港区まち創り研究会(まち研)ブログ

港区まち創り研究会の活動の状況やまちづくりについての様々な情報をお伝えします。
海外の街あるきの報告もあります。

松ヶ丘会年末パトロールが行われました

2021-12-30 21:07:27 | 松ヶ丘会
12月28日、29日、21時から松ヶ丘会慣例の年末パトロールが行われました。
とても寒い日でしたが、2日間で延べ30人が参加しました。
私も体調不十分でしたが、がんばって2日間参加しました。
かちかちと拍子木の音と「火の用心」の声が町内にひびきました。
高輪消防署の方も応援に来ていただきました。


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小さい頃の想い出(7)

2021-12-29 14:12:19 | 個人
〇当時の地域の環境
どの家の庭も花、果物、野菜を植え、高い建物はほとんど見当たらない。
都営アパートの住宅棟の間には、ひまわりが植えられており、毎日ひまわりを見て通学した。
道路は舗装されていなかった。車はほとんど通らなかったので、道路で遊ぶことが多かった。
そのため、夏のいやな暑さはなく、朝、夕は海辺の涼しい風が通って快適に過ごせた。
松ヶ丘の住宅地からでもちょっとした坂の途中から富士山を見ることができた。
超高層マンションが建ち並ぶ現代の港区の環境とは想像もつかない時代であった。
〇当時のコミュニティ
お互い助け合って生きていく時代なので、地域コミュニティの結束が求められ、町会の役割は大きかったのではないかと思う。
行政が地域に関わったことは少なかったのでは。
お祭り、運動会などの町会の活動には、若い方も参加され、活動の幅も広かったと思う。
現在の町会の役割とはかなり違うのではないかと思う。
〇小さい頃の勉強
あまり、熱心に勉強した記憶がない。もちろん、塾は行ったことがなかった。
小学校の授業で「ある先生」は、この課題を終えた人は、外に遊びに行ってよいよと言われて、そういう時は妙にはりきり、10分位で課題を終え、真っ先に外に行っていた。
夏休みの宿題帳は、ほとんど最初の2,3日で終えてしまった。
父から勉強をおそわったことはなく、鶴亀算とか植木算とか難しい算数は母から教わった。

現代と比べると、子どもの頃はみな貧しかったが、それなりに楽しく生活ができ、いやな記憶はほとんどない。
経済の豊かさをもたらすものは何なのか、今でも疑問に思っている。



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大沼信之展に行ってきました

2021-12-28 14:36:40 | 個人
12月26日、銀座で開かれていた大沼信之展に行っていました。
精緻な色鉛筆画の数々を堪能しました。
やはり、二つの大きな風景画が迫力がありました。
色鉛筆画のテクニックもさることながら、長い時間をかけて大作を完成させる忍耐力に敬服します。

会場風景

会場風景

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小さい頃の想い出(6)

2021-12-28 09:09:48 | 個人
高輪台小学校の想い出
建物は鉄筋コンクリートで立派であったが、戦争の爆撃を避けるため、青と白の迷彩色に塗られており、外観は汚く見えた。
当時は子どもが多かった。60人が一学級で6クラスあった。一学年360人、全校で1080人である。
同じクラスの子が6年まで持ち上がりで、組み替えはなかったので、子ども同士仲がよかった。
今のような「いじめ」、「ひきこもり」という単語すらなかった。
給食は給食室から運び、ともかく美味しいと思ったことはなかった。
牛乳は飲めず、脱脂粉乳というものを代わりに飲んだ。当時、脱脂粉乳はアメリカからの支援物資で、輸送途中で傷んでおり、くさくてまずいものであった。
給食にはよい記憶がない。
冬の暖房はだるまストーブ1個で、場所により暑いところと寒いところがあった。
夏は、もちろん冷房などなかった。
特別教室は音楽室と理科の実験室だけだったと思う。
絵も習字も普通教室で描いた。
プールも小学校4年生のころ、やっとできた。
屋上でもよく遊んだ。屋上から海や富士山を見ることができた。
絵の先生は、春陽会会員の画家のひげもじゃの型破りの方であったが、この先生のおかげで絵の魅力に取りつかれたと言ってよい。

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小さい頃の想い出(5)

2021-12-25 12:12:21 | 個人
昭和20年代の生活
家は木造でボロかったので、よく雨が漏った。
金だらいを家のなかに沢山おいて、雨漏りを防いだ。
都市基盤も弱く、停電や断水も日常茶飯事であったので、懐中電灯やろうそくも必需品であった。
給水車もきていた。
家に風呂がなく、家族で魚籃坂の銭湯に行くのが日課だった。冬は風呂上りの寒さが応えた思い出がある。
家に風呂ができたのは、中学生の頃だった。
トイレは和式便所の汲み取りで水洗便所になったのは東京オリンピック後であったように思う。
テレビも家につけたのは、東京オリンピックの頃だった。
小学生の頃は、蕎麦屋でテレビを見たり、友達で1軒だけテレビがある家があり、友人達とよく遊びに行きテレビをみた。
冬の暖房はこたつと火鉢だけであった。
それでもまだ、恵まれていた方で、小学生の同級生では、真冬にコートがなく、夏の半袖の服をずっと着ている子がいて、いつも震えていた。見かねて、みなで古着のコートを贈ったことがあった。
今考えると、信じられない時代だったと思う。

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小さい頃の想い出(4)

2021-12-24 08:37:28 | 個人
〇二本榎通り商店街(高輪町栄会)の想い出
当時の二本榎通り商店街は、あらゆる商店がびっしり並んでいた。
八百屋も3軒、肉屋も2軒、魚屋も3軒、鳥屋、薬屋、和菓子屋が3軒、駄菓子屋が2軒、文房具店、豆腐屋、洋品店、雑貨店、金物店、乾物屋、花屋、質屋、洋服屋などなど。
商店街の真ん中に映画館とビリヤードがあった。この映画館で「ひめゆりの塔」を見た記憶がある。
また、今の東海大学のあたりは、コの字型のマーケットがあり、貸本屋、味噌屋、お惣菜店などちいさいお店が20店以上あった。
8の日(8、18,28日)はすべての店が1割引きであったので、押すな押すなで大勢の客で賑わっていた。
私も母に連れられて肉屋、魚屋などよく買い物に行った。いつもお店のおじさんの威勢のよい声が聞こえていた。
8の日には、その日だけの特別なお店もあった。いわゆる寅さんのような「てきや」だったと思う。
一番印象的だったのは、生きたどじょう、うなぎを通りでさいて売っていた。
まず、どじょう、うなぎの目に針をさして、それから皮をさいていた。目に針をさすと、きゅっと声を出していた。
また、レストランなどしゃれた店はなかったが、蕎麦屋が何軒かあった。
当時の家には皆テレビがなかったので、蕎麦屋に行ってジュース一杯を注文して大相撲やプロレスなどのテレビを見た。
お店の前に大勢の人が店の外からテレビを見ていた。


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小さい頃の想い出(3)

2021-12-23 12:18:37 | 個人
松ヶ丘会の想い出
現在のみなと保育園の場所に木造の集会所があった。
そこで松ヶ丘会の町会の会合が行われていたようだ。
役員会だけでなく、この集会所ではいろいろな使われ方をしていた。
打ち合わせだけでなく、イベントとか盆踊りの練習とか習いごとにも使われていた。
私が小学生の頃、町会で習字を教える方がいて、姉と一緒に習いに行っていた。20人位の子どもたちが習っていた。
帰る時は夜8時ごろになり、当時、旧細川家の椎の木の洞にフクロウが住み着いており、帰る頃、ホー、ホーと鳴いていたので、子どもとしてはとても怖かったと記憶している。
松ヶ丘会は当時町会として、まとまりがあり、お祭り、運動会、ラジオ体操など様々な行事が行われていた。
火災が起きた時、近所のみなさんがバケツリレーで火事を消したことを覚えている。
また、昭和20年代、高松宮様のご厚意で、宮邸のプールを松ヶ丘会の子どもたちに開放された。
私も町会のお兄さんたちに引率されて、初めてプールで泳いだ。きれいなプールで泳いだことは、素晴らしい体験で今でもしっかり覚えている。


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今年最後の「落ち葉拾いの会」

2021-12-23 10:08:00 | 高輪地区のできごと
12月22日、今年最後の仙洞仮御所周辺の「落ち葉拾いの会」が開催されました。
高輪地区総合支所職員の方々、うかい区議会議員、周辺町会の方々、高輪子ども中高生プラザの職員、子どもたち、白金保育園の子どもたちなどが集まり、仙洞仮御所周辺の落ち葉を清掃しました。
12月23日が上皇陛下の88歳のお誕生日なので、まわりをきれいにしようという気持ちからみなさん集まりました。
もう落ち葉は少なくなり、あっという間に、きれいになりました。

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小さい頃の想い出(2)

2021-12-22 08:27:23 | 個人
近くの都営アパート(高輪一丁目アパート)は戦後すぐのコンクリートのアパートで、当時はあこがれのまとであった。
真ん中にくじら公園があり、大勢の子どもが遊んでいた。
〇紙芝居おじさん
昭和20年代、くじら公園のとなりに40歳代のおじさんが自転車を止めて、駄菓子を売って紙芝居をやっていた。
出し物は「黄金バット」だったように思う。私は駄菓子を買わないので、いつも後ろの方で見ていた。
30人位見ていただろうが、駄菓子を買うのは10人位でよく商売になったと思う。
昭和30年ごろには、いなくなったのでは。
〇爆弾あられ
同じように、都営アパートに爆弾あられを売る人が来ていた。
何か大砲のような道具でバンと大きな音を立てて、爆弾あられを作っていた。
私は遠くから見ていただけなので、どのような味かは知らない。
〇鬼ばばあ球場
小学校に入って、友人たちとゴムボールで3角ベースの野球をやっていた。
場所がないので、御屋敷の敷地にこっそり入り込んでやっていた。
当時のお屋敷はまで家が建っていなく、広い敷地で存分に遊んでいたが、たまにその土地の所有者のおかみさんが来て、「何やっていると?」とかんかんに怒られた。当然だと思うが,我々は「鬼ばばあ球場」と名付けた。
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小さい頃の想い出(1)

2021-12-20 10:33:28 | 個人
戦時中の記憶
私は1942年生まれで、最初の記憶は母に負ぶわれて、空襲警報の中、暗い夜道を走って防空壕に行くシーンであった。
1945年8月、終戦になったのでおそらく2才、青森八戸市に疎開していた頃の記憶であろう。B29(アメリカの空爆機)の単語は鮮明に記憶している。その前後の記憶は全くない。
高輪に移り住んで
八戸市から東京の一時父の知人の家に間借りして下落合に住んでいたらしいがあまり記憶がない。
5歳の頃、高松宮様のご好意で、戦災に遭って住宅を失った家族のために、高松宮邸の一部を住宅地として、開放していただいた。
うちの家族も何万倍という抽選にあたり、運よく住むことができた。
ボロボロの家であったが、当時住む家があるということで、恵まれえていたと言える。
当時はまず、食料を確保することが第一で、どこの家も庭に、野菜や果物などをびっしり植えていた。私の家の庭も一面トマト畑にしていた。近くの森(今の高松中学校)に行ってはシイの実などを拾ってたべたり、バッタ、いなごを捕まえてたべたりした。(縄文時代みたいですね)ぎんなんが実る頃は、大勢の人がぎんなんの実を拾いに来ていたのを覚えている。
食べれるものは何でも食べていた時代であった。
近くの年上の子ども達と一緒に、ゴムで作ったパチンコで雀に石をぶつけて落として、それを捕まえて、家で焼いて食べたりした。
当時の雀はやせて肉がなくあまりおいしくなかった。

子ども時代の遊び
当時、保育園も幼稚園もなく、親も忙しかったので、ほとんど近所の子と外で遊んでいた。
子ども同士の遊びは、今から考えると危険が伴うものも多かった。高松中学校の校庭は当時大きな池があり、池の上を板を浮かべて、いかだのように乗ってあそんだり、急な崖の斜面を板に乗って滑りおりたりしていた。
15mある崖を登り下りしていたので、絶えず擦り傷などが絶えなかった。
ベイごま、メンコなどもよくやったが、賭博性があり勝てばよいが、負けると全部とられたりした。
夏は蝉取り、とんぼ取りをした。棒にべたべたするもちをつけ、それを振りまわしてとった。
とんぼは「シオカラとんぼ」、「ムギワラとんぼ」がほとんどで、たまに銀やんまなどがとれた。
蝉はあぶらゼミがほとんどであった。

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