長島充-工房通信-THE STUDIO DIARY OF Mitsuru NAGASHIMA

画家・版画家、長島充のブログです。日々の創作活動や工房周辺でのできごとなどを中心に更新していきます。

198. 〇6回目の誕生月。

2015-06-30 22:17:48 | 日記・日常

今月21日。〇6回目の誕生日を迎えた。普段から自分のほしいものは勝手にセッセと買っているので、家族からのプレゼントはなかったが、この日の晩は好物の鰻のかば焼きとケーキで祝ってもらった。この齢になってくると誕生日と言われてもなんだか気恥ずかしく、自分で忘れている年もある。

先日、外出したついでに生まれ故郷となる町を歩く機会があった。少し足を延ばして自分の生家があった辺りまできた。このあたり、最近は首都圏の外環道路の建設工事が進んでいて雑然としている。子供の頃、ザリガニやカエルをとった広い水田、カブトムシを捕まえに行ったクヌギの雑木林、それから多くの同級生の家も建設途中の広い道路によって跡形もなくなっていた。唯一、ベーゴマやメンコの道場となっていた小さな寺院だけが開発の難を逃れ、昔の姿そのままにひっそりと残っていた。「無常」というのか、なんとも寂しい限りである。

終戦から14-5年たった昭和30年代半ばから後半は「もはや戦後ではない」などと言われていたが、町のあちこちにはまだまだ戦争中の影が残されていた。中学校の裏の崖地に掘られた多くの防空壕跡、高射砲連隊の跡地に残されたボロボロの兵舎。こういう場所は僕らワルガキにとっては最高の遊び場所で、大人たちからの隠れ家だった。近所の神社に自転車でやって来る紙芝居のおじさんは傷痍軍人で両手首が無く、口を使って紙芝居の頁をめくっていた。そしていつも「裸の大将」のような助手を連れていた。放課後は真っ先に駄菓子屋に向かい、母親に「体に悪い」と言われていた派手な色の駄菓子をしこたまむさぼってから、草野球をするか仲間と野山を駆けずり回って遊ぶ毎日だった。

この頃は生まれた当時のことを憶えている人が次々にいなくなってしまうのが寂しい。幼い日々のことを思い出していると、なんだかセンチメンタルになっていけない。「四十、五十は鼻たれ小僧」という言葉もあるのだから、ここから奮起して進んで行こう。誕生日を迎える度に考えさせられる年齢になってきた。画像はトップが0歳の時、家で撮った写真。下は生まれて間もない頃、母親の実家で祖母に抱かれる僕。いずれも古いアルバムから。

 


197.今年も美術学校で『変容・Metamorphosis』の授業を担当した。

2015-06-26 21:00:15 | カルチャー・学校

今年も東京の専門学校、A美術学院で『変容・Metamorphosis』という授業を4月から今月まで集中して担当した。内容は昨年と同じくイタリアのマニエリスムの画家、ジョゼッペ・アルチンボルトの変容表現をテキストに生物のシルエットの中に自然物を置き換えたり、いくつかの生物を構成、合体し新たな自分の変容生物を想像してもらうというもの。

こうした表現・イメージは現在、サブカルチャーなど、いたるところに氾濫しているので、学生さんたちの課題への反応や理解も早い。1クラス3日の授業だが、初日のガイダンスを終えると、スケッチブックに次々とアイディアを描いていく。早い人は一日目の午後には本画に着色を始めている。この美術学校に非常勤講師で呼ばれて7年目となる。最近の画学生の様子を観ているととても真面目である。出席率も良いし、講師への質問も多い。その点はいつも感心してしまう。それから女子の比率が高く元気がいいのも最近の傾向である。「世の男子は何に夢中になっているんだろうねぇ」

自分が学生だった頃を授業の合間に思い浮かべることがある。今から30数年前、とても自慢できたものではない。長い芸大の油絵科の受験に区切りをつけ、版画という世界に活路をみいだそうと当時、西東京にあった美術学校の版画科に入学した。当時この学校の版画科では「イメージ・ドローイング」に重点を置く指導をしていたのだが、長い間、受験絵画で現実のモノを描写することに慣れきってしまった頭では何を表現していいのかピンとこない。煮詰まった僕は一年間ぐらい学校の授業に真面目に出席せず、美術館や画廊を回って自分探しをしていたことを思い出す。ただ放課後に学生が自主的に開いていたコンパ(ようするに飲み会)には参加していた。一年生の一学期が終わる頃、あまり出席率が悪いので3人の専任教官に呼び出されて個人面談となったのだが、先生の一人に「長島、酒を飲んでから来てもいいから、授業に出席してくれよ…」とまで言わせてしまったのを、その面談の部屋の状況と共によく憶えている。

ともあれ、今年も一年生の4クラス、100人強の瑞々しい変容生物が生まれた。この手法で一枚の作品を描いたことを手と眼でしっかりと記憶し、どこかで思い出してほしい。アート、デザイン、アニメ、映像、コマーシャル等、さまざまなジャンルのどこかできっと応用できるはずである。画像はトップが美術学校の中庭。下がアルチンボルト作「フローラ」の部分、教室の風景、同時期に開講していた「環境と表現」という授業の実習風景。

 

      


196. 水彩画『応竜(おうりゅう)』を描く。

2015-06-22 20:50:09 | 絵画・素描

今月は前半に仕事が集中し、今までブログの更新ができなかった。ひさびさである。今月、絵画作品として『応竜(おうりゅう)』を主題とした水彩画を制作した。応竜は中国の古い地理書である『山海経(せんがいきょう)』の中に記載されている幻獣である。竜の1種とされ、四霊の一種として伝えられている。

中国神話では、竜は、帝王である黄帝に直属していた。4本足でコウモリ、あるいはタカのような翼があり、足には3本の指がある。天と地を自由に行き来することができ、水を蓄えて雨を降らせる能力がある。黄帝と敵対する軍勢が争った時に嵐を起こして黄帝軍を援護したとされている。しかしこの戦いで殺生を行ったために邪気を帯びてしまい、神々の住む天に上ることができなくなり、以降は中国の南方の大地に棲んだとされている。このことによって、応竜の住む南方の地域には降雨量が多いのに、その他の地域は干ばつに悩むようになったということだ。また『述異記』という書物によると「泥水で育ったマムシは五百年にして雨竜となり、雨竜は千年にして竜となり、竜はさらに五百年にして角竜となり、角竜はさらに千年にして応竜となり、年老いた応竜は黄竜と呼ばれる」と記載されている…つまり、応竜の先祖はマムシであり、竜の進化形であるということになるようだ。

西洋のドラゴンは悪魔の手先であり、古典絵画には「聖ゲオルギウスのドラゴン退治」に代表されるように聖人たちに打ち負かされる存在である。二元論的な正義と悪の象徴なのだろう。いっぽう、中国や日本など、東洋では竜は神聖な天部の使いで人類を救済してくれる聖獣としてのイメージが強いのだ。確かに東洋画に登場する天空を舞う竜の姿は昔から雄大で、神々しく人類の力強い味方として描かれている。今回の手漉きの和紙に描いた僕の『応竜』も伝統を模範にして神聖なイメージを持つように気をくばった。背景には神聖さがより強調されるように金泥の顔料を膠で練って塗ってみた。

季節は梅雨。降ったりやんだり、うっとうしい日々が続く。最近はこれに加え、環境破壊による地球温暖化の影響なのか、雷雨注意報や竜巻警報などが頻繁に繰り返され落ち着かない。いや、ひょっとすると、これは自然界を飛び回りそのパワーをコントロールする竜たちの人間界への無言のメッセージなのかもしれない。画像はトップが制作中の水彩画『応竜』の部分。下は同じく部分画像と制作で使用した画材の一部(画像の色が黄ばんでいるのはライティングによるもの)。