木燃人の波止場

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1064 彦根の桜と歴史探訪(2)玄宮園、楽々園

2014-04-19 08:00:00 | 庭園公園

 2014.04.08(火)、友の計画、友の車に乗せてもらっての、「彦根城」のさくら見物に来ています。 前回に内堀のさくらを紹介しましたが、このあと本丸へと向かうのですが、大手門を入らずに、内堀の外側を反時計方向に回りながら見てきました。

その途中にあるのが、今回紹介する」「玄宮園」「楽々園」です。

 

 まずは、「玄宮園」から・・・

 

 ウイキペディアによれば・・・

玄宮園の原形となる庭園が造営された時期や規模は明確ではないが、江戸時代初期の延宝6年(1678年)に彦根藩4代藩主井伊直興が整備したといわれる。江戸時代後期の文化10年(1813年)には第11代藩主井伊直中の隠居屋敷として再整備され、今日に近い形に整えられたといわれる。玄宮園は御殿部分の「楽々園」に対して名付けられたものであるが、この呼称がいつ頃から用いられるようになったかははっきりしない。

玄宮園の位置は城内の北東部で内濠と琵琶湖の入江(松原内湖)に挟まれた第二郭と呼ばれる曲輪内にあり、築城当初は重臣川手主水の屋敷が建てられていたが、主水が大坂夏の陣で死亡してからは空家となり、寛永元年(1624年)ごろに下屋敷が建設されたといわれる。入江側は1940年代に第二郭の間近まで干拓が進み現在は堀状の溝で囲まれる形となっているが、往時は庭園北側の水門から舟で琵琶湖まで出られるようになっていた。

園内は中国湖南省の洞庭湖にある玄宗皇帝時代)の離宮庭園を参考に、「瀟湘八景」を「近江八景」に置き換えて作庭されたといわれる。天守を借景として、中心の入り組んだ池には4つの島と9つの橋が架かり、畔には臨池閣、鳳翔台、八景亭などの建物が配されている。

 

天守閣が見える”絶景ポイント”から・・・。

 

「玄宮園」の北側に隣接してあるのが「楽々園」

ふたたび、ウイキペディアによれば・・・

 かつては、江戸時代初期 (1677年) に彦根藩4代藩主井伊直興によって造営が開始された井伊家の下屋敷であった。

「御書院」、「地震の間」、「楽々の間」、「雷の間」、「新東西の間」や「鳰の間」など江戸時代後期の数奇屋建築が現存する。 江戸時代は「槻御殿」あるいは「黒門外御屋敷」と呼ばれており、明治時代以降に「樂々の間」から「楽々園」と呼ばれるようになったとされる。 御書院から望む庭園は玄宮園の池泉を借景とする枯山水である。 戦前までは庭園と御書院の間に池が広がっていた。

敷地は国の特別史跡彦根城跡」の区域に含まれる。また、隣接する大名庭園玄宮園とともに「玄宮楽々園」として国の名勝に指定されている。

 

下の写真が「地震の間」と呼ばれる耐震構造の建築物だそうです。

下がその”地震の間”らしいが、どこに耐震構造がされてるのか、見つけることはできなかった。

下は、上の「地震の間」(もとは「茶座敷」と呼ばれたらしい)から見た、「玄宮園」。

 

ここからも天守閣がばっちり見える。

 

 このあと、いよいよ天守閣に向かいますが、それは後述とします。