prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

山の湖 7(終)

2020年11月09日 | 山の湖
 平伍と文六は、最初の古田の兵の一人を引き上げたあと、交代して仲間を引き上げさせるつもりだった。しかし、やたらはしゃぎながら引き上げられた男は、崖の上に到着するとそのまま興奮して猿のようにとびはねてまわり、いっこうに手伝おうとしない。やむなく二人は、次の兵も息を切らせながら昇降機をぶら下げた滑車についた縄をえいやえいや引いて崖上まで引き上げた。
 だが、二人目の兵も代わろうとはしない。それどころか、平伍と文六に対して敵対心をむきだしにして、しまいには脅してなおも昇降機を操作させた。三人目が上ってくると、ますます古田の兵たちは横暴になり、二人を取り囲んで逃げられないようにして、なおも重労働を強いた。取り囲む手間をかけるより、手分けして仲間を引き上げた方が楽ではないかと二人には思えたが、そう考える間もなく次から次へと古田の兵たちを引き上げさせられた。どれほどへたばっても、兵たちは手加減しなかった。むしろ弱みを見せるほどますますいたぶりようはひどくなった。
 ついに力尽きて、仲間が落ちそうになってやっと取って代わったが、よくも仲間を危険にさらしたなと、すでに大半揃った兵たちは二人を殴り、蹴った。
 そして、半死半生になった二人を、古田と出川と入れ違いに崖下に落としたが、上ってきたお偉方二人は誰が落ちたのかついに気がつかなかった。


 次之進と兵馬は森を遡っていた。
 水没した足元はぬかるんでいるかと思うと、突然底が抜けたように抵抗がなくなり、倒れそうになる。
 森の中の葉や草の青々した匂いはすっかり陰をひそめ、代わりに腐った泥の異臭が漂っていた。心なしか木々の幹の肌も色褪せ、水浸しの根元とは裏腹に妙に白っぽくかさかさしてきている。
 青々としていた緑の葉も茶色っぽく捩れるように枯れてきており、瘴気で溢れるようだった森が、濁った泥の匂いで満たされている。
 どちらが川上で、どちらが川下なのか、水の様子からは見当がつかない。
 どんよりした水と空気の中で次第に苛立ちが募らせた二人は、やがて言い争いだした。


 平伍と文六は、森の中を進んでいた。背後から古田の兵たちがついてくる気配がする。二人は、自分たちが盾にされているのがわかった。
 崖でも兵たちはもっぱら二人に昇降機の操作を押し付けた。あとからあとから運び上げられてきた兵は、しかし自分たちの仲間を運び上げる作業に手を貸そうさはせず、人数が増えても代わろうとも手伝おうともしない。それどころか、人数にものを言わせて、いいかげんへとへとにへばった二人にさらに操作続行を強制した。へばって宙に浮いたままの後続の兵を地面に叩きつけかねないほどになっても、交代しようとしない。
 最後に出川、さらに古田を引き上げる段になると、やっと兵たちは交代したが、それはお偉方を落としたらまずい、という配慮からというからでは必ずしもなかった。落としたらまずいには違いないが、むしろわからないように揺すってみたり、少しずり落としたりしてお偉方がおびえて悲鳴をあげるのを楽しんだ。
 へばってへたりこんで平伍と文六は、その浅ましいさまを見て、逃げ出したくなった。
「文六よ」
 平伍は小声で文六に訊いた。というより、まともに声が出ないのだ。
「ろくな奴がいないな」
 文六は相変わらず、ちょっと緩んだ顔でうなずいた。
「浅ましい」
 文六が聞いている。
「逃げ出したいよ。金なんかもういいから」
 文六は聞いている。
 平伍は一方的に喋り続けた。
「しかし、あの崖の上からでは人の力を借りなくては簡単に降りることもできない」
「俺たちも、傍から見ればあんなのだったのだろうな」
「しかし、崖から降りたところで突然あの堰が壊れて、大水に押し流されたらたまらない」
 ひとりごとなのか、自問自答なのか、それとも答えを求めているのかわからない言葉がぶつぶつぶつぶつ暗い水の上を渡っていく。
「行くも地獄、退くも地獄とはこのことか。なあ」
 二人は、ふと足を止めた。
 前方に人がいる。一人、いや二人だ。
 見覚えのある顔だ。つい最近まで指揮をとっていた奴だ。馬場次之進と、浅香兵馬。両方とも、お偉方だ。
 そのお偉方が、二人を見ると、ひっというような声をあげ、くるりと背を向けて川上に向かっていった。
「なんだい、俺たちを怖がっているんか」
 平伍は、へ、へ、へといった笑い声をあげた。
 文六も同様に笑った。
 二人の背後に、古田の一隊が迫ってきている。そして、二人を追い抜いてなおも前進していく。平伍と文六は、ことの真相にやがて気づき、小さくなって追い抜かれるままに任せた。

 次之進は今、自分が敵に背を向けて逃げているのに気づいた。
(あんなに大勢、どこから現れたのか)
 天から降ったのか地から湧いたのか。
 水と湿気と光の反映の中で、本当にこの世で起こっていることなのか、わからなくなってきていた。
 森の匂いの中に、何か別の匂いが混ざってきていた。何か金気くさいような、生き物とは別のような、生き物そのもののような匂いだ。
 次之進は立ち止まった。暗い森の中で、何かが動いたような気がしたからだ。兵馬はしかし、構わず進んで行く。次之進が呼び止めようとしても構わず、警戒する風でもなく歩いていくと、前を立ちふさがるように一つの影が現れた。
 じいっと次之進はその影を見つめていたが、突っ立っているだけで動こうとしない。いや、きちんと自分の足で立っている風でもなく、半ば吊られているような頼りなげな佇まいでいる。
 さらに進もうとした次之進の首筋に、突然冷たいものが押し当てられた。
「動くな」
 言われる前に動けなくなっていた。
 聞き覚えのある声だ。
「久しぶり。金を持っているだろう。出せ。出さないと、ああいうふうになるぞ」
 前に立っていた人影が、突然心棒を抜かれた人形のようにぐしゃりと崩れて水面に突っ付した。
 その時になって、そこに漂っていた匂いが血の匂いであることに次之進は気づいた。
 倒れた男は喉を切られているらしい。匂いのもとに気づくと、その切られた傷口から流れ出た血の色、水の中に広がっていくようすや、力の抜けて捩れた手足まで、見えないのに手にとるようにありありと感じられて、次之進は吐き気を覚えた。
 屍の向こうに誰か傀儡使いよろしくのっそりと姿を現したが、顔もわからず、誰であるかもよくわからなかった。このあたりにいる男はすべて、いやというほど顔見知りだったはすだが、わずかの間にすっかり見覚えのない、別人のように見えるようになってしまっていた。



 次之進が懐に手をやろうとすると、
「ゆっくりだ」
 その声だけははっきり覚えがあった。よそものだった、あいつだ。
 次之進は、ゆっくり金を出した。
「おまえも」
 言われる前に、兵馬も金を出していた。
 二人から金を取り上げると、
「よし、行け」
 と、解放しそうな素振りを見せた。
 そろそろと離れかけた次之進は、何か別に大勢の禍々しいものが迫ってきているのに気づいた。
 水の中で、魚が逃げる気配がする。
「伏せろっ」
 と次之進は兵馬に命じた。
 ほとんど同時に二人が水の中に身体を投じて姿を隠したのと前後して、矢が木の間を縫って飛んできた。。
 やっと顔を上げた次之進は、今自分から金を奪った相手(圭ノ介とかいったか、とやっと名前を思い出した)はどこに行ったか、素早く探したが、目に入るところにはいなくなっていた。
 弓矢を構えた古田の兵がそろそろとやってくる。次之進は死んだふりをしてやり過ごすしかないとじっと薄目を開けて伏せていると、木の陰に入った兵が出てこない。
 どうなっているのか、と思っていると、他の兵たちが妙に慌てている。
 血の匂いが強くなった。
 木陰から兵がふらふらと現れ、膝が折れたようにへたりこんだ。腰の刀がつっかえ棒になり、空を仰いだような格好で動かなくなる。
 他の兵が警戒しながら接近してきた。空が暗くなってきてただでさえ悪い視界がますます悪くなり、顔もわからない。
 その一人が突然ずぶっと見えない穴に落ちて、体勢を崩す。足が穴にはまって動けないところに、引き倒され、暴れる水音とうめき声が聞こえ、やがて静かになった。
 次之進はこれ以上ここにはいられないと文六を振り返った。兵馬はすでにそろそろと兵が来たのとは反対の上流に向かっている。
 次之進もそれに続いた。
 血の匂いは、上流に来ても収まらなかった。
 それまで先を歩いていた兵馬が立ち止まった。
「どうした」
 次之進が傍らに立った。
「あ…、」
 目の前のあちこちに半裸あるいは全裸の死骸が水に漬かって、半ば泥水に埋まり、半ば水面に浮いている。
 かつてみな顔見知りだった男たちは、丸みを帯びた荷物か袋のような見慣れない物体になって、あちこちに散らばっている。
 兵馬は嘔吐した。次之進も酸っぱい液体を足元にたまった水にしたたかに胃の中身を吐き出した。
「なんという…」
 圭ノ介がひとりひとり、殺して金を奪ったのだ。ある者は首筋を切られ、ある者は心の臓を一突きにされている。水に漬かったかき切られてぱっくり開いた喉から、肺から逆流してきた空気がぽつぽつと泡になって吹き出ていた。
「もういやだ」
 兵馬が泣き声のような声をあげた。
 これまで戦場に出たことはあっても、だいたいにおいて集団で戦っていたので大崩れして殲滅されるという経験は二人ともなかった。
 それが数だけは一応揃えていたのが、いくらろくに装備が整っていないとはいえ、一人にここまで殺戮されるとは、思ってもみなかった。
「あいつは何だ、鬼か、天狗か」
 兵馬が、がくがくしだした。
 次之進は、森の外の明るい、前は川が流れていたあたりの水面に目をやった。
「おい…」
 自分が見ているものがまた信じられなくて、次之進は兵馬の脇を肘でつついた。
 鏡のような水面を、誰も乗っていない舟が滑っている。水が流れていれば、川下から川上に向かって、水面を切り裂き、滑らかな波紋を広げながら動いている。しかし、舟の上に人の姿はない。
(どうなっているのか)
 次之進はめまいをおぼえた。だが、一瞬のち、あそこに奴がいる、と直感した。
 そう決めると、次之進はとっさに後を追い出した。
 動き出すとともに、不思議とためらいや恐れはどこかに飛び去り、四肢を動かす動物的な感覚だけが次之進を支配した。
 泳いだ方がいいのか、浅瀬を走った方がいいのか、どちらにしてもあまり早くは動けないはずだが、浅瀬を泥に足をとられて走る次之進は、水面を蹴って走っているような錯覚を覚えた。
 兵馬が、待ってくれと悲鳴のような声をあげて追ってくる。
 舟が向きを変え、森の方に滑ってきた。
 次之進が先回りして短刀を持って身構えた。
 舟が止まった。中で何か光っている。何かなどと考えるまでもない、このために全員が重労働と水と泥との不快な環境に耐え、そして命を落とした元凶のものが光っている。空が暗くなってきたせいか、鈍い輝きがちらちらする程度だが、いったん目に入ると、目をそらすのは不可能だった。
 と、次之進はふっと果たしてあれが元凶なのだろうかとも思った。俺はあれがそれほどに欲しかったのか。命のやりとりをしなくてはならないほどに。第一、あれのどこがありがたいのか価値があるのかを、次之進はまるで想像できていないことに、今更のように気がついた。
 本来、命のやりとりをしなくてはいけない時になって、すぽっと何かがすっこ抜けたように白けた疑問に囚われて、また四肢が嘘のように萎え始めた。
(これではいかん)
 次之進はなんとか力を振り絞って目を舟の中の光からそらせようとしたが、またすぐすいつけられた。
(はてな)
 何か、舟のたたずまいに違和感がある。
 さっきとは波の立ち方が微妙に違う。
 兵馬は次之進の後ろに隠れるようにして、じっと舟を見ていた。
「あの舟はなんだろう」
「あれに集めた金を積んで川を下るつもりなのだろう。舟だったら全部の金でも一人で十分に運べる」
「いつのまに用意したのか」
 次之進が話に気をとられて、自分に隙ができているのに気づいてはっとした。
 と思うより早く、突然、兵馬が後ろに引き倒された。水の中に隠れて接近していた圭ノ介に足元を掬われ、引き倒されたのだ。
 次之進が駆けつけようとすると、
「動くな」
 兵馬の喉に刀を押し当てて、圭ノ介が野太い声で脅した。だが、わずかにその声の中にかすれたような震えが混ざっているのに、次之進は気づいた。
「血の匂いがするぞ」
 次之進は言った。
「ほとんど全員斬ってきたからな」
「だったら、なぜすぐ斬らない」
 次之進の呼びかけに、兵馬の顔がひきつった。
「斬らないでくれ。あれだけ俺と…」
「あれだけおまえと、どうした」
 圭ノ介はぴっと兵馬の喉を少し切った。喉にできた赤い筋がみるみる膨らみ、固まってすいと流れた。
 次之進の顔もひきつっていた。震える声で訊いた。
「なぜすぐ殺さない」
 兵馬は、それを殺せという意味だと受け取ったらしい、おこりにあったように震え出した。
 次之進はそれまで漂っていた血の匂いが、少し異質であることに気づいた。
「ケガしているのか」
 圭ノ介は答えない。
 なるほど、あれだけ大勢の、しかもきちんと武装した小隊と一人でわたりあったら、負傷しない方がおかしい。
「しているに決まっているだろう」
 兵馬が泣きが入った声で喚いた。
「おまえに聞いているんじゃない」
 次之進はそう言ったあとで、兵馬が泣き笑いのようなくしゃくしゃの顔をしているのに気づき、おまえのケガなどどうでもいいという意味に受け取ったのだと知って、あわてて言い直した。
「そうじゃない。こいつが手負いかどうか知りたいだけだ」
「そうだろうよ」
 今度はふてた口調で、言い返した。
 その殺伐とした表情を見ながら、次之進は今更ながらやりきれなく胸がつまるような思いがした。
「刀をよこせ」
 圭ノ介が命じた。
 次之進は応じない。わざわざ刀を取り上げようというのは、力が落ちているからだ。
「よこせ」
 渡そうとしない。
 圭ノ介は真一文字に兵馬の喉を切り、吹き出した血を次之進に吹きつけた。
 一瞬、目潰しになりかけるところを、次之進はなんとか腕で防ぐ。改めて構えかけたところに、圭ノ介が踏み込んできた。
(斬られる)
 と、思ったのは、しかし圭ノ介の刀を払ってからだった。
(しのげた、こいつの斬り込みを)
 自分が受けられたことに、次之進は驚いた。
(やはり、どこか負傷しているのだ)
 そう思うと、落ち着きが戻ってきた。
 圭ノ介も改めて構え直した。そうなると、両者とも動けない。
 次之進の視界に、喉を切られて痙攣している兵馬の姿が入っている。しかし、目には映っいても見てはおらず、心から追い出していた。
 冷静になって観察すると、圭ノ介の負傷は思った以上のようだった。何本か受けた矢をへし折り、あるいは引き抜いたらしい痕がそこここに見える。
 じっと見ていると、圭ノ介も次之進から視線は外さないにせよ、視界に入っているであろう舟の中の黄金を忘れているはずはない。
 だが、うかつに踏み込むわけにはいかなかった。
 遥か頭上で雷が鳴った。さきほどから急に空が暗くなってきていたが、突然嵐の前触れがきたようだ。
 それとともに、何人もの人間のざわめきや息遣いが近づいてきていることにも、二人は気がついていた。
(このままではまずい)
 二人は、呼吸を合わせたようにぱっと離れ、圭ノ介は停めてあった舟へと、次之進はより上流へと足を向けた。
 次之進が振り返った時、川面というか、湖面というか、水面の真ん中あたりに漕ぎ出た舟に向かってしきりと矢が射掛けられているのが見えた。
 次之進の足元は相変わらず悪く、追っ手を振り切るのは難しい。次之進はとっさに手近にあった最も高い木にとりつき、登って枝葉の中に隠れた。
 雨がますます激しくなってきた。天がひっくり返したように、大粒の雨が降り注いできて、不安定な枝にとりついた次之進の頬をぴしぴし叩いた。枝が滑り、ともすれば平衡を失って落ちそうなるのを懸命にしがみつきながら、次之進はなおも枝葉の間を透かして圭ノ介の舟を注視した。
「逃がすな、放て」
 古田はしきりと下知を下した。
「放て」
 出川が続けて下知した。
 兵はどちらの下知もろくに聞かず、それぞれの判断で矢を放ち続ける。すでに獲物になっている男が、何を持っているのかは洩れていた。そしてあわよくば独り占めしたいと、誰もが思っていた。
 圭ノ介にまた、何本もの矢が刺さった。いいかげん倒れてもよさそうなのに、何かに操られているかのような奇妙に空虚な動きをやめようとはしない。
 舟はほぼ湖水というか川面の中心に来ているので、誰も近づくことはできない。
 豪雨にさらされた水面がけば立ち、折からの突風に波打ちだした。とても山の中の小さな人造湖とは思えない威容だった。
 空が光った。わずかな間をおいて、腹の底にまで響くような雷鳴が轟く。
 木々が風にあおられて激しく身悶えするように揺れ、捩れる。
 次之進はばさばさ煽られる木の枝に激しく顔面を殴打されて目がくらみ、滑り落ちかけて濡れて滑る枝に必死でしがみついた。
 矢を射かけていた兵たちも、あまりの風雨に体勢が整わず、浮き足立ち気味だ。
 空が白くなった。と、同時に雷が舟とその上の圭ノ介に落ちた。舟も人も、ともに白く閃光を放ったかと思うと、一瞬真っ黒になり、一呼吸おいて炎が吹き上がった。豪雨にも関わらず、炎の勢いは衰えず、舟も人も燃え上がって風と波に揉まれて揺れている。その中でも、人影は炎の中で真っ黒になりながら、操り人形のような生きているとも命が抜けているともつかず身体を揺らしている。
 その時、圭ノ介は自分がしがみついている木そのものが動いているのに気づいた。根のあたりの土がすっかり溶けてしまい木が浮き上がってきたのだ。
 木々が動き出したのは、次之進のしがみついているあたりばかりではなかった。森全体が浮き上がって揺れ動きながら、巨大に膨れ上がった水の中に、動物が集団入水でもするかのように雪崩れこんでいく。それとともに、出川も古田も、その配下の兵たちも、泥と歩き出した木に押し流されて、あとからあとから水の中に引きずり込まれていく。
 悲鳴も絶叫も、風雨に掻き消された。次之進の見下ろす中、轟音のため何も聞こえない中、泥と木と人とが混ざって渦巻いている。
 次之進はなぜここまで来て堰が切れないのか不思議だったが、その時轟音の向こうにきしむ音を聞いた。
 真っ黒な影になった舟の上に圭ノ介が、大きな波を受けてもんどりうって水中に没した。
 次之進は思い切って枝の上から渦巻く水に跳んだ。水中の静寂の中で、次之進はきしむ音が何であるかを直感的に知った。
 ぎしぎしいっていた堰がいよいよ限界にきたのだ。というより、なぜか壊れないでいた堰がやっと自然の理に従うようになったということだろうか。
 材木を貫いていた鉄の棒は、曲がるより先に短くちぎれた。ためにためられた水と堆積していた泥と木がのたうち崖から噴出した。
 それとともに、水はその中に抱えていた泥と木とを根こそぎ持っていって、それ自体巨大な生き物のように崖から身を投げた。それはかつてここに流れ落ちていた滝に百倍する巨大さと力を持って荒れ狂い、崖下で砕けてもなお勢いは衰えず、奔流となってさらに下流を襲った。
 田畑はあっという間に濁流に押し流された。
 与平は突然の豪雨に田を見に来て、突進してくる水の山に一瞬で呑まれた。ぶつかった瞬間、肋骨にひびが入り、溺れるより早く呼吸が止まった。
 降り注ぐ豪雨を受けて水に勢いは衰えず、里にある市や国守の屋敷も一呑みにした。
 雨がやみ、川のそばからすべての人影が消えた。
 その中を、一艘の舟が無人のまま流れていく。それに何が積まれているのか、なぜ崖から落ちて壊れも沈みもしないのか、もちろん誰にもわからなかった。
 舟は無人の川を流れ、海に出た。日が沈み、舟を金色の光で包んだ。


(終)





山の湖 6

2020年10月24日 | 山の湖
 水が堰の上端にまで達した。
 あふれた水は堰を越えて流れ出る。それとともにわずかながら上流から折れた木の枝や、腐食しかけた木の葉や、動物の死骸なども動き出し、堰にひっかかって絡み合いながら溜まった。大きめの木の枝が堰にひっかかると、そこに小さな枝や木の葉がひっかかり、隙間を埋めていく。
 板を流れにさしただけの急作りの堰は、次第にそれ自体が繁殖していく一つの生き物のように大きく厚い障害物に成長し、川の流れに立ち塞がる。
 それは、堰を設計し指揮して作った圭ノ介の思惑を超えた現象だった。


 圭ノ介たちはすでに四人を殺して金を奪っていた。
 彼らがいる側は、森が浅く小屋なども作られていない。そのため散りぢりになっても、あまりこちらに逃げてくる者はいなかった。これ以上探してもあまり益はないとみて、
「川を渡る」
 と、圭ノ介は宣言した。
 昼間うっかり渡ったら、周囲から丸見えになってしまう。弓矢を作って備えている者がどれくらいいるかわからないが、用心して日が暮れてから渡ることにした。
 すでに堰いっぱいに水が溜まったのだから、水位はあまり動かないだろう。
「先に行け」
 と、圭ノ介に命じられるままに与一郎がいざ腰から上まである水に入ってみると、全部で六本の金を握って川を渡るのは、相当に面倒だった。
 重みですぐ底に足がつくのはいいが、片方に一つもう片方に二つと左右で握り締めている金の重みが違うので、うまく釣りあいがとれない。
 なまじ浮力があるので、足で川底をしっかり蹴って進むのも難しい。
「なんて、やりにくいんだ」
 川底の苔に滑って、与一郎が転んだ。
 握った金の重さで拳が一気に沈む。
 拳が勝手に川底の岩を殴り、握った金の間で押しつぶされて激痛が走った。
「うあっ」
 思わず声が出た。
 圭ノ介はじろりと見て、与一郎の頭を腕で抱え込むとぐいと水中に押し込む。じたばたして溺れるのを、なおも押さえつける。
 抵抗できなくなるまで押さえつけ、やっと動きが鈍くなったところで腕で抱えたまま、水面に頭を出させた。
 はあはあ激しく息をつくだけの与一郎に、圭ノ介は小声でささやいた。
「騒ぐな。声を出すな。わかったな」
 与一郎は必死に頭を縦に振る。
 やっと圭ノ介は腕を放した。
「行け」
 与一郎に背中を見せはしない。先に行かせる。


 川を渡って、暗い森に入った。
 森も水浸しになっていて、川を渡った感じがしないくらいだった。
夜の風が木の間を吹き抜けて、与一郎は思わず身震いした。火に当たりたいが、地面が水浸しではそれもかなわない。
 森に入るとますます暗くなり、月が雲に隠れると鼻をつままれても何も見えない真っ暗になった。
 与一郎は圭ノ介がどこにいるのか、呼びかけようとしたか、また水に沈められるのではないかという恐怖がよみがえってきて、口をつぐんだ。
 月が雲から出てきて、辛うじて夜目がきくようになると、圭ノ介がいつのまにかいなくなっているのに気づいた。
「おいっ…どこだ…、どこだっ」
 耐え切れずに与一郎は声を出した。答えはない。
 叫び出しそうになったとき、上から声がした。
「ここだ」
 見上げたが、何も見えない。目を凝らして見ると、木の上に何か黒い大きなものがある。ちょうど月の光を遮る格好になっているので影でしか見えないが、声はそのあたりからしたらしい。
「どこ」
「上がって来い」
 手探りで木を登っていくと、やがてそれが舟であることがわかってきた。
 ただ木を組んだだけの筏ではなく、二人から三人乗りくらいの、きちんと組み立てられた小舟だ。
 その上に偽装の木や枝を巡らして、下からちょっと見上げたくらいではわからないように仕立ててある。
 与一郎が陸ならぬ木に上がった舟に乗り込むと、圭ノ介はぐるりを黒く塗られた布を巡らした。そして残りの布を与一郎に渡し、
「よくくるまっていろ」
 と命じた。それから、
「やけどするなよ」
 と干した苔や木の葉を補給した小さな火の容器をを渡した。言った圭ノ介自身が火が消えないように息を吹き込み、やけどしないようにその上から布を巻き、あちこち身体を撫でさするようにして、暖めるのに使っている。
 与一郎もさっそく真似して身体を暖めだした。
「これはいい」
 思わず、ため息がもれた。
「川を渡るのに、この種火はどうやって」
 圭ノ介は何か薄い袋を広げて、与一郎に触らせた。
「わ、なんだ、これ」
「なんだと思う」
「妙な手触りだ」
 明かりがあったら、楕円形のごく薄い膜でできた袋であることがわかっただろう。
「猪の身体から取り出したものだ」
「猪?」
「猪のゆばり尿をためておく袋だよ」
「尿ぃ?」
「そう。だから、水を通さない」
「どこでそんなものを」
「いくらも、獲って食べただろう」
「だけれど、はらわたまではよく見ていなかった」
「だろうな。だが、役に立つものがいくらもある。熊の胆は知っているか」
「いや」
 圭ノ介はそれ以上通じにくい話をするのをやめた。
「火が焚ければいいのだがな。だが、火が焚けないのは、他の連中も一緒だ。今夜はろくに寝ることもできまい。明日の朝には、水浸しが続いて、身体も冷え切っていよう。そこがつけめだ」
「朝討ちをするので」
「夜駆けは、この地面では無理なのでな」
 与一郎は、ぶるっと胴ぶるいした。
「寒いか」
 からかうように、圭ノ介が言うと、
「まさか。胴ぶるいだ。十四の初陣のとき以来の」
「そうか。働きを期待してるぞ」
「しかし、こんな舟をいつのまに」
「金を掘り出したはいいが、運べないのでは仕方ないからな。前々から用意していたのだ」
「前々とは」
「金を隠したときからだ」
「なんとまあ」
 あとの言葉が続かなかった。
「この分だと、明日になればもっと水かさが増しそうだ」
 与一郎はぼそっと訊いた。
「あんたは、天狗さまじゃないのかね」
「まさか」
 圭ノ介は笑った。珍しい笑い顔だった。
「鼻も高くなければ、高下駄も履いてはおらん」
「そうではなくて」
 それ以上、うまく言葉が続かなかった。
「明日からは金を回収してまわらないといけない。全部で三十本。それから堰を壊し、水を抜く」
「川下は洪水にならないか」
「なるだろうな」
 こともなげに言った。
「どうする」
「どうもしない」
「いいのか」
「何を心配してるんだ」
 圭ノ介は芯から不思議そうに聞き返す。
「いや…」
 あまりに堂々と言われて、それ以上言葉が続かなかった。
「少し食っておけ」
 と、舟底から干飯を出した。
「やあ」
 およそ旨いものではないが、腹のたしにはなる。
「しかしこう乾いていると、水がないと」
「一応、汲んでおいた」
 と、圭ノ介は満々と膨らんだ膀胱の袋をもう一つ出した。与一郎はいやな顔をした。
「その中身は、水か」
「もちろんだ。他にあるか」
「いや…」
 また言葉が途切れた。
「川から汲んだ水だ。飲め」
 と、先に自分で口を開け、縛った袋の口から器用に水を噴き出して、受け止めてみせた。
 与一郎は干飯をかじり、膀胱から同じようにおそるおそる水を噴出した。
「もっと思い切って」
 そう言われても、与一郎は口に含んだ分だけ溜めておいて、しばらく水の匂いを確かめるように、しきりと鼻から息を出し入れしている。
「余計なことしなくていいのに」
 圭ノ介は平気な顔でもしゃもしゃ干飯をかじりながら、喉を鳴らして水を飲んでいる。
 与一郎は思い切って水ごと干飯を飲み込んだ。
 圭ノ介がまた笑った。


 次之進と兵馬はなんとか小屋にたどり着いていた。しかし、もともと地面と高さがほとんど違わない床の上にまで浸水し、とても横になれたものではない。
 木切れを積んで腰をかけ、しゃがんだ姿でなんとか夜を過ごした。ほとんど眠れない、ひどく長い夜だった。
 やっと森が明るくなり、湿気でいや増した朝もやを枝葉で分かれた無数の光の筋が貫いた。
 鳥の鳴き声が聞こえない。この騒ぎでみんな逃げ去ったらしい。
 兵馬は小屋から出て、長いこと屈んでこわばった体を伸ばした。続いて次之進が出てきて、こちこちになった肩や首筋を揉んだ。
 身体は冷え、よく眠れなかったたため頭はぼんやりし、半日何も口にしていないため力が出ない。
 小屋に何か食べ物は残っていないか、と次之進は中に戻って探してみた。
 わずかに生米が残っていたが、生ではどうしようもない。
「食えないか」
 いつのまにか小屋に入ってきていた兵馬が後ろから声をかけた。
「生の米などかじったら、腹を壊すだけだ」
 生米の袋をどかして、床を上げてさらに探してみた。
「うーむ」
「どうした、何かあったか」
「あることはあったが」
 次之進は床下に押し込んであった袋の中にあった泥まみれの米をすくってみせた。
「生か」
「干し飯だ。水に漬かっていたから戻ってる」
「ちょうどいいじゃないか。干したままのをかじるより」
「泥水で戻したんだぞ」
「かまってられるか」
 と、兵馬はかじりついたが、すぐ口をひん曲げて吐き出した。
「食えたもんじゃない」
 次之進はしかし気にしないふりをして口に運んだ。
「食え。食わんと戦えない」
 そう命じられて、兵馬はしぶしぶ泥と、ときどき虫の混じるふやけた干飯を食べた。

 出川と平伍と文六は、森を出て圭ノ介が立って指揮した岩場のあたりに戻っていた。
「腹が減ったな」
 そう言えば、すぐ飯が出てくるような出川の口ぶりだった。
 もちろん平伍も文六も、そう言われたから何をするわけでもない。無視して堰から流れ出ている水を眺めている。
 ときどき、間抜けな魚がいきなりあふれ出す水に混ざって堰の上からこぼれ落ちてくる。そのまま六尺ほど下の浅い水溜りになっている岩場に叩きつけられ、そのまま伸びている間抜けな魚がいる。そのままだと流されるのを何尾か、二人は急いで拾い集めに行く。近くに寄ると、ぎしぎしいう堰のあちこちから異様な色をした泥がはみ出て、さらに水が吹き出している。
 ぬるぬるする川底に足をとられながら、拾った魚を袋に詰めて、腰を浮かすようにして戻る。そんな時でも出川はあくまで動こうとしない。
「生では食えんな」
 と、出川が言う。
「そんなことはわかっている」、
 平伍と文六は同時に怒鳴った。なぜそんなに声を荒げるのか、と不思議そうな顔で出川は見返した。
「火は、どこにある」
「崖っぷちの小屋にないか」
 崖下と行き来するのに作られた昇降機の近くに三、四人が雨をしのげる程度の簡単な小屋が作られていた。人が集まって煮炊きをすることもあったから、今でも火の元があるかもしれない。
「行ってみるか」
 三人は、ぞろぞろと岩場を歩いて小屋に向かった。
 振り向くと、なんとも異様な光景が目に入ってきた。堰とその両脇のせり上がった岩にせき止められた水が目の高さより高くかさが上がり、今にもこちらに押し寄せてきそうだ。せりあがった水は森にひたひたと迫り、遠目には湖から突然森が生えているように見えた。
「えらいもの作っちまったなあ」
 平伍が今更のように呟いた。
「もっと簡単に壊れるかと思ったが、思いのほかしぶとい」
 出川は意に介さず、小屋の中を漁りだした。
「あった」
 種火を見つけたらしい。
「粗朶はないか。乾いていないとだめだぞ」
「わかっているっ」
 また二人同時に怒鳴った。
 あちこち水びたしになっているため、乾いた枝や葉を集めるのは難しくなっていたので、しまいには小屋を壊すことになった。
 それでもしけっているらしく、火がなかなか移らない。なんとか移しても煙ばかり出てなかなか炎が上がらない。
 平伍が懸命にふーふー吹くが、煙をわざわざ発生させているようなものだ。
 いいかげんうんざりしていたところで、いきなりその焚き火を出川が踏みにじった。
「何しやがる」
 かっとなって殴りかかるところを、文六が後ろから組み付いて止め、崖下のはるか川下を指差した。
 彼方の河原で煙が上がっているのが見える。
 よく目をこらすと、刀、槍、果ては鉄砲で武装した集団が朝餉の煮炊きをしているのがわかった。
「来た」
 ぼそっと出川が呟いた。
「援軍ですか」
 平伍が訊いた。
 それには答えず、出川はひとりごちた。
「多すぎる」
 その顔つきが、いつになく厳しくなっている。
「多すぎるって」
「いざ、人数を揃えたのを見ると、金を分けるのが惜しくなってきたわ」
「なんですって」
 この人の気まぐれは病気ではないか、と平伍には思えた。
 それとも、人をムダに右往左往させるのを楽しんでいるのだろうか。
「分けるって、まだ手に入れてもいないのですよ。ただ見つけたというだけで、今はみんなばらばらになって持っているのです」
「わかっている。では、ちょいと行って挨拶してくるか」
 と、昇降機の方に向かった。
 そして板切れの上に腰をかけ軽い調子で、
「では、頼む」
 平伍と文六はやむなく昇降機の滑車についた縄を引いた。
 ゆっくりと出川の姿が降りていき、見えなくなった時、平伍はこのまま手を離して落としてしまおうかと思った。
 怨嗟の念も知らず、やがて出川は崖下の地面に到着した。
 下から見上げると、いったん涸れた滝は、またちょぼちょぼと水が落ちてくるようになったとはいえ、そこだけむき出しになった岩の色がひどく不自然に目立っていた。
 水飛沫がとんでこない分、湿気が薄れたのは気持ちいいようで、妙に空気が淀んだようでもあった。
 滝壺も上からの水がとどこおると、深さがどれほどあるのか文字通り底が知れないような神秘感は薄れ、ただの大きめの水溜りに見えてしまう。
 出川は、肩をそびやかして、川下に向かった。


 圭ノ介と与一郎は、枝にかけた縄で力を弱めながら、舟を木から降ろした。
 すでに腿まで水が来ていたので、ぎりぎり舟を浮かべて動かせる。しばらくあるいは縄でひっぱり、あるいは長い棒で川底を突いて移動してまわったところで、圭ノ介は舟を止めた。
 男が二人、木陰からこちらをうかがっている。
「出て来い」
 圭ノ介が呼ばわると、二人はゆっくりと姿を現した。短い刀を木の枝の先にくくりつけて即席の薙刀に仕立てている。足元が悪いと見て、工夫したものらしい。
 圭ノ介は舟の上に立った。舟の上も足元は危ないが、泥に足をとられるよりは有利と踏んだのだろう。
 同じく、与一郎も舟の上で身構えた。
 とん、と圭ノ介が棒で水底を突いて舟を動かした。すうっと舟は音もなく水面を滑り、男の一人に向かっていく。男はよけようとするが、足をとられてわずかに逃げるのが遅れた。その隙を見逃さず、圭ノ介は思い切り舟底を蹴って飛び、それまで舟を操っていた六尺棒を大きくふりかぶって男の頭を打ち砕いた。
 まるで西瓜でも割ったかのように赤い中身が飛び散ったのを見て、もう一人の男は飛び上がった。そしてくるりと背中を向け、あわてて逃げ去ろうとした。
 圭ノ介は倒した男の手から薙刀をもぎ取り、逃げる男に投げつけた。薙刀はあやまたず男を背から胸に串刺しにした。
 ほとんどまばたきする間に二人を倒した圭ノ介は、息も乱さずに与一郎に命じる。
「金を取れ」
 与一郎は、急ぎ二人の身体を改めて隠し持っていた金を集めて舟に乗せた。
「いい調子だ」
 と、圭ノ介はまた舟を出した。


 次之進と兵馬は、水に漬かった足をひきずるように歩いていた。どうも腹具合がよくなく、下半身に力が入らない。
 二人の前に、二人の男が姿を現した。
 次之進は、兵馬の影に隠れた。
「何やってんだ」
 小声で兵馬が訊く。
「前に立つと、俺が獲物を持っていないのがばれる」
「獲物なしでどうする」
「いいから」
 相手は二手に分かれて、挟み撃ちにしようとしてくる。
 兵馬は腰が引けかけるが、後ろに次之進がぴったりくっついているので、逃げるわけにもいかない。次之進は腰を落とし、相手から見るとまるで母親の陰に隠れている子供のようだ。相手に、侮りの気が出た。
「ええいっ」
 気合とともに、二人同時にかかってきた。
 と、いきなり兵馬の足元から水飛沫があがった。次之進が足元にたまった水を目潰しにすくいとばしたのだ。まるで子供の水遊びのような真似だったが、効果は十分だった。
 二人とも足が止まったところに、兵馬が思い切り身体ごとぶつかった。腹を兵馬の短刀に刺し通され、男は棒立ちになったまま兵馬の身体を抱え込んだ。
 次之進はというと、もう一人にかかるのかと思うと、兵馬にぴったりくっついたまま同じ相手にぶつかっていった。
 そして、兵馬の身体を抱きかかえようとする手から相手の獲物をもぎとった。
 襲ってこようとしたもう一人も、あわてて止まり構え直した。
 次之進は金を取り出して見せた。
 一瞬、それに相手の目が吸い寄せられる。
 すかさず、金がその目に投げつけられた。一瞬、心が泳いだところを、次之進が思い切り踏み込んで、相手の胸を抉る。
 そのまま押し倒すと、水の中に相手の頭を押し込み、絶命するまで放さなかった。
 相手の絶命を確かめて、次之進が立ち上がると、兵馬がじいっと探るような目で次之進を見ていた。
「勇ましい戦いとはいえんな」
「今更」
 次之進は引き抜いた短刀をたまり水で洗う。
 兵馬も倣って、刀を洗った。
 それから、相手の身体を改めた。
「なんだ、こいつら金を持ってないぞ」
 兵馬が口を尖らせた。
「仕方なかろう。全員に配ってまわったわけではないのだ」
「持てるだけ持ったら、そのまま逃げた奴はいないかな」
「いないな。なければ欲しいが、持っていればもっと欲しくなる」
「そうか。そうだな」
 自分に言い聞かせるようにうなずいた。


 出川は河原を下っていた。
 近づくにつれ、次第に軍勢の全容が見えてくる。
思ったほど人数は多くない。出川たちと同じくらいだろうか。
「よおーっ」
 大声を出して、出川は手を振りながら親しげに近づいた。
 軍勢は、戸惑ったように無言で迎え、出川が歩み寄るに従って敬遠するように二手に分かれて、彼を通した。
 その先に、緋縅の鎧に身を固めて軍勢を率いる古田の姿を認めた出川は、古田がこわばった顔をしているのも構わず、さらに満面に笑みを浮かべ、相手が鎧を着ていなかったら抱きつきそうな勢いで歩み寄った。
「よく来てくれた」
「ああ…」
 疑わしそうな目で見ながら、古田が答えた。
「見つけたぞ、金を」
「どこにある」
「滝の上だ」
「それはわかっている。掘り当てたのか」
「もちろんだ」
「持っているのか」
「それがだな」
 出川は咳払いした。
「掘り出したまではよかったのだが、ばらばらになってしまってな」
「なんでだ」
「まあ、そう急くな」
「急くな、だと。人を呼び出しておいて、何だ。しかも使いの言うことが来るたびにいちいち違う。どういうことだ」
「あれは一人ではないのだ。二人で一人だから」
「なんだそれは。わけのわからんことを」
 古田は明らかに苛立っていた。
「とにかく、登ろう、ん?」
「登るって、あの崖をか」
 遠くからでも、滝周辺の崖の高さはよくわかった。
「そうだが」
「われわれがいちいち登ることはなかろう。掘り当てた金を崖の上から下に放ればいい。それを拾い集めれば足りることだ」
「それがな」
 出川は古田の肩を抱くようにして、胡乱な目で見ている周囲から引き離した。
「金はあることはあるのだが、ばらばらになっているのだ」
「なんだと」
 古田の顔色が変わった。
「どういうことだ」
「ちょっとした手違いでな。まあこということもあろうかと手勢を送ってもらったわけだが」
「勝手なことを」
 古田が憤慨した。
「今にもとてつもない金の山を掘り当てたような口ぶりだったから、それを運ぶために手勢が足りないのかと思ったのだ」
「楽してお宝だけ頂こうというのは、虫が良すぎはしないか」
 出川が開き直って、やや恫喝気味に言い放った。
「虫がいいのは、どっちだ」
 古田がわざと憎憎しげに言った。
「だいたい、おまえが里に戻ってきたところで、そのまま今までの位に戻れると思っているのか」
「別に戻りたいとも思ってない」
 出川がしれっとして、川の方をそっぽを向いてみせた。
「何を」
「では聞こう」
 と、向き直った。
「なぜおまえがここにいる」
「なんだと」
「いいかげん、陣取り合戦はごめんだ。ちっぽけな国ともいえん国の中で、やたら寝首をかきあって大して金にもならん、そんなのが楽しいか」
 古田が、むっとしたような顔をして、黙った。
「金をこの手に握れば、あとはどこに行こうと極楽だ。里に未練を持つ必要がどこにある」
「国主に、国を捨てろというか」
「笑わせるな。生まれついての国主でも何でもないくせに。考えてもみろ。あの程度の国を治める手間隙と引き合うだけの見入りがあるとでもいうのか。これといったものも取れず、商売をするには場所柄が悪すぎる。盗んだ国なら、捨てたところで構いはすまい」
 古田は、さすがにちょっと答えに窮した。主君に対する忠義などあるはずもない男ではあったが、かといって自分の所領をだんだんと増やしていく他の考えというのは持てないでいたからだ。まがりなりにも自分が生まれ育った国を弊履のように捨て去って平然としている出川に対して、この国盗人も何やら肌寒いものを感じていた。
 しかし、一番肝腎なことをまだ訊いていない。
「で、金はどこだ」
「崖の上さ」
「それはわかっている。その上でどういう具合になっているのだと訊いているのだ」
「まあ、とにかく、登ってから話そう」
 とことこと出川は崖と滝に向かって勝手に急ぎ足で歩き出した。
 下から見ると普通に滝が落ちているように見えるが、上の方で堰が作られていつ決壊するのか、あるいはしないのかわからない状態だということは、古田たちには伏せておきたかった。
 兵たちと、古田は出川について崖についた。
「思いのほか、ちゃちな滝だな」
 何も知らぬ兵のひとりから、そんな呟きが洩れた。
「どうやって登るのだ」
 古田が訊くと、出川は崖上に合図を送った。
 かねてからしつらえられていた昇降機の腰当てがするすると降りてくるのに、兵たちは目を見張った。
 崖上の平伍と文六の姿が見えないので、なおさら不思議で神秘的な仕掛けのように見える。
 腰当てが下まで降りてきたところに、出川が古田たちを導く。
「まず、おまえから」
 出川は手近にいた兵の一人を指名した。先に古田を送ってしまい、堰を見られて「あれは何だ」ということになると、ややこしいと踏んだからだ。
 指名された兵は、言われるまま昇降機に乗り込んだ。縄を引いて合図すると、上で滑車が動かされたらしく、じりじりと昇りだした。
 乗せられた兵は目を丸くしている。
「わっ、なんじゃ、これは」
 出川は内心ひやりとした。これで彼に臆病風にでも吹かれたら、後の連中を乗せるのに面倒なことになる。
 と、兵は突然、笑い出した。
「なんと、高いぞ、高いぞ」
 木登りをしている童のように昂奮して下を恐れずに眺めやる。
「このようなところから、滝を眺めたのは、初めてじゃ」
 その昂奮ぶりを聞かされた兵たちが明らかに自分も乗りたそうな風情を見せているのに、出川は内心ほっとした。
 と、同時にあまりはしゃぎすぎて落ちたりでもされたら、えらいことだと声をかけようとしたが、すでにかなりの高みに至ってしまったので、下手に声をかけるとかえってまずいと、ひやひやしながら到着を待った。
 よく見えないが、平伍と文六のどちらかが崖上に着いた兵を引き込んだらしい。そしてすぐに上から昇降機が戻されてきた。
 出川が機先を制して命じた。
「よいか、下を見るな。縄をしっかり握り、もし腰かけている板が外れることがあっても落ちないようにせよ」
「勝手に命じるな」
 出川が自分の部下を勝手に動かしているのに不快を覚えた古田が、
「わしを通してにせよ」
 と、怒った。
 出川は怒り返そうとしたが、すぐ珍しく「すまなかった」と侘び、指揮を古田に任せた。崖下で指揮していれば、古田は上に登ってくることはないのに気づいたのだ。


 事実、古田が崖を登ったのは、出川より後の、一番最後になった。
 いざ乗ってみると、思っていたより遥かに揺れる。風に煽られた滝のしぶきで目を開けてもいられない。上から見下ろすと、地面はみるみる遠ざかっていく。
 古田は我慢できずに悲鳴をあげ、縄に抱きついた。
 ふと目を開けると、目の前に部下たちがずらりと並んでいるのに気づいた。皆、古田の怯えように半ばあきれたような薄ら笑いを浮かべている。中でも出川がとりわけにやにや笑っている。
「何をしている、早く、早く」
 崖の上にぶら下げられたままの古田は、見も世もなく助けを求めた。
 兵たちは、薄ら笑いを浮かべたまま古田を崖の上に引っ張り込んだ。
 突っ伏してしばらく荒い息をしていた古田は、我に返って立ち上がり、せいぜい声を励まして下知した。
「集まれっ」
 もそもそという感じで兵たちが集まってきた。
「で、これからどうするのだ」
 古田に訊かれた出川は、川上を示す。
「なんだ、あれは」
 初めて川を堰き止めている異様に巨大な木の板を見て、古田は思わず頓狂な声をあげた。
 出川は堰の向こうに一行を導いた。岩場を越えると、巨大な水たまりとも、いやに小さい湖ともとれる風景が広がる。
 風景を断ち切るように大きな板が川をせきとめ、その前と後とでは文字通り段が変わってしまっている。
 すでに堰にはなみなみと水が湛えられ、下の一見清冽な滝だけ見ていては想像もできない淀んだ水は森を半ば侵し、虚空をつかむ手のような枝が水面から飛び出している。堰からあふれ出した濁った水が改めて小さな滝を形作ってもとの川底だった岩に当たり、ちょっと流れてあらためて大きな滝となって流れ落ちている。
 湛えられた水には曇り空が写り、どこまでが天でどこまでが地なのか、どこまで水でどこまでが地なのかわからない、大きいとも小さいともつかない巨大な箱庭のような眺めをなしていた。
 一行はおよそ見たことも聞いたこともない眺めにあっけにとられ、しばらく石になったように動かなかった。
「なんだ、これは」
 似たような問いを、古田が発する。
「あれは一体どのようになっているのだ」
「どのように水を堰き止めておるのだ」
 しきりと出川に訊く。
 出川はこうなった経緯を話した。
 自分もいかにも身体を張って工事に参加したかのような口ぶりだったが、それにしてはあちこち上から離れて見ていないとわからない表現がぽろぽろ洩れた。さらに、工事の指揮を出川が執ったような口ぶりだったため、しばしば古田に突っ込まれてしどろしどろもどろになった。
「どうやって、あのような堰を組んだのだ」
「だから、木を切って」
「木でできているのは見ればわかる。だが、あのような形にどうやって組み上げたのだ。釘は使っていないのか」
「使っている」
「こんな山奥に釘があるのか」
「鉄を打っていた」
「打っていたって、誰がだ」
 出川は詰まった。
「あの、捕虜だ」
「捕虜? なんでそんなのが鉄を打っていたのだ」
「話せば長い」
「長くてもよい、聞く」
「あまり余裕がないのだ」
 それから、出川は見つかった金を次之進がばら撒いたため、各々が勝手に持ち去ってしまったまでの経緯を、あちこちごまかしながら喋った。
「結局、金はあるのかないのか」
「ある。あるが、集めないといけない」
「集めるって、どこからだ」
 そこで、今や出川が率いていたはずの隊はばらばらになって、各々が金を隠し持っているという話になった。
「では、そいつらの持っている金を掻き集めて来いということか」
「そうだ」
 古田は薄気味悪そうに、はちきれんばかりの巨大な濁った水溜りを眺めやった。
「何か出てくるんじゃないか」
 兵たちから、そんな言葉が洩れる。
「で、そいつらはどこにいる」
「あの森の中だな」
 出川はこともなげに言った。
「あんな薄気味悪いところに」
「化け物が出そうだ」
 ぶつぶつ言う声がしつこく兵たちから洩れる。
「やかましいっ」
 古田が大喝した。
「文句のある奴は出て来い。いいかっ、これから森を隈なく探し、金を持っている者どもを捕らえ、金を吐き出させよ。抵抗したら斬れ」
 一行はそれぞれ武器を確かめ、ぞろぞろと川に向かった。







山の湖 7(終)

2020年10月18日 | 山の湖
 平伍と文六は、最初の古田の兵の一人を引き上げたあと、交代して仲間を引き上げさせるつもりだった。しかし、やたらはしゃぎながら引き上げられた男は、崖の上に到着するとそのまま興奮して猿のようにとびはねてまわり、いっこうに手伝おうとしない。やむなく二人は、次の兵も息を切らせながら昇降機をぶら下げた滑車についた縄をえいやえいや引いて崖上まで引き上げた。
 だが、二人目の兵も代わろうとはしない。それどころか、平伍と文六に対して敵対心をむきだしにして、しまいには脅してなおも昇降機を操作させた。三人目が上ってくると、ますます古田の兵たちは横暴になり、二人を取り囲んで逃げられないようにして、なおも重労働を強いた。取り囲む手間をかけるより、手分けして仲間を引き上げた方が楽ではないかと二人には思えたが、そう考える間もなく次から次へと古田の兵たちを引き上げさせられた。どれほどへたばっても、兵たちは手加減しなかった。むしろ弱みを見せるほどますますいたぶりようはひどくなった。
 ついに力尽きて、仲間が落ちそうになってやっと取って代わったが、よくも仲間を危険にさらしたなと、すでに大半揃った兵たちは二人を殴り、蹴った。
 そして、半死半生になった二人を、古田と出川と入れ違いに崖下に落としたが、上ってきたお偉方二人は誰が落ちたのかついに気がつかなかった。


 次之進と兵馬は森を遡っていた。
 水没した足元はぬかるんでいるかと思うと、突然底が抜けたように抵抗がなくなり、倒れそうになる。
 森の中の葉や草の青々した匂いはすっかり陰をひそめ、代わりに腐った泥の異臭が漂っていた。心なしか木々の幹の肌も色褪せ、水浸しの根元とは裏腹に妙に白っぽくかさかさしてきている。
 青々としていた緑の葉も茶色っぽく捩れるように枯れてきており、瘴気で溢れるようだった森が、濁った泥の匂いで満たされている。
 どちらが川上で、どちらが川下なのか、水の様子からは見当がつかない。
 どんよりした水と空気の中で次第に苛立ちが募らせた二人は、やがて言い争いだした。


 平伍と文六は、森の中を進んでいた。背後から古田の兵たちがついてくる気配がする。二人は、自分たちが盾にされているのがわかった。
 崖でも兵たちはもっぱら二人に昇降機の操作を押し付けた。あとからあとから運び上げられてきた兵は、しかし自分たちの仲間を運び上げる作業に手を貸そうさはせず、人数が増えても代わろうとも手伝おうともしない。それどころか、人数にものを言わせて、いいかげんへとへとにへばった二人にさらに操作続行を強制した。へばって宙に浮いたままの後続の兵を地面に叩きつけかねないほどになっても、交代しようとしない。
 最後に出川、さらに古田を引き上げる段になると、やっと兵たちは交代したが、それはお偉方を落としたらまずい、という配慮からというからでは必ずしもなかった。落としたらまずいには違いないが、むしろわからないように揺すってみたり、少しずり落としたりしてお偉方がおびえて悲鳴をあげるのを楽しんだ。
 へばってへたりこんで平伍と文六は、その浅ましいさまを見て、逃げ出したくなった。
「文六よ」
 平伍は小声で文六に訊いた。というより、まともに声が出ないのだ。
「ろくな奴がいないな」
 文六は相変わらず、ちょっと緩んだ顔でうなずいた。
「浅ましい」
 文六が聞いている。
「逃げ出したいよ。金なんかもういいから」
 文六は聞いている。
 平伍は一方的に喋り続けた。
「しかし、あの崖の上からでは人の力を借りなくては簡単に降りることもできない」
「俺たちも、傍から見ればあんなのだったのだろうな」
「しかし、崖から降りたところで突然あの堰が壊れて、大水に押し流されたらたまらない」
 ひとりごとなのか、自問自答なのか、それとも答えを求めているのかわからない言葉がぶつぶつぶつぶつ暗い水の上を渡っていく。
「行くも地獄、退くも地獄とはこのことか。なあ」
 二人は、ふと足を止めた。
 前方に人がいる。一人、いや二人だ。
 見覚えのある顔だ。つい最近まで指揮をとっていた奴だ。馬場次之進と、浅香兵馬。両方とも、お偉方だ。
 そのお偉方が、二人を見ると、ひっというような声をあげ、くるりと背を向けて川上に向かっていった。
「なんだい、俺たちを怖がっているんか」
 平伍は、へ、へ、へといった笑い声をあげた。
 文六も同様に笑った。
 二人の背後に、古田の一隊が迫ってきている。そして、二人を追い抜いてなおも前進していく。平伍と文六は、ことの真相にやがて気づき、小さくなって追い抜かれるままに任せた。

 次之進は今、自分が敵に背を向けて逃げているのに気づいた。
(あんなに大勢、どこから現れたのか)
 天から降ったのか地から湧いたのか。
 水と湿気と光の反映の中で、本当にこの世で起こっていることなのか、わからなくなってきていた。
 森の匂いの中に、何か別の匂いが混ざってきていた。何か金気くさいような、生き物とは別のような、生き物そのもののような匂いだ。
 次之進は立ち止まった。暗い森の中で、何かが動いたような気がしたからだ。兵馬はしかし、構わず進んで行く。次之進が呼び止めようとしても構わず、警戒する風でもなく歩いていくと、前を立ちふさがるように一つの影が現れた。
 じいっと次之進はその影を見つめていたが、突っ立っているだけで動こうとしない。いや、きちんと自分の足で立っている風でもなく、半ば吊られているような頼りなげな佇まいでいる。
 さらに進もうとした次之進の首筋に、突然冷たいものが押し当てられた。
「動くな」
 言われる前に動けなくなっていた。
 聞き覚えのある声だ。
「久しぶり。金を持っているだろう。出せ。出さないと、ああいうふうになるぞ」
 前に立っていた人影が、突然心棒を抜かれた人形のようにぐしゃりと崩れて水面に突っ付した。
 その時になって、そこに漂っていた匂いが血の匂いであることに次之進は気づいた。
 倒れた男は喉を切られているらしい。匂いのもとに気づくと、その切られた傷口から流れ出た血の色、水の中に広がっていくようすや、力の抜けて捩れた手足まで、見えないのに手にとるようにありありと感じられて、次之進は吐き気を覚えた。
 屍の向こうに誰か傀儡使いよろしくのっそりと姿を現したが、顔もわからず、誰であるかもよくわからなかった。このあたりにいる男はすべて、いやというほど顔見知りだったはすだが、わずかの間にすっかり見覚えのない、別人のように見えるようになってしまっていた。



 次之進が懐に手をやろうとすると、
「ゆっくりだ」
 その声だけははっきり覚えがあった。よそものだった、あいつだ。
 次之進は、ゆっくり金を出した。
「おまえも」
 言われる前に、兵馬も金を出していた。
 二人から金を取り上げると、
「よし、行け」
 と、解放しそうな素振りを見せた。
 そろそろと離れかけた次之進は、何か別に大勢の禍々しいものが迫ってきているのに気づいた。
 水の中で、魚が逃げる気配がする。
「伏せろっ」
 と次之進は兵馬に命じた。
 ほとんど同時に二人が水の中に身体を投じて姿を隠したのと前後して、矢が木の間を縫って飛んできた。。
 やっと顔を上げた次之進は、今自分から金を奪った相手(圭ノ介とかいったか、とやっと名前を思い出した)はどこに行ったか、素早く探したが、目に入るところにはいなくなっていた。
 弓矢を構えた古田の兵がそろそろとやってくる。次之進は死んだふりをしてやり過ごすしかないとじっと薄目を開けて伏せていると、木の陰に入った兵が出てこない。
 どうなっているのか、と思っていると、他の兵たちが妙に慌てている。
 血の匂いが強くなった。
 木陰から兵がふらふらと現れ、膝が折れたようにへたりこんだ。腰の刀がつっかえ棒になり、空を仰いだような格好で動かなくなる。
 他の兵が警戒しながら接近してきた。空が暗くなってきてただでさえ悪い視界がますます悪くなり、顔もわからない。
 その一人が突然ずぶっと見えない穴に落ちて、体勢を崩す。足が穴にはまって動けないところに、引き倒され、暴れる水音とうめき声が聞こえ、やがて静かになった。
 次之進はこれ以上ここにはいられないと文六を振り返った。兵馬はすでにそろそろと兵が来たのとは反対の上流に向かっている。
 次之進もそれに続いた。
 血の匂いは、上流に来ても収まらなかった。
 それまで先を歩いていた兵馬が立ち止まった。
「どうした」
 次之進が傍らに立った。
「あ…、」
 目の前のあちこちに半裸あるいは全裸の死骸が水に漬かって、半ば泥水に埋まり、半ば水面に浮いている。
 かつてみな顔見知りだった男たちは、丸みを帯びた荷物か袋のような見慣れない物体になって、あちこちに散らばっている。
 兵馬は嘔吐した。次之進も酸っぱい液体を足元にたまった水にしたたかに胃の中身を吐き出した。
「なんという…」
 圭ノ介がひとりひとり、殺して金を奪ったのだ。ある者は首筋を切られ、ある者は心の臓を一突きにされている。水に漬かったかき切られてぱっくり開いた喉から、肺から逆流してきた空気がぽつぽつと泡になって吹き出ていた。
「もういやだ」
 兵馬が泣き声のような声をあげた。
 これまで戦場に出たことはあっても、だいたいにおいて集団で戦っていたので大崩れして殲滅されるという経験は二人ともなかった。
 それが数だけは一応揃えていたのが、いくらろくに装備が整っていないとはいえ、一人にここまで殺戮されるとは、思ってもみなかった。
「あいつは何だ、鬼か、天狗か」
 兵馬が、がくがくしだした。
 次之進は、森の外の明るい、前は川が流れていたあたりの水面に目をやった。
「おい…」
 自分が見ているものがまた信じられなくて、次之進は兵馬の脇を肘でつついた。
 鏡のような水面を、誰も乗っていない舟が滑っている。水が流れていれば、川下から川上に向かって、水面を切り裂き、滑らかな波紋を広げながら動いている。しかし、舟の上に人の姿はない。
(どうなっているのか)
 次之進はめまいをおぼえた。だが、一瞬のち、あそこに奴がいる、と直感した。
 そう決めると、次之進はとっさに後を追い出した。
 動き出すとともに、不思議とためらいや恐れはどこかに飛び去り、四肢を動かす動物的な感覚だけが次之進を支配した。
 泳いだ方がいいのか、浅瀬を走った方がいいのか、どちらにしてもあまり早くは動けないはずだが、浅瀬を泥に足をとられて走る次之進は、水面を蹴って走っているような錯覚を覚えた。
 兵馬が、待ってくれと悲鳴のような声をあげて追ってくる。
 舟が向きを変え、森の方に滑ってきた。
 次之進が先回りして短刀を持って身構えた。
 舟が止まった。中で何か光っている。何かなどと考えるまでもない、このために全員が重労働と水と泥との不快な環境に耐え、そして命を落とした元凶のものが光っている。空が暗くなってきたせいか、鈍い輝きがちらちらする程度だが、いったん目に入ると、目をそらすのは不可能だった。
 と、次之進はふっと果たしてあれが元凶なのだろうかとも思った。俺はあれがそれほどに欲しかったのか。命のやりとりをしなくてはならないほどに。第一、あれのどこがありがたいのか価値があるのかを、次之進はまるで想像できていないことに、今更のように気がついた。
 本来、命のやりとりをしなくてはいけない時になって、すぽっと何かがすっこ抜けたように白けた疑問に囚われて、また四肢が嘘のように萎え始めた。
(これではいかん)
 次之進はなんとか力を振り絞って目を舟の中の光からそらせようとしたが、またすぐすいつけられた。
(はてな)
 何か、舟のたたずまいに違和感がある。
 さっきとは波の立ち方が微妙に違う。
 兵馬は次之進の後ろに隠れるようにして、じっと舟を見ていた。
「あの舟はなんだろう」
「あれに集めた金を積んで川を下るつもりなのだろう。舟だったら全部の金でも一人で十分に運べる」
「いつのまに用意したのか」
 次之進が話に気をとられて、自分に隙ができているのに気づいてはっとした。
 と思うより早く、突然、兵馬が後ろに引き倒された。水の中に隠れて接近していた圭ノ介に足元を掬われ、引き倒されたのだ。
 次之進が駆けつけようとすると、
「動くな」
 兵馬の喉に刀を押し当てて、圭ノ介が野太い声で脅した。だが、わずかにその声の中にかすれたような震えが混ざっているのに、次之進は気づいた。
「血の匂いがするぞ」
 次之進は言った。
「ほとんど全員斬ってきたからな」
「だったら、なぜすぐ斬らない」
 次之進の呼びかけに、兵馬の顔がひきつった。
「斬らないでくれ。あれだけ俺と…」
「あれだけおまえと、どうした」
 圭ノ介はぴっと兵馬の喉を少し切った。喉にできた赤い筋がみるみる膨らみ、固まってすいと流れた。
 次之進の顔もひきつっていた。震える声で訊いた。
「なぜすぐ殺さない」
 兵馬は、それを殺せという意味だと受け取ったらしい、おこりにあったように震え出した。
 次之進はそれまで漂っていた血の匂いが、少し異質であることに気づいた。
「ケガしているのか」
 圭ノ介は答えない。
 なるほど、あれだけ大勢の、しかもきちんと武装した小隊と一人でわたりあったら、負傷しない方がおかしい。
「しているに決まっているだろう」
 兵馬が泣きが入った声で喚いた。
「おまえに聞いているんじゃない」
 次之進はそう言ったあとで、兵馬が泣き笑いのようなくしゃくしゃの顔をしているのに気づき、おまえのケガなどどうでもいいという意味に受け取ったのだと知って、あわてて言い直した。
「そうじゃない。こいつが手負いかどうか知りたいだけだ」
「そうだろうよ」
 今度はふてた口調で、言い返した。
 その殺伐とした表情を見ながら、次之進は今更ながらやりきれなく胸がつまるような思いがした。
「刀をよこせ」
 圭ノ介が命じた。
 次之進は応じない。わざわざ刀を取り上げようというのは、力が落ちているからだ。
「よこせ」
 渡そうとしない。
 圭ノ介は真一文字に兵馬の喉を切り、吹き出した血を次之進に吹きつけた。
 一瞬、目潰しになりかけるところを、次之進はなんとか腕で防ぐ。改めて構えかけたところに、圭ノ介が踏み込んできた。
(斬られる)
 と、思ったのは、しかし圭ノ介の刀を払ってからだった。
(しのげた、こいつの斬り込みを)
 自分が受けられたことに、次之進は驚いた。
(やはり、どこか負傷しているのだ)
 そう思うと、落ち着きが戻ってきた。
 圭ノ介も改めて構え直した。そうなると、両者とも動けない。
 次之進の視界に、喉を切られて痙攣している兵馬の姿が入っている。しかし、目には映っいても見てはおらず、心から追い出していた。
 冷静になって観察すると、圭ノ介の負傷は思った以上のようだった。何本か受けた矢をへし折り、あるいは引き抜いたらしい痕がそこここに見える。
 じっと見ていると、圭ノ介も次之進から視線は外さないにせよ、視界に入っているであろう舟の中の黄金を忘れているはずはない。
 だが、うかつに踏み込むわけにはいかなかった。
 遥か頭上で雷が鳴った。さきほどから急に空が暗くなってきていたが、突然嵐の前触れがきたようだ。
 それとともに、何人もの人間のざわめきや息遣いが近づいてきていることにも、二人は気がついていた。
(このままではまずい)
 二人は、呼吸を合わせたようにぱっと離れ、圭ノ介は停めてあった舟へと、次之進はより上流へと足を向けた。
 次之進が振り返った時、川面というか、湖面というか、水面の真ん中あたりに漕ぎ出た舟に向かってしきりと矢が射掛けられているのが見えた。
 次之進の足元は相変わらず悪く、追っ手を振り切るのは難しい。次之進はとっさに手近にあった最も高い木にとりつき、登って枝葉の中に隠れた。
 雨がますます激しくなってきた。天がひっくり返したように、大粒の雨が降り注いできて、不安定な枝にとりついた次之進の頬をぴしぴし叩いた。枝が滑り、ともすれば平衡を失って落ちそうなるのを懸命にしがみつきながら、次之進はなおも枝葉の間を透かして圭ノ介の舟を注視した。
「逃がすな、放て」
 古田はしきりと下知を下した。
「放て」
 出川が続けて下知した。
 兵はどちらの下知もろくに聞かず、それぞれの判断で矢を放ち続ける。すでに獲物になっている男が、何を持っているのかは洩れていた。そしてあわよくば独り占めしたいと、誰もが思っていた。
 圭ノ介にまた、何本もの矢が刺さった。いいかげん倒れてもよさそうなのに、何かに操られているかのような奇妙に空虚な動きをやめようとはしない。
 舟はほぼ湖水というか川面の中心に来ているので、誰も近づくことはできない。
 豪雨にさらされた水面がけば立ち、折からの突風に波打ちだした。とても山の中の小さな人造湖とは思えない威容だった。
 空が光った。わずかな間をおいて、腹の底にまで響くような雷鳴が轟く。
 木々が風にあおられて激しく身悶えするように揺れ、捩れる。
 次之進はばさばさ煽られる木の枝に激しく顔面を殴打されて目がくらみ、滑り落ちかけて濡れて滑る枝に必死でしがみついた。
 矢を射かけていた兵たちも、あまりの風雨に体勢が整わず、浮き足立ち気味だ。
 空が白くなった。と、同時に雷が舟とその上の圭ノ介に落ちた。舟も人も、ともに白く閃光を放ったかと思うと、一瞬真っ黒になり、一呼吸おいて炎が吹き上がった。豪雨にも関わらず、炎の勢いは衰えず、舟も人も燃え上がって風と波に揉まれて揺れている。その中でも、人影は炎の中で真っ黒になりながら、操り人形のような生きているとも命が抜けているともつかず身体を揺らしている。
 その時、圭ノ介は自分がしがみついている木そのものが動いているのに気づいた。根のあたりの土がすっかり溶けてしまい木が浮き上がってきたのだ。
 木々が動き出したのは、次之進のしがみついているあたりばかりではなかった。森全体が浮き上がって揺れ動きながら、巨大に膨れ上がった水の中に、動物が集団入水でもするかのように雪崩れこんでいく。それとともに、出川も古田も、その配下の兵たちも、泥と歩き出した木に押し流されて、あとからあとから水の中に引きずり込まれていく。
 悲鳴も絶叫も、風雨に掻き消された。次之進の見下ろす中、轟音のため何も聞こえない中、泥と木と人とが混ざって渦巻いている。
 次之進はなぜここまで来て堰が切れないのか不思議だったが、その時轟音の向こうにきしむ音を聞いた。
 真っ黒な影になった舟の上に圭ノ介が、大きな波を受けてもんどりうって水中に没した。
 次之進は思い切って枝の上から渦巻く水に跳んだ。水中の静寂の中で、次之進はきしむ音が何であるかを直感的に知った。
 ぎしぎしいっていた堰がいよいよ限界にきたのだ。というより、なぜか壊れないでいた堰がやっと自然の理に従うようになったということだろうか。
 材木を貫いていた鉄の棒は、曲がるより先に短くちぎれた。ためにためられた水と堆積していた泥と木がのたうち崖から噴出した。
 それとともに、水はその中に抱えていた泥と木とを根こそぎ持っていって、それ自体巨大な生き物のように崖から身を投げた。それはかつてここに流れ落ちていた滝に百倍する巨大さと力を持って荒れ狂い、崖下で砕けてもなお勢いは衰えず、奔流となってさらに下流を襲った。
 田畑はあっという間に濁流に押し流された。
 与平は突然の豪雨に田を見に来て、突進してくる水の山に一瞬で呑まれた。ぶつかった瞬間、肋骨にひびが入り、溺れるより早く呼吸が止まった。
 降り注ぐ豪雨を受けて水に勢いは衰えず、里にある市や国守の屋敷も一呑みにした。
 雨がやみ、川のそばからすべての人影が消えた。
 その中を、一艘の舟が無人のまま流れていく。それに何が積まれているのか、なぜ崖から落ちて壊れも沈みもしないのか、もちろん誰にもわからなかった。
 舟は無人の川を流れ、海に出た。日が沈み、舟を金色の光で包んだ。


(終)





山の湖 5

2020年10月15日 | 山の湖
 岩佐玄審は、茂みに身を隠しながら手の中の金を改めて握り締めた。
 背中から首筋から、熱いとも冷たいともつかない汗が流れ落ちる。奪い合いを演じた時に争った相手に踏みつけられた、金を握っていない側の手がずきずき痛んだ。
 頭の中はほとんど真っ白だった。掌を開けてみるのが恐ろしい気がする。見てみたら、ただの石ころを握っていた、などということはないだろうな。玄審はそうっと掌を開けてみた。茂みの暗がりの中でも、見たこともない光が木漏れ日に煌いた。それがどんな価値があるものなのか、玄審にはよくわからなかった。
 しかし、あれだけ狂乱して争って奪い合ったのだ、何かきっと価値があるに違いない。
そうだ、金を握り締めた手で、その手にかじりついて来た奴の顎を思い切り殴ってやったのだった。信じられないくらい重い手応えだった。何か顎の骨が砕けた感触があった。今でも生々しくその感触が残っている。
 これまで幾多の戦に参加してきたが、自ら進んで戦ったことはない。戦に負けるのはまずいが、勝っても何かをつかみとることなどできない。とにかく生き延びれば良かった。飯は食べられたし、どさくさ紛れに略奪も大っぴらにできた。
 しかし、今回は我ながら何かに憑かれたように働き、争い、つかみ取った。これほどの高揚を覚えたことは、久しくなかった。
 手の中のその成果をしげしげと見ているうちに、玄審はしかし、その高揚が急激に冷めていくのを覚えた。
(こんなものか)
 山の中とあっては、いかに金色の光を放っていても、ただの石といえば石だ。里に降りていかなくては、何の価値もあるまい。
 しかし、このままではたった一本だ。いくら握り締めてもさすっても、増えるわけではない。色街に行って豪遊すれば、いくらもしないうちに使い果たしてしまうだろう。
 作物の種ではないから、撒いて育てるというわけにもいかない。
 そうなると、これ一本だけでいいものだろうか、と思えてくる。これ一本だけしかないのならともかく、どう見ても三十本以上はあった。全員一本づつ配布したとしたら、丁度公平に分けられたと考えてもいいかもしれない。考えるべきなのかもしれない。ほどほどのところで我慢して手を打てと裡なる声がささやいた。
(これでは、足りん)
 むくむくと現れたもう一人の玄審が対抗して声をあげた。
 金を手にした者はとりあえず逃げ、散り散りになりながら、手にしそびれた者が追いかけていた、噛み付きそうな血眼の形相が頭の裡に閃いた。
(彼らが、あきらめるか)
 あきらめるわけがない。自分が彼らでも、決してあきらめないだろう。どこまでも追ってきて、殺してでも取り上げようとするに違いない。
「殺してでも」
 思わず声が出てしまっていた。それから、震えがきた。自分が出した声が、何者かが脅しの文句に聞こえた。
 殺される前に殺すべきだ。玄審は武器を探した。石を握った手では、どうしようもない。脇差は小屋に置いてある。半裸の工事作業がもっぱらでは邪魔で仕方ないので、全員の分をまとめて管理するようにしているのだ。
(まだあるだろうか)
 考え出すと、急に気が急き始めた。いても立ってもいられない気持ちだ。小屋に戻らないといけないが、誰か待ち伏せはしていないか。
 びくびくしていても仕方ない。
 玄審は何か奇妙な音がずっとしているような気がしていたが、それが何かはわからなかった。
 玄審は小屋はどっちだったか確かめるために、いったん川沿いに出ることにした。が、川の方向を定めるための水音がしないことに気づいた。水面が照り返す光でもわからないかと木立の間を透かして見るが、まるで視界が効かない。
 太陽の位置を確かめようとしたが、曇り気味の上、仮に位置がわかったところでどちらに進めばいいのか判断できない。
 玄審は焦り、やみくもに進んだ。いや、進んだのではなく同じところをぐるぐる回っているだけかもしれない。さっきも似たような形の切り株を見た覚えがある。下を見て、ゆっくり足元を確かめて進まないと。
「なんだ、これは」
 足元に、異変が起こっていた。
 妙に足元が粘る。重みをかけると、足が沈む。湿気が増してきているというだけではない。水が地面に広がっているのだ。意外なほどの速さで、生き物のようにいつのまにか地面に散らばった木の葉やふわふわした土を浸している。それは広がっているというより、気がついたら地面から水が湧いていたという感じだ。
(まさか)
 と、同時に先ほどから聞こえていた何か奇妙な音が何かわかった。ふだん聞こえていた虫や鳥の鳴き声がしなくなっていたのだ。音がするのではなく、ずっと聞こえていた音がなくなっていたのだった。
 川と森とは別々の世界と思っていたら、いとも簡単にその境がなくなってしまった。
これではすぐ森の中の小道もわからなくなる。玄審はますます焦った。とにかく、上に逃げなければ。
 だが、それとわかるほどの高低差はほとんど感じられない。足元がよく見えないので、乾いた場所を選んで進んでいるつもりでも、突然ずぶっという感じで足元がとられる。これではどう動いていいのかわからない。玄審は立ち往生してしまった。
(…)
 何者かの気配を感じ、玄審は息を殺した。
「おまえか」
 平伍の顔が、木の向こうから現れた。
 見慣れた顔だったが、この時はまったく別物に見えた。いつもの間抜け面が目が血走り、頬が引きつったようにひくひくしている。
(こいつ)
 やはり、こいつも敵か。
 何か光った。
 平伍が脇差を抜いている。丸腰では相手になりようがない。玄審は踵を返して逃げ出した。足元がぬかるみ出し、思うように走れない。
 足音がしない。追ってこないのか、地面が柔らかくて音がしないのか。
 前方の木陰からまたぬっと何者かが現れた。
 玄審は、また同じところをぐるぐる回っているのかと思った。現れたのが、同じ顔だったからだ。
 後ろで、木の枝が折れる音がはっきり聞こえた。
 振り向くと、また同じ顔があった。前と後ろを同じ顔に挟まれている。
 玄審は、何か悪い夢を見ているようだった。
 二人とも、短い刀を煌かせてじりじりと迫ってくる。前を見ても後ろを見ても敵。それも同じ顔の敵。
「待て」
 玄審は制止した。
 二人の男の距離が縮んだ。鏡の間に挟まれたように、玄審の姿が見えなくなり、離れた後、しばらく立ちすくんでから崩れるように膝をつき、地面に横たわった。頬をつけた地面には水が忍び寄っていた。


 川下の田んぼで一仕事して水路のそばで休んでいた与平は、突然蛙の鳴き声が騒がしくなったのに気づいた。
「はて、一雨くるのか」
 空を見上げたが、何も異常はない。地に目を向けると、水路の水がばかに減っている。
 与平は川に行ってみた。
 行って驚いた。川の水が干上がり、そこかしこで魚がぴちゃぴちゃ水溜りを跳ね散らかして暴れている。日照りが続いたわけでもないのに、どうしたことか。
 与平は、前にもこんなことがあったのを思い出した。その時は突然晴れているというのに洪水が襲ってきて、田んぼが水浸しになってしまった。あんな災難は二度とごめんだ。どういうわけなのか、当時の領主だった滋野家の役人に届けを出して原因を調べてくれるよう訴えたが、まったくのなしのつぶてで、ついにはその滋野家そのものが滅びてしまった。
 あんな領主は死んでもらって助かったくらいだが、その後も領主は二度も変わった。斉藤とか古田とか、名前を覚えるのも面倒なくらいだ。
 危なくなると、与平は一族郎党まとまって山に隠れる。そしてほとぼりが冷めるとまた里に戻る。山で山の民に会うことはほとんどない。というより、与平たち里の者は、山の者は極端に言えば鳥獣の同類と受け取り、口をきくのも忌むところがあった。
 もとより山の者が何をしているのか、上流で木を切り倒して洪水を起こすわ、水を汚すことはたびたびで、昔は里と争いが絶えなかった。
 このあたりは先代、先々代の領主も心得たもので、たびたび山狩りを行い、多くの山の民を強引に里に連れてきた。鉄を作る技術を持った者は特に強制的に狩りたてられ、武器の製造にあてられたという。
 もっとも、そんな昔のことは与平もよくは知らない。村でも鍬や鋤などの農具を鍛えるくらいは、自前の鍛冶屋で十分にできる。何もよそものに頼ることはない。しかし、そのよそものが、今ではすっかりいなくなったのかどうかは知らないし、考えたこともなかった。
 しかし、このまま水が流れてこなかったら。争いになることを考えて、村の者を集めておく必要があるだろう。まだ領主が代わって日が浅いが、直訴しておく必要もあるだろう。まだ脆弱な権力しか持たない領主は、民衆に束になって脅されると言うことを聞かざるをえないはずだ。
 与平は、領主などひとつも恐れていなかった。
 隣の末吉がやってくるのが見える。おそらく、与平が考えていたのと同じ相談事だろう。与平は腰を上げて歩き出した。
 やがて、その足が止まった。
 末吉の後ろ、川沿いの道の遥か彼方に、大勢が蠢いているのが見える。全員、武装しているようだ。
 末吉が与平の様子に気づいて振り向いた。
「ありゃ、なんだ」
「軍勢みたい、だな」
「また戦か」
「そうだろう」
「誰の軍勢だ」
「よくわからん」
「どこに攻めに行く」
「わからん」


 玄審の死骸は、次第に増えていく水にじりじり呑まれつつあった。頬に蛞蝓が這っていた。
「埋めるか?」
 平伍がもう一人の平伍に聞いた。正確に言うと、平伍が文六に聞いた。
「埋めなくても、このまま置いとけば、うまいこと沈むんじゃねえか」
「馬鹿だな、おまえは。人の体は水に浮くんだ」
「浮いたっていいじゃねえか」
「浮いてたんじゃ、目立つじゃねえか」
「目立って、悪いのか」
「悪いさ」
「どうして」
「なんで死んでるのか、おかしいと思われるだろう」
「俺たちが殺したからだろう」
「だから、それがばれると困るんだ」
「そうか」
「わかってるのか」
「ああ、わかってる」
「ほんとに、わかってるのかよ」
 上から、声がした。
「わからんでいい」
 二人は、どこから声がしているのかわからないで、きょろきょろした。
 さらに声は続いた。
「戻ってきたのか」
「ああ」
 文六が答えた。
「俺、あの崖の上り下り、好きだ。すーっと上に行ったり、すーっと下に下がったり」
「好き嫌いでやるものではない。見つかったらどうする」
「この工事の大騒ぎで、それどころじゃなかったよ」
 平伍が代わりに答えた。
「どうだ、里の様子は」
 相変わらず姿を隠したままの声がした。
「人と話すときは、面ぁ見せてからにしてもらいてえな」
 平伍が怒り、開き直って言った。
「泥棒みたいにこそこそしやがって、それでも侍大将かよ」
 すーっ、と木の葉の間から逆さまになった出川の顔が覗いた。
「コウモリだね、まるで」
 文六が感心したような声をたてた。
「まったくコウモリだよ、あんたは」
 平伍が声をひそめた。
「で、古田の援軍は来るのかい」
「来るはずだ」
「確かに伝えたか」
 と、平伍は文六に訊いた。
「はい、言われた通り、そろそろお宝がでるって」
「よしよし」
 出川が逆さまのままうなずいた。
 文六が見上げながら訊いた。
「しかし、なんで木の上で逆さまになってるんです」
「下がぬかるんできたからな。あと、あたりに誰かいて立ち聞きされたら、まずい。上から誰もいないのを確かめていたのだ」
「それにしても」
 変な格好だ、というのを平伍は呑みこんでから、弟の姿をしげしげと見た。
 血と泥にまみれると、ほとんど他人は見分けつかないだろう。二人が似ているのを利用するのを考えたのは、出川だった。
 もともと、旅に出る前、もし宝が出なかったらどうするか、万一のことを考えて手を打っておいたのが始まりだった。
 山にいても、絶えず里の様子を知っておく必要がある。
 そこで一計を案じ、里に弟の文六が降りた時、死んだように見せて、今の山の様子を今の里の支配者に知らせて出川が宝をつかんだように思わせて、誰が今後も生き延びられるよう布石を打っておこうとしたのだった。
 文六が自分がどんな役割を果たしているのか、わかっていたのか怪しいものだ。間者として使われる身になって、どう立ち回れば生き延びられるのか、海千山千の連中に混じって立ち回れるものでもない。
 しばらくしてから、文六は山に戻った。そこで工事でへとへとになっている兄と夜に交代した。兄は滝のそばの崖下に降り、崖上の状況で知りえたことを迎えに来た古田側の間者に伝える。そのような伝令役をつとめるついでに、工事の重労働から逃れての骨休めができるのが、魅力だった。河原で手足を伸ばしてごろごろしても、誰も文句は言わない。つかまえた魚を丸ごと焼いて一人で食べられる。
 次の日は、替って文六が平伍の仕事を引き継ぐ。引き継ぐといっても、その場その場の指示に従うだけだから問題はない。
 適当な日にちが経ったら、また夜闇に乗じて兄弟が入れ替わる。
 そして最新の状態を伝えるとともに、適宜休息をとる。という真似をしていた。ほとんど互いに面識もないし、興味もないのでばれることはなかった。と、思う。
 しかし平伍はいささか不安だった。いよいよお宝を実際に目の前にして、しかも里の本家が本腰を上げてきたとなると、どういう風に事態が動くかわからない。
 この集団で一番位の高いからといって、出川の言うことを諾々と受け入れたのは失敗だったかもしれない。しかし、今更引き返せない。
 出川は相変わらず木に登っている。
「いいかげん、降りてきたらどうです」
「いや用心第一だ」
「あと、どうなるんですか」
「決まっている。宝が出た以上、もう乾圭ノ介に用はない。里から本隊が着くのを待って、始末してくれる」
「そううまくいきますか」
「一人で何ができる。こちらには矢でも鉄砲でも揃っているのだ」
「しかし、古田が約定を違えないという保障があるのですか」
「約定?」
「そもそも、古田が謀反を起こすのを知っていたのですか」
「謀反など、いつ起こっても不思議はない。それがこの世のならいだ。わしはそれを忘れたことはない。だから生き延びてこられた」
「金は持ってるのですか」
「持ってる、だろ」
「だろっ、て。我々ではなく、あなたがです」
「これから集めるのだ。何しろここの指揮官はわしなのだからな」
 出川は、けけけけと鳥のような声で笑った。
(この人、正気なのだろうか)
 平伍はなんだか薄気味悪くなってきた。
「では、しっかり集めるのだぞ」
「何をです」
「金をだよ。手始めにそいつのを取れ」
 平伍は玄審の手を開かせ、握られていた金を取った。
「よし。こっちによこせ」
 と、上から手を伸ばした。
 文六が口を尖がらせた。
「これは、俺たちんだ」
「誰が取るといった。預かるだけだ」
「ふざけるな。誰が信じるものか」
「そういうけどな。今はこういう時だ。戦になるかもしれないし、水かさもどんどん増している。この地面ですら、確かなものではない。その中、ずうっと金を握ったままでいるのか」
 平伍が言い返した。
「下帯の中にでもしっかりくくりつけておけばいい」
「金の玉の横に金の棒を並べておくのか」
 出川の下がかった駄洒落に、平伍と文六はげんなりした。
 地位を嵩に着て、時折こういう下じものこともわかっているぞという顔をしたがる。
 突然、平伍が笑いだした。文六もつられて笑いだす。
「わかりましたよ」
 平伍が妙にゆっくり返した。
「渡します」
 金を差し出し、出川が取ろうとしたところで、刀を突き出した。
 一瞬早く、出川の姿は木の葉の中に消えた。上から声だけが聞こえる。
「バカモノめ、それくらい読めるわ。よほどわしを愚かだと思っていたらしいな。ここからおまえたちが殺しあうところを見せてもらうぞ。ほら、誰か来た」
 平伍と文六は身構えた。


 立花信吾は、みるみるぬかるんでいく地面に足をとられながら、棒切れを手に森を進んでいた。
 金も持っていなければ、武器も携えていなかった。どちらもどさくさまぎれのうちに手の指の間をすりぬけるようにどこかに行ってしまった。
(まったく、なんてことだ)
 どうやって身を守ればいいのだろう。
 平伍と文六はともに木陰に隠れた。武器は持っていなさそうだが、用心するに越したことはない。
 信吾が近づいてきた。平伍がゆっくりと木陰から姿を現す。
「きさま…」
 信吾が身構えたが、そのためかえって棒切れしか手にしていないのがはっきりした。
 文六が挟み撃ちにできる位置に来るよう、平伍は誘導する。が、文六もなぜかもたもたしている。
(何してるんだ)
見ると、文六は突っ立っているうちに泥に足がはまって動きがとれなくなっていた。
 やむなく、平伍は一人で切りかかる。が、これも足元が悪いため、踏み込みが甘く切っ先が届かなかった。
「金はない」
 懸命になって信吾は叫んだ。
「だから見逃してくれ、頼む」
 平伍はやや躊躇した。確かに、金にならなければ、殺すことはない。と、思うと突然足が泥から抜けた文六の刃が、勢い余って信吾の右わき腹をふかぶかと刺さった。
 え、というような意外な顔をして、信吾はそのまま崩れ落ちた。短刀はわき腹に刺さったままになっている。
「何をしてるんだ」
 平伍があわてた。
「いてえ」
 ぼそっと血のついた手を見ながら信吾が呟いた。
「余計な殺生しやがって」
「だって、足が急に抜けたものだから」
 信吾がどさっと倒れ、動かなくなる。
「だってじゃねえ。長居は無用だ。行こう」
 二人が去ったあと、出川が木から降ってきた。泥の中にもろに全身を横にして落ち、頭の先からつま先まで泥まみれになった。
「い、た、た、た、た…」
 それでも、泥のおかげで怪我はしないで済んだらしく、もたもたとなんとか立ち上がった。はっと気づいてあたりを見渡す。倒れている信吾を突付いて死んでいるのを確かめる。
「まったく、いつまでももたもたしやがって。猿じゃあるまいし、いつまでも木の上にいられるか」
 打った腰を抑えながら、ひょこひょこと歩いていき、さっき倒されたまま泥の中に突っ伏して放っておかれている玄審もつま先でつついてみる。
 突然、玄審の身体がはね起き、出川は腰を抜かした。
 はね起きた玄審の身体は、しばらく見得をきるように立ち尽くし、仰向けにどうと泥の中に沈んで動かなくなる。
「なんだってんだ、畜生め」
 出川は腰を抑えるのを忘れて、あわててその場を去った。


 川の両岸にそれぞれ一人づつ、二人の男が立っている。一人は与一郎、もう一人は源太。下帯ひとつで寒いのか、半ば身体をくの字にまげるようにして、しかし互いに睨み合っている。
 いや、睨みあっているわけではなく、睨んでいるのは相手が手にした金だ。
 川の水が次第に増えていくので、だんだん男たちの身体も水に漬かっていく。
 しかし、思い切って泳ぎ出し、相手の金をもぎとるというのは相当に難しい。争った挙句、二人ともなけなしのお宝を水底に落としてしまうかもしれない。
 そう思うと、なかなか一歩が踏み出せない。
 やがて、二人は呼吸を合わせて、くるりと互いに背を見せて川から上がってしまった。
 上がってきた与一郎の前に、男が立ちふさがった。
 刀を構えようとした与一郎のみぞおちに木の棒の先が食い込み、うっとかがんだ顔面に膝蹴りが入った。
 たまらず昏倒した与一郎の手から刀がもぎ取られる。
 しばらくしてなんとか半身を地面から起こした与一郎の顔を、圭ノ介が覗き込んでいた。
 圭ノ介は慌てて起き上がろうとした与一郎の刀をもぎとった右手を踏んで立たせない。
「刀は預かった」
 それでももがく与一郎に、
「もう一方の手を見てみろ」
 言われた与一郎が、やっと左手を見ると、金は握られたままになっている。
「片手に金を握ったまま戦おうったって、無理な話さ。片手で振り回すだけじゃ、腰が入らない。両手でしっかり握って鍔迫り合いができないのでは、勝てやしないぞ。暴れるな」
 与一郎は抵抗するのをやめない。
「やろうと思えば、とっくに殺して金を奪っている。そうしないのは、なぜだと思う」
 やっと、暴れるのがやんできた。
「今は、みなばらばらに金を握って勝手に逃げ回っているだけだ。全部まとめれば国を買えるほどの金だが、割ってしまえば遊びまわっているうちになくなってしまう程度のもの」
 与一郎は抵抗をやめた。
「それではつまらないと思わんか」
 圭ノ介は、与一郎の手から足をどける。
「どうしようというのだ」
 立ち上がりながら、与一郎が訊いた。
「金は一つより二つ、人は一人より二人だ」
「俺と組もうっていうのか」
「そんなところだ」
「あんたはお偉方しか相手しないのかと思ったぜ」
「俺が相手にするから、偉くなるんだ」
「言うね」
「俺が直接使っていた出川正信だの馬場次之進だのといった手合いを、本気で偉いとでも思っていたのか」
「いや、まさか」
「で、俺と組むのか」
「ああ」
 圭ノ介は、奪った刀を突き出した。
「返す」
 与一郎はぎょっとしたが、刀を返す、という意味であることに気づき、受け取った。冷や汗が首筋から背中にかけてどっと流れていた。


 川の反対側では、次之進と兵馬が川から上がってくる源太を待ち伏せていた。
 それと知らぬままやってきた源太に対し、前を次之進が立ち塞がり、後ろを兵馬が挟み撃ちにするつもりだ。
 二人は刀を持っていない。そこで両方から石を投げ、まず刀を奪うのを先決だとあらかじめ決めていた。
 源太がやってくる。まず次之進が予定通り前に立ちふさがろうとすると、兵馬が一緒に前に出てしまう。
「何してるっ」
 次之進は慌てた。
 源太は、当然川沿いに走って逃げようとするが、水かさが増していたのですぐ逃げ場がなくなる。逃げる源太の後ろから拾い集めていた石をぶつける。
 倒れた源太を二人がかりで強引に取り押さえた。
 取り押さえた後も、源太は大いに暴れ、二人でのしかかって押さえ込む騒ぎになった。
 源太はあらゆる汚い言葉を吐き散らかしたと思うと、一転してわびを入れ、命乞いをしてみせた。
 その間、ひたすら黙々と、次之進は刀を持った右手を、兵馬は金を持った左手を押さえつけていた。
 やっと三人ともくたびれて動けなくなってから、やっと二人もまともに口が動き出した。口しか動かなくなったといった方がいいかもしれない。
「じたばたしやがって」
「さあ殺せっ」
 源太は興奮して、まともに人の言葉など耳に入らない。
「まあ待て」
「動くな」
「俺たちは敵じゃない」
「何が敵じゃないだ、欲しいのは金か、命か、どっちもくれてやるっ」
 業を煮やした次之進は、
「えい、奪え」
 と、兵馬に命じた。
「何をだ」
「両方だ」
 と、言ったものだから、まだどこにこんな力が残っていたのかという馬鹿力を出して、あやうく二人を振り払おうという勢いだ。
 そうなるとまず危険な刀を奪うのに二人がかりで、兵馬が押さえつけ次之進が源太の手に噛み付いて、やっと刀を取り上げた。
 そうなると、源太は震えあがって手を合わせて念仏まで唱えだす。
「命だけはお助けっ」
 そう言って合わさった手の間から、金が覗いている。
「地獄まで金を持って行くつもりか」
 ぼそっと兵馬が呟く。
 源太が慌てて金を後ろに隠した。
「あわてるな。命も金も取る気はない。その逆だ」
 取り繕うように次之進が言った。
 源太が次之進と兵馬を交互に疑わしそうな目で見比べる。
「どっちなんだ。襲いかかっておいて」
 そのうちに、二人が自分から奪った刀しか持っていないのに気づいた。
「ふざけやがって、獲物を持っていなかったのか。石ぶつけるなんて、俺は犬じゃねえぞ。なめた真似をしくさって」
 それから源太を説得するまで、次之進は大汗をかいた。その間、兵馬はふてくされたようにそっぽを向いていた。
 内容は要するに仲間になって力を合わせてお宝を集めようということだったが、初めの行き違いが響いて、交渉を成立しなかった。
 あくまで仲間にならないというのなら、
「斬るしかない」
 と、兵馬は主張する。
「殺してお宝を奪おうっていうのなら、初めからさっさとやればいいじゃねえか」
 開き直った源太があぐらをかいて座り込み、せせら笑う。
 その首筋から血が噴き出した。
「野郎、本当に斬りやがった」
 首から噴き出す血を手で押さえながら、源太が地面を転がる。
 血がついた刀を持ったまま、兵馬が少し離れた場所でその様子をじっと見ている。次之進の方がうろたえていた。
「なぜ斬った」
 兵馬は黙って源太が絶命するまで待って、その手から金をもぎ取った。
「このために決まっているだろう」
 じろりと次之進に白目がちな目で睨まれ、次之進はたじろいだ。
(いつからこんな目つきになったのか)
 と思わせた。
 刀と金はともに兵馬が持ったままだ。
 次之進がいつしかじっと見ているのに気づいた兵馬は、ぽんと金を投げてそこした。
「預かっててよ」
 受け取った次之進は、安心していいのかどうかわからなかった。大事な方をよこしたとも、刀があればいつでも取り上げられるともとれる。
「行こう」
 兵馬が先に立って言う。
 次之進は、金とともに、さっき拾った残りの石も握り締めてついていった。







山の湖 4

2020年09月20日 | 山の湖
 筏が組みあがった。縄で組み上げたのに加えて二本の鉄棒を両脇に通し、縦六尺、幅三間、水が漏れないように継ぎ目はしっかり泥と粘土とで塞がれている。
 岸に杭も打たれている。
 重しになる石を詰めた袋、漆喰を剥がすための鑿と槌その他、ある道具は使うかどうかわからないものも含めてすべて川岸に集められ、人間もいる者はすべてすぐ働くかどうかに関わらず、やはり川岸に集まった。
 川を堰き止めたあと、急いで滝の上に行って漆喰を剥がし、金を取り出す任に就くのは二人。剥がす漆喰の範囲からして、それ以上いても邪魔になるだけだ。この二人には、次之進と兵馬がそれぞれ名乗り出たので、すんなり決まった。何しろ、下手をしたら筏が決壊し、そのまま堰き止められた大量の水もろとも滝つぼに転落するかもしれない任なのだから、
 あと、ちょうど堰を作るあたりの岩の上に立ち、全体を見渡しながら指揮をとるのが圭ノ介。
 水を堰き止める筏を操るのに必要な人員は、両岸に十二人づつ割り振られた。出川は居場所がなくて、うろうろしている。どこにいればいいかというので、適当なところにいろと命じられて、圭ノ介の立つ岩の下にへばりついた。
 縄が筏の四隅にがっちり結び付けられた。重しもがっちり一辺にくくりつけられる。
 すでに筏の下には、コロになる細い木が三本ばかり入れられている。重しがついていても、さほど力を入れずに動かせるはずだ。
 兵馬と次之進は、それぞれ鑿と槌を持ち、命綱をしっかり腰にくくりつける。
 圭ノ介は、弓と箙とをしょい、扇代わりの大きな葉がついた枝を両手に持った。さすがに顔が上気したように赤くなっている。
「聞こえるかーっ」
 大音声で向こう岸に渡った連中に呼ばわった。
「おうっ」
 と、いう声がばらばらに返ってくる。
「声を合わせろっ」
 さらに大音声で命じたのに対し、
「おうっ」
 今度は呼吸を合わせた返事が返ってきた。
「こちらが」
 と、自分のいる側、川上から見たら右側の筏の引き止め手たちに対して、
「引く時は、こうだ」
 枝を弓手に持ち、頭の上で前から後ろに動かしてみせる。
「わかったか」
「おうっ」
「止めるときは、こう」
 と、斜め上に突き出して
「あちらが」
 今度は左側の引き手に対して呼びかけた。
「引く時は、こうだ」
 馬手の枝を、同じように前から後ろに動かす。
 それに対して、引き手たちは黙って綱を引く形を作って、それに答えた。
 同じ動作が繰り返され、全員にどの指示にどう動けばいいのか、叩き込まれた。
 縄の杭に一回し二回しされた続きが、全員の手に握られる。
「では、いくぞ」
「おうっ」
 腹の底から響く、一段の力の籠った声が返ってくる。
「流せ」
 コロに乗せられた筏が、押されて川に浮かんだ。
 たちまち流れに乗って下流に流される。急いで、全員腰を落として縄をつかむ。
 筏が重しを引きずりながら動いていく。杭に巻きつけられた縄が摩擦できゅるきゅる音を立てる。
 圭ノ介は指示を出さない。今のところ、自然に流れるままに任せているらしい。とはいえ、川の流れはともすれば筏を大きく縦向きに直そうと、周囲で複雑な渦巻きを形作る。
 やおら、圭ノ介が弓手を激しく前後に煽った。川下に向かって右側の引き手たちがいっせいに踏ん張って縄を引く。縦になりかけた筏が再び帆船の帆のように流れに向かって垂直になった。さらにじりじりと流されていくのを杭と人力で制御しつつぴたりと狭まった岩の間に嵌まるように導いていく。
 圭ノ介の両手はせわしなく合図を出し、三十人弱は懸命に今は一体になって、川の流れの力の強さに驚きながらなんとかこれをいなしかわしながら制御しようとする。
 筏にくくりつけられた重しがしばしば川底を摩った。大きな水の塊が膨れ上がって筏にぶつかり、三十人を軽々と引きずる。綱を握った手はこすれて血が滲む。
 なんとか岩場が迫った。
 岩の上に立つ圭ノ介はほとんど天に向かって踊り踊っているようで、物狂いの境地に入ったようだ。
 いよいよ目的の岩場が迫った。次之進が垂直に見るとほぼ直角に削って、筏が嵌まるようにしつらえた岩に、筏ががっとぶつかる。幅もほぼぴったり嵌まる。
 次之進と兵馬が六尺の鉄棒を持って縦六尺ほどの筏を川下から突き上げ立てると、そのまま水の勢いでみるみるたかだかと川の流れに立ちふさがり、そのまま動かなくなった。隙間から水が漏れはするが、流れてくる川の水量ははるかにそれを上回る。水は首尾よく堰き止められ、堰となった筏から下流はたちまち水が涸れ、先ほどまで轟々としていた滝の音がみるみる止んだ。止んでみると、不思議なほどの静けさが別の音のように押し寄せてくる。
 次之進と兵馬は、この時を逃さず溜まり水を蹴立てて川底にあるでおろう漆喰で固められた痕を探してまわった。
「どこに隠した」
 圭ノ介に訊くと、
「そのあたりだ」
 岩の上からちょうど川の真ん中あたりを示す。
 二人は血眼でそれらしい痕を探す。だが、水流にさらされ洗われているうちに白かったであろう漆喰も褐色に変色し、まわりの岩と見分けがつかない。
「どこだ」
「どこだ」
 水面に顔をすりつけ、それでも足りずに肘の中ほどまで減った水に顔を突っ込んで、川底に鼻をすりつけて二人は探しに探した。
「ここではないか」
 兵馬が叫んだ。
 次之進が水を蹴立てて駆けつける。
「どこだ」
「このあたり」
 手で探ってみるが、感触では区別がつかない。
「えい」
 苛立ちと気合を込めて、次之進は川底に当てた鑿に向けて槌を振り下ろした。すでに、鑿の頭が出るほどに水面は下がっていた。
 が、返ってきた手応えに次之進は、
(これは)
 と、思った。
 さんざん苦労して削っていた川周辺の岩と同じではないか。
「これは違うぞ」
 次之進は急ぎ、断じた。すでに堰の向こうでじりじりと嵩を増しているであろう水の重みと冷たさを、長いこと川の流れに漬かり身体を冷やしながら作業した次之進には、ありありと想像できた。
 次之進はすぐ鑿で少しづつ川底を突付きながら場所を探る方法に切り替えた。
 次第に離れていく次之進を見て兵馬は、
「どうしたんだ。ここだ、ここ」
 と言うが、次之進は耳を貸さない。
 手が空いた他の仲間たちが、わらわらとあるいは岩場を駆け上がり、あるいは堰の上によじ登り伸び上がって二人を見ている。
 さらに全体を岩の上から、圭ノ介が見下ろしている。
「どうした」
「何してる」
 口ぐちに応援とも非難ともつかない声が浴びせられる。
 二人は次第に焦り始めた。
「もたもたしていると、堰がもたんぞ」
「水があふれ出してしまう」
 実際は、それほど水位の上昇は早くはなかった。
 初めは、膝ほどの高さだったのが、今は腰ほどに来ている。
 しかし、それが見えない二人にとっては、今にも山のような大波が堰を破壊して押し寄せているのではないかという恐れに囚われていた。
 恐れは手元をぞんざいにする。
 岩の上から見下ろしている圭ノ介の目は、やおら背の箙から矢をとり、弓につがえて射た。矢は二人の間の岩に当たって弾け、流され去った。兵馬がその当たったあたりを慌てて鑿で穿ちだす。
 次之進は、
(何をするのか)
 と、いささか呆然として立ち上がり、圭ノ介を見上げようとした。
「あった!」
 しかし、すぐ後に続いた兵馬の声に、振り返り、川面を見下ろす。
 と、それまで顔をすりつけて見ていると気づかなかった、楕円の長径を尖らせたような奇妙な紋様がおそらく漆喰で描かれているのに気づいた。水が抜けてみると色は岩とやはりあまり変わらないが、その起伏に一定の規則があるのがわかってくる。どうやら木の葉のようにも見える形をしているらしい。
 しかし、それを確かめる暇などあるわけもなく、次之進は急ぎその紋様を兵馬とともに鑿で突き崩しにかかった。
「あった!」
 まだ金を手にしたわけでもなく漆喰の壁がごぼっと抜けた感触だけで、思わず同じ叫びが次之進の口から出る。
 震える手で強く鑿を握り直し、槌を連打する。面白いように漆喰の床が抜け、中に閉じ込められていた空気が泡になって浮かんでくる。
 二人はそれぞれに自分が開けた穴に手を突っ込んで、一握りにわずかに余るほどの大きさに長く細く成型した金の塊をつかみ出して、掲げて見せた。
 見ていた男たちから、大きな波のようなどよめきが起こった。
「見せてないで、投げろ!」
 圭ノ介の大喝がとんだ。
 次之進は一瞬、どちらの岸に向かって投げればいいのか迷った。が、迷うことはなかった。
 兵馬が投げたところに、わらわらと男たちが争って我が手に金を握り締めようとわれもわれもと飛びつき集まってくる。
 堰の向こうから乗り越えて飛び降りてくる者もいる。
 次之進の胸に、底意地悪いような喜びが湧き上がってきた。
 こちらの岸に投げ、あちらの岸に投げる。さらには調子に乗って、堰を越えて溜まった川の水にまで投げ込んだ。
 たちまち、何人もが溜まり水に飛び込み、懸命に潜水しながら放り込まれた金を探す。かなり泥がたまってきており見通しが悪い。だが、ほとんど鮒のように泥に潜り、見えるはずのない金をどうやったのか手にした者が、活魚のように水面に跳ね上がって咆哮した。
 あまりの周囲の興奮ぶりに当てられ、兵馬も図に乗ってあちこちに金を撒き散らす
 圭ノ介は怒り、
「あちこちに散らすな。一つにまとめるんだっ」
 と叫ぶが、聞く者はいない。
 その憤激ぶりに逆に煽られ、恐れ知らずになっていた二人はあるたけの金を撒いてしまい、そのうち、ついに詰め込まれていた木の葉型の穴は空っぽになった。
 次之進と兵馬自身は下帯一つなので、自分では手に持った分しか持ちようがない。
 その足元に、矢が跳ねた。
 一同は一気に冷め、立ちすくんだ。
「こ・ち・らに投げるんだ」
 圭ノ介はさらに二の矢を男たちの間を通す。誰にも当たらなかったが、全員が矢が切る風を感じた。
 静まった中さらに、ぎしっと堰がきしむ音が響く。
 いつのまにか、胸ほどの高さに、水が上がっていたのだった。
 男たちはあわてて川から上がろうとする。
 次之進はその様子をじっと見た後、手にした金をさっと圭ノ介とは反対側の岸に投げた。
「拾えっ」
 少し滑る川底に両足を踏ん張り、腹の底から声を出す。
 自分たちに向かって言われた、と思ったのか、男たちは一斉に投げられた餌に向かう犬さながらに走り出した。
 次之進はさらに隠されていた金を次々と同じ側に投げる。
 圭ノ介は走っていく男たちに矢を射掛けた。その一人の背に刺さり、そのまま二三歩走ってどうと倒れたが、誰も省みない。
 野本の里の出の、正吉改め野本正助が、川に突っ伏してそのまま絶命した。数えで十六歳だった。
 圭ノ介が岩を駆け下り、川岸に迫る。
 次之進が身構え、身に寸鉄も帯びてなくても、なんとか一矢報いたいとあたりを見渡し、倒れている正助の背から矢を強引に引き抜いた。鏃にかえしがついていたので、少しちぎれた肉がついてきた。
 兵馬は、次之進と圭ノ介のどちらにつくか迷っている。
 圭ノ介は川岸に立ったまま、やってこない。
「どうしたっ」
 いらだった次之進は叫んだ。
「なぜ来ない」
 圭ノ介は矢を弓につがえた。
 兵馬は、思わず目をつぶる。次之進もつられて身を硬くした。
 圭ノ介が放った矢が、迫ってきたと思うより早く、次之進は兵馬を突きとばし、自らも反対側に飛んだ。
 矢は二人の間を抜けて向かい岸で跳ねた。
 最後の矢を使った圭ノ介は、弓を水溜りになった川に捨てた。
「今は見逃してやる」
「こちらは素手だぞ」
「今は見逃す。二人相手に余計な手間をかけて、やっと金二本では割が合わん」」
「なぜだ」
「このまま、金を持ったまま連中が散って帰らないと思うか」
「むろん」
「どうかな」
「何が言いたい」
「自分で見てみるといい」
 圭ノ介は身を翻して岩に駆け上がった。
「また会おう」
 姿が見えなくなった。
「どういうことだ」
 呟く次之進の足元から、突きとばされて濡れネズミになった兵馬が起き上がった。
「金は」
「これだけ」
 兵馬が両手に握った分だけ見せた。
 ぎしっとまた堰がきしんだ。
「早く逃げよう」
 二人は連れ立って、圭ノ介が消えた川岸に上がった。
 岩の上に登り川面を見下ろすと、兵馬が思わず声を上げた。
 いつのまにか、堰の上限近くまで水が溜まり、澄んでいた川はくろぐろとした沼のような色に変わっていた。しかも沼のようにどんよりと淀んだ感じではなく、いつうねり出し暴れるかわからない得体の知れぬ力がそこかしこに感じられる。
 堰だけでそれら大量の水を支えているのではなく、流れ込んできた泥や木や葉っぱの切れっぱしがいつのまにか堆積し、隙間を埋め、それ自体が水を堰き止めるようになってきていた。それは男たちが塞いだのとは別に、川の流れとうねりが自ら上流の森の土を掘り崩し動かしたものだった。
 水位そのものは五尺程度しか上がっていなかったが、それによって堰から上の風景はまるで別物になっている。
 川岸は完全になくなっていた。川岸どころか、男たちが作業した岩場もすっぽりと水に漬かり、どこにも見えなくなっている。
 次之進と兵馬の二人が、堰と涸れ滝の間で懸命に立ち働いたしばらくの間に、まるで山河ひとつが丸ごと別のものに取り替えられたかのようだった。
 あまりの変わりように、二人はしばらく声もなく水辺にたたずんでいた。
「なんと」
「どうする」
 次之進は森の中にあった宿舎や身の回りのものすべてを置いてあったあたりを急ぎ思い浮かべた。
「いつ堰が壊れるかわからぬ」
「むろんだ」
「急ごう」
 と、森に踏み込み、すぐ立ちすくんだ。目の前に、石で頭を潰された異様な死体が転がっていた。






山の湖 3

2020年09月06日 | 山の湖


 図面が地面に広げられた。
 四方に柱が立てられ、屋根代わりにがっちり編まれた枝葉が葺かれて、雨が降っても大丈夫なようにしつらえられている。
集められているのは、次之進と兵馬と、出川。つまり、なんのことはない、初めに編成された中でいくらか指導的な立場にいた者たちばかりだ。
出川は単純に喜んでいるが、次之進は下っぱの不満が湧き起こると盾にされるのかと不安がぬぐえない。
 かといって、山を降りてどこに行けるわけもない。
「このあたりが、一番川幅が狭くなっている」
 と、圭ノ介が図の岩場が迫ったあたりを示した。
「ここに、前に仕掛けを施した」
「どんな」
「岩を削ってある」
「削ってある? どのように」
「川の流れに対して横に木を渡してはめ込めるように」
 次之進は思い返した。なるほど、苔が生えているとはいえ、不自然に加工された痕があった。
「前にここに宝を隠した時に、用意しておいたのだ」
「木を渡してどうする」
「水を堰き止める」
「なんだと」
「水を堰き止めて、その間に崖の上の宝を取り出す。漆喰で固めてあるから、手間がかかるが手早く剥がして取り出す」
 次之進は、何を言っているのだろうと思った。
「そんなにうまくいくか?」
「いくさ」
 次之進は後悔しかけていた。こいつの口車に乗って、とんでもないことをさせられそうだ。
「もし、水の重さに耐えられなくて、その堰が壊れたらどうなる」
「とうぜん、溜まった水が一度に流れ出すだろうな」
「その時、崖の上にいたらどうなる」
「押し流されて、崖からまっさかかまだろう」
 こともなげに言った。
「誰がやるんだ、そんな真似」
「やる者はいくらもいるさ。俺がやってもいい。宝を掘り出しに行く役目を務めた者は、分け前を増やすことにしたら、なり手はいる」
「水が堰いっぱいになって、あふれ出すまでどれくらいかかる」
「川の水の量にもよるが、まず一刻。長くて二刻。その間に漆喰を剥がして宝を取り出す」
少し、次之進は落ち着いてきた。
「試してみたのか」
「だから宝を隠せたのだ」
「そんな簡単にいくのか」
 堰から水があふれ出してしまったら、どう取り外すというのだろう。水の中に入って堰を壊すなどいう真似ができるとは思えない。
「簡単なわけなかろう。簡単に取り出せるのだったら、隠す意味はない。いやだったら、どこにでも行くがいい。止めはしない」
 迷っている余裕はなかった。というより、迷いを忘れるためにあえて余裕をなくしたというべきだろう。
 それから次之進は誰よりも汗まみれ泥まみれになって働いた。
すでに木の切り出しと製材は進行していたので、川に漬かっての、堰を支える岩の土台を鑿をふるってくりぬく作業を次之進は買って出た。
しかし水に漬かっての慣れない作業は疲労を倍加させる。それほど長い時間には耐えられない。
 疲労困憊して引き上げられた次之進に続いて水に入ろうとする者はなかなか出なかった。
 製材した材木が削られ組み立てられる。ほとんど隙間はない。これで堰の防水性を高めるのだろう。
 粘土の方の役目も次第にはっきりしてきた。
 地面に深さ一尺ほどの穴が掘られ、底に粘土が敷き詰められ踏み固められた。さらに溝が掘られ、中に小石が敷き詰められてる。その上で火が焚かれ、穴の内周を乾燥する。全体に傾斜がつけられ、斜め上に通気口がつけられ、下から上に空気が通るようにする。
 粗朶や小枝が敷かれ、上に薪がびっしりと詰め込まれた。
 さらにその上に粘土が積み上げられ、これも突き固められる。このあたりになると、何をしようとしているのか、だんだんわかってきた。
 さらに粘土を木槌で叩いて水分を抜き、最後にへらで丁寧に形を整えた。
 これらはすべて、圭ノ介の指導で行われた。
 もとよりこのあたりは山が険しく、山間部の民は平野部とでは没交渉だったので、土をいじるのは農民出身が多い雑兵にも経験はあったが、山で炭を焼くのは誰にとってもまったく未経験だった。
(こいつ、どこの出身だ)(どこに住んでいた)
 と疑ったのは、次之進だけではなかった。
 圭ノ介は保存されていた火を小枝に移し、さらにその小枝を溝に突っ込んで底に敷かれた粗朶に移す。
 辛抱強く息を吹き込みあるいは粗朶の位置をあれこれ突付いて動かしているうちに、やがてぶすぶすと粗朶と小枝がくすぶりだした。
 火はやがて薪に移ったが、十分に空気がないのですっかり燃え尽きることはない。焦げ臭い煙が立ち昇り、やがて酸っぱい匂いが混ざってきた。圭ノ介はさらに口を粘土で塞いで狭めた。
炭を焼いている、ということはすでに誰の目にも明らかだった。それにしても、なぜ炭が要るのかは、よくわからなかった。
手のすいた者は、川で魚を捕った。森に罠を仕掛け、鳥や獣を捕らえようとする者も出てきた。干したり煙で燻したりして保存するのは、それぞれで工夫した。里から持ってきた塩は極力節約され、必要な分だけ食べる時になめるだけになった。
 それでも塩が足りないと、次第に疲労が蓄積するようになる。
「いくらなんでも、少なすぎる」
「もっと持ってこなかったのか」
 という不満が燻ったが、大きな声になるほどの元気はなかった。
 いつのまにか、重い物を持つのが大儀になったせいもあり、刀、特に長刀の類は打ち捨てられるのが目立つようになった。
 皆、次第に里心がなくなり、もう何年も山で住んでいるような気分になって、もともと薄かった主家への忠誠心はすっかり失せていた。かといって、間違っても圭ノ介に忠誠心を持ったりはしないつもりだったが、実際に圭ノ介の手足となって働くうちに、次第に従うのに慣れるようになった者も多かった。
 兵馬がその筆頭だったが、この頃になるといちいち次之進も気に病むことはなくなってきた。
 三日ほどかけてじっくり窯を冷まし、焼きあがった炭を取り出せるようになった頃、川でも土台の基礎工事が終了しつつあった。


 圭ノ介は全員を集めた。
 そして、足りない物があると訴えた。塩かと思ったら、鉄だと言う。
鉄を何に使うのか、問われた。
「その前に、どういう手順で川を塞ぐのか、教えておこう」
 と、引き直した図を示した。横幅がちょうど一番狭い時の川幅である二間ほど、縦の長さが二尺ほどの筏が川上の最も川幅の広い地点から流されるという手順になる。
「川の流れを塞ぐといっても、ずうっと塞ぎ続けることは無理だし、意味もない。崖上の宝を取り出すまでの間、水流を食い止めてくれればいい」
 木材を組み合わせて一枚の板とした頑丈な筏を、川上から流す。方向が狂わないよう筏には四方から綱をつけて、方向を調節する。そして、うまく一番幅の狭いところにはめこむように持って行き、隙間を塞ぐ必要があったら小枝、泥、葉っぱなどを混ぜて塞ぐ。完全に塞ぐ必要はない。時間を稼げればいい。
「しかし」
 次之進が異論を唱えた。
「筏を流すだけでは、上に浮いたままで、門のように縦に立って水を堰き止めるというわけにはいかないと思うが」
「確かに」
 と、図に描かれた筏の長い辺に、何やら丸い物体がつけられているさまを示した。
「これは、石や砂を詰め込んだ袋だ。この重みで、筏は川面に浮かぶのではなく、半分沈んで川底に片方の辺をこすりつけるようにして流れる。そして目当ての場所に近づいたら、浮いた部分を縄で引き、沈んだ部分を突付いて、筏を立てればよい」
「筏の片側に重しをつけるというわけか」
「そうだ」
 次之進は考えた。確かに、しばらく時間を稼ぐだけならこの程度の仕掛けでもなんとかなる気がしないでもない。
「しかし、木を組み立てただけで長いこと溜まった川の水の重さに耐えられるものか」
「そこよ」
 と、圭ノ介はつかつかと歩いて、やはり雨がかからないように木を組んで上に簡単に屋根をふいている、焼いたばかりの木炭の山を示した。
「そこで、これがものをいう」
 さらにもう一つの何かの山を示した。よく見ると、刀の山だ。
「何だ、これは」
「見ればわかるだろう」
「これをどうする」
「こうする」
 と言うなり、その一本を取って、鞘を払った。
 少し刃こぼれして錆びかけた長刀が現れた。
「手入れが悪いな」
「面目ない」
 と、頭を垂れたのは、兵馬だった。
「このように、滝が近くて湿気も多い上に、このところまったく手入れする暇がなく」
「いずれにしても、ここでは役に立つまい。森では長い刀は邪魔になるし、鳥  獣相手に刀振り回すわけにもいかない。だから、脇差はとっておいても、長いのは積んでおいたのであろう」
「まあ、もう戦はないのだから」
「いい刀ではない」
 さすがに、兵馬も苦い顔をした。
「だから何だ」
「もっといい刀を買え」
「そのつもりだ」
「よし」
 圭ノ介はもう一本、やはり長刀を手にした。
「これは誰のだ」
 しばらく、答えがなかった。
「自分の刀を忘れたのか」
 おずおずと手が上がった。いつも鼻の頭を赤くして、鼻水を出している男だ。
福助とかいったか。見るからに刀など扱いなれていない感じだ。戦に出たと称しているが、まともに戦えたのかどうか。
「忘れたままでいるといい」
 言うなり、くるりと皆に背を向け、両手に持った二本の刀を激しく打ち合わせた。青白い火花が散り、福助の刀が真ん中あたりから折れて、折れた側の刀身が皆から離れた地面に刺さった。
 圭ノ介はくるりと皆の側に向き直ると、残った兵馬の刀を両手でつかみ、ぽきりとへし折った。打ち合わせた時、すでにひびが入っていたのだろう。
福助も兵馬も、いささか気を呑まれてしまって、何も言えないでいる。
圭ノ介は手にした福助の刀の柄を止めている目釘を小柄を器用に操って外し、左手で柄を握ったまま右手で自分の手首を叩くと、次第に刀身が柄から抜けてくる。抜けてきたところで、柄をつかんですっぽり抜き去ると、鉄の刀身だけが残った。
 福助は、あれよあれよと見ている。
 兵馬の刀も同様に刀身だけになった。
 都合四本になった刀を掻き集めて、圭ノ介は歩いていく。
 皆も彼についてぞろぞろと移動した。
 厳重に屋根が葺かれ、横に板を渡して雨風をしのぐようにしてある急作りの小屋があった。
 小屋の口は狭く、男たちはわけがわからないまま押しかけたが、とても入りきらない。
 中では粘土が四角く成型され、上に二周り小さな穴が掘られて、その中に木炭が敷き詰められて火床がしつらえている。向こう側には猪のなめした皮を大きな袋状にした鞴(ふいご)が二つばかり取り付けられている。おそらく、粘土の中を空気を通す穴が開いているのだろう。鞴の口には、薄く削った木板で作った弁がついており、空気の流れを一方向に定めている。
 ほとんど目に見えないほどだったが、すでに火は熾っていた。圭ノ介が袋を挟んでいる二本の棒の取っ手をつかみ、両脇から伸縮させると、たちまち風が通って木炭の火が真っ赤に熾る。
 そこに、折った刀を放り込んだ。
「何をする」
 悲鳴のような声を出川があげた。
 みるみる折れた刀が真っ赤になる。
「鞴を吹いていろ」
 圭ノ介が命じると、福助があわてて鞴に取り付いた。
「休まず、吹け」
 福助は懸命に鞴を押した。
 ヤットコで折れた刀を取り、金槌で叩く。みるみる薄い刀身が重なって融け合わさり厚い鉄の塊になっていく。
「力をゆるめるな」
 いいかげん輻射熱に辟易していた福助は、
「新三、おまえやれ」
 と仲間に押し付けた。
「順番に押せ」
 次之進は命じた。
「いつ押すかは、俺が指示する」
 間髪を入れず、圭ノ介が命じた。
「押せ」
 新三が力の限り、ふいごを押した。
 みるみる木炭が冴え冴えと白くなるほど明るく燃え上がり、刀を貼り合わせた鉄の塊が真っ赤になり、さらに明るく光った。
再び槌が降り下ろされ、火花が飛び散る。塊は全体として丸みを帯びた棒状になり、太く尖った大型の鑿の形を帯びてきた。
「武士の魂が…」
出川が唖然とした調子で呟いた。
(何が武士の魂だ)
 次之進には一斉に皆から立ち昇った声にならないせせら笑う声が、ありありと聞こえた。
 下っぱ、ほとんど百姓と見分けのつかない侍にとっては、刀は身を守る武器以外の何物でもなく、精神性などかけらもなかった。
それだけに、いくら脇差は残したとはいえみすみす刀を取られてしまった福助と兵馬に対しては、
(間抜けめ)
 という無言の侮蔑が集中した。
 同時に自分の刀をこのまま取り上げられてはかなわない、と全員浮き足立った。
 わらわらと刀の山に取り付き、自分のを取り戻した。
 圭ノ介はそのような騒ぎも知らぬげに槌を振るい続けた。
 火床に、傍らに置かれていたいくつかの石が入れられた。木の幹を二つに割り、中をえぐった中に水をためた水槽が、圭ノ介の指示で水を持ってこられた。
圭ノ介は、その中に熱くした石を放り込んで、温度を調節する。
 頃合を見て、熱した鑿を水に一気につけ、焼きを入れた。
 水から上げると、太さは一握りほど長さは上腕部ほどもある大型の鑿が現れた。
「これを何に使う」
「岩を穿つ」
「鑿なら、もうあるだろう」
「あれでは足りない」
 次之進はややむっとした。
「だったら、初めからこれを作ればよかった。これがあれば俺が水に漬かって寒い思いをしながら岩をちまちまと削ることはなかったはずだ」
「こんなでかい鑿を、一人で水の中で操れるのか」
そう言われると、できるとは言えない。
「それに、これが要るとはあとから気づいたのだ」
「なぜだ」
「筏に組んだ木を操るのに、縄を結びつけて引っ張るだけでは人数不足だ。人力だけで流されようとする筏を引きとめようとするのは、無理がある。そこで頑丈な杭を川の横の岩場に打って、そこに縄をまわして力を分散する。その上で杭にまわした縄を緩めたり締めたりして操る」
 圭ノ介はすらすらと淀みなく説明した。あまりに淀みがないので、どこか胡散臭いのはいつものことだ。そして次之進が胡散臭いと思いながらも、協力してしまうのも常態になりつつあった。筋が通っているように思えるのに弱い、というだけではないようだ。なぜなのかと次之進にもわからない。
 とにかく、再び重労働を渋る雑兵たちを説き伏せ、岩を抉る作業とともに、杭打ちの準備が進められた。
 大型の槌は木の根っこあたりの重く太い部分を削って新たに作る。杭も同様に頑丈な部分を選りすぐって削った。硬く身が密度濃く締まり、人を斬るために作られた薄い、それも出来の悪い刀ではおよそ刃が立たない。
 文字通りおっとり刀で自分の刀を取り戻した雑兵たちも、久方ぶりに刀を手入れをしようとして、思った以上に痛んでいることに驚いた。
いかに湿気が多いとはいえ、錆が浮き出て、ひどいものになると鞘から抜くのにひっかかってなかなか抜けないものまであった。
「これはひどい」
 中には、打ち直してもらえないかと圭ノ介のところに持ってくる者もいた。名は源一。
「馬鹿を言え。俺は研ぎ師ではない」
 圭ノ介はにべもなく断った。
 それから、続けた。
「鉄はまだ足りない」
 そう言われると、持ってきた源一は浮き足立つ。もともと「敵」に武器の手入れを頼んでどうするのか、と自分でも思っている。
「何を作るので」
聞き方がどこか卑屈になってしまう。
「木を貫く心棒だ」
「心棒?」
「長い鉄の棒だ。長く細くて丈夫な棒がいる」
「何に使うので」
「筏の骨格となるのに」
「筏?」
「川を堰き止めるのに使う筏だよ」
「なんだと」
 思わず、源一が大きな声を出した。
 意味がわからず、壊すという言葉に何かとんでもないことをしようとしているという印象だけ受けたかららしい。
「大きな声を出すな」
 圭ノ介は呆れた。あまり一人一人に懇切丁寧に応対しても仕方がないとそれ以上は説明せず、後になって次之進には説明した。源一のことは次之進には話さなかった。
「鉄の棒を、木に通して一つにまとめようというのか」
「その通りだ」
圭ノ介は内心、呑み込みのよさに満足した。
「しかし、もし壊れないままだったらどうする」
「壊れるまで放っておいてもいいと思うがな」
「水が増えるぞ」
「増えるだろう」
「森が水に漬かるつもしれん」
「それがどうした。後は野となれ山となれ、あるいは湖ともなれ、だ」
「本気か」
「まさか。自然に壊れるだろうさ」
 次之進が聞いた。
「ところで、その心棒になる鉄棒を作るのに、何本刀がいる」
「五本かな」
 打てば響くように圭ノ介が応えた。
「なんとかしよう」
 次之進は口約束してその場を離れた。五本、刀を集めるといってももちろん自分のは入れない。他の者の武器を吐き出させれば、何かと有利になる。
次之進はそうはっきり考えていたわけではなく、圭ノ介はそう企んでいるだろう、その企みに調子を合わせていた方が自分にも有利に働く、何かまずいことがあったら圭ノ介のせいだ、そんな気分でいた。


 さしわたし六尺に及ぶ鉄棒を二本、それぞれ川の両岸から使えるように二本用意するとなると、結局集められる大刀すべてを注ぎ込むことになった。
一人、二人が拠出したとなると、ではなぜおまえは出さないのだ、それほど武器を手放さない理由があるのかという理屈で攻め立てて、吐き出させるのはそれほど難しくなかった。
それでも、次之進は背中に怨嗟の目が刺さるように感じた。すでに相手は持っていないはずの刀を突きつけられるような気がしたのも、一度二度ではない。
(それにしても)
 一体、乾圭ノ介という男は一人しかいないのか、と思わせる働きぶりだった。
あちらでは鍛冶を率い、こちらでは筏となる木の削り方と組み合わせ方を監督する。さらに岩場の杭打ちの位置を決め、自ら最初の槌を振るって岩を穿ち、さらにそれに合わせた太さと形の杭を決め、穴に合うよう細かく削り直す。
 次之進は主に川べりの作業を受け持った。戦の時、陣地をしつらえるのに杭を打ったり、柵を作ったりする指揮をとったことはあるので、まったく見当つかないわけではなく、次第に自分の判断で指揮できるようになったのが
 圭ノ介は主に森の中での鍛冶作業に従事し、助手に兵馬がついた。六尺の棒を鍛えるとなると、炉も焼きを入れる水槽も新しく作る必要があった。それらも、ほとんど圭ノ介と兵馬が二人でやって、他の人間は受け付けなかった。


 朝から大雨が降っていた。
 みな久しぶりの休暇に羽を伸ばしたいところだが、山の中とあって急ごしらえの小屋で雨をしのぎながら、博打をしてなんとか気を紛らわすしかなかった。板敷きの床を通してじとじとと湿気が上がってくるのを、上で火を焚いてなんとかしのぐ。
 酒もなければ、女もいない。
 博打をしても、これから大金が入るのだ、という浮かれた気分の一方で、実際の金はまったく増えも減りもしておらず、妙に現実感をなくしつつあった。
そうなると金を賭けるのが妙に空しい。
 突然、大喧嘩が始まった。
 和平という男が女の話ばかりをするのを聞いているうちに、あまり女に縁がないで過ごしてきた仙吉という男が急に腹が立ってきたからだというが、実際には原因らしい原因などない。
 大刀は持って行かれてしまったので脇差を抜いて、土砂降りの雨の中で二人の男が犬のようにいきりたって言い争う。周囲もまったく止めるようすはなく、おもしろがって遠巻きに見ている。
 次之進も見ているだけで、割って入ろうなどとはしない。
 誰も止めないので引っ込みがつかなくなった二人は、腰がひけたままちょいちょいと刀を前に突き出してみる。まったく届かないので、少しづつすり足で泥を踏み分けながら前進する。
 刀の先端が触れあった。弾かれたように二人が後方にとびすさる。
「どうしたどうした」
「度胸見せてみろ」
「やっちまえ」
 引っ込みがつかなくなった二人は、今度は思い切り腕を伸ばしてぶんぶん脇差を振り回しだした。
「イテッ」
 指が切れたらしい。
 切られた側は逆上して組み付き、二人して地面に倒れて泥まみれになった。
 人間のものではないような異様な声があがった。組み合っていた二人が離れると、地面に仰向けになって転がっている仙吉の胸に脇差が刺さっている。
 おもしろがって周囲を囲んでいた連中が、一斉に引いた。
 争いの間、圭ノ介はずっと少し離れたところで腕を組み、見ているようなそっぽを向いているような格好でいた。
 次之進がちらと見ても、出てくる気配はない。
 やむなく、次之進が前に出て、倒れている仙吉の首筋に手を当てて脈をとった。
「死んでる」
 殺した和平は真っ青になってがたがた震えている。
「どうする」
 次之進はそれだけ言って、ぐるりを見渡した。
 皆逃げ腰なのが次之進にはありありと感じられた。
 圭ノ介は、どこの世界の話だという顔で離れた場所で突っ立ったままでいる。
 出川に至っては、顔も見せていない。普段でも小屋の中でふててごろごろしていたから、まして雨の日では表に出てくるわけもない。
 自分が決めなくてはいけないか、と次之進は腹をくくった。そして、腰から大刀を抜き払った。
「押さえつけろ」
 命じると、恐怖と反発が周囲に走った。次之進が見渡しても、目を伏せて誰も従おうとしない。辛うじて、兵馬だけが目を伏せていなかった。
「押さえろ」
 次之進は今度は兵馬の目をしっかり見て命じた。兵馬は、素直に従い、和平の腕を逆に取った。
「縛れ」
 すでに抵抗をまったくやめている和平が後ろ手に縛られた。
「何するんだ」
 要蔵という先ほどまで博打で負けまくっていた男が、突っかかってきた。
「人を殺した者は、死罪だ」
「そんなもの、誰が決めた」
「そうだそうだ」
 一斉に声があがった。
 次之進はひるみそうになった。
「手が足りないんだろう。逃げないようにつないで働かせればいい」
 という声にも心が揺らいだ。
 しかし、声を励まして断言した。
「仲間同士で剣を抜いて争った者は、理由の如何を問わず死罪。そう決まっていたはずだ」
「どこでだ。斉藤家でか。そんな家は今ないじゃねえか」
「従う義理のある相手なんか、いやしないぞ」
 口ぐちに屁理屈をこねる。
 これを認めてしまったら、自分の拠って立つ立場がなくなる、と次之進は直感し、
「問答無用」
 と、大刀を振りかぶった。
 和平が弾かれたように立ち上がり、なりふりかまわず駆け出した。兵馬があわてて縄をつかもうとしたが、間に合わない。
 豪雨をついて、和平が逃げ去ろうとした時、さらに素早く駆け寄った影がある。そう思うより早く、追いついた圭ノ介の刀が抜かれて、がっという硬い物にぶつかる音とともに和平の頭が吹っ飛んだ。
 あわてて次之進が駆け寄ると、和平の頭は、首からではなく口のあたりで両断されており、下顎は胴体の方に残ったままでいた。
 一同は言葉もなく、おそるおそる和平の遺体に寄って来た。
 和平はすぐには絶命せず、全身ばね仕掛けのように痙攣して、なかなか動きが止まらない
「刀を抜いて争った者は、死罪だ」
 圭ノ介は雨で血糊を洗い流した後、ぶんと一振りして鞘に収めた。
 と、同時にぴたりと和平の痙攣が止まり、絶命する。
「文句のある者は」
 誰も言い返そうとはしない。
「小屋に戻れ。たまの休みだ。よく疲れをとっておけ」
 一言の文句もなく、全員もそもそと小屋に戻っていった。


 二人の遺体は、次之進と兵馬が穴を掘って埋めた。あちこちに動物を捕らえるために罠が仕掛けられているので、うっかり藪の中を歩き回って適当な場所を探すのも難しい。あやうく落とし穴にはまって植えてある槍に串刺しになりかけもした。
 やっと場所を見つけても、掘るそばから泥水が流れ込み、作業は難渋をきわめた。たちまち二人とも泥まみれになる。面倒なので穴は二つではなく、一つにまとめてしまうことにした。
 埋める前、さっさと穴に落とそうとする次之進を制止し、兵馬は表情ひとつ変えずに遺体から衣を剥ぎ取って丸裸にした。
「仏に何をする」
「仏になったら、服はいらんだろ」
 兵馬は平然と言い放った。
(こんなこと言う男だったか?)
 次之進は肌に粟を感じた。
 ほとんど泥水の中に遺体を押し込むようにして、なんとか埋葬を終えた。あまりに地面が柔らかくて、墓標を立てることもできない。
 早々に手だけ合わせて、その場をあとにした。
 まだ雨は降り止まない。せいぜい全身に雨を受けて、泥を洗い流す。
 二人は、辛うじて空いていた一番小さな小屋に身体を押し込むように潜り込んだ。
 次之進は火を吹いて埋もれ火を熾し、ぽつぽつと粗朶を入れて火を移す。しけっているせいか、煙ばかり出てなかなか燃え上がらない。
 兵馬が手伝うつもりか、反対側から火を吹いてくる。
「それじゃ、風が止まってしまう。こっちに来い」
 次之進は兵馬を自分の傍らに寄せた。
 二人息を合わせてふうふう吹きまくり、なんとか火が燃え上がった。
 炎に当たり、肌にしみついた湿気を乾かす。やっと人心地ついた後、しばらく二人とも狭い中、うずくまって黙っていた。
「どう思う」
 ぽつりと、次之進が訊いた。
「どう、とは何がだ」
「おかしくないか」
「おかしい、とは何がだ」
「たとえば、おまえだ」
 兵馬は答えない。
「前は、仏から平気で衣を剥ぎ取ったりしなかった」
「そうでもない」
「やったことあるのか」
「あるさ」
 次之進は思わず、兵馬のまだ幼さが残る横顔をまじまじと見た。
「本当か」
 兵馬は答えなかった。
「嘘なんだな」
「そう思いたいだけだろう。俺だって、戦に参加した」
「それで人を斬ったか」
「斬ったさ」
「嘘をつけ」
「俺をガキだと思っているのか」
「死にかけている相手にとどめを刺しただけだろう」
 兵馬はまた黙ってしまう。
「近頃、おまえ人が変わってきたぞ」
「成長したのさ」
 言ったきり、そっぽを向いている。
「あいつに取り入っても、ムダだぞ」
 まだそっぽを向いている。
「仮に宝が手に入ったとして、おとなしく俺たちに分けてくれるなどと思うか」
「思うわけがない」
「じゃあ、どうする」
「頃合を見て、殺して奪うさ」
「あいつの腕を見ただろう。そう簡単に殺せるか」
「何人か束になってかかればいい」
「誰を束ねる。誰が束ねる」
 兵馬がじろっと次之進を睨んだ。
「まだ兄貴分面したいのか」
「そうだ。あいつにくっついてるより確かだぞ」
「どうだか」
 兵馬は着物を乾かしだした。
「とにかく、あいつは俺が殺る。後どうするかは、その時のことだ」
 雨の音が静まってきた。
「できるか」
「できるさ」
 言い切ると、着物を上からぶら下げて干し、二人の間の仕切りにして、そのままごろりと横になった。
 次之進はうずくまったまま動かない。
 雨の音がいつのまにか治まっている。
 次之進もいつのまにか寝てしまっていた。
 次第に外が白んできた。
 カンカンカンカン…
 板木を叩く音が響く。
「起きろ、起きろ、起きろ」
 大声が聞こえてきた。次之進が目を覚ます。兵馬はすでにいない。
 次之進が起き上がると、枕元に何か置いてあるのに気づいた。脇差だ。
 あわてて腰にあたりを探ったら、見当たらない。兵馬が次之進の脇差を取って、首のあたりに置いて去ったのだ。
 次之進の首筋に冷や汗が浮かんだ。
(どういうつもりなのか)
 いざとなったら俺でも寝首をかけるぞということか。次之進を脅しているのか、それとも圭ノ介を殺すこともできると宣言しているのか。見当がつかなかい。
 次之進は小屋の外に出た。




山の湖 2

2020年08月15日 | 山の湖

「ありゃ、なんだ」
「馬鹿、金じゃねえか」
「金って何だ」
「見たことねえのか。お宝じゃねえか」
「お宝って何だ」
「お宝って、その何だ。探しに来ていたものよ」
「そうなのか? なんで探しに来てたんだ」
「そりゃ、お宝があればなんでも手に入るからよ」
「ホントか? じゃあ、ここにいくらでも女が降ってくるわけか」
「馬鹿、そんなわけないだろう」
「なんでだ」
「女は街まで買いに行かなくちゃいけねえ」
「だったら、ここに街を出せばいい」
 などといった会話が、下っ端の間で交わされていた。話していたのは、平五と文六の兄弟。
 馬鹿扱いされていたのは、弟の文六だ。
とはいえ、双子でそっくりなので、傍で見ていると自分で自分を嘲っているに見えてしまう。
 彼らが川に流されかける圭ノ介の命綱を握っていたので、圭ノ介が握っていた金の実物を間近で見ることができた。
 しかし、貧乏育ちで金の実物など見たことのない彼らには、それは意味不明なやたらきらきらする塊とも、地獄に見る仏の放つ神秘的な光とも見えた。
 そこまで極端ではなくとも、いざ実物を見聞に及んでもおよそ実感が湧かないのは、一行の誰しもが同じだった。
 そして、なぜ川に潜って出てきた圭ノ介が金を握って出てきたのか。


「どういうことだ」
 次之進は、圭ノ介に迫った。
 圭ノ介は面倒くさそうに口を開いた。下っ端の者に余計なことを耳に入れないため潅木の茂みの中に身を隠し、次之進の他は出川しかそばにいない。
「見ての通りだ」
「何がだ。どういうことなのか、さっぱりわからん」
圭ノ介は、滝の落ちる直前の水の白く泡立つ列を遠くから天地を分ける線に見立てるように、金をつかんだままの手を真横一文字に動かした。
「その滝が落ちている、すぐ前」
 次之進は、滝の手前の流れを速めている水のうねりを見やった。
「そこにこれが」
 と、手に握った金を示して見せた。
「隠されている」
「どれほど」
「あと、何十本か」
「何十本」
 出川が頓狂な声をあげた。
「なぜ、そんなものがこんなところに」
「俺が隠した」
「馬鹿な」
 出川が吐き捨てるように言った。
「なぜ、おまえのような身分の低い者が、そんな真似ができる」
 次之進は構わず質問を続けた。
「金は、安和国の滋野勝義が貯めこんだものか」
「もちろん。金を誰にも分けず、国のためにも自分のためにも使わず、一人で貯めこんで滅んでしまった。愚かな話だ」
 初めて、圭ノ介がまとまった話を始めた。
「俺はその貯め込む癖に目をつけた」
「というと」
「つまり、誰にも手が届かないところに宝を隠してしまいたいわけだ。勝義公としては」
「ふむ」
「そこで、俺は進言した。決して人の手の届かないところを。しかし、そうはいっても地面に埋めれば掘り返せばいいし、水に沈めただけだったら潜って取ってくればいいことだ。城の奥深くに隠したところで、燃やせばいいこと」
「うむ」
「しかし、流れる滝の上に隠したものはそうそう簡単に取っては来れない。何しろ、ひとつ間違えたら命がない」
「しかし、貴様は生きて戻った」
「運が良かっただけだ」
「それにしても、命知らずな」
「そうでもしないと、勝義公の懐には飛び込めんからな」
しかし、次之進はなかなか納得できなかった。それだけで滝から転落するすれすれまでできるものだろうか。
「しかしそれほど金を人には渡したくない男なら、隠した後隠すのに使った者たちを始末しようとはしなかったか」
「もちろんしたさ」
「どうやって生き延びた」
 圭ノ介はふっと黙った。
「待て」
 出川が口を挟んだ。
「ともかく、その残りの金も引き上げなくてはわしは国に戻れん」
圭ノ介は用心深くあたりを見渡した。
「こっちだ」
と、さらに斜面の上に次之進と出川を招いた。
いくらも上がらないうちに、潅木は立ち木になり、鬱蒼とした森につながっている。
その森の中に、ずんずん圭ノ介は入り込んでいく。人目をはばかるつもりらしい。
圭ノ介は、森の中でひときわ太い幹の樹に背をもたれかけた。
「お宝を引き上げるのに、俺一人では無理だ。助けがいる」
「むろんのことだ」
出川が勢い込んで言った。
「そのために、手勢を揃えて連れてきたのだ」
「それだけでは足りん」
「まだ人数が不足か」
「人数ではない。道具がいる」
「道具? どんな道具だ」
「一言では言えん。俺にしかわからん。里に戻って調達してくる必要がある」
「しかし」
 次之進はいぶかんだ。
「なぜ初めから運んでこなかった」
「俺一人が口先でいくら言っても信じはしなかっただろう」
「確かに」
 出川は大きくうなずいた。
「信じてもしないのに、重たい荷物を余計に運ぶわけもない」
「ではそのために、命がけで」
 ちょっと次之進は気圧されざるを得なかった。
 いくらお宝があるといって、そのまま押し流され崖の上から滝つぼに転落したら、まず命はないだろう。
(侍らしい格好はしているが、死ぬ覚悟ができている者がどれくらいいるだろう)
 それも、単に大義のために死ぬ覚悟ができているとか、お宝のためなら命がけというのといささか違う。
 自分でわざわざ命をかけなくては取りに行くことのできない場所に隠した、ということだろう。
 何か、平然と命を捨てにかかっているのか、あるいは余程の自身があるのか。
見当もつかなかった。
 いつもは戦で命がけの働きをしている次之進にも見当のつかない、異様な無神経というものに圧倒されつつあった。
「いくら俺でも、二度三度と命がけの真似はできない」
冷静な口調で圭ノ介が言った。
「どうするのだ」
「いずれわかる」
 森の木々がざわめいた。葉と梢が重たげにたわみ、わずかに遅れてごうっと風の塊が木々の葉の一枚一枚を押しのけ裏返しながら通り過ぎた。
 何か森がひとつの生き物になって言葉にならない声を発しているようだ。
ぞくりとするような興奮が、次之進の踏みしめている地面から湧き上がり、頭のてっぺんまで突き抜けた。
 それは里で主君に頭を下げて仕えている時にはおよそ感じたことのない、煮えたぎるような滾りだった。
(こいつが何者か知らぬが)
 圭ノ介は相変わらず樹に背をもたれさせたまま、梢の間からのぞく天を仰ぐようにして、妙に眠そうに立っている。
 目の前の二人の姿は、眼中になさそうな顔だ。
(とりあえず言うことは聞いておこう。後でどうするかは、その時考えればよい)
 出川はそれほどのことも考えているのかどうか、すでにそわそわして次の手を打つことばかり気にしているようだ。
(なんと愚鈍な)
 先ほどの高揚が嘘のように地べたに引きずり下ろされた。
 圭ノ介が樹から離れ、すたすたと歩き去る。次之進たちも後を追った。
「気がついたか」
 声をひそめて出口が耳打ちした。
「何にでしょう」
「誰か立ち聞きしていた」
 次之進はどきりとした。
「気のせいでは」
「人目をはばかるために森に入ったかと思ったが」
 出口は足を止めた。
「むしろ、我々を盗み見盗み聞きしやすくするために森に入ったらしい」
 次之進は黙ってしまった。冷や汗が出た。
 出川はすたすたと森を出て行った。
 次之進は、木の影に入ったまま、あれこれと考える。
 やはり出川の気のせいではと思いたかった。なぜ、盗み聞きさせる必要があるのか。
(我々を分断するためか)
 足軽小物はただの労働力として連れてきたに過ぎない。この山登りの目的も、実際は知らせたくはないのだ。
 おとなしく金を掘り出すために力としてのみ、彼らの価値はある。
 だが、彼らにも目もあれば耳もある。噂を立てる口もある。
 余計な噂を立てられたら、おかしなことを考える者も出てきかねない。
 そう一気に考えて、もう一つの想像の余地もあるのに気づいた。
 盗み聞きされたと偽って、次之進自身に余計なことを考えさせず、あくまで出川に忠節を尽くすように仕向けているのではないか。
 どちらとも考えられる。
 そう迷わせるのが、出川の狙いかもしれない。
 いずれにせよ、次之進は目の前の相手を侮っていたことを思い知らされた。あるいは何も計算せず、何も考えないようで結果としてうまく人を操る類の人間であることを知った。
 何もできないようでこういう嗅覚は発達しているのではないか。
(注意しなければならぬ)
 と、思考が一巡りして、盗み聞きした者がいたとすれば、誰かと改めて考えた。
 連れてきた一人一人の顔を思い出しては打ち消す。
考えても仕方ないことは考えないことだ。そうやっと自分に言い聞かせて、次之進は森を出た。


 誰が山を降りて、必要な道具を取ってくるか。志願する者が殺到したらどうしようかという次之進の悩みはあっさりと裏切られた。山から下りたがらない者の方が多かったのだ。
 指をくわえてそばにいるだけでも、お宝のそばがいいらしい。
兵馬まで降りたがらないのには意外だったが、全部手の者を連れて行ったら後の押さえが効かないと思うことにした。
 圭ノ介自身が山を降りるのは、出川が渋った。見張りが少なくなったら逃げるかもしれないというのだ。
「馬鹿馬鹿しいにも、程がある」
 圭ノ介はさすがに正面きっては言わなかったが、次之進の耳にははっきり内心呟いているのが聞こえた。
 命がけの大変な思いをして隠した金をどうしてそのままにして逃げるだろう。というより、何か彼奴は命を平然と投げ出すようなところがある。敵に捕まり、引きずり回されているというのに、周囲の大勢の方が気圧されてきていた。
(得体の知れぬ奴だ)
 圭ノ介は、周囲の木を切って枝を払うよう、残りの者たちに命じた。いや、直接命じたのは出川なのだが、みな彼の指揮に従うという気持ちはすでに薄れていた。
 山に入り里の秩序から離れると、もともと薄い上下関係の感覚がますます薄くなっていた。
 出川もさほど気にしている風でもない。ともかく、圭ノ介の言う必要なものを、改めて里に降りて調達してこなくてはならない。
 他にも、どうも長丁場の山籠りになりそうな気配なので、食料その他の必要な物資も運ばなくてはならないだろう。


 次之進は、一行から十人ほどを選んで下山することにした。
 圭ノ介はもちろん外せない。
 兵馬も連れて行きたいところだったが、そうすると後を任せられる者がいなくなってしまう。あとの人選は適当だったが、選んだ一人が崖の上に突っ立ったままでいるので叱ると、選ばれたのは双子の弟の文六の方だという。突っ立っていたのは、兄の平伍の方だ。
(混乱していかん)
 最初に登ったときとは違って上から綱をつたえばいいとはいえ、崖を降りるのはやはりまた別の恐怖をおぼえた。無我夢中で登った時には気づかなかったが、岩肌には苔も生えているし、つい下を見てしまうし、力の踏ん張り加減も難しい。ともすると滑りやすいのは下りの方だ。
 他の全員を降ろした後も、圭ノ介は降りてこない。
「何してる、早く降りろ」
 と、次之進が叫ぶより早く、すばやく圭ノ介は縄をつかむとほとんど落ちてくるのではないかと思わせる速さで、とんとんと岩肌を蹴りながらたちまちのうちに降りてきた。
 まるで、猿だ。
(こいつ、どこでこんな技を)
 いちいち次之進の勘にさわる。
「では、参りましょう」
 降りてきた圭ノ介は、妙に丁寧に裾の埃を払って先導して歩き出した。
 次之進は崖の上を振り返った。
 下からではすでに誰の姿も見えない。
(このまま縄を引き上げられ、登ることができないようにされたら)
 そんなことがあるはずがないと自分に言い聞かせたが、不安はぬぐい切れない。
 すでに圭ノ介はすたすたと空の笈をしょった姿で歩いていく。平伍いや文六が(早くいかないのか)と、怪訝そうな顔で次之進を見ている。
 次之進は何度か崖上を見上げたが、ついに人影は視界に入らなかった。
 次之進は、急ぎ足で河原を駆け、圭ノ介に追いついた。やっと他の荷物運びたちもついて歩き出す。
 しばらく、次之進と圭ノ介は黙って河原を並んで歩いた。
「木を切らせて、どう使うつもりだ」
 沈黙に耐えられなくなったのは、次之進の方だった。
「いずれわかる」
 圭ノ介はぼそっと答えた。本当は囚われの身であるはずなのに、なんという態度だろう。
「今、話せ」
「そのうち、だ」
 ぴしゃりと言われて、沈黙するしかなくなる。


 川を下っていくうちに、烏が河原にたむろしているのに気がついた。近づくと、すでに原型をとどめなくなっている屍が烏につつかれている。
 一行は歩調を変えず、黙ってその傍らを通り過ぎた。彼らにとっては、烏につつかれる屍それ自体見慣れた光景ではあったが、それが投げ出されたままなのはいぶかしかった。
 もう戦は収まって、一応の平和が来たというのに。いや、戦の最中でも、死体はすぐに埋められるか燃やされるかしたものだ。
 川沿いに里に下っていく一行の鼻腔を異臭がくすぐった。
 見て見ぬふりをして通り過ぎたので、はっきりとはわからないが、屍は首を切られている。おそらく処刑されたのだろう。それもどさくさ紛れのような、正規の処罰ではない勝者による一方的な処断だ。身につけていたはすでに河原に棲む者たちによって剥ぎ取られて、金か米塩に換えられたのだろう。
 一行の顔が一様にこわばった。
 次之進は腰の刀に手をやり、いつでも抜けるよう確かめた。
 他の仲間も一様に列を固め、結束を固める。
 いちいち指示を出さなくても、戦の中を生き延びてきた者たちに自然と身についた振る舞いだった。圭ノ介も当然のようにぴたりと次之進の傍らにつく。
 しかし、すでに処刑した者たちはどこかに行っており、何事もなく一行は河原を通り過ぎた。


 やがて、里の市についた。
 店の種類も客の数も、以前よりは減りはしているが、一見してどこが変わったわけではない。しかし、どこか違う。
 次之進一行は、市をくぐり抜け、当主の屋敷に向かった。
(あれ)
 たなびいている旗が変わっている。
 丸に一引きの紋から、違い鷹羽の紋になっている。前にここを出立した時には、当主斉藤家の家紋の丸に一引きの紋の旗指物が翻っていたはずだ。
 違い鷹羽の紋には、思い当たる家がない。
「もし」
 市に店を出している商人に、聞いてみた。
「ここの御当主さまは」
「ああ」
 商人はそれだけ言って、あと何を聞いてくるのか、値踏みするような顔をしている。
「斉藤国俊さまではなかったかな」
 異国の者のような顔をして聞いてみた。
「斉藤さまはな、亡くなられた」
 商人はこともなげに答えた。
「なに」
 次之進は当主の斉藤国俊その人には一度も実物にお目にかかったことはなく、顔もわからないが、それでも驚いた。
「では、今の御当主さまは」
「仁田義知さまだ」
「なに」
 聞き覚えのある名前だった。次之進は平静をせいぜい装って、さらに聞いた。
「それはどのような御仁で」
「斉藤さまの一の御家来だったそうで、お世継ぎがいないところからお家を継がれたそうだ。まだ攻め滅ぼした滋野の残党がいるかもしれぬから、まず結束を乱してはならぬとのことでな」
「左様で。いや、久しぶりのことで何事かと思いました」
「なに」
 商人を声をひそめた。
「よくあることだ」
「はて、何がでございましょう」
「乗っ取り」
 商人はぼそっと言った。
「乗っ取り」
 オウム返しに次之進は答えた。
「世継ぎがいないのをいいことに、国俊さまをどうにかしたのであろう。朝起きたら冷たくなられていたそうだからな。一服盛ったか、女に寝首をかかせたか」
 なんでもない口調で商人は話す。
 次之進も、それほどの驚きを感じずに聞き入っている自分に、かえって驚いていた。
 圭ノ介も、いとも平然とした顔で傍らで聞き入っている。
「では、御家来衆は」
「さて。誰が残って、誰が残らなかったのか」
 商人は、手元の壺をひょいと取り上げた。そしてその中に声を吹き込んだ。わんわん と壺の中で声が響いたが、何と言ったのかは聞き取れなかった。おそらく、
(わしの知ったことではない)(うかつに物は言えない)
 といった、大っぴらには口にできぬことを言ったのだろう。
「どうも」
 お手数をかけた、と礼を言って、次之進はそそくさとその場を離れた。
(厄介なことになった)
 あろうことか、山に行って帰ってきた、そのわずかな間に身の置き所が消えてなくなってしまったのだ。
 次之進はうろたえた。思いもよらない事態が出来してしまった。
 ふと気づくと、圭ノ介の姿が見えない。
「乾っ…、乾っ!」
次之進が叫ぶと、
「どうした」
 圭ノ介がにやにやしながら、物陰から姿を現した。
「どこにも逃げやしない」
 次之進がほっとしたのにかぶせるように圭ノ介は言った。
「運がいいな」
「運がいい?」
「そうとも。では、俺は買い物をしてくる」
 と、ぬっと手を出した。
「なんだ」
「金がいる」
「よこせというのか」
「これから入る金を考えたら、端金にも当たらんぞ」
 次之進は、黙って懐を探った。出川が預けた金が指先にさわった。
「これで足りるか」と、渡すと、
「なんとか。まあ本当に要るものは、金では買えんからな」
 と、立ち去りかける。
「待て、どこに行く」
「どこにも逃げやしないと言っただろう。川っ縁の…、そうだな、さっき烏がたかっていたあたりで待ち合わせよう」
 答えを待たずにくるりと身体を翻した。
 そして言い捨てるように、
「何人か、借りるぞ」
 まるで初めから圭ノ介の部下だったかのように、本来次之進の、いや出川の手の者たちだった男たちを連れて、市の人ごみの中に姿を消した。
(運がいい)
 圭ノ介の言葉を、反芻した。
いかに次之進の身分が低いとはいえ、このまま斉藤家ならぬ仁田家にのこのこ戻れるのだろうか。
 次之進たちの宝探しを、知っている者が残っているかどうか。いるとして、見つけられると信じている者がいるのか。
(これは、案外幸運かもしれぬ)
 このまま次之進たちが姿を消してしまっても、誰にも気づかないで済むかもしれない。見つけ出した金を、上の者に吸い上げられておしまいではなく、我が物にできるかもしれない。
 しかし一方で、そんなにうまくいくものかという恐れから逃れられず、気がついたら再び門の前に戻ってきてしまっていた。
 見覚えのない若い門番が前を固めている。
「何用だ」
 次之進が前に立つと、門番がすぐすっとんできた。
「ここの家に仕えていた者だが」
「誰も通すなと言われている」
「しかし」
「通していい者の顔はわかっている」
「しかし、私は前はよくこの家に出入りしていたのだ」
「それこそ通すなと言われている」
「しかし」
「謀反を企んでいるのであろう」
「まさか」
「昔出入りしていた者こそ、謀って謀反を起こすに決まっている。もたもたしていると、河原に連れて行くぞ」
次之進はどきりとした。
「嘘だ、嘘」
 気づいたら、愛想笑いが顔に浮かんでいた。
「召抱えてもらえんかと思ってな、つい嘘をついた。許してもらいたい」
 そして、そそくさとその場を離れた。
 たちまち愛想笑いはこわばった怒りに取って代わった。
 市の中を、腕組みして歩き回りながら、次之進は決意を固める。
(俺はもう、斉藤家とも、ましてや新田家とも関係ない人間だ)
 そう自分に言い聞かせた。
 必要な物を買い揃えたあと、次之進は河原で圭ノ介たちが来るのを待った。
次之進に従っているのは、連れてきた半数以下の四人にすぎない。
 いつのまにか、屍はどこかに消えていた。焼いた痕はないから、川に流したのだろう。
 日が暮れてきた。
 次之進は火を焚くように命じ、食事の用意をすることにした。
 もしこのまま、圭ノ介が戻ってこなかったらどうする。どうということはない。このまま逃げてしまえばいい。自分のような小物にいちいち追っ手はつかないだろう。そう思おうとしたが、出川のことは気になった。主君を失った小物の指揮官などに誰がついていくだろう。出川にこのことをどう伝えるか、あとどうすればいいのか、なかなか名案は出なかった。
 出川は妙に気位が高く、お飾りにはなりにくい。かといって、黙っていれば間違いなく圭ノ介がこの宝探しの主導権を握ることになる。彼なしには何も進まないのだから、そうなることは避けられない。そうなってから、あるいはそうなる前に出川を始末すべきだろうか。
 そう考えてから、次之進は考えた自分自身にぎょっとした。
 出川という人物に一度も敬意も尊敬も感じたことがないのに、始末することを想像しただけですでに萎縮しているとはどういうことだろう。
 次之進は、市でほんのいっとき感じた高揚感がみるみる醒めていくのを認めざるをえなかった。
 次之進は野心というものを持とうと考えたことはなかった。まったくないわけではないが、それがしばしば自分を滅ぼすさまをさんざん見てきて、その後を追おうという気にはならなかった。
 あるいはそれは言い訳で、単に欲望があらかじめ薄いだけなのだろう。
 いずれにせよ、我が気の小ささを今更のように思い知らされて、さむざむとした思いをしたところで、さらに河原を風が吹いてきた。
(まだ来ないのか)
 食事が済んでも、なかなか圭ノ介が現れないので、次之進は心細さを覚えてきた。
 小物たちも、少し次之進から距離を置いている。自分が出川に対して覚えているのに似た感情を、彼らは次之進に向けて抱いているのだろうか。
 侮りの気を、次之進は感じた。が、どうなるものでもなかった。ここで剣を抜いて恫喝し、畏怖せしめることはできるだろう。次之進は剣を取っての戦いの能力には自信があった。戦場で戦功を立てたことも一度二度ではない。しかし、それと人を率いる能力とはまったく別だ。
 次之進はまた、これと目をつけた上役についていくという真似も苦手だった。何より、ついていきたいと思わせる武将(と、呼べるなら)などいはしない。
 出川の下につくようになったのも、考えてみると下に従う者がいない将と、上に従う者のいない小物がちょうどいい組み合わせになっただけなのかもしれない。
互いにそっぽを向いて、形の上の主従を通すのも、ずうっと斉藤家に波風が立たずに済んでいればそれでも良かった。
(だが、隣国の主がさらに一段と愚かなもので、熟柿を掠め取るように簡単に国を併合できた。それが、かえって斉藤家の中に余分な野心を煽ることになったのかもしれない)
足音はしなかった。が、誰か来たのはわかった。
「乾か」
 次之進が声をかけると、荷物を担いだ圭ノ介が焚き火の明かりの中に姿を現した。
「ああ」
 相変わらずぼそっとした調子で圭ノ介が答えた。
「腹は減っていないか。飯はできている」
「減っている。いただこう」
 連れて行った雑兵たちも、それぞれ荷物を地面に降ろした。ひどく重そうだ。
「何を買ってきた」
「買ってきた、とは限らない」
 菰で作られた袋に包まれた荷物の中身を知りたくて、次之進は開けて見た。圭ノ介は特に咎めないで、さっさと飯を食べだした。
「なんだ、これは」
 袋の中には土が詰まっていた。
圭ノ介はがつがつと飯を頬張っている。木をくり抜いた碗を空けると、そのまま川の水をすくって二杯三杯と飲み干した。
「何に見える」
 と、やっと人心地ついたのか、飯のお代わりをしながら答えた。
「土だが」
「もちろん、土だ。だがどんな土でもいいというわけにはいかん」
「どういう土だ」
「たとえば粘土だ。これは川の下流でなくては手に入らない」
「粘土? 何に使う」
「いずれわかる」
 それだけ答えて、飯を平らげた。
 雑兵たちも、それぞれがつがつ食事を済ませて、それぞれ三々五々寝てしまった。
(はて)
 眠れないでいた次之進は、後から使われた椀を数えてみた。四つある。いや、四つしかない。
 圭ノ介が連れて行ったのは、四人だったはずだが…
 一つ足りない。
 どうしたのだろう、と思いながら次之進はそのまま寝てしまう。
 翌朝、一行は上流を目指した。
 次之進はときどき振り返って人数を確かめたが、どうしても一人足りない気がする。
次之進は、急ぎ足の圭ノ介に並びかけながら訊いた。
「きのう何人連れて行った」
「何?」
 圭ノ介は足を止めない。
「山を降りるとき、全部で十人いたはずだ」
 次之進は振り返り、後の人数を朝の明るい中で確認した。
「今は九人しかいない」
「初めから九人しかいない」
「そんなはずはない」
「九人だ」
 ぴしゃりと言われた。
そう言われると、十人いたという証拠はない。しかし、ここで気圧されたまま済ませるわけにはいかない。声を励まして重ねて訊く。
「あと、一人どうした」
「あとの一人とは、誰だ」
 誰と言われても、適当に選んだので双子の片割れ以外はほとんど名前も知らない。
「俺は連れて行った連中の名前も知らない。だから、仮にいなくなったとしても確かめようがない」
「しかし、山で待っている者の中には顔見知りの者もいる。それにどう言い訳する。
「本当のことを言うだけだ。その上で逃げたと言えば、こちらに責は問われない」
 それ以上は追求できなかった。
 あとは、黙々と歩き続けた。二度目となると、かなり気持ちは楽になるが、担いだ荷物の重さはそれ以上にこたえた。
 滝の音が聞こえてきた。
「おーい」
 滝の上で手を振っている男がいる。
 兵馬だ。
「おーい」
 思わず次之進は手を振り返した。
 山を下っていた他の全員が手を振っている。たった一泊だというのに、何ヶ月も別れていたような騒ぎだ。
 驚いたことに、圭ノ介までがにこやかに手を振っている。
(何のつもりなのか)
 再び、崖登りが始まった。まず、運んできた品々を木で組んだ腕の先につけた滑車で井戸から水を汲むように次々と引き上げていく。滑車は口径の違うものが二種類貼りあわされており、梃子の原理で二分の一ほどの力で荷物を上げることができる。
 これほどの短期間で、これだけの仕掛けが作られていることに、次之進は驚いた。
(いつのまに)
 指導した者がいるとすれば、圭ノ介を於いて他にいない。しかし、実地に指導にあたった人間は当然別のはずだ。
(兵馬が、か)
 その圭ノ介はめずらしくはしゃいでいる。どういうものか知らないが、いよいよ準備が整ったという感じだ。
 やがて、下の者が一人づつ同じように梃子の原理を応用した滑車から垂らした昇降機に乗った。ちょうど腰が入るほどの大きさの木の板の両端に穴を開けて縄を取り付けたものだ。
 大変な思いをして崖にしがみついて登らなくても、黙って座れば上から何人か力を合わせてえいやえいやと引き上げてくれるのだから、嘘のように楽に崖の上までたどり着ける。
 もっとも、安全は確保されていないので、いつでも崖にしがみつけられる体勢は取っていなくてはならないのだが。
「逆行しない仕掛けが必要だな」
 圭ノ介がぼそっと呟いた。
 おそらく、滑車が回る方向を決め、逆に回って転落しないようにする仕掛けのことだろう、と次之進は考えたが、それと聞く前にすばやく圭ノ介は板の上に尻をねじり込んだ。
 次之進が崖から離れ、上に合図を送る。
 みるみる圭ノ介の身体が上まで引き上げられていく。
 相変わらず、轟々と滝が飛沫を撒き散らしながら落下している。その勢いで風が起きて、昇降機に乗った圭ノ介の身体が揺れているような気がする。
 最初出発する時に、圭ノ介は鑿や鋸や斧や鉋などの道具を一式揃えさせたが、まずはこの昇降機ができただけでも、周囲が彼を見る目は変わってくるだろう。
(いっそのこと、完全に火辺めに任せきってしまうか)
 などという馬鹿げた考えが、ふと頭に浮かんだ。
(馬鹿な)
 すぐ頭から振り払った。
(どう勝手な真似をさせないか、考えろ)
 次之進が崖を登る番が来た。いざ乗ってみると、見ている時とは違い、ひどく揺れる。
 下を見ると気持ち悪くなりそうで、上を見上げた。兵馬の顔が崖から突き出ているのが見えた。目ですがりつくようにひたすら凝視する。と、兵馬のすぐ横に圭ノ介の頭が突き出た。何かごそごそ話し合っている。
(いつの間に手なづけたのか)
 足元は宙に浮いたままでぐらぐら振り回される扱いの乱暴さに、そう思うゆとりもなく、やっと崖上にたどり着いた。
 少しめまいが治まってから、あたりを見渡したが、誰も次之進の方は見ていない。
 木が切られ、枝が払われた。さらに里から粘土が集められ、運んできた荷物が開かれると、さらに見たことのないような鉄製その他のさまざまな道具が現れた。何が進行しているのか、わかったようでわからない。
 兵馬が合図を送り、作業していた者全員が手を止めて集められた。その中の平伍の顔を見て、誰がいなくなったのか次之進は思い出した。
双子の弟の文六だ。二人同じような顔があると、一人欠けてもあまり目立たないらしい。
「大事な話がある」
 と、圭ノ介が切り出した。
 何事か、と汗まみれ泥まみれの中で光る目が集中した。
「詳しい話は、馬場次之進さまから」
 と、圭ノ介はいきなり話を次之進に振ってきた。
 まったく心の準備ができていなかった次之進はうろたえた。
 そのうろたえぶりを見て、集まった一同は(これはただごとではなさそうだ)とすぐに察した。
 次之進は、息を大きく吸い込み、止めた。
「実は」
 せいぜい平静を保つようにして切り出す。
「われらが仕えていた、斉藤家は今、ない」
 奇妙な間が開いた。
「ない、とはどういうことだ」
 やっと、出川が口を切った。
「滅びたのです。今はお屋敷は仁田家のもの」
「仁田?」
 出川の声の調子が頓狂に上がった。
「仁田、とは仁田か」
「はい」
「なぜあれが」
「乗っ取ったからです」
 他の一同は、きょとんとしている。どう反応していいのかわからないようだ。
「ちょっと待て。それでは、わしはどうすればいい。どこに戻ればいいのだ」
「それは」
 俺に聞くことか、次之進は内心思った。
「さて、なんでしたら仁田さまにじかに聞けばよろしいかと」
「さま、などとつけるな」
 いっぺんに不機嫌になった。
「だいたい、なぜわしの留守中に家を乗っ取る」
(知るか)
 とは、さすがに口にできなかった。
「しかし、現に仁田が」
さま、を抜いてみた。
「国を治めている以上、うかがいを立てるのは避けられないかと」
「そのような真似ができるか」
 当り散らす。
「あれは、一時はわしの配下だったのだぞ。そのような者の下命を拝さねばならぬいわれはない」
「待ってくれ」
平伍が前に出てきた。
「俺の弟はどうした」
 次之進は黙った。そして圭ノ介を見た。
 圭ノ介は平伍から視線をそらそうとしている。
 何か、心苦しくて話しづらいと見せているが、本心でないのは確かだ。
「どうした」
 平伍はなおも迫ってきた。
 圭ノ介がくるりと身を翻し、額を地面にこすりつけて土下差した。およそ彼らしくない芝居がかった真似だが、それがかえって周囲を落ち着かせた。
「申し訳ない」
「どうしたというのだ」
「おそらく、仁田は敵の配下か、配下らしき者をことごとく成敗しようしている。決して誰もそむかないように」
 その場にいた者が、一斉に浮き足立った。ここにいるのは、形の上ではすべて出川の配下だ。もろに敵の配下ということになるではないか。
冗談ではない、という空気がその場を支配した。
「おそらく」
 さらに圭ノ介は続けた。
「我等がのこのこ里に戻ったら、まして宝を持って戻ったりしたら」
「あっさり成敗されて、お宝だけ奪い取られる」
はっきり口に出して応えたのは、平伍だった。
 その顔に現れていたのは弟を奪われた怒りや悲しみではなく、もっと冷ややかな仮面のような無表情だった。
「我等はこれからどうするか」
 圭ノ介が立ち上がり、ぐるりを見渡した。
「みすみす手に入れたお宝を国に持って帰ってみすみす召し上げられることはない」
「そうだ」
「そうだ、そうだ」
 群れの中から声が上がった。
「俺たちが手に入れたものは、俺たちのものだ」
「そうだ」
 歓声が上がった。
「山分けすれば、全員一生食うに困らない」
「殿様暮らしも夢じゃねえか」
「殿様なんか、糞くらえだ。いつ寝首をかかれるか、わからねえじゃねえか」
 どっと笑い声が上がった。
 出川は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
 平伍がそれに気づき、ずいと詰め寄る。
「何か文句あるか」
 出川の目に怯えが走る。
 平伍はそれを見逃さなかった。
「こいつ、怯えてるぜ」
 嘲り笑いが起こった。
「よう、お殿様」
 平伍が肘で出川を突付いた。
 後ろの誰かが足払いをかけ、出川はどうと地面に転がった。
なおも踏みにじろうとする衆を制止して、圭ノ介が出川に顔を近づけた。
「生きていたかったら、おまえも働くんだな」
 圭ノ介は、さらにじろっと立ちすくんでいた次之進を一瞥する。
 次之進は思わず身体を硬くした。
「これからもよろしく頼むぞ」
 次之進は思わず何度も首を縦に振ってしまう。
 圭ノ介は大声で呼びかけた。
「さあ、これからが本番だ」
 おうっ、と鬨の声が上がった。
「もう、俺たちを縛る連中はいない。俺たちの物は俺たちの物だ」
戦に勝った時でも、これほど力のこもった鬨は上がるまいと思わせる雄叫びが続いた。
(これからどうなるのか)
 次之進は不安なまま、持ち場に散っていく衆を見ながら、圭ノ介の行き先を目で追った。
 と、兵馬がぴったりその後に相伴して小走りについていく。
(くそ)
 怒りがこみ上げてきた。
(今に見ていろ)
 出川がさらに、その後を腰をかがめて子犬のようにくっついていった。




山の湖 1

2020年08月09日 | 山の湖
 戦さに勝って、これほど嬉しくないことがあるのか、と次之進には思えた。
もともと勝った勝ったとはしゃげるような戦ではなかった。こちらが強くて勝てたのではない、相手が勝手に負けてくれただけなのだ。
 あきれるほど、隣国・安和国の兵には戦意がなかった。相対する前に、さっさと刀槍を捨てて逃げてしまう、どころかいつの間にか姿を消してしまう部隊が続出した。
なるほど、隣国の主君、滋野勝義は愚公だった。けちくさい蓄えばかりを専らとし、およそ臣下に富も所領も渡さない、と言われた。先日の滅亡ぶりを見ると、それも大袈裟な噂ではない。
 勝義は自害もできず、家臣の手で首をはねられ、その首も大して手柄と看做されず、その家臣自身もあっさりと首をはねられた。
 戦ともいえぬ、殺伐たる滅亡があるだけだった。
 一方で、妙な噂は残った。滅んだ滋野家に莫大な財宝がある、というのだ。
 ただの根も葉もない噂ではないか、と次之進には思えた。
 それだけの財宝があれば、滋野家はもう少し装備や人員にも費用を割けたのではないか、とも思えたが、使うのを惜しんだからこそ身を滅ぼしたともまことしやかにささやかれた。
そう言われるとそう思える。というのも、次之進の主君・山名重成も似たようなものだからだ。
 戦に「勝って」以来、重成は滋野の残された財宝を見つけようと躍起になっている。どれほどのお宝が自分のものになるのかと、勝手に期待を膨らませている。苦労知らずというか、まるで戦に勝てば欲しいものがことごとく手に入るかのように思い込んでいるらしい。
 次之進は今度の「戦」で、それでも滋野側の侍大将の首を取っている。
その功績に対して報償をとらせる代わりに財宝を探して来い、と命じられた時は、何の冗談かと思った。
(まさか、それが報償の代わりのつもりなのか)
 次之進は怒るより先に、ほとんど笑いがこみ上げてきた。
(阿呆らしい)
 刀も槍も鎧も具足も投げ捨てて、どこかに行ってしまいたい気分になる。
 配下が増えた、といっても、言うことを聞く者などいはしない。たまたまおまえの刀槍に運の悪い敵兵がひっかかっただけではないか、と、どいつの顔にも書いてある。
 下手すると、こちらの寝首をかいて手柄を奪い取りそうだ。
 それもそうなので、実際、次之進の挙げた手柄とは、相打ちになった敵味方の死骸を見つけ、敵の首を掻き切って持っていったら、思いがけず大物だったというだけだ。敵味方を間違えなくて良かった、と本当に思う。
 その意味で、
(あいつは敵になるのか味方になるのか)
 と、先頭を行く圭ノ介の獣のような面相を思った。
 財宝の在処を知っている、と奴は称している。
 しかし、なぜさほど位階の高くない、累代の家臣というわけでもない男が宝の位置を知っているのか。
 確かに、奴は金の棒を持っていた。
 奴のような位の者が、手にするのはおろか、目にすることもないはずの、本物の金だ。
せいぜい親指と同じくらいの大きさだが、金の塊には違いない。
 正確に言うと、違いないと思うだけだ。なぜなら、そんなものを次之進は見たことはないから、違っていても見分けのつけようがない。
 齧ればわかると、したり顔で言う仲間もいたが、齧ったらどうなるのか知らない。ひどいのになると、金とはどんな味がするのか講釈する、知ったかぶりが横行するばかりだ。
 主君、斉藤国俊その人にしてからが、金の塊など見たことがあるのかどうか。
斉藤家の所領には金山もなければ、これといった商いになる産物もない。
 一応累代の家臣ということになっている次之進にしても、実際には百姓に畑を借りて作物を作り、腹の足しにしなくてはならないくらいだ。
 次之進には嫁の来手もない。親が早く死に口うるさく言われないだけましだが、うさ晴らしに女遊びするにもたまに博打に勝った時に、早くことを済ませと言わんばかりの泥臭い女を買いに行くくらいが関の山だ。
(うんざりしているのは、殿様も一緒なのかもしれない)
 圭ノ介が、実際に金の棒を見せた時のことを、次之進も覚えている。
 雲間から一瞬射し込んだ日の光を浴びた見たこともない豪奢な輝きに、戦が終わったすぐ後の、疲労と興奮とが入り混じった空気が一瞬にして凍りついたものだ。
「これがあと、百本はある」
 圭ノ介は、言い放った。
 どこにあるのか、当然問いただされる。
 問いただしたのは、次之進の直属の上司である、出川だった。国俊も同席していた。
「山にある」
「山のどこだ」
「俺が行かないと、わからん」
「ふざけるな、その手はくわんぞ」
「どんな手だ」
「ありもしない宝を餌に、山に逃げ込んで助かろうというのだろう」
「だったら、俺をここで斬ってみるか。俺は死に、おまえらはお宝を逃す。誰にもいいことはない」
 あちこちで鳩首して話し合いが持たれた。重臣たちのみならず、足軽小物までが、我がことのように話に加わった。
 結局(やらせてみれば)という意見が大勢を占めた。
「五人もついていけば、足りるだろう」
「馬鹿を言っては困る」
 尊大な態度を崩さず、圭ノ介は言った。
「三十人は欲しい」
「なんだと」
 出川はすぐに激昂する。
「俺でも三十人は動かせんぞ」
 圭ノ介は鼻で苦笑した。そのように、少し離れていた次之進には見えた。
次之進だけでなく出川にもそう見えたらしく、手にしていた鞭を圭ノ介の顔に振り下ろした。
 弾かれたように圭ノ介の身体が吹っ飛んだ。
「何がおかしい」
 女のような声で出川は喚いた。
 圭ノ介は、打たれた顔を覆いもせず、ゆっくりと向き直った。
 あれほど突然振り下ろされたのに、圭ノ介は鞭をまともに顔で受けず、身体をとっさにひねって耳元に当てるのとどめたらしい。
 とどめたといっても、耳たぶがいくらかちぎれかけ、血が首筋に流れていた。
「いつでも、きさまなど殺せるのだぞ。きさまが死んでも、我々は一向に困らん。ありもしない金などで釣ろうとしても無駄だ」
「ありもしない?」
 また、手を開いて見せた。
 掌の中からさす光に、その場の者たちはまた金縛りにあったように動けなくなる。
「その金を、見せるな」
出川が呻くように言った。
「見たくないか」
圭ノ介はまた、金を握り締め、また掌を開く。
「あ」
 その場にいた者たちすべての口から同じ音が漏れた。
 掌から金がなくなっていた。
 うろたえる一同を尻目に、圭ノ介はもう片方の手を開いて見せる。
 なくなったはずの金があった。
 出川はまた鞭を振り回したが、圭ノ介は易々とその下をかいくぐり、持っていた金を近くの川に投げ捨てる。
 あわてて、何人もの下人が拾いに走ったが、圭ノ介はくしゃくしゃになった頭を掻いてその慌てようを見ている。
「おーい、どこ探してる」
 と、その髪の毛の中から、金が現れた。
 たびたび振り回された周囲から、怒りの声が漏れる。
 今度はうやうやしく、出川の前に膝まずいで、手にした金を献上してみせた。
 出川は金をひったくり、がりっと噛んでみる。噛まれた表面に、くっきりと表面に出川の不揃いな歯型がついた。
 出川は不機嫌な顔でそれを懐にしまい、
「首に縄をつけろ」
 と、次之進に命じた。次之進は傍らの兵馬に目で命じ、ともに圭ノ介を押さえつけて縄を首にかけた。圭ノ介はまったく抵抗しなかった。
「立て」
 兵馬が膝で追い立てるようにして、圭ノ介を立たせた。
「その隠し場所とかに、何日で着く」
「あんたがたの脚にもよるが、まず二日」
「引ったてい」
 引き立てられようとしながら、圭ノ介は命じた出川に向かって振り返り、
「さっき、懐に入れた金、殿様に渡さないでいいんかい」
「渡すに決まっておる」
 あわてた調子で、出川が答えた。そして、あたふたと殿様の方に急いで行った。


 出川にしてみれば俺たちに行かせるつもりだったのだろう、と、次之進は思った。
 何も山に分け入り、川を渡って、泥だらけになって、雨風に打たれて、水粥をすするつもりはなかったはずだ。見つからなかったら責任を問われるだろうし、見つかっても自分のものになるわけはない、間抜けな役回りを勤めたかったわけがない。
 それが、圭ノ介のひとことに慌てて殿のところに金を持って言上つかまつったところが、お褒めの言葉を賜り、そのままおまえが三十人隊を率いて山に入れと言いつかったわけだ。
 ざまあみろ、と思う。
 その分こっちにもとばっちりが来るにせよ、とりあえず上で蓋をしてこちらの息を詰まらせているようなあの男が痛い目に合うのは、溜飲が下った。
 次之進は苦い笑いがこみ上げてくるのを抑えようとはしなかった。


 日が暮れていた。
 河原で森で集めてきた粗朶を積み上げられている。
朝早く出て、里から持ってきた握り飯は昼前に食べつくしていた。聞くところによると、一日三食食べる国もあるというが、この貧乏国では二食欠かさず食べられれば上等だ。
兵馬が、紐で結わいた鉄の帯を曲げて籠のように編んだ拳ほどの大きさの容器をぐるぐる振り回している。
 その姿を見て、次之進は(童のようだ)と思った。ついでに死んだ弟のことも思い出しかけたが、すぐ頭から振り払った。
 中には乾かしたコケを詰めて火が保存されているのを振り回して火を熾し、これを薄い紙に移し、絶えず口と火吹き竹で吹いて、次第に太い木に移していく。戦ではないので、まずい干し飯を齧って水を飲み込む必要はないが、わずかに塩味がついた薄い粥だけでは 腹が持たない。気の効いた者は、手製の釣り竿や突き棒を作って川魚を捕り、
「これが海なら、塩味がつけられるんじゃが」
 などと勝手なことを言いながら、炙って食べている。
 兵馬も、突いてきた鮎を炙って食べた。次之進が俺にもよこせというと、尻尾だけよこした。腹が立った次之進は、自分も捕ってきた。
 兵馬が少し分けろというので、頭を分けてやった。尻尾より頭を分けただけ、兄貴分の貫禄だと言うと、兵馬はただ笑っていた。
 夜がふけ、三十人は野宿した。
 圭ノ介は首の縄を二重にして、さらに袋に首まで押し込められ、さらに寝ずの番が交代しながらつきっきりで見張られた。
 もっとも、当人は「これは温かい」などと喜び、すやすやと寝息をたてて眠り、朝まで目を覚まさなかった。


 次の日、きのうの粥を温め直して腹に入れただけで、一行はまた出立した。
ほどなく、切り立った崖が立ちふさがった。
 崖からは轟々たる音をたてて、多量の水が滝となってなだれ落ちてきている。
おびただしい水がしぶきとなってあたりを包む中、滝つぼに渦巻く水のまわりを不思議な翠玉色の光が満たしていた。
 圭ノ介は、立ち止まり、その滝つぼを見つめた。
「そこに宝があるのか」
 一同は、色めきたった。
 圭ノ介は、黙ってただ滝つぼを見つめている。
「あのように水が渦巻いているところから、無事運び出せるのか」
 怖気づいた者たちが、異口同音に言い出した。
「待て」
 出川が、圭ノ介の前に出た。
「宝は、あそこにあるのか」
「いいや」
「では、どこだ」
 圭ノ介は、黙って指を上に突き上げた。
「上? 上とはどういうことだ」
「上だ」
「上とは何だ、もっと上流といいいうことか。山奥か」
「とにかく、この崖を登らないといけない」
 圭ノ介は断言した。
 一同から、口々に不満の声が漏れた。
「冗談じゃない、こんな急な崖を登れるか」
「水しぶきで岩肌がつるつる滑る」
「山奥に誘い込んだところで、こいつの仲間が襲ってくるかもしれないぞ」
 不満や不安を口に出してみると、ますます不満不安が募る。人の不満不安を聞いても、同じく負の心情が募る。
 たちまち、一同の間に険悪な空気が満ちた。
「どうする」
 出川が、自分でも誰に言ったのかよくわからないまま、おずおずと言葉だけ口に出した。
「どうするって」
 圭ノ介が苦笑した。
「それ決めるのが、あんたの役目だろう」
 出川はきょとんとして、立ちすくんだ。
 そのまま、何も言えずにぼうっと立ったままでいるのに次之進は業を煮やし、
「おまえが登れ」
と、圭ノ介の首の縄を引いた。
「俺がか」
「そうだ。案内するのが、おまえの役目だ」
「わかったよ。だけど、首ったまに縄つけたまま登るのは勘弁してほしいな。下手に引っ張られてあとちょっとのところで墜落なんてことになったら、たまったものじゃない」
 兵馬がちらと次之進の方を見た。
 次之進が目でうなずくと、兵馬は縄を圭ノ介の身体にぐるぐる巻きにした。
「やれやれ、縄を外してくれるんじゃないのかい」
「崖を登ったら、またほどいて握る」
「だったら、あんたの方が先に登ったほうがよくないか」
 兵馬が一瞬気圧されたように黙り、次之進の方を見た。
「俺が崖を登って、そのまま逃げちまっていいのか。あんたたちが登ってくるのをのんびり待っていると思うのか」
「わかった。登ろう」
 兵馬が圭ノ介を睨みながら言った。
「俺も登る。一人だけでは、危ない」
 次之進が続いた。
「仲のいいことで」
 一瞬、怒りがこみ上げた兵馬が、圭ノ介の身体に巻きつけかけた縄をとり、ぐいと首を締め上げた。
「下らんことを言うな」
 さすがに、圭ノ介もそれ以上へらず口は叩かなくなった。
まず、兵馬がきりりと襷をかけ、草鞋がしっかり足になじんでいるか確かめてから、岩肌にとりついた。
 崖の高さは、まず十間(18メートル強)といったところだろうか。
「行け」
 次之進が命じ、圭ノ介もまじめな顔になって岩にとりついた。次之進も、縄を一巻き肩にかけて登りだした。
 いざ登りだすと、思った以上の難物だった。
滝の水飛沫で濡れた岩肌はつるつる滑る。岩のわずかな隙間にも苔が生えて、力をかけるともろく崩れてくる。水飛沫が宙を漂い、息苦しいばかりだ。
 次之進の顔に、岩のかけらが当たった。
 わざと落としたのか、と一瞬思ったが、確かめようがない。
 指先の感覚がなくなってきた。
 飛沫でびしょ濡れになっていても、汗びっしょりになっているのがわかる。
 辛うじて見上げると、先頭の兵馬が登りきったようだ。
(よし)
 圭ノ介もじりじりと危なげなく登っていく。
(こいつ、山歩きに慣れているのか)
 それ以上考える余裕はなく、ひたすら残された膂力を振り絞ってよじ登っていく。
圭ノ介がほぼ登り切った、と思うより早く、その姿がかき消えた。
 どうしたのか、と急ぎ登り切ると、兵馬が圭ノ介の首の縄をつかんで引き上げたのだった。
「離せよ」
 怒りに燃える目で睨みつける圭ノ介の身体にまわした縄を兵馬は黙って外し、また手に持った。まったく警戒を緩めていない。
「何びくついている。二人がかりで」
 次之進も安心する気にはならなかった。自由を奪っていても、どこかこいつには油断ならないところがある。
 次之進は自分が巻きつけてきた縄の束を外した。崖から下を見下ろすと、めまいがするほど高く感じる。
 近くに潅木が生えていたので、そこに縄の片端を縛り、残りを崖下に投げ落とした。なんとか下まで届いたらしい。下でたむろしていた連中がぽつぽつと縄に取り付いて、それを頼りに登ってくる。
「あまり大勢しがみつくな」
 次之進が声をかけたが、滝の轟音でよく聞こえないようだ。
 気づくと、圭ノ介は兵馬を連れて川の方に向かっていた。
 川の両側は水で侵食されたのか、切り立った岩が迫っている。その間を白く泡立つ水が勢いよく流れ、ますます岩を噛み削っているようだ。
「おい、何している」
 圭ノ介は聞こえないように、岩の上で足を踏ん張ってじっと迫った岩と水面のあたりを眺めている。
「何をしている」
 圭ノ介は、いきなり川上を眺めやった。一番岩の間の狭まった少し上のところに、ぽしょぽしょと頼りなげに潅木が生えている。
 圭ノ介はくるりと踵を返し、崖近くまで戻ってきた。
 次之進は、それ以上声をかけることができなかったが、圭ノ介がすばやくそばを通り過ぎたとき、少しその口もとに笑みが浮かんでいるのを、見逃さなかった。
(何を考えているのか)
 次之進は後を追った。
 すでに、崖下から総勢の半分ほどが上がってきている。
 圭ノ介は大きく身体を崖から乗り出すようにして、残りの連中を見下ろした。あまりに身体を乗り出すので、(危ない)と次之進はひやりとし、すぐなぜこいつの心配をしなくてはならんのだ、と腹が立った。
 と、同時にまだ彼の口もとにかすかな、それとわからないような笑みを浮かべているような気がしてきた。ただ体勢として見下ろしているだけでなく、
(こいつ、我等を見下しているのか)
 と思わせた。
 その一方で、頼りなげな綱にしがみついて、懸命に足をかけて登ってくる仲間の姿を見下ろしていると、次之進も何か自分が偉くなったような気がしてきて、あわてて、
(いかんいかん)
 と、頭を振ってせいぜい小隊の隊長でしかない、しかもお目付け役の出川がくっついてきている自分の身分を思い出した。しかし、山の中に入ってしばらくしているうちに、そのような秩序感覚が少し薄れてきている気もする。


 そうこうするうちに、全員崖の上に登ってきた。
「こんなところに連れてきて、あとどうするつもりだ」
 腹立たしげに出川が言った。
「まず、縄を引き上げてもらう」
 まだ崖下にぶら下げたままの縄を示した。
 言われるまま、自然に兵馬が縄をたぐり上げだす。
「わしが命じるまで、言うことを聞くな。ここで命令できるのは、わしだけだ」
 出川がせいぜい貫禄を見せようとして叱りつけた。そしてすぐに、
「上げろ」
 兵馬は、すばやく縄をたぐり上げた。たぐり上げられるや圭ノ介は、
「こっちだ」
 圭ノ介は、先に立って川上に歩きだす。兵馬は身を翻して、輪に畳んだ縄を持ってついていく。今度は、出川も口を出す暇がなく、そのまま黙ってついていった。
 岩の狭まったところを通り過ぎ、そこらに生えている潅木をつかんで引き、どの程度しっかり生えているか確かめた後、
「これに縄を縛れ」
 と、命じた。
 兵馬が言われた通りに、しっかり縄を潅木の根元近くに縛りつける。もう一方の端を、圭ノ介は自分の肩の回りにしっかり十文字にまわし、こちらにしっかり縛りつけた。
(何をしようとしているのか)
 圭ノ介は縄が潅木にしっかり結び付けられているかを確かめた。
「その結び付けてある方の縄をしっかり握って、離すな」
 一同は、当惑して圭ノ介のしていることを見守る。
 圭ノ介は獣の皮で作った上着を取り、着物をくるくると脱ぎ捨てる。下帯ひとつつけない全裸になると、あちこちの傷が目に入った。刀や槍による傷ばかりでなく、大きな火傷の跡もある。
 何かそれは、違う性格の動物の身体のようだった。
 圭ノ介はざぶざぶと川の流れに入っていく。流れは速い。たちまち身体がとられる。踏ん張ろうにも、かなりの深さがあるので浮いてしまい、踏ん張りようがない。たちまち流れに流される。
 あわてて、縄の近くにいた三人ほどが飛びつき、しっかり腰を落として流れに抗した。
(危ない)
 次之進は冷やりとした。このまま流されたら、間違いなく滝から放り出され、はるか下の滝つぼまでまっさかさまだろう。
 恐れというものを知らないのか、それともどうかしているのか、圭ノ介はそのまま犬のように顔をあげたまま水に浮いて流されていく。流れは川幅が狭まっているところで一番早くなる。命綱を握った三人は懸命に握り締めている。
 圭ノ介の身体が反転して、頭を川上に向けた。流れが容赦なく顔を直撃し、息をするのも難しそうだ。だが、意に介しないように大きく身体を跳ね上げて息を吸い込み、水に潜った。
 なかなか姿を現さない圭ノ介に、いつのまにか一行は心配げに、じりじりしながら待った。
(大丈夫か)
 誰しもが思ったとき、圭ノ介が川面から姿を現した。小さな歓声が、誰からともなく洩れた。
 出川は、自分も安堵のため息をついたあと、すぐ渋面を作って見せたが、誰も見ていなかった。
 圭ノ介が硬く拳を握った腕を上に突き出して、大きく(引き上げろ)と合図を送った。
 急いで、三人が縄を引き始めた。流れに抗するには三人でも力不足で、さらに進んで何人かが縄に取り付き、力を合わせて引いた。
 圭ノ介も力の限り泳ごうとするが、十分に息をするのも難しい。半ば砕ける水の塊に顔を押さえつけられながら両手両足をぐるぐる水平にまわしているらしいが、流れの中でしばしば体勢が崩れかける。そのたびに、命綱を握った腕の肉に縄目が食い込んだ。
 それでもなんとかやっと、圭ノ介の身体が引き上げられてきた。さすがに精根尽き果てたように荒い息をしている。
 水浸しの背中からも、汗が噴き出しているのがわかる。
「一体、何だというのだ。何のためにこんな命知らずな真似を」
 出川が叱責した。
 その声も、圭ノ介が硬く結んでいた掌を開いた時、ぷつりと断ち切られた。
 圭ノ介を二重三重に囲んでいた人垣の間のざわめきが大きくなった。
「何だ」「見えないぞ」
 そのざわめきが、ぴたりと止んだ。
 圭ノ介の手の中には、金色に光る人差し指ほどの塊があった。