隋滅亡:一口メモ
武徳2年(619)潤2月、竇建徳は宇文化及を攻め、首をはねました。竇建徳は、宇文化及の首を義成公主(ギセイコウシュ)に送っています。義成公主は煬帝の娘で、突厥の風習に従って啓民可汗(ケイミンカカン)・処羅可汗(ショラカカン)・頡利可汗(キツリカカン)と、突厥可汗三代の妻となりました。当然のこと突厥での発言力は強いものがありました。 唐は挙兵のとき突厥の始畢可汗から兵力を借りていますが、こうしたことから、唐と突厥との関係が次第に悪くなっていきました。この時期、唐はまだ群雄のなかの一つにすぎませんでした。全国には大小合わせて20を超える政権がありました。 そこで李世民はつぎに劉武周(リュウブシュウ)と戦わねばなりませんでした。劉武周は隋の北方前線部隊つきの将軍でした。隋の衰えたのを見て独立し、モンゴル地方の突厥に降参して定楊可汗(テイヨウカカン)に封ぜられましたが、中国人にむかっては皇帝と称しました。