当時の事情を知っているのはごくわずかの人であり、証言できる、手塚先生側の人間はほとんど、生き残っていない。
手塚プロ映画部部長であった鈴木紀男さんは、海のトリトンでは制作担当でアニメーションスタッフルームに在籍したが、その後一人車中で亡くなられているのが発見されルト言う不幸な出来事も起きた。
悔し涙を流し、何も語ろうとしなかった手塚先生も、今は永久に語ることが出来ず、元手塚プロ社長の島方さんも何も語らず最近亡くなられてしまった。
ふしぎなメルモの制作が終わり、そのまま海のトリトンの制作に入っていたため、いつもならふしぎなメルモの打ち上げを、当然行なわなければならないのであるが、その予定が立たないまま 「海のトリトン」の制作をしていた。
「海のトリトン」は、手塚先生原作「青いトリトン」をテレビアニメ用に、手塚先生の絵コンテで、パイロットが作られた。
当時のことを手塚プロの小林さんや、吉村さんから、「青いトリトン」のパイロットを虫プロで、2人も作画をした、というお話を伺っている。
虫プロ営業の西崎さんが、メルモに引きつづいて放送を決めてきた。
「海のトリトン」は私がプロデューサーをして、すべての手配をすることになったが、虫プロから独立したアニメーションスタッフルームという会社が、西崎さんの紹介で、手塚プロに 「海のトリトン」の制作を手伝わせてくれないかと申し込んできた。
その内容は、「サブと市」の時の、「虫プロとスタジオゼロ」のような関係で、させて欲しいという申し入れであり、手塚先生も、「メルモでは スタッフに余りにも迷惑をかけたので、ひとつ半分はアニメーションスタッフルームでやらせて見て見ないか」と言ってくれた。
申し入れを受けた。そして手塚先生が絶大な信頼を持っていた、富野善幸さんに、全演出を任せ、手塚先生は富野さんに演出はお任せして、余り口出ししないようにするということであった。
手塚プロとしてはその申し入れを受けることにした。アニメーションスタッフルーム側のプロデューサーは、私の恩師、W3で制作を教えてくれた 黒川慶二郎さんであった。
練馬の喫茶店で、富野善幸さんを交え、黒川大先輩と3人で今後の作品作りの相談をした。 富野さんの哲学的な話しぶりにには、昔から難解で、学のない私には、理解することが出来ない無い様であったが、その哲学的な話を聞くのは嫌いではなかった、いやむしろ好きであった。
私は、出来るだけ、富野さんと手塚先生の、演出の意向に協力し、制作としては、予算やスケジュールの面で、演出に協力する形をとりたいと申し出た。しかし、それは 虫プロという温室に育ってきて、外の世界を知らない甘い考え方であった。
黒川プロデューサーは、早くから世間に出ていた。やはり予算とスケジュールの管理を優先して、ある程度のところで 演出には妥協してもらわなくては、と意見を述べた。しかし、手塚治虫の庇護のもと、手塚プロのプロデューサーということで、 自分の演出中心という意見を押し出し、いま思うと黒川大先輩に対し、なんと甘チャンで青臭い意見を主張してしまったのか、 とても恥ずかしく思う。
それでも交互の制作は順調に進み1話がスタッフルームで、2話は、永樹凡人さんの演出スタジオジョーク中心の手塚プロで,3話も正延宏三さん演出スタジオテーク中心の手塚プロで 演出補助として私がメルモと同じように手塚プロから撮影出しをして順調に作っていった。6話9話を大貫信夫さん演出、10話は池原成利、イケポンさんにお願いした。
そんな3月末のことであった。 2階で作業をしていたところへ3階から手塚先生が降りてきて「もう私のものが作れなくなってしまいました」というのであった。
涙ぐんでいて、話の内容がよくつかめず、「海のトリトン」がスタッフルームですべて、制作することになり、手塚プロで制作できなくなったというような内容だと受け取った。
手塚先生を慰めようと、当時個人で企画していた、エンゼルの丘や、キャプテKEN等があったので、 「いいじゃないですか、こっちの企画を進めて、頑張りましょう」と言ったが、 そうじゃないんです、私の今まですべての版権を、西崎に取られてしまったのだ、と言うのであった。 そして悔し泣きに、血の涙を流していた。
島方社長に話を聞いた。手塚先生と西崎弘文との契約書がありそれに手塚先生の記名と捺印があって 今までの手塚治虫のキャラクターは、すべて西崎広文個人の物になってしまった。
だから今後手塚原作の作品を作っても、利益は、西崎個人に入ってしまうので、作れないというのであった。
裁判になったが、契約書があるので敗訴した。そして手塚治虫は一切そのことを語るのをやめた。
これまでも、何度もそのような危機があり、そのつど後悔もしたが、まさか今回全幅の信頼をしていた、そのまさか、が現実となってしまい、先生は 己の馬鹿さ加減懲りないことに、自己嫌悪に陥り、トラウマとなってしまった。
人を信じられなくなり、やたら人の意見にも反発するようになっていった。
この事は、本人が語ろうとしなかったので、余り知られていないことである。
その後版権を、取り戻すため、手塚プロでは、莫大な費用と時間を使っている。
まだ解決できないでいるその理由に、生前手塚先生が、版権問題解決のため、西崎の話をしようとしても、烈火のごとく怒り出し、「西崎の名前を僕の前で口にしないで下さい」と怒鳴りつけた。 という噂を聞いた。先生の性格なら当然である。
そして、坊主憎けりゃ袈裟までで、「海のトリトン」に対して、僕はあの作品には一切関わっておりません、発言となってしまったのである。
当時そのあたりのことを把握していなかった私は、ほとんどのスタッフを引き取ってもらえるようにアニメーションスタッフルームにお願いした。
また、事情を知った、正延さんは、トリトンの協力を断り、苦しい経営を強いられた。
世間の常識なら個人が、手塚治虫の版権を保持することなどありえず、譲るなら莫大な費用がかかるはずで、役員でもない一個人の社員が取得するなどありえないことが判る筈ですが、法律とか、そこにいる、裁判とかは、悪人の味方で、言うならば、エリートコースを歩いてきたため常識に欠けてしまった、人格に障害をお持ちになった方ばかり。結果として、悪人の味方をしてしまう。正義は無い、嘆かわしいことです。
手塚プロ映画部部長であった鈴木紀男さんは、海のトリトンでは制作担当でアニメーションスタッフルームに在籍したが、その後一人車中で亡くなられているのが発見されルト言う不幸な出来事も起きた。
悔し涙を流し、何も語ろうとしなかった手塚先生も、今は永久に語ることが出来ず、元手塚プロ社長の島方さんも何も語らず最近亡くなられてしまった。
ふしぎなメルモの制作が終わり、そのまま海のトリトンの制作に入っていたため、いつもならふしぎなメルモの打ち上げを、当然行なわなければならないのであるが、その予定が立たないまま 「海のトリトン」の制作をしていた。
「海のトリトン」は、手塚先生原作「青いトリトン」をテレビアニメ用に、手塚先生の絵コンテで、パイロットが作られた。
当時のことを手塚プロの小林さんや、吉村さんから、「青いトリトン」のパイロットを虫プロで、2人も作画をした、というお話を伺っている。
虫プロ営業の西崎さんが、メルモに引きつづいて放送を決めてきた。
「海のトリトン」は私がプロデューサーをして、すべての手配をすることになったが、虫プロから独立したアニメーションスタッフルームという会社が、西崎さんの紹介で、手塚プロに 「海のトリトン」の制作を手伝わせてくれないかと申し込んできた。
その内容は、「サブと市」の時の、「虫プロとスタジオゼロ」のような関係で、させて欲しいという申し入れであり、手塚先生も、「メルモでは スタッフに余りにも迷惑をかけたので、ひとつ半分はアニメーションスタッフルームでやらせて見て見ないか」と言ってくれた。
申し入れを受けた。そして手塚先生が絶大な信頼を持っていた、富野善幸さんに、全演出を任せ、手塚先生は富野さんに演出はお任せして、余り口出ししないようにするということであった。
手塚プロとしてはその申し入れを受けることにした。アニメーションスタッフルーム側のプロデューサーは、私の恩師、W3で制作を教えてくれた 黒川慶二郎さんであった。
練馬の喫茶店で、富野善幸さんを交え、黒川大先輩と3人で今後の作品作りの相談をした。 富野さんの哲学的な話しぶりにには、昔から難解で、学のない私には、理解することが出来ない無い様であったが、その哲学的な話を聞くのは嫌いではなかった、いやむしろ好きであった。
私は、出来るだけ、富野さんと手塚先生の、演出の意向に協力し、制作としては、予算やスケジュールの面で、演出に協力する形をとりたいと申し出た。しかし、それは 虫プロという温室に育ってきて、外の世界を知らない甘い考え方であった。
黒川プロデューサーは、早くから世間に出ていた。やはり予算とスケジュールの管理を優先して、ある程度のところで 演出には妥協してもらわなくては、と意見を述べた。しかし、手塚治虫の庇護のもと、手塚プロのプロデューサーということで、 自分の演出中心という意見を押し出し、いま思うと黒川大先輩に対し、なんと甘チャンで青臭い意見を主張してしまったのか、 とても恥ずかしく思う。
それでも交互の制作は順調に進み1話がスタッフルームで、2話は、永樹凡人さんの演出スタジオジョーク中心の手塚プロで,3話も正延宏三さん演出スタジオテーク中心の手塚プロで 演出補助として私がメルモと同じように手塚プロから撮影出しをして順調に作っていった。6話9話を大貫信夫さん演出、10話は池原成利、イケポンさんにお願いした。
そんな3月末のことであった。 2階で作業をしていたところへ3階から手塚先生が降りてきて「もう私のものが作れなくなってしまいました」というのであった。
涙ぐんでいて、話の内容がよくつかめず、「海のトリトン」がスタッフルームですべて、制作することになり、手塚プロで制作できなくなったというような内容だと受け取った。
手塚先生を慰めようと、当時個人で企画していた、エンゼルの丘や、キャプテKEN等があったので、 「いいじゃないですか、こっちの企画を進めて、頑張りましょう」と言ったが、 そうじゃないんです、私の今まですべての版権を、西崎に取られてしまったのだ、と言うのであった。 そして悔し泣きに、血の涙を流していた。
島方社長に話を聞いた。手塚先生と西崎弘文との契約書がありそれに手塚先生の記名と捺印があって 今までの手塚治虫のキャラクターは、すべて西崎広文個人の物になってしまった。
だから今後手塚原作の作品を作っても、利益は、西崎個人に入ってしまうので、作れないというのであった。
裁判になったが、契約書があるので敗訴した。そして手塚治虫は一切そのことを語るのをやめた。
これまでも、何度もそのような危機があり、そのつど後悔もしたが、まさか今回全幅の信頼をしていた、そのまさか、が現実となってしまい、先生は 己の馬鹿さ加減懲りないことに、自己嫌悪に陥り、トラウマとなってしまった。
人を信じられなくなり、やたら人の意見にも反発するようになっていった。
この事は、本人が語ろうとしなかったので、余り知られていないことである。
その後版権を、取り戻すため、手塚プロでは、莫大な費用と時間を使っている。
まだ解決できないでいるその理由に、生前手塚先生が、版権問題解決のため、西崎の話をしようとしても、烈火のごとく怒り出し、「西崎の名前を僕の前で口にしないで下さい」と怒鳴りつけた。 という噂を聞いた。先生の性格なら当然である。
そして、坊主憎けりゃ袈裟までで、「海のトリトン」に対して、僕はあの作品には一切関わっておりません、発言となってしまったのである。
当時そのあたりのことを把握していなかった私は、ほとんどのスタッフを引き取ってもらえるようにアニメーションスタッフルームにお願いした。
また、事情を知った、正延さんは、トリトンの協力を断り、苦しい経営を強いられた。
世間の常識なら個人が、手塚治虫の版権を保持することなどありえず、譲るなら莫大な費用がかかるはずで、役員でもない一個人の社員が取得するなどありえないことが判る筈ですが、法律とか、そこにいる、裁判とかは、悪人の味方で、言うならば、エリートコースを歩いてきたため常識に欠けてしまった、人格に障害をお持ちになった方ばかり。結果として、悪人の味方をしてしまう。正義は無い、嘆かわしいことです。
06.12.14 アニメ大国の肖像 54回目「子どもに核心を見せる。」 の 題
54回目は、富野由悠季のその2だが、まあ、虫プロ批判ばかりだ
◇ アニメ「鉄腕アニメ」はひどい出来だった。
◇ 当時虫プロで働いていたのは、映画的センスがない人たち。
◇ 僕は映画的な演出ができる確信
◇ アニメとは言えない電動紙芝居
◇ 僕が演出になると、先輩から徹底的に嫌われた。
◇ 「アトム」で僕の演出本数が一番になった時は、みんなの視線が冷たかった。
辞めたあと
◇ 脅威的な速さで絵コンテを描いた。
◇ トリトン自ら犠牲となり、敵のポセイドン一族を宇宙に追いやるという
原作の結末は受け入れられなかった。
◇ トリトンがオリハルコンの短剣を使った結果、
海中に住むポセイドンが全滅してしまう。
<省略>
善悪に絶対はないことを教えるこの最終話を富野さんは自ら書き、
スタッフにひた隠した。
◇ それまでの脚本は原作を元に、好き勝手に話を作っていた。
「お前らアニメをなめるな」
◇ ライターからは恨まれました。
◆◆子どもに物語の核心を示すこと。
この信念が後の「ガンダム」人気にも◆◆
◇ 「ガキ向けの漫画だから」という作り方をしなくて
本当によかったと思いました。
◎内容はまあこんなところだが、手塚さんは生前
富野流に納得したのでしょうか?
アニメ大国の肖像では、西崎弘文のエピソードはなかったはずです。
アニメ評論家も西崎エピソードはなぜか語らないですね
富野由悠季が虫プロイベントに出席して
(アトム40周年って2003年ですね)
http://kodansha.cplaza.ne.jp/hot/anime/00_01/index.html
アトムを語れずに、「さすらいの太陽」演出家扱いですね
私の場合は、ドラえもん関連で、いじめ問題についての取材でありましたが、私は、どのドラえもんもすばらしく、子供に夢を与えている、というような、優等生的な、お答えをいたしました。年が明けて、「申し訳有りませんでしたが、私の力不足で、記事にすることが出来ませんでした」という誤りの連絡がありました。
私の場合ですが、今のドラえもんで、私のドラえもんのときは、もっといじめ問題をきちんとえがいていた、というような、批判的な意見を、聞きだそうとしていた、節が、これは私が感じたことで、相手の方がどのように考えていたかは、はかり知ることは出来ませんが、あくまでそのように感じた、ということです。
面白くない優等生的な意見では、記事にはなりませんよね。
記事を手に入れ、今度富野さんに尋ねてみたいです。
トリトンに関しては、当初ディレクターを指名したのは、手塚先生です。相談を受けているので間違いありません。当初の富野さんは、手塚先生の意向を尊重しておりました。
これも10話までプロデューサーとして、一緒に仕事をしていたので、確かです。
西崎さんには、余りにも出来の良い弁護士が周りについていた、という事と、訴訟がうまい、など恐れられていましたよね。(西崎に逆らうと訴えられるぞなんて)バックにある、宗教団体がついている、という噂も。また札びらで相手のほほを叩くという噂まで聞いていました。
それに手塚先生自身が、西崎弘文にだまされた、自己嫌悪から、全く語ろうとしなかったのが一番の原因だったと思います。
人は落ち目になると、あることないこと言われてしまいます。西崎さんも、最近になって、周りに居た人たちから、当時のことを聞かせてもらえるようになりました。
虫プロのイベントは、虫プロ同窓会ということで招待状をいただきました、あとで、おいでになった虫プロの仲間がほとんど映っているビデオテープもいただきました。
会では富野さんとも会話しましたが、他の人もそうでしたが、そんなときは、昔と少しも変わりませんでしたよ。
虫プロ商事が倒産した理由は、
キャラクターマーチャンダイジングの
権利を譲渡する旨の西崎契約書類により、
商事に収入が入らなくなったからだった
のでしょうか?それともそうではないので
しょうか。
商亊の倒産理由の1つには、おっしゃるとおりの理由であったと私は手塚側の人間として思っております。
真実は明らかになっているとばかり思っていたのですが、私はネットを始めて「なぜだか今まで誰も語ろうとしていない問題」ということを知りました。
Fテレビ局に対して虫プロが製作してきた
フィルムの永久放映権(あるいは権利の
譲渡だったかも?)するという契約が
いつのまにか作られていて、リバイバル
放映で収入を得にくくなり、虫プロの労働
組合がテレビ局と交渉して、10年間の
放映権であるとして、フィルムを取り返した
などというようなことも聞いた憶えがあり
ます。外部に通じて自社に不利な契約を作っり、納品されていないものを買ったことに
したり、資産価値のあるものを移したりして
倒産を演出というような噂も聞いたことが
あります。結局真実は闇の中でしょう。
当時虫プロの組合は組合色は薄く、火曜会という親睦会のようなものでした。
いつの間にか作られていたという歴史になっておりますが、穴見常務が、独断で、やったっとは考えにくく、役人会から手塚社長に話がなされていなく、なくなった方に、責任を、という典型的な出来事でしょう。
穴見さんは、映像の海外売りに自信を持っていたため、当面の資金繰りで、フジテレビから資金を借り、抵当として、契約書を交わしたのだと思います。
証拠は、契約書には、役員全員の役員印が押されておりました。
書かれている、「虫プロの労働組合がテレビ局と交渉して、10年間の放映権であるとして、フィルムを取り返した、」
というのは間違えで、このことと、倒産劇で虫プロのフィルムが債務代わりに、フジテレビにも、押さえられてしまいましたが、組合(現虫プロダクション㈱)が地道に交渉を続け、買い戻して行った。というのが、事実でしょう。このときは、ほかにも、日本ヘラルドなど数社が、押さえているはずです。
たしかリボンの騎士が放映されるよりも前
のことだったと思うのですが、そうである
ならば、経営建て直しのために借金をした
とすれば、その契約が交わされたのはずい
ぶんと時期が早すぎるような気がします。
虫プロの移転計画とか虫プロランドとかいう
ような案が練られていた頃になるので
しょうか?
虫プロの株式会社としての情報はあまり書かれていることがないのと、倒産劇の社内の内
情はいろいろ民事からみで差し障りがあって
公開されることがなく、寡聞にして知らない
のですが、役員というのは、何人ぐらいでし
たのでしょうか? 常識的には役員印などと
いうものは、誰かに預けて管理させるという
ことは責任を負うリスクがあるのでするべき
ことではないだろうとは思いますが、果たし
て虫プロは社長が代表の印を他人に預けてい
たりするような非常識なところがあったそう
なので、もしかすると一人の手で契約書がし
かも預かり印を持ちいて、死後ずっと後に)
作られた、あるいは白紙の束に印をずらっと
ならべて押して用意しておいて、後日に必要
なつど、好き勝手な文章を書いて契約書を
作ったなどというような可能性は皆無なので
しょうか。(探偵小説の読み過ぎか?)
判子を預けるということは、無限責任を他人
に手渡すことで、民事裁判でもまず抗弁する
ことは出来ないので非常に危険なのですが、
そのようなことをしていたとされるのが手塚
治虫社長であったということに定説ではなっ
ています。
私のページの年表1966年から昭和41年12月19日に書いてあります。19日虫プロで倒られ、3階で、治療を受けられておりましたがよく20日午前5時ごろお亡くなりになったと、手塚先生から聞かされました。
虫プロランド計画は、秋のバス社員旅行のときに、実際買う予定であった、狛江の土地1千坪を見学しております。穴見常務と東急との関係でもう1千坪を貸してもらえるとの説明で、野球の練習場が作れるね、なんて、夢をふくらませたものでした。
穴見常務の死で断ち切れてしまいましたが。そのあとその計画が流れたのは、「手塚先生のお母様が、行くのを嫌がったため、”お母さん子”の手塚先生が、取りやめたんだ」なんて噂が、まことしやかに流れましたが、お母さん思いの手塚先生なら、ありえるな、など、皆が思ったようでした。
虫プロの組織については入社当時の「虫プロ会社案内」が私のページ年表1964年からページ一番下「株式会社虫プロダクションの会社案内」で見ることが出来ます。
昭和40年秋にこられた、島方部長や、高橋部長、部長待遇のプロデューサーなども含めた、役員会も開かれ、それは、手塚邸1階にあった社長室の上、2階の部屋で開かれるようになりました。
西崎事件で、社長印を預けていた、ということはありません、また手塚プロ社長、島方さん、現社長松谷さんが、そんなことをするはずは無く、もし、そんな憶測が、ながれているならば、とんでもない話です。
現に、松谷さんは、手塚先生のキャラクター版権を、西崎さんから買い戻すため、大変な努力を続けているわけですが、そのたび、西崎さんの名前を口にして、手塚先生から「その人のことは、言わないで下さい」と、怒鳴りつけられておりました。
違うね、手塚プロは、手塚先生が社長ではないので、社長印は関係なかったですね。
そういえば、昭和46年に虫プロの、社長もお辞めになっているので、それ以後の契約は、関係ないのですよね。
ですから手塚先生が、お亡くなりになったあとで、と言うのはありえませんね。
<一人の営業担当役員の、まったく個人的な独断によって、虫プロが一億三千三百八十八万円をフジテレビから借り受ける代償に、虫プロの全フィルム資産をフジテレビに譲渡するという書類がつくられたのだ。
なぜそのような事態になったかというと、当時、虫プロが「版権業務分離」のため設立する寸前のときで、登記のためにその役員が会社印鑑と役員印鑑を預かっていたため秘密裏に書類が作られ、しかも、その直後同役員が急死したために、この事実をはじめて一同が気付くという始末になったそうだ
手塚を初め役員一同は青くなってフジテレビと交渉し、なんとか、やっとフィルムの所有権を取り戻した、しかし、放送権は向こう十年間フジテレビが専有することになった。
この契約は昭和五十三年に終了した。>
1977年ごろこんな文章がある雑誌に書かれています。これが定説となって、手塚先生が、あなたがおっしゃる”非常識なことを”と言う噂になったのだろうと思います。
常識が無いといわれてしまえば、そのとおりですが、手塚先生は、「だますより、だまされろ」の人で、だまさせても懲りないで、いい人と思えば、すぐに信じてしまいました。子供を対象に漫画を描いて来た、手塚先生は、そんな純な心を持った人でした。
そんな人が、経営に手を出すな!そうおっしゃるかもしれませんね。何でも試して見たい人でした。”経営には向いていない、”人をだます交渉など出来ない。
何度もだまされ、そんな自分に気が付いたからこそ、社長を辞めたのです。
まんが家になって、周りは手塚先生を慕って集まってくる人ばかりでした。世間知らずで、人をだます人がいるなんて、思いも及ばなかったのです。
そんな意味の大人になるには高い月謝を払わされたわけですが、その一つの行為を見て手塚治虫と言う人物を評価してよいものでしょうか、手塚治虫が生きてきたその全体を見て、失敗も受け止め、その上で批判するのが良いのではないでしょうか。
活字になり、それを読んだ人は、それが事実だと思い込みます。でもそれはある一つのエピソードで、実際の生活は違うのです。でも伝説は活字になったものが真実であったように伝わっていきますね。
しまっているように思えます。
1つは、キャラクター権の譲渡契約書
もう1つは、借金の担保としての虫プロフィルムの担保に関する契約書です。
キャラクター商標権の譲渡を交わしたとされる
書類には、おそらく判子が押されていたはずですが、
それは、手塚治虫氏の印だったのではないのですか?
そうでなければ、効力を通常は持ち得ない
でありましょう。
版権問題については、アトムのときに、少年編集者の桑田さんが、版権登録で自分の名前で、版権登録申請書を登録、そのため、虫プロでは、桑田さんを常務として迎えた。悪意ではなく、完全な勘違いであったわけです。
次が穴見常務と、フジテレビのフィルムの権利の問題。これも私利私欲のためではありません、当時自転車操業の虫プロの経営を立て直すものでした。
トリトンのときの西崎一社員が自分名義で、版権登録をしてしまった件。これは自己の私利私欲のために、行なった行為です。
彼の行動は2月15日メルモ18話で少し書いてありますが、その手塚先生との契約書は、3枚あり、メモとしか思えない鉛筆書きであります。先生の迂闊さから、覚書程度のもので、たいしたものではないと思ってしまったようで、緊急に必要と言われ、締め切り日深夜であったため、内容を読まず、いわゆるめくら判を、押してしまったわけです。一度押してしまうと、そのあとの2枚も、信用しきって押したようです。
そんな行為に手塚先生も、心の底には、疑念が起こったようで。2月18日「姉ちゃんなんか大嫌い」に書いたように メルモが、配達人に言われるまま、めくら判を押すという話を作っています。
自分が、西崎さんを疑ったことへの、自己批判です。
しかし、その心配が、現実になり、大変なショックを受けました。その反動はすべて自分に向けられ、言葉に表せないほどの自己嫌悪に陥りました。障害そのことがトラウマとなってしまったのです。
ですから、お亡くなりになるまで、「西崎」と言う、名詞は口に出しませんでしたし、その名を聞こうともしなかったのです。
結果はともわれ、版権が、其の儘なら、虫プロ商亊も、虫プロも、もう少し長生きできたと思っております。個人的には、私の人生も変わっておったはずですよね。