苗苗老師的心言苗語

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☆ 「ちいさいけれど」 《小是小》 ・ 「雨」 《雨》

2019-03-20 00:47:27 | ☆ 苗苗言語生活

9歳の娘は詩を書くようになった。

母の私が詩を翻訳するようになった。

「小さいけれど」

by プランク  トン

まよ 作

ぼくらは小さいけれど

バカにしないで

なぜならぼくらは

魚のえものになってあげたから

たべられるのはつらいよ

それでもぼくらは

ほこりに思っているんだ

だって命の素になってあげたからね

《小是小》  

by 浮游生物  君

Mayo 作   劉心苗譯

我們    小是小

可是    別小瞧了我們

因爲    我們

把自己變成了魚們的食物

雖然    被吃掉是悲傷的

但是    我們

覺得很自豪

因爲    我們把自己變成了生命的元素

「雨」

by あめ あめ子

まよ 作

ぼくらは雨つぶ

雲からおりて旅にでる

雨雲のすべり台からすべて

地面についたら水たまりになって

植物やいろんなことを学ぶんだ

そしてどんどん物知りになって

一人前の水たまりになるんだ

《雨》

by 雨孩子

Mayo 作   劉心苗譯

我們    是雨滴

從雲朵低落    展開旅途

滑下雨雲的滑梯

滴在地面    積成水窪

學習植物什麼的    各種東西

越來越    博古通今

變成了一個     出色精彩的小水窪

   

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☆ 『德川光圀が敬愛した儒学者朱舜水』 白户文明 《中文導報》

2019-03-05 00:15:04 | ☆ 苗苗言語生活

苗苗教室の白户文明同学がまた新しいエッセイを《中文導報》に掲載された

「德川光国与其敬仰的儒学家朱舜水 」

白户文明  《中文導報》

     江户时代水户藩驻江户的机关大院(现小石川后乐园)位于江户城(现日本皇宫)附近的文京区小石川地区。占地面积辽阔(约76,700坪),建筑物雄伟,是集假山、泉水的回游式庭园。

     水户藩第二代藩主德川光国(1628~1701年)改建庭园时,中国的儒学家朱舜水也参与了设计。因此这个庭院变得很有中国特色和儒教色彩。比如:有圆月桥、西堤和唐门等。最重要的是:朱舜水引用了宋代范冲淹的《岳阳楼记》中的名句: “士当天下之忧而忧,后天下之乐而乐”,把这个庭园命名为“后乐园”。

     朱舜水(1600~1683年)是明朝末期的儒学家,出生于浙江省余姚。他的学问承自故乡的导师王守仁的阳明学。

     1644年,朱舜水44岁那年,因李自成起义明朝灭亡。可是李自成也被满族(清)驱逐。当时中国国内处于混乱状态,朱舜水在郑成功统率的反清复明的旗号下,四处奔走。他受郑成功委托以使者身份来过四次长崎向日本求援。但1659年南京战役失败后,朱舜水放弃了复兴明朝的愿望,逃亡到日本,加入了日本籍。当时他59岁。

     1665年,水户藩主德川光国聘请朱舜水到江户的水户藩宅院。这一年,德川光国37岁,朱舜水65岁。在德川光国领导的水户藩宅院内的“彰考馆”里,许多日本学者开始编辑一套大型历史丛书《大日本史》。学者们对国文学、天文学、暦学、数学、地理学、神道、古文献、考古学、兵法等进行研究,做出了卓越的成就。在这修史过程中渐渐地形成了所谓的“水户学”,给后世带来了巨大的影响。之后历代的水户藩主也都承继了这个修史项目,经过250年的漫长岁月,全套402卷的《大日本史》终于在明治39年(1906年)完成了。

     德川光国十分敬爱朱舜水,给了他优厚的待遇。朱舜水在“彰考馆”的研究活动中发挥了主导作用,给予“水户学”思想很大的影响。朱舜水的学问重视实理、实行、实用、实效的阳明学。阳明学的 “爱民”” 、“敬天爱人” 、“知行合一” 等想法让中江藤树、熊泽蕃山,以及之后的佐藤一斎、大盐平八郎、吉田松阴、西乡隆盛等幕末时期的维新人物受到很大的影响。他们以这个思想为原动力实行了明治维新。

     江户幕府推崇朱子学,并把它制定为武士阶级的正统教育学。可是阳明学是跟朱子学存在对立思想的学问。德川光国发扬光大的“水户学”竟然导致了“打倒德川幕府”这个不可思议的历史现象,一定是他做梦也没想到的事情。可是对朱舜水来说,可以说,他没能实现的明朝再兴的梦想在200年后的日本,通过明治维新完成了。

   1683年,朱舜水在江户的德川光国的别墅去世,享年83岁。那里(现东京大学农学部内)至今仍竖立着“朱舜水先生終焉之处”(朱舜水先生临终之地)的石碑。朱舜水死后,德川光国把他堆积如山的遗稿进行了整理,完成了《舜水先生文集》,共八卷。现在收藏于重视实学的神奈川大学图书馆。另外,朱舜水安葬之处在茨城县常陆太田市瑞龙山。水户藩德川一家的祖坟也在瑞龙山。明朝样式的朱舜水的墓碑和德川一家相邻。我们可以借此想象德川光国是多么敬爱朱舜水。

           

德川光圀が敬愛した儒学者朱舜水

白户文明  《中文導報》

   江戸時代、水戸藩の江戸屋敷(現小石川後楽園)は江戸城(現皇居)に近い小石川にあった。その敷地は広大(76,700坪)で、築山泉水回遊式の見事な屋敷であった。

   二代藩主徳川光圀(1628~1701年)がこの庭園を改修するにあたり中国人儒学者朱舜水が設計に参加した。このため中国的、儒教的な趣向が濃い庭園が完成した。例えば、円月橋、西湖堤、唐門等。なお、“後楽園”の名前は朱舜水が、宋の范冲淹の<岳陽楼記>中の名句「士当天下之忧而忧,后天下之乐而乐」(士はまさに天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ)から命名したものである。

   朱舜水(1600~1683年)は明朝末期の儒学者、浙江省余姚出身。彼の学問は故郷余姚の先人王守仁の陽明学である。

   1644年、李自成の乱で明朝が滅亡した。この時朱舜水44歳。しかし李自成は満州族(清)に駆逐された。この混乱期朱舜水は鄭成功ら明朝遺臣とともに明朝再興の活動に奔走した。彼は鄭成功の日本請援使として四度長崎に来ている。しかし1659年南京攻略に失敗、明朝再興を諦め日本・長崎に亡命、帰化した。この時舜水59歳。

   1665年、水戸藩主・徳川光圀が朱舜水を江戸に招聘したが、この時光圀37歳、朱舜水65歳であった。水戸藩江戸屋敷の“彰考館”では徳川光圀主導のもと、多くの学者が歴史書「大日本史」の編纂を開始し、更に国文学、天文、暦学、算数、地理、神道、古文書、考古学、兵学等の研究を行い多くの著書編纂物を残した。この修史事業の中から所謂 “水戸学” が形成され後世に大きな影響を与えることとなったのである。「大日本史」の編纂は水戸藩歴代藩主に継承され、実に250余年を経て1906年(明治39年)402巻が完成した。

   朱舜水は徳川光圀に大変敬愛、優遇され、この“彰考館”での研究に参画し“水戸学”思想に多大な影響を与えた。朱舜水の学問は実理、実行、実用、実効を重んじる陽明学で、「愛民」、「敬天愛人」、「知行合一」などの思想は中江藤樹、熊沢蕃山、更に時を経て佐藤一斎、大塩平八郎、吉田松陰、西郷隆盛ら多くの幕末志士に多大の感化をもたらし、明治維新(1868年)の原動力になったと言われる。

   江戸幕府は朱子学を正学と位置づけ武士の第一の教養とした。しかし陽明学は朱子学と対立する思想であった。徳川光圀にすれば、自ら興した水戸学が後に倒幕にまで結びつくとは夢にも思わなかったのではないだろうか。朱舜水は自らが果たせなかった明朝再興を200年後日本で明治維新という形で実現したと言えるのではないだろうか。1683年、朱舜水は徳川光圀の別邸(現東京大学農学部敷地)で死去した、享年83歳。ここに“朱舜水先生終焉の地”の碑が建っている。

   朱舜水の死後、徳川光圀は彼の遺稿を整理し《舜水先生文集》全8巻として完成した。これは現在実学重視の神奈川大学図書館に所蔵されている。

   なお、朱舜水の墓所は茨城県常陸太田市の瑞龍山、明朝様式の墓標である。ここは水戸藩主徳川家累代の墓所。徳川光圀が如何に朱舜水を尊敬し敬愛していたか伝わってくる。

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