺が多く点在するのである。


「興福寺」は、藤原鎌足の子息である藤原不比等が和銅3年(710年)の平城遷都に際し移築した藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。
「元興寺」は、蘇我馬子が飛鳥の地にわが国はじめての仏寺である法興寺(飛鳥寺)を建立、その後、奈良遷都(710)に伴って、718年にこの寺も新都に移されて、元興寺と改められた、蘇我氏の氏寺である。
その南に藤原豊成の屋敷跡が点在する。


以下は私の私見である。


1.元興寺は蘇我氏の怨霊を封じ込めるため
 大化の改新で蘇我氏は藤原氏(中臣鎌足)に滅ぼされた。
藤原氏は蘇我氏の怨霊を封じ込める必要があり、
藤原氏の寺である興福寺の見下ろす場所を選んで元興寺を建てた。
しかし737年に天然痘が大流行し藤原不比等の四兄弟が相次ぎ急死したのは、蘇我氏のたたりといわれている。
法隆寺に夢殿を建立し2年後に完成し聖徳太子を封じ込める救世観音を安置したのも、怨霊を封じ込めるためである。
梅原猛氏は「隠された十字架」で「法隆寺は聖徳太子の怨霊を封じ込めるために藤原氏により再建された、と述べている。
聖徳太子は蘇我氏の血筋にあり、蘇我氏の怨霊を封じ込めは、イコール聖徳太子の怨霊を封じ込めにもつながる。
元興寺の北面を巨大な興福寺が封じ込めたのである。

元興寺は滅亡した蘇我氏の氏寺なので、衰退あるいは消滅するのが自然だが、
藤原氏が保護したため大きな伽藍を備え南都七大寺の一つにまでなった。
元興寺には「鬼」に纏わる話が多く見られ、これは蘇我氏の怨霊と思われる。


2.藤原豊成邸は南面の守りである
では南面はどうかというと、ここを封じ込めたのが藤原豊成の屋敷である。
三棟殿が建つほどの広大な敷地をもち、藤原武智麻呂の長男として藤原氏の守りを固めた。
この他、東面には瑜伽(ゆうが)神社があり、元興寺の鬼門除けの鎮守として崇められている。
西面の率川(いさがわ)神社は、「ゆりまつり(三枝祭)」で有名だが、これは鎮花祭の一つで疫神が四方に分散して疫病を起こすのを鎮める祭りなのである。

中将姫像(当麻寺)
3.中将姫の登場
この後747年に中将姫が登場する。
中将姫は、幼くして生母に死なれ継母にいじめられが、世をはかなむ事なく、燃えるような信仰心で阿弥陀如来を感得して当麻寺に出家する。
継母は橘諸兄の息女照夜の前、橘諸兄の母は県犬養三千代である。
その県犬養三千代は、軽皇子の乳母から始まり功績を得て橘姓を賜り、その後藤原不比等と結ばれている。
実はこの県犬養氏は蘇我氏と近いといわれている。
蘇我の怨霊として継母の照夜の前が、中将姫をとことんいじめぬいた、と想定できる。
ところがその後、照夜の前の悪事がわかり中将姫が出家する。
蘇我の怨霊を撃退したが、さらに怨霊を鎮めんがために、当麻寺に出家した、と想定できる。
藤原不比等の四兄弟が相次ぎ急死した後、より強い怨霊鎮めとなったのが、
中将姫伝説の流布であり、当麻寺の浄土信仰の発展につながったと見られる。

中将姫伝説を訪ねて4:安養寺(奈良市鳴川町)

2009年03月07日 | 中将姫伝説を訪ねて
中将姫開祖の寺で、横佩堂と呼ばれていた。

西山浄土宗紫雲山「安養寺」は、法如禅尼 (中将姫)開祖で、室町時代に建てられた本堂は、県の文化財に指定され、昔は「横佩(よこはぎ)堂」と呼ばれており、これは中将姫の父藤原豊成卿が横佩右大臣と称されていたため。後に恵心僧都作と伝えられる阿弥陀三尊(本尊阿弥陀如来、左脇侍観音菩薩、右脇侍勢至菩薩)を安置してから「安養寺」と改称した。「安養寺」は別名を「大和善光寺」とも呼ばれている。
本尊の阿弥陀如来坐像と観音・勢至菩薩像(いづれも平安時代の作)は奈良国立博物館に寄託されており、現在は別の阿弥陀如来像と、善光寺如来三尊像を安置している。

「安養寺」についてはその他、情報が見つからない。


この寺のある地名「鳴川町」の由来を記しておこうと思う。
「今は暗渠になっているが、坂の下の音声館の北側には、川が流れている。その昔、群蛙が小塔院の僧の読経を妨げたので、神呪を唱えこれを止めさせた。後世、蛙の声を聞かなくなったので不鳴川(なかずがわ)と称したが、何時の間にか誤って逆に鳴川と呼ぶようになったという。」

中将姫伝説を訪ねて3:徳融寺(奈良市鳴川町)

2009年02月21日 | 中将姫伝説を訪ねて
豊成の別宅跡。中将姫はここで少女時代を過ごし、継母にいじめられたと伝わっている。


「安養寺」の前の南北に延びる道をちょっと南へ行くと、融通念仏宗豊成山高林院「徳融(とくゆう)寺」がある。本尊は阿弥陀如来立像。元は「元興寺」の別院で、本堂の左前に歌が彫られた石塔(歌碑)が建っており、これは、松永弾正久秀が1560年(永禄3年)多聞城を築く時に持ち去ろうとした石塔婆で、「高林寺」に住んでいた連歌師の心前が次の歌

 曳(ひ)き残す 花や秋咲く石の竹

を詠んで、久秀に送ったら、連歌のたしなみがあった久秀が非を悟って、石塔を持ち去らなかったという。また、境内に市指定文化財「毘沙門堂」も在る。

 「徳融寺」は奈良時代の高官、右大臣藤原朝臣豊成とその娘中将姫の旧蹟で、豊成は南家武智麻呂(むちまろ)の子で、仲麻呂の兄である。


境内の「観音堂」の裏に豊成と中将姫を祀る宝篋印(ほうきょういん)石塔が二基並んで建っている。実際の墓は別の場所に別々に存在しているが、ここでは仲良く供養塔として並んで建っている。なお、豊成公の石塔と中将姫の石塔の間にあるのが四面に仏像を浮き彫りにした鎌倉中期の四方仏石で、正面が薬師如来、そして、右回りに釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒菩薩が彫られている。また、豊成公の墓脇の石柱には、歌舞伎「中将姫雪責(ゆきぜめ)」を公演する前ここへ詣でた片岡仁左衛門の名前が刻まれている。歌舞伎とのつながりもあるのだ。


 藤原鎌足から続く藤原四家(北家、南家、今日家、式家)の南家の右大臣藤原豊成の娘中将姫は747年 (天平19年)に生まれ、5歳の時に生みの母が亡くなった。そして、後妻に来た継母の「照夜ノ前」が悪女で、家来に命じて中将姫を崖の上から突き落としてしまった。それが写真の崖で、本堂の裏にあり、崖の上に「虚空塚」が在る。なお、突き落とされた中将姫は、常日頃の信仰の力に助けられ、太陽のごとく空中に浮かび怪我1つしなかったという。また、中将姫は継母から盗みの疑いをかけられ、雪の日に外で竹に打たれるせっかんを受けたとされる「雪責松(ゆきぜめのまつ)」の跡もある。ここは実は中将姫の受難の色を濃く残す寺なのだ。

中将姫ゆかりの寺院があるこの辺りは、江戸時代初期からあった木辻遊郭跡である。
寺院のすぐ隣にも遊女が客待ちをした格子の古民家が今もわずかに残る。
その中にいて、悲しい日々を強いられた苦界の女性たちにとって、仏の加護で救われたという中将姫像は、唯一の救いであったであろう。
その神秘性と敬虔な姫の信仰の姿が、人々の心を動かし続け今に至っている。

また「観音堂」には我が国最古の子安観音とされる子安観音像が安置されており、像は乳児を抱き上げた姿をしている。奈良町にある中将姫ゆかりの寺(誕生寺・高林寺・徳融寺・安養寺)の中では、この徳融寺が最も大きい寺院である。

中将姫伝説を訪ねて2:高林寺(奈良市井上町)

2009年02月14日 | 中将姫伝説を訪ねて
中将姫の父である藤原豊成の屋敷跡と伝えられている。


 誕生寺からひと筋東に融通念仏宗豊成山高坊「高林寺」がある。
元々は元興寺の一院だったが、光仁天皇の頃に中将姫に仕えて尼になった藤原魚名の娘が、中将姫の入寂後、豊成卿の廟塔を護るためにこの寺にはいり尼寺としたという。また安土・桃山時代には奈良茶人「高坊」(たかぼう)一族が住み、奈良まちの数寄者(すきしゃ)の一大群落、一大サロンを形成しており、茶室「高坊」はこの数寄者を顕彰するために建てられている。その後1810年頃(文化年間)寿保尼を迎え『今中将姫』と仰がれ中興初代として復興した。
本堂には、厨子入りの中将姫と父・藤原豊成公の坐像が安置されており、尼寺で中将姫修道霊場でもある。
毎年4月13日に中将法如尼御忌会式が催される。
門前を南北に延びる道は「上街道(上ツ道)」で、昔は初瀬詣でや、伊勢参りの人々で賑わっていたが、昭和36年奈良と桜井を結ぶ県道が出来てからは、すっかり寂れてきている。
高林寺を訪ねると住職珠慶尼が丁寧に説明と案内をしてくれた。尼寺として代々細々と寺を守ってきた気概が感じられた。


「豊成卿・中将姫父子木像」
本堂に上がると、中央須弥壇の上に並べて安置された黒い厨子の中に、豊成卿と中将姫の木彫りの坐像が拝される。
またガラス張りの箱の中に市松人形が沢山入っている。明治天皇の御局として仕えた高倉子爵の息女「紅葉の内侍」の持ち物だそうだ。祖先の中将姫を慕って、幾度か御家来の女房達を連れてこの寺に参拝されたそうだ。


「豊成卿・中将姫父子対面図」
二上山の男峰・女峰の重なっているようすは、この屋敷から眺めた二上の山だと想像できる。


本堂横に、直径2.5mの円墳があり、豊成公の墓と云われている。
中世の貴族の奥津城にこのような形式のものが見受けられる。

中将姫伝説を訪ねて1:誕生寺(奈良市三棟町)

2009年02月07日 | 中将姫伝説を訪ねて
藤原豊成の邸跡とされ、ここで藤原豊成の息女中将姫が生まれたと伝えられている。


奈良県奈良市の市街地南に町屋が広がる一帯があり、通称「奈良町」。元々は奈良の都・平城京の外京として多くの社寺が置かれ、東大寺の門前町として広がり、江戸時代には元興寺を中心とした商業都市に発展した。「浄土宗異香山法如院誕生寺」は、中将姫が生まれた藤原豊成の邸跡とされる場所に建ち、「誕生寺」と呼ばれている。また中将姫とその両親藤原豊成卿、紫の前の三人の御殿が三つ並んでいたところから、「三棟殿」とも呼ばれており現在の町名になっている。元興寺がこの地一帯を境内としていた頃は、「誕生殿」とも呼ばれていた。門の中に入り玄関の呼び鈴を鳴らし参拝を乞うと、しばらくして留守居のおばさんが現れ、案内してくれた。


本殿には姫自作の本尊「中将姫法如尼坐像」が安置されていた。きりっとした凛々しいお顔である。
脇には、阿弥陀如来厨子があり、両扉に豊成公と中将姫とみられる人物が描かれていた。浄土曼荼羅を彫刻にしたような精細なもの。


脇の展示棚に小さな蓮糸釈迦三尊があり、法如作と記されていた。
中将姫がを織ったという伝説に沿った遺物であり、当麻寺に伝説の大きな蓮糸曼荼羅が保存されているが、これと同系統のものが、ここにも保存されていたのは、今回初めて知ることができた。
法如作と記されているが、おそらくは後世のものだが、蓮糸で織ったという伝説を代々大切に伝えてきた信仰の深さがうかがえる。


裏庭に中将姫誕生の際、産湯を使う水を汲まれたという井戸が残っている。
これを見ると、伝説の中将姫が、現実味を帯びてきたように感じる。


庭の「娑婆堂」(写真左)から「極楽堂」(写真にのってないが右手)へ中将姫を浄土へと導いた二十五菩薩像が立ち並んでいる。江戸期の作だそうだ。
当麻寺のお会式のお練りを連想する情景だが、お練りは大人が大きなお面をかぶって参列されるので等身大より大きい感じの菩薩たちだが、ここは小さな石仏だけに可愛らしい二十五菩薩の像である。
このような両堂と二十五菩薩像を配置しているのは、この寺だけだと思われる。


二十五菩薩像の中に、この愛らしい石像の姿を見つけた。

 中将姫伝説のおおよそを以下に略す。
743年(天平15年)8月18日に生まれた中将姫は、「誕生寺」の井戸で産湯を使ったといわれている。なお、中将姫は才能が世に知られ、9歳の時、女帝孝謙天皇から三位中将の位を賜ったが、16歳の時に継母によって宇陀市菟田野の雲雀山(青蓮寺)へ捨てられ、後に狩りに来た父豊成と再会して帰宅する。 中将姫は、766年(天平神護2年)24歳で世の無常を悟り、当麻寺で出家剃髪して、名を法如比丘尼と称し、蓮の糸で当麻曼陀羅を織り上げ、771年(宝亀2年)3月14日29歳で往生した。