prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

2008年6月に読んだ本

2008年06月30日 | Weblog
prisoner's books
2008年06月
アイテム数:20
猟奇の社怪史
唐沢 俊一
06月04日{book['rank']
映画『太陽』オフィシャルブック
アレクサンドル ソクーロフ
06月04日{book['rank']
美と共同体と東大闘争 (角川文庫)
三島 由紀夫,東大全共闘
06月04日{book['rank']
大友良英ニュー・ジャズ・クインテット・ライヴ
大友良英ニュー・ジャズ・クインテット
06月26日{book['rank']
撮影監督
小野 民樹
06月29日{book['rank']
映画音楽全集・4
サントラ
06月29日{book['rank']
蜘蛛の糸は必ず切れる
諸星 大二郎
06月29日{book['rank']
北朝鮮へのエクソダス―「帰国事業」の影をたどる
テッサ・モーリス・スズキ
06月29日{book['rank']
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「ピーターと狼」

2008年06月29日 | 映画
スージー・テンプルトン監督。今年のアカデミー短編アニメ賞受賞。
人形アニメとはいっても、大半のシーンにCGや特殊効果をかけている。暗い感じの子供(ピーター)がカラス、デブ猫、いったキャラクターと三すくみになり、仇役が狼だけでなく子供を閉じ込めている老人もいる、といったキャラクター配置で、終始力関係がくるくる変わり続けるストーリーがアカデミー賞好み。
動物たちの毛や羽の質感がよく出ている。


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「隠し砦の三悪人 THE LAST PRINCESS」

2008年06月27日 | 映画
オリジナルでは百姓だった二人組を金鉱堀りと木こりという“山の民”にしたのがなんでもないようでかなり大事な変更で、侍と百姓のような支配=被支配という関係とは少し違い、侍=システム側に対するシステムの外にいる連中といったニュアンスが出る。山の民の火まつりには侍も手を出さない黙約がある、というあたりが典型。

「もののけ姫」が大ヒットしたため、侍=百姓の図式におさまらない山の民に親しみが出てきたのを取り込んだのかなとも思わせる。(宮崎駿は同作のノートで「七人の侍」があまりに偉大すぎて時代劇の社会の描き方を階層社会的なものに限定してしまったという不満を洩らしていた)

「裏切り御免」というオリジナルの決め台詞は、大物の侍が忠義そっちのけで敵味方の立場を飛び越えてしまう自由さの快感で忘れがたいが、ここで一番違う立場を行き来しているキャラクターはというと、雪姫なのだね。一族が滅びて姫から(いちおう)一般人へ、あるいは男から女へ、という振幅がかなりあって(呼び方も雪姫と雪と使い分けられる)、これはオリジナルのような素人とは違う、役者として手をかけて育てられてきた人にあてて役を書きこんでいる。
若者二人も、一方的に利用されるばかりでなく自分の意思で動いて立場を変える。
姫と下々の者とが触れ合うことで互いに得るものがあって別れる、というドラマは後で考えてみるとちょっと「ローマの休日」風。
長澤まさみは手足が長いので着物にくるまっているより男の格好をしている方がスクリーン栄えする。

この決め台詞をまた本歌取りみたいに違う文脈でまるで違う意味で生かしているあたり、ちょっとびっくり。
「御免」というのが開き直りでなくて本当にあやまっているのが、一度目は二人が接近するのに、二度目は別れるのに生きている。

実はまったく期待しないで見たのだが、台詞に限らずいろいろな要素を違う論理に当てはめて発展させているあたり、ずいぶん工夫している。ハリウッドが非英語圏の映画をリメークする時みたいに、オリジナルを焼きなおすのではなく小説やマンガなどの原作の一種としてマーケットに合わせて一から映画化するといった方法に近い。ここが違うあそこが違う反発もかいやすい方法だが、スジは通っている。
立ち回りにスピード感があまりなく、特殊効果に頼った感じが強いのは困りもの。
(☆☆☆★)


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「相棒 劇場版 絶体絶命!42.195km 東京ビッグシティマラソン」

2008年06月26日 | 映画
他人に対する無関心と無責任、鬱憤晴らしのバッシングが全体の動機になっているので、見ているこちらにも思い当たるところがあり、胸に手を当てて考えさせるところがあるのが優れている。政治家の無責任はもちろんだが、それを選んだのは国民だと今更ながら思わせる。比べてには性格が違いすぎるが「バッシング」みたいな作りより訴えるものは強い。
冒頭の被援助国の田舎道を装甲車が走ってくる冒頭から、真相に結びつくまでの展開の段取りの厚み、ツイスト、キャスティングの生かし方など大いに見ごたえあり。

チェスを使った犯人とのやりとりは着想がいい割に、ちょっと盤面を地図と重ねて見るには図柄が荒いような気がして、納得するより先に展開の勢いで押し切られる感じ。
東京マラソンのスケール感もよく出ていて、こういう大群衆を生かしたロケの迫力と社会性とを交錯させた映画としては銀座の真ん中を渡哲也を大金を持たせて走らせたのをカメラマンのスクラムが囲んで追った「誘拐」('97)があったが、全部無許可で強引に撮らざるをえなかった当時とではかなりロケの自由さが十年ちょっとで進歩したのがわかる。
(☆☆☆★★)


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「幻影師アイゼンハイム」

2008年06月25日 | 映画
舞台の上のイリュージョンが明らかにCG製で、実際に舞台上で行っているわけではないのがみえみえ、というのはどんなものなのだろうか。作中で観客の多くが信じたように「手品」ではなく「魔法」を本当に使っているようにも見え、それだとなんでもありになってしまい、ストーリー作り、映画全体のトリックはまずまずなのだが、どう展開するか漠然とわかってしまう。

あまりに見事な手品を見せられた客が、本物の魔術だと信じて疑わなくなるというのは今でもあるらしい。神秘的なものを信じたがる心性というのは一般的なのだね。

幻影師エドワード・ノートンではなく警察官ポール・ジアマッティの目を通した作りにしたのは成功。それにしても、この二人がほとんど同い年というのだから驚き。ともにイェール大学出身、ジアマッティに至っては父親がイェール大学学長。

「つぐない」にしてもそうだけれど十代は華奢で可憐なヒロインがちょっと経つとやたらゴツくなるダブルキャスティングが続くね。
(☆☆☆★)


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「ザ・マジックアワー」

2008年06月24日 | 映画
台本もカメラもライトもマイクもなくて、それどころかスタッフがまるでいなくて映画の撮影現場ですと言われて信じる奴、いくらなんでもいるものかと思うのだが、気にしない気にしないという感じでパスしてしまっている。舞台ならいいかしれませんけど、ちょっとひっかかっらずにいられなかった。

こっちもあらばかり探してみているわけではなくて、かなり笑って見ていたには違いないけれど、映画の上に乗った映画というのは、けっこうぐらぐらして落ち着かないのです。
色んな映画の引用が当然たくさんあるわけだけれど、そんなに見ていて楽しいものではなくて、むしろ気恥ずかしい。

セットデザイン(種田陽平)が昔のフランス映画のようでもあり、昔のバタ臭い日本映画のようでもあり、それでいて現代のアイテムも混ざっているといった微妙な線を表現している傑作。エンド・タイトルのバックがこれの建て込み風景というのも納得。

どうでもいいけど、エンド・タイトル見ていると助監督に「宮崎駿」という名前の人がいましたね。
市川崑そっくりの人をよく連れてきたな、と思ったらなんとご当人なのにびっくり。
あと、あれだけ宣伝でテレビ出まくっていた三谷幸喜のタイトルが横二列のうちの一つ、スクリーン全体だと四分の一というちんまりとした佇まい。

「マスターズ・オブ・ライト」からの引用になるが、マジック・アワーは太陽が沈んで暗くなるまでの20分くらいの光の状態で、映画では「天国の日々」('78)で監督のテレンス・マリックが撮影のネストール・アルメンドロスに要求した時に使ったことから広まった言葉。
この微妙な時間帯を生かす撮影そのものは同書でも挙げられた「黒い罠」('58 監督・オーソン・ウェルズ 撮影・ラッセル・メティ)をはじめ、「暗殺のオペラ」('71 監督・ベルナルド・ベルトルッチ 撮影ヴィットリオ・ストラーロ)でも狙っていたし、インド映画「黄昏」('91 監督G・アラヴィンダン 撮影シャージ)ではなんと全編これで撮っていた。
(☆☆☆★)


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「休暇」

2008年06月23日 | 映画
刑務官、という職業を正面きって取り上げた映画はこれが初めてではないか。
死刑執行の時、吊られた死刑囚の体を支える係、というのがいるのも初めて知った。
支え役をかって出る代わりに新婚旅行用の休暇をとるのだが、その結婚相手の小さな連れ子がずうっと絵を描き続けていて青空に青を塗り続けて、死刑囚も絵を描いているがモノクロ、という対照を成している。

刑務官がアリを殺すのも避けるようにしているのに、泊まっている宿の女将がいともあっさり殺してしまう皮肉。それを引いて撮っている演出の節度がいい。

このところ鳩山法相の死刑執行数が多いのが話題だが、オープニング、稟議制で順々にハンコが書類に押されていき、最後に法相のが残る、つまりこの一つで執行が決まるシーンを見せられると、いざこれ押すの抵抗は普通あるだろうなと思わせる。

画面にあまり厚みがないのが残念。
内容もタイトルも地味な割りに、中高年層を中心に案外入っていた。
(☆☆☆★)


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「築地魚河岸三代目」

2008年06月22日 | 映画
全編、デジタル撮影だと後で聞いてびっくり。フィルムだとライトをたかないといけないので魚が痛むから、という配慮からだという。そういう配慮は映画そのものの内容にもふさわしいところ。それにしても大画面映写してもまったくフィルム撮りと見分けがつかないし、テレビでしょっちゅう見ているつもりの築地市場も、改めてみると活気の伝わり方が違う(だいぶ全盛期に比べると売り上げ落ちているらしいが)。

あれ、と思ったのは、腹違いの兄妹という設定が出てきたことで、これ「寅さん」のパターンではないですか。原作にこういう設定あったかな。松竹のDNAみたいなものか。

築地市場とその向こうに見える高層ビル群とが自然にすごいコントラストをなしている。伊東四郎のセリフで「晴海通りの向こうにお帰んなさい」というのがあったけれど、まったくの別世界が隣り合っている図。

続編製作決定とラストに出るけれど、旬太郎はまだ修行らしい修行まるでしていないのだから、ムリにこしらえる感じにはならないだろう。これからが本番という感じ。
(☆☆☆★)


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「マダム・トゥトリ・プトリ」

2008年06月15日 | 映画
クリス・レビス、マシー・シェボウスキー共同監督による短編人形アニメーション。
第80回アカデミー短編アニメーション賞ノミネート。

メイキングによるとものすごい数の荷物の列を従えて列車を待つヒロイン、というイメージから出発した時からストーリー性の希薄な詩的な作品になるだろうと思ったらしいが、列車の中のエピソードにあまりそれぞれ関連性がなく、列車が止まったり暴走したりで、リズムが必ずしも整っているとは思えず、詩とはいっても無韻詩みたい。
ためらいや間を重視したため長さが倍以上に伸びた、という。

それにしても、何年もの間えんえんと人形をちょっとづつ動かしながらどうやってイメージを保っているのだろう。ストーリーから逆算するというわけにいかないのだし。ひとつひとつのカットの密度はすごい。

メイキングで監督たちがヒロインのことを「マンガに描かれた鹿のような女性」などと形容しているのだが、そのバックに鹿の頭の剥製が飾られているのが変な感じ。作中、鹿が列車にはねられる(らしい)シーンもあるし、いつも傷ついて過去(ものすごい量のスーツケース)を引きずっているのを、なぜかすべて盗まれてしまう。それは悲劇とも解放ともとれる。
最初の方にある、同じコンパートメントの頭上にいる二人の客がしているチェスが列車が揺れるたびに駒が動いて盤面が変わり勝手に勝負が決まってしまうというシーンが、ヒロインの「気まぐれな運命」を予告しているのかもしれない。


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「アモーレス・ペロス」

2008年06月14日 | 映画
ふだん飼いならされた犬ばかり見ていると、ここで血まみれになって互いに食い殺しあう犬たちを見せられると、相当にショッキング。もちろん人間も同様で、自動車事故が個々の人々を結び合わせるきっかけになっているわけだけれど、戦場カメラマンが実は一番人体が見た目にひどい損傷を蒙るのは戦場よりむしろ先進国の都会の自動車事故の方だと言っていたのを思い出す。血まみれの姿が犬たちにそのままだぶってくる。

時制を交錯させながらまったく別の環境に住んでいる人たちを交錯させる技法は今では珍しくないが、それぞれのエピソードの展開のエネルギーがすごく、好青年ガエル・ガルシア・ベルナルが嫌っている兄同様に人格が荒廃していって見た目もそれについていくあたりや、テレビに映っている「別の世界の人」に思えるキレイキレイに着飾った人がみるみる心身ともに傷だらけになっているあたり、世界をまるごとつかみとろうとするような力技。

「バベル」はちょっと大風呂敷を広げすぎたように思えたが、扱っている環境とすると割とコンパクトなこちらの方がむしろ世界の広がりを感じさせる。
(☆☆☆★★★)


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「鬼火」

2008年06月13日 | 映画

作られたのは1963年だが、しきりとニューヨークに行っていた話題が出てきたり、今ではすっかりおなじみだがパリの街のあちこちにアフリカ系の姿が見られる。主人公のアランが最後に読んでいる本は、ルイ・マルのインタビューによるとスコット・フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」らしい。アランと同様、アル中で早死にした作家だから、合わせたのだろう。

貧しい知り合いが俺は戦争に行ったぞ(おまえは行っていないだろう)というところがあるが、アルジェリア戦争(1954~62)のことだろう。アランがパリ万博に関わったようなセリフがあるが、1947年のそれだろう。戦争やっている一方で、バブル的なお祭り騒ぎで浮かれていたということか。ちなみに、アラン役のモーリス・ロネは1927年生まれ。ドリュ・ラ・ロシェルの原作だと第一次大戦後の設定だが、時代を移したことでだんだんフランス中華思想が軋みをあげて解体してきているというモチーフが割りと見えやすくなったように思う。
自殺に使うピストルがドイツ製のルガーP06というのも、わざと外国製にしたのかもしれない。

精神病院に入院している患者でもトマス・アクィナスは神学か哲学かどうたらこうたらといったスノッブな会話を交わしていて、それは外の「正常」なプチブル連中も同じこと。

音楽はエリック・サティ。今ではすっかりポピュラーになったが、この映画の製作当時はそれ誰?という知名度だったはずで、それでいてセンスがまったくずれていない。

ここに出てくる「酒を飲ませまくる」アルコール依存症治療って何だろう。今の常識ではとにかくアルコールを抜き続けるのが基本のはずだが、この時代は違っていたらしい。四ヶ月くらいの断酒では安心とはいえない(何年断酒しても安心はできない)。
久しぶりに一杯飲んでしまう時の顔がなんともいえずリアル。その後、ぐずぐすに飲み続けてしまうのがアル中のはずだが、表現とすると雨にうたれてよれよれになっているのを見せるので、あまり崩れた感じがしない。自殺する前にも、トランクの中を整理したりしている。ルイ・マルの崩れようとしても崩れられない表現体質の表れだろう。
(☆☆☆☆)


「パンズ・ラビリンス」

2008年06月12日 | 映画
スペイン内戦を幻想と現実が渾然となった少女の目を通して描くという点では「ミツバチのささやき」と共通するセンスがあるが、少女がすこし歳がいっているせいか現実原則の方に傾いていて、詩的表現からはやや離れている。形にして見せてしまう方法の限界はついてまわるが、クリーチャーのデザインその他、造形美術的にすばらしい。

おとぎ話の継母より、現実のファシズムを背負った継父の方がやはり怖い。
現実と幻想の対決を描いたファンタジーは多いが、対決の激しさと結末の厳しいことでは随一。現実逃避もここでは人間性を守るための必死の試みと写る。
(☆☆☆★★★)


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「幽閉者 テロリスト」

2008年06月11日 | 映画
昔のATG映画みたいに低予算で抽象的・観念的なセリフがえんえんと続く作り。ただし、今のデジタルカメラだと写りすぎるので、白黒フィルムみたいに抽象化が徹底できないのが困ったところ。舞台を映像で再構成したみたいでもある。
「国家権力」が日本もアメリカも何もごっちゃになった造形。生理的な苦痛とか不快感といったものは技術的(予算的)にムリなのか狙いなのか、あまり出ていない。

テルアビブ空港の乱射事件について、当時の劇画「I・餓男」で、主人公が似たような乱射事件を生中継するから出資しないかとハリウッドのプロデューサーに持ちかけるという今だったらまず通らない設定が出てくる。「オリオンの三ツ星になる」というのが、ロマンティズムをもって受け取られた向きもあったらしいね。今の目で見ると、「ぷっ」という感じだが。
一番「新しく」なったのは、一般人のテロに対する情報の受け取り方のバイアスではないかと思わせる。

大友良英のノイズィな音楽は監督・脚本の足立正生の盟友若松孝二の「13人連続暴行魔」の阿部薫のそれを思わせ強烈な印象。奇妙なことに、Amazonで検索してもこのサウンドトラックCDは紹介されていても、DVDは出てこない。
(☆☆★★)


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「ランボー 最後の戦場」

2008年06月10日 | 映画
先日の「ロッキー・ザ・ファイナル」の原題が「ロッキー・バルボア」であるように、今度の原題は「ジョン・ランボー」、つまり主人公のフルネーム。
「ランボー」の原作でランボーは戦闘マシーンとしての育ての親のトラウトマンと相打ちになって死ぬのだが、なんでも映画版でも自殺するラストが撮影されてから悲惨すぎると不評で差し替えられたそうで、気づかなかったがそのシーンの断片が今回ちらっと出てくるらしい(出典)のも原点回帰というニュアンスが濃い。

Go Homeというセリフが何度も出てくるが、ラストに帰る生まれ故郷の牧場の郵便箱にはR.RAMBOとあって、全盛期のロッキーとランボーを抱えていたスタローンがダブルRなんて言われていたのと重なってくる(ロナルド・レーガンRonald Reagan政権時代だったのに合わせた言い方だろう)。

二作目三作目のランボーはやたらとアメリカを背負って戦っていたが、今回はもう国家としてのアメリカに帰属意識はまったくないみたい。戦うのが本能である「戦士」の原点に戻った感じで、女のためにというのはつけたり。

ボランティアも傭兵も自分勝手な生ぬるい連中という図式的な描き方で(実際はそれほど甘いものではないだろうが)、凄惨な暴力に揉まれているうち、一作目で「先に手を出された」(原題のfirst bloodはそこから来ている)ランボーが徹底的にやり返したように、途中からランボー同様に戦いにのめりこむ。
これまでもっぱら一匹狼を通していたランボーが、「戦士」仲間に入ると、一番強いものだから自然とリーダー格になってしまう。

「プライベート・ライアン」以来の凄惨な戦闘シーン、川を船で行き来するところや生首や死体がごろごろしているあたりや色のついた発煙筒などは「地獄の黙示録」みたい。そういえば、「怒りの脱出」のヘリコプターの使い方もだな。
実際にミャンマーで行われていることのリアリティの追求ということになっているけれど、特殊効果の技術が一人歩きして人間の感覚の閾値を超えてしまっていると見た方がいいのではないか。

セリフの発音も地図も「ビルマ」となっているのに、字幕は終始「ミャンマー」で統一してある。「怒りのアフガン」でも、「ロシア」と発音していたのに字幕では「ソ連」になっていたが、日本では相手の国の政府の主張する調子を合わせることになっているらしい。何が根拠でだか知らないが。

エンド・タイトルでデジタル処理スタッフにロシア人と思しき名前がずらりと並ぶところがあるのが、三作目の扱いとは隔世の感。

Music special thanks Carole Goldsmithと出る。三部作の音楽を担当したジェリー・ゴールドスミスの二度目の(最後の)奥さんの名前はCarolのはずだが、見間違えたのだろうか。もちろんランボーのテーマは最初と最後に出てくる。これがないと気分が出ない。本編の音楽はお囃子みたい。
そういえば「怒りのアフガン」の音楽を担当した時、右翼扱いされたゴールドスミスが「戦士のキャラクターに興味があっただけだ」と語っていた。
(☆☆☆)


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「サイレントヒル」

2008年06月09日 | 映画
原作がどんなものなのか、ゲームは全然やらないので知らないが、前半は雰囲気優先でか見た目にグロテスクな見せ場や脈絡のない展開が続くが、後半になって子供を守ろうとする母親が父親のいない女の子を魔女だといって火焙りにしてきた狂信者たちと対決する構図がはっきりして、かなり盛り上がる。白い霧がかかったようなヴィジュアルや音響効果も力が入っている。
代わりにショーン・ビーンの父親役のしどころがまったくなくなってしまい、ストーリー上も脱線気味。

狂信者のリーダーの女教師の方がよっぽど魔女に見えて、視覚的なグロテスクよりも子供を火焙りにしようとするグロテスクが上回り、キリスト教原理主義がいかに他に対して非寛容で殺人をも辞さないか現実に実例を見せられているので説得力もある。ちなみにこの映画の国籍はアメリカではなくてカナダとフランスの合作。アメリカでは作りにくくなっているのだろうか。ラストで荊の蔓がにょきにょき伸びてくるのは、やはりキリストのかぶった荊の冠からの連想みたい。
(☆☆☆)


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