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アニメ及び周辺文化に関する雑感

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続・電車の走る劇場版『AIR』

2005年03月06日 | アニメ
 ……とかいうタイトルだけど、今回は電車の話はありません。

 劇場版『AIR』を見てから、そのまま勢いで書き上げたのが前回の記事ですが、それからネットをパラパラを眺めてると意外と作品に対してネガティブな意見が多いみたいです。
 いや、悪評を垂れてるのは原作のゲームファンで、原作を知らない人は筆者と同じく純粋に楽しめたみたいだけど、それにしては原作ファンの反応が過剰です。一部には出崎監督のサイトの掲示板まで荒らしに行ってるというから、もう映画の評価云々よりも、自己の原作に対する愛着を損ねられたかのように怒ってるパーソナリティ障害の現れだとしか思えません。

 映画というものは製作者の創作意思があり、多種多様な制約があるから、原作付きの作品が必ずしも原作通りではないことは、別にこの『AIR』という作品に限ったものではありません。その相違から原作ファンの不興を買うことはままありますし、だからといってそれは映画自体の出来不出来とは関係ありません。
 別に原作ファンが劇場版を嫌いでも、それはそれで構わないのです。でも、自分が嫌いだからといってその存在を(自分の心の中だけでなく、社会的に)否定するような行動は許されるべきではないでしょう。
「こんな映画は嫌いだ」「オレはもう見ない」「本当の『AIR』はゲームだけだ」という反応なら個人の価値観や思考の範囲ですから構わないのですが、
「こんな映画はダメだ」「こんな映画は許せない」「こんな映画を作った監督は許せない」ということを(自分の心の中でつぶやくだけじゃなく)あちこちに喚き回るというのはいささかマナーを失してるとしか言えません。

 まぁ、ファンの心情としてはいろいろなものがあるかと思います。こんなことを書いてる筆者だって、『ゴジラ FAINAL WARS』を見た時には、「こんなゴジラ映画は見たくなかった」「ゴジラの最終作としては許せない」「ヘドラの出番があれだけなんて許せない」なんて思いましたが、別に一個のゴジラ映画として否定するつもりはありません。歴代作品へのオマージュとしては面白いし、同じ怪獣でも昔とは違ったよりリアルかつスピーディーな動きは特筆ものだし、こういうのもひとつのゴジラ映画としてはたまには見てみたい映画だと思ったのも確かです。
 筆者の中の「ゴジラ映画はこうあるべき」という価値観とは噛み合わなかっただけで、自分のこだわりとしての評価ランキングは低いけど、客観的に一個の映画としては好き嫌いに関わらず認めるということです。この映画は自分とは違う人の異なった価値観では、こうあるべき、あるいはこうだったら良いという判断で作られた映画だということです。そしてその映画の存在を認めるということは、その人のそういう価値観の存在を認めるということです。

 無論、この多様化の社会の中では人によって様々な価値観が存在し、場合によってそれは相容れないものの場合があるでしょう。だから、別にその価値観を受け入れる必要は無いのです。その人の価値観の存在を認めるということは、その人がそういう価値観を持つという自由を認めることです。別に自分の価値観を放棄することではないのです。
 かつてマニアやオタクと呼ばれる存在の人たちは自分で独自の価値観を見出し、その価値観を持つことを社会に認めさせる努力をしてきたように思います。翻って、現在のオタクはかつてのオタクたちが作り上げた、多様な価値観を認め合う社会に生きているにも関わらず、自分で自分独自の価値観を築くことなく、他者によって流布された価値観に依存し、それを絶対視することに甘んじてる傾向が見受けられます。
 もともとネット上のコミュニティなんて多種多様な価値観を自己発信していくものだったはずなのに、いつしかネット上の多数派を構成する価値観が正義と化し、その他の価値観を疎外しているのではないでしょうか。自ら価値観を生み出さない人たちは自分が依存するための絶対的多数派の価値観を欲してしまい、それが他者の価値観を疎外していく結果を生んでいきます。
 元来、画一的な現実社会の中で疎外される状況にあったオタク的価値観というものが、この多様性のある現実社会の中で逆に画一化を強めて、弱者の価値観を疎外していく状況にあるのは皮肉なものです。
 人は自分のパーソナリティに映るもので価値判断を行いがちですが、だからといってその価値判断しか認めないことになれば、そこに生まれるのは唯一絶対の価値観で縛られた全体主義の社会か、あるいは価値観の相違によって結びつきを失った絶対個人主義の社会のどちらかです。価値観を認め合うことなくして健全な社会は生まれないのです。

 ところで、劇場版『AIR』と原作との相違を生み出している要素は何でしょうか?

  1.原作とは違うものを作るという製作スタッフの意図
  2.映画の上映時間と原作の物理的分量の差
  3.映像主体の映画とテキスト主体の原作の表現手法の差
  4.キャラクターデザインの違い
  5.観客個々の個人的経験の差
  …  ………

 物語的な違いとなって出てくるのは1~3の要素でしょう。5は何かというと、作品に接した時点の個人的な経験の相違が作品に対する印象を変えてしまうということです。例えば同じ映画でも1回目に見たときと10回目に見たときとでは感動の仕方は違うだろうし、同じ恋愛映画を見ても恋をする前と、恋愛真っ最中、失恋した後、失恋を越えて再び恋をしている……というそれぞれの状況だと受け取り方が違うということです。

 原作のゲームは何か膨大な量で、それをそのまま映画化するのは無理だという話ですから、どこかで折り合いを付けなければなりません。その折り合いの仕方で不満が出てくるのならわかりますが、折り合いをつけたこと自体が不満だというなら、それは無茶な注文としか言いようがありません。
 パンフレットによると出崎監督は原作のゲームをやったことが無かったということが書かれています。これはあくまで監督の依頼を受けた時点での話だと思うので、その後に原作に触れたことがあったかどうかは定かではありませんが、一部の原作ファンはそれが不満なようです。でも、監督がゲームに触れておく必要はあるのでしょうか?

 これは、そもそもこの映画がどういう客層をターゲットにして作られたのかという問題に帰結することですが、単に原作ファンのための追体験を狙ったものなら、それは原作のイメージを損ねることなく映画化されるのが絶対の条件といえるでしょう。しかし、その場合は見込める観客の数は極めて限られます。
 あるいは、原作ファンに別のアレンジによる『AIR』をサービスとして提供し、その一方でそれ以外の観客にたいして原作版のゲームに対する興味を引く半ば宣伝目的の場合も考えられます。その場合は本編の物語を用いるよりも、新規キャラによる新規のアウトサイドストーリーを展開した方が効果的かと思います。でも、現実的に原作ゲームの市場を考えると新たな客層を当てこむことは困難と思います。
 そうではなく、『AIR』という作品をゲームの世界から解き放って、原作ファンではない一般の観客に向けた作品として作り直すという選択肢もあります。純粋に映画としての商売を考えて作るわけです。

 当初の製作意図がどうだったのかはわかりませんが、現実に出来た映画を見る限りでは劇場版『AIR』はこの最後のベクトルを向いた作品のように思われます。ゲーム作品としてのお約束を出来るだけ排し、あくまでゲームなんかと無縁な人を観客として対象にしたかのような映画的リアリティを追求したキャラクターの作り変えがそれを物語ってるように思えます。
 ああ、そうか。原作ファンが不満なのは、この映画が自分たちを観客として対象にしていないことだったんですね。でも、だからと言って、それで映画を否定することはお門違いでしょう。原作ファンを相手にしていない映画なら、原作ファンを相手にしていない映画としての存在は認めなくてはなりません。いや、筆者が原作ファンだったらそんなことは嫌ですが。

 まぁ、原作ファンを相手にしていない云々はともかく、この映画が一般向けに作られていることは確かです。
 原作は「ビジュアルノベル」というジャンル別けがされる、ある特殊な世界の作品です。そこにはその世界だけで通用するキーワードが並べ立てられたり、無意味な萌えで彩られてたり……たぶん原作ファンは意識していないと思われますが、一歩離れた世界の外では全く通用しない、極めて特殊な記号論的レトリックで語られているのが原作のゲーム世界なのです。
 この作品世界では、萌えも泣きも、特殊なキーワードにプレイヤーを反応させることによって紡ぎ出されています。文法的には唐突なキーワードも、プレイヤー自身が個々の嗜好によるイメージで埋め合わせることによって立派に作品の1ピースとなります。
 
 劇場版はその特殊な記号論的レトリックの世界を映画的ドラマツルギーの世界に置き換える必要があります。そうじゃなきゃ原作経験者しかわからない不思議な映画、わかりたければゲームをしろという不親切な映画になってしまいますが、それを避けるのは常識でしょう。
 そのために一度換骨奪胎して作り直された物語、自分たちの世界の言葉では語られない余所者の顔をした映画に原作ファンは馴染めないのだと思います。
 これを認めるか認めないのかというのは、『AIR』という作品を自分たちの言葉の通じる特殊な記号論の世界に留めておくのか、それとも開かれた世界への旅立ちを心広く見送れるのかどうかの違いなのでしょう。

 ……とここまで書いたのだけど、大阪でさえミニシアターの1館上映じゃどこまで一般向けに売るつもりなのか疑問に思えるのも確かです。まぁ、劇場の配分は配給会社の都合もあるから、必ずしも製作サイドの意思を反映したものではありませんが。
 でも、もっと出崎作品であることを押し出して宣伝しても良いと思うのだけど……
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