prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「ピータールー マンチェスターの悲劇」

2019年08月31日 | 映画
200年前のコスチューム・プレイであるとともに社会の分断、上流階級の傲慢、非暴力の抵抗、あらゆる屁理屈をつけての弾圧、報道の役割、など現在進行形のテーマともろにかぶるのがマイク・リーの身上ということになるだろう。

もっともコスチューム・プレイだと王が白粉をつけているところなどリアルな再現なのだろうが自然とキャラクリゼーションもカリカチュアライズされたものになり、「秘密と嘘」「人生は、時々晴れ」などの現代劇で見せた極限まで行きついたリアルな演技とは離れたものになる。





8月30日のつぶやき

2019年08月31日 | Weblog


「KESARI ケサリ 21人の勇者たち」

2019年08月30日 | 映画
インド映画の大作、といってもマサラムービーではなく、歌や踊りも入るが基本的にリアリズムの範疇に収まっている。

ただ、21人の兵士(と料理人ひとり)で二万の大軍勢を迎え撃つという大風呂敷な設定なのだが、いくらなんでも実話ネタということもあって至るところで大見栄を切るような演出だが荒唐無稽テイストには向かわない。

1897年のインド北部、今のパキスタンとアフガニスタンの国境付近で、イギリスの支配下にあって英軍の下部に組み込まれているシーク教徒の部隊と、敵対している現地の各部族の連合軍との「サラガリの戦い」を描く。

現地人からしてみればシーク教徒の部隊は真の敵であるイギリスの腰巾着とも見えるはずで、実際イギリス人将校に主人公はおまえらインド人は生まれついての奴隷だと侮辱される。
その侮辱に対してあくまで勇猛果敢に戦いぬくことでインド人としてあるいはシーク教徒としてのプライドを守るというのが骨子なのだが、どうしても戦う相手が違うという違和感はついてまわる。
それでも死ぬ前に一人でも多くの敵を倒してやるという奮戦にはぐっとくる要素があるのは確か。悲壮に流されすぎず、あくまで戦いの迫力に徹しきっている。

アクシャイ・クマールが「パッドマン 5億人の女性を救った男」とは髭を伸ばして 別人のようないでたちと演技で鬼神のような大奮戦を見せる。

登場人物ほとんど、イシャル・シンという具合に何々シンという名前なのにびっくりする。初めみんな髭を生やした濃い顔が並ぶもので誰が誰だかと危ぶんだが、見ているうちに見分けがついてくる。

インド人というとターバンというイメージがあるが、シーク教徒に限った話だとは知っていた。そのターバンに賭ける象徴性やプライドといったものがかなり描かれている。

大群衆シーンがCGくさくない。よほど巧妙なのか、実際にかなりの大群衆を集めたのか。最近珍しい埃っぽい大群衆シーン。
アメリカ映画だったらエンドタイトルに来る「この映画で動物は虐待していません、CGによるものです」といった断り書きが冒頭にくるのだが、闘鶏に使われた鶏はCGなのだろうか。あまりそうは見えなかったが。
もちろん人体を剣が貫くといった効果はからしてCGを使っているには違いないのだが。

やはり冒頭に「特定の宗教を批判するものではない」とタイトルが出るが、ムスリムからすれば批判的だと思うのは避けられないだろう。



8月29日のつぶやき

2019年08月30日 | Weblog

「アンダー・ユア・ベッド」

2019年08月29日 | 映画
予告編からは江戸川乱歩の「人間椅子」か「屋根裏の散歩者」みたいな一方的に好意を寄せている女性に対してあえて隔たりを置いて妄想に耽る変態的な、あまり動きのない作品かと思ったら、妄想=イメージが現実と等値されるような描き方で、さらに当人が現実に進出してくるのと現実の方で放ってはおかないのとが平行して進展し、場面設定としてもひとつところに硬直しないでおおむね室内シーンながら変化をつけて飽かせない。

DV夫の暴力のふるい方が本当にひどくて、暴力をふるわれる西川加奈子がとても華奢なだけに見ていて血圧が上がる。それを簡単にやっつけないで空想と現実で行きつ戻りつしながら何度も天誅を下すのが変態的なのとヒロイックなのが交錯する複雑な味を出す。

高良健吾の男前ぶりがないと変態側に寄り過ぎただろう。異様ながらこういう愛情表現もありうるかと思わせる。



8月28日のつぶやき

2019年08月29日 | Weblog

「ザ・メイヤー 特別市民」

2019年08月28日 | 映画
シム・ウンギョンは日本映画「新聞記者」で主役の記者役をやっていたが、ここでは市長に向かって面と向かって批判したのを逆に買われて広報係として雇われる役を演じている。

ドラマとすると「仕事」はできるし若い感覚やスキルも生かせる彼女が案の定政治のドブ泥に浸かり、それでも反発するかドブ泥に浸かりきるかの葛藤がメインになり、どうかすると青臭く見えたりするがやはりこういう巻き込まれないで踏みとどまる感覚は大事だと思わせる。
ウンギョン自身の政治意識というのはどういうものだろうとも思った。

チェ・ミンシクが市長なのだからもう世にもろくでもないのはありあり、当たり前すぎてミンシクの役とするとやや物足りないくらい。代わりに参謀役のクァク・ドウォンが日本にもこういう奴いるいるというねっとりした仕切り屋ぶりと微妙な若い女性を見下したいやらしさをよく出した。




8月27日のつぶやき

2019年08月28日 | Weblog

「HOT SUMMER NIGHTS ホット・サマー・ナイツ」

2019年08月27日 | 映画
台風の中を突っ走る車を大俯瞰で捉えたオープニングから悲劇的な予感がして、タイトルからなんとなく予想していたよりひと夏の体験ものよりずっとシリアス、というより文学的ですらあるタッチになる。 
1991年の設定で、「ターミネーター2」が上映されているシーンがあり、あれも回顧の対象になったかと思わせる。

ティモシー・シャラメ、マイカ・モンローと主役の美男美女ぶりが目立つ。
 「プリズン・ブレイク」のマホーン捜査官ことウィリアム・フィクナーが短い出番ながら凄みを見せる。



8月26日のつぶやき

2019年08月27日 | Weblog


「君も出世ができる」

2019年08月26日 | 映画
1964年製作の日本製ミュージカル。
監督の須川栄三はのちにATGで井上ひさし原作ミュージカル「日本人のへそ」を製作しているくらいだからミュージカルに対するこだわりはあるのだろうが、これは製作スケールの大きさからすると比較にならない大作で、というより日本映画史上最大級ではないかと思わせる。

1961年に「ウエストサイド物語」が大ヒットし、この前後、1965年の「サウンド・オブ・ミュージック」までミュージカル大作が続けざまに製作された影響はあるだろう。

正直、「本場」のミュージカルにどこまで本気で挑戦したのかわからないが、結果としてドメスティックな、あまりに日本的な妙な味の方が面白い。
ダンスシーンなどよく言えば粗削り、悪く言えば雑だが、エネルギーはある。

東宝の「社長」シリーズといったサラリーマン映画の系譜(製作・藤本真澄)にも位置するのだろうけれど、しかしこの当時、1959年に12億弱だった映画人口は5年後のこの年には3分の1の4億人にまで落ち込んでいる。もろに高度成長期真っ只中で多忙を極めていたであろう実際のサラリーマンたちが見に来たのだろうかと思ってしまう。

「アメリカでは」を連呼する内容(アメリカの合理主義と日本のムダだらけのビジネス慣行の比較)など、今だったら出羽守と揶揄されるだろうけれど未だに生きているところ多々あり。

作詞が谷川俊太郎というのはともかく、作曲が黛敏郎というのは後年のド右翼のイメージがあるだけに意外だったが、この当時、オリンピックの開会式前の音楽やアメリカ映画「天地創造」の音楽を作曲していた、国際的あるいはバタ臭い作曲家というイメージだったのだろう。


「アルキメデスの大戦」

2019年08月25日 | 映画
冒頭で史実通り戦艦大和が撃沈される場面を見せてしまうのだから、空母=航空機派と巨大戦艦派との争いがどういう結末を迎えるかはわかっているわけで、その上でドラマをどういうところに落とし込むのか、が興味になる。

 傾く船から滑り落ちていく乗員や、浸水とともに船体が海上に高々と突き出るあたり「タイタニック」そのもので、技術的に日本映画もやっと追いついた感があるとともに、ひとつの巨大な船が驕れる者の力の誇示のシンボルになったかと思うと同時に崩壊するところで共通している。
機銃掃射で撃たれた人体がどうなるかちゃんと見せているのも良い。

数学という合理性の極致の天才が一方で不合理な狂気を覗かせてしまう。ひとつは恋愛絡みで、もうひとつは数学の「美」そのものに酔いしれるという、より本質的なところ。
余談だが、右脳左脳で感情と論理を分担しているという説を否定するのに、思考中の数学者の脳が全体がフル回転しているという観察結果があるという。

こういう「頭の良さ」とまるっきり不合理な判断とがねじれてくっついてしまう日本の体質を指し示すドラマの落としどころは巧妙。
田中泯を一見無能で旧弊な戦艦設計者役にキャスティングした企みが終盤効いてくる。

数学的思考というのはまあ映像化不可能だろうけれど、黒板にすごい勢いで計算式を書き連ねるのに、記号はあまり使わずふつうの観客に理解可能な数字が並ぶアナログ感が映画的。



8月24日のつぶやき

2019年08月25日 | Weblog


「激動の昭和史 沖縄決戦」

2019年08月24日 | 映画
沖縄出身の芸能人が増えた今から見ると、沖縄人たちの役が本土の俳優で占められているのはやや物足りない。
「ひめゆりの塔」の神山征二郎監督によるリメイクだと沖縄語のセリフの考証をかなりしっかりやっていたが、その後続いていない。

沖縄がどう本土と違っているのか基本の描写が特に細かいところで弱く、あまり通常の日本の戦争ものと変わるところがないのは、なぜ捨て石になったのかという重要なモチーフを薄れさせた感がある。

描写の凄惨さも特殊効果による視覚的リアリティは「プライベート・ライアン」以前だなとは思う。
戦争では「上」は一般人など守らないということ、日本軍ひいては日本政府の判断のまずさ無責任さはよく出ている。




8月22日のつぶやき

2019年08月24日 | Weblog