prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「ウエスト・サイド・ストーリー」

2022年02月28日 | 映画
61年版はカメラを大々的にニューヨークの街に出してリアリズムを持ち込んだことで有名だが、このリメークの再開発でストリート自体がなくなってきているという設定は、リアリズムもより徹底した感じ。あるいは荒廃感が強まったといった方がいいかもしれない。

これと比べると61年版はリアリズムの一方で画面のデザイン感覚が強いのがわかる。真上や真下からのアングル、壁と並行しての俳優たちをフォローする移動撮影など、当時の大きく重い70ミリカメラはあまり自由に動かせなかっただろうのを画面のきっちりした構成に生かした。
原色の使い方、壁の落書きのストリートアート感もそう。

また61年版は時代的にニューシネマの先駆けという面もあるだろう。既成の価値観が崩壊して若者たちが演者としても観客ともしても主体になったという意味で。
若者の反抗がストレートに若さのエネルギーとして噴出できた時代の産物ともとれる。

ごく端的に出演者たちがカッコいいのだ。というか、カッコいいという今では当たり前の価値観が噴出したのが61年版ではなかったかと思わせる。
なんと深作欣二が63年に「狼と豚と人間」でフィンガースナップと小規模ながら群舞シーンを入れているのだから、どれだけの影響力があったのかと思う。

シュランク警部補の帽子とか顔つきがなんだか「フレンチコネクション」のポパイ(ジーン·ハックマン)に似ている。
もともとポパイの方が昔からあるいけすかない高圧的なデカをヒーロー側(というのか)に持ってきた面があるわけだが。

チノがダンスパーティでのイモっぽい感じから、マリアを間にトニーに微妙な三角関係になるあたりからメガネを取って顔つきが変わる。他はともかくこのキャラクターに関しては書き込みが増えた。

61年版では警察が介入しようとすると対立していたグループがしれっと協力して排除する。だから警察の介入はないに等しいのだが、ここでは肌の色もコトバも違うプエルトリコ系(シャークス)よりポーランド系白人グループ(ジェッツ)に警察がえこ贔屓しているに日和っている感じがあって排除感が弱まった。

「五重奏」のナンバーで警察の出番が増えた割に決闘で死んだ二人を見つけるだけという役立たずぶり。
「クラプキ巡査どの」のナンバーはよりにもよって警察署内で歌われるのだが、その分警官が出てこないのが不自然にもなった。あんな歌うたっているのを耳に入ったら留置場行きではないか。

こうスペイン語のセリフが多いとは思わなかった。字幕版で見たのだが、吹替ではどうなっていたのだろう。
プエルトリコ系の役を本物のプエルトリコ系の俳優たちにやらせた効果は大きく、リアリティは強まったが、正直ジョージ・チャキリス以下の格好良さは薄れた。役の抑圧感が強まったせいもあるだろう。

プエルトリコ系が活躍するミュージカルとしては、すでに後発でさらに徹底してプエルトリコ発の舞台「イン·ザ·ハイツ」の映画化があるわけで、今となるとこちらはやや人工的に見える。

トニーとマリアが互いに一目惚れするシーンで61年版では背景のパーティの大勢が踊っているのが画面処理でぼやける(舞台で紗の幕を使った応用だろう)のだが、ここではスポーツの試合で使われる仮設の座席の裏に入ってしまい二人だけの世界になるという演出になっていて、自然で成功していたと思う。

トニーとリフの昔からのダチ感覚も書き込みが増えた。トニーが一年刑務所に入っていて更生を誓っているあたりは61年版の一種能天気な感じ(それは原典の「ロミオとジュリエット」のロミオから引きずっていることでもある)を打ち消す効果はある。

「クール」を決闘シーンの前に持ってきて、拳銃を手にしてのやりとりがのちの悲劇につながってくる。解釈が大きく違っているが、トニーとリフの関係とさらにチノをつなぐ小道具として、これはこれでスジは通っている。

ただ一人61年版から引き続いて出演したリタ・モレノの役は、「ロミオとジュリエット」では両家の諍いを二人の恋を成就させることで解消できないかと画策するロレンス神父にあたるが、白人と結婚したプエルトリコ系として融和とそれに伴う軋轢を先駆けて経験した人という位置づけにアレンジされた。









「焼け跡クロニクル」

2022年02月27日 | 映画
双子の保育園児の女の子が、片方だけメガネをかけていて微妙に左右対称になっていない、微妙にずれているのが出来すぎなくらい映画的。

焼けかけた跡が残っている8ミリフィルムになお姿をとどめている家族の姿が、惨禍にあいながらなお受け継がれ存続していく命を思いがけず形にして見せる。
8ミリフィルムを編集機にかけてテープでつなぐなど、ほとんど見られなくなった光景だろう。

流産した次男の、まことにわずかな量の遺骨が残っているのは粛然とする光景。
さんざん映像では見慣れているはずの京都の街や自然が意外なくらい新鮮。

被災者というと震災などの大災害の被害者のイメージがまず浮かぶが、普通の(というのも何だが)火事でも被災した人にとっては深刻なダメージであることがありありとわかる。
本物の火傷の跡が痛々しくも、治っていく過程も本物であることが記録されている。
薬の袋に「原正孝」と本名が書いてあるのが当たり前なのだけれど、何か不思議な感じ。

数日は公民館にいられても、その後は出なくてはいけないなど、本当に被災した時の経緯も実は全然知らなかったことがわかる。




「牛首村」

2022年02月26日 | 映画
前半、確かいまガラスに牛の首が写っていたよなとか、誰か偶々のように変な人影が写りこんだよな、といったビデオだったら巻き戻して確認するだろう、視界の隅にひっかかるようなJホラー的な演出はますます微妙精密になっている。
微妙過ぎて気づいてないものもあるのではないかと思うくらい。

ただ話の結構が見えてくる後半になると、最初の舞台になった廃ホテルと呪いの発生源の村とがヴィジュアル的にもお話的にもうまくつながってない。

「牛の首」という実態のない怪談は有名だが(小松左京に同じタイトルの短編あり)、具体が必要な映画では収まりが悪い。
そこで畜生腹が昔は嫌われたというモチーフとかなり強引に結びつけたわけだろう。ヘタするとコンプライアンス違反になるような話でもあるが。

ホテルそのものの荒廃ぶりと背景の緑の風景の取り合わせが秀逸、よくこんな場所あったものだ、とか、うっかり実際に入ると床が抜けたりすることもあるからロケハンには手がかかっただろうとか、ロケ隊どこに泊まったのだろうとか、結構見ていて余計なこと考えていた。

屋上から飛び降り自殺した人間が死んだことに気づかず同じ屋上に戻ってエンドレスで飛び降り続けるというモチーフは、高橋洋監督(この村シリーズの清水崇監督の映画美学校での先生=というとなんだが)の文章に出てくるが、水溜まりを利用してうまく処理した。

スマホのSIRI機能が勝手に働いて妙なことを自動音声で喋り出すのが上手い。

主演のKokiって、キムタクと工藤静香の娘だという。どちらかというと父親似だろうが、若い女性で歌舞伎顔となるとけっこう微妙な顔立ち。




「ジャッリカットゥ 牛の怒り」

2022年02月25日 | 映画
このリジョー・ジョーズ・ペッリシェーリ監督作品では「チュルリ」の方を先に東京映画祭で見ていたので、ある程度作り方の共通性はわかる。
丁寧に撮るところは度外れて丁寧に撮るのと、ラストでとんでもない飛躍を見せること、開巻に意味のよくわからないが映画全体を象徴したようなエピグラフを置くこと、など。

リズム感がかなり変。MTV風の速いテンポで短いカットをつないだかと思うと、おそろしくのったりした空撮がずうっと続いたりする。
どちらも早く映画の中に巻き込む技法なわけだが、打ち消しあって逆に宙ぶらりんになっているような気分になる。

しかし、これ動物愛護がうるさい国だったら撮れたかどうなのか。
動物は殺していませんという決まり文句が出てこなかったのは確か。
出てくる村人の数とエネルギーは呆れるばかり。





「浅草キッド」

2022年02月24日 | 映画
オープニングの柳楽優弥の事故った後のたけしの再現にぎょっとする。チックや肩のすくめ方までそっくり。

タップダンスは「座頭市」でもやっていたが、浅草の伝統芸だったのだろうか。
戦前の浅草は「ジンジャーとフレッド」ばりにフレッド・アステアとジンジャー・ロジャースの真似たちだらけだったらしいから。

「キッズリターン」では後輩をおだてながら潰す先輩が描かれていて、じっさいたけしにはああいう先輩がいて不摂生からテレビに遅刻してしばらく出入り禁止になったというが、ここでは後輩を生かしながら浅草からテレビに出ていかない先輩が出てくる。ネガに対するポジのような。
芸人はテレビに出ていないと存在していないみたいになっているけれど、そんなわけないと改めて思う。




「アンチャーテッド」

2022年02月23日 | 映画
インディ⋅ジョーンズ式宝探しと、二大スターの相棒ものを足して二で割ったみたいな映画。
本当にそれ以上でもそれ以下でもない。

女優たちにどうも魅力を感じないのと、役が中途半端に消えたり、かなりムリに前面に出してきたりするのが困ったところ。

ただクライマックスの海賊もののパロディ(というのか)の趣向には恐れ入った。
よくこんなシーンを考えて映像化したもの。

シリーズ化したいのはわかるけれど、いったん話がぴしっと終わっているのにエンドタイトルの後になくもがなの予告編的なシーンをくっつけるの、いい加減やめてもらいたい。残尿感というか、本当に悪い癖がついたと思う。
次にどう展開させるか、マーケットリサーチしてから続きを決めるみたいな匂いもする。





「イカゲーム」

2022年02月17日 | 映画
第二話でいったん外に出るのは「プリズナーNo.6」っぽい。頭からすっぽりフードをかぶって仮面をつけているのもそう。ここの展開の転回が閉じ込められた世界の閉鎖感の裏打ちになった。

出てくる遊びがだるまさんが転んだとか、メンコとか、ビー玉とか、綱引きとか日本でもお馴染みなのばかり。

パキスタンからの出稼ぎ労働者というのも出てくる。インドではないのが芸が細かい。

血みどろ描写は今や韓国映画やドラマの十八番になってきた感あり。




「ノイズ」

2022年02月16日 | 映画
前半、とんとんと意表をついた展開を見せてタイトルが出るまでは好調なのだが、中盤以降、なくもがなの回想シーンが入るあたりで展開のドライブ感にブレーキがかかる。

もともと島の閉鎖的で煮詰まった社会の話なので、どろどろに傾きやすいのだが、後半日本的にウェットで鈍重な調子に傾くので、ドライで非情になるべきオチも残念ながらぴしっと決まらない。

島で目玉産業として栽培しているのが黒イチジクというのがどこか不気味で上手い。

主役たちはそれぞれ悪くないけれど、本領発揮とはいかず。
永瀬正敏が凝った役作りが裏目に出た感じで、珍しく場違い。




「ゴーストバスターズ アフターライフ」

2022年02月15日 | 映画
小林信彦の指摘だが、オリジナルの一作目には実はストーリーがない、あるのはバラエティー的な趣向だけだ、というのに賛成。ダン・エイクロイドがテレビのサタデーナイト・ライブ出身ということも大きいだろう。
その大ヒットを受けて続きを作っていくうちに、逆にハリウッド映画のドラマ的定型が前面に出てきた。

魔神が復活するのを阻止できるかどうかというゲームみたいな構成で、わかりやすくもあり、軽くもある。
オリジナルの二作、キャストを総て女性にしたリブートと違って、今回は田舎が舞台。ランボー5みたいな趣向が出ているのはアメリカの原風景は田舎というところで通じるのかも。

監督がオリジナルのアイヴァン・ライトマン(見た直後に訃報が入った)の息子のジェイソン・ライトマン。継承というモチーフが映画そのものの内容になっている。
言い方悪いが、おバカ大作ながら大ヒットをとばす監督の父親からインディ系の批評家受けはするけどマーケット的にはBクラスの息子という印象だったが(異論は認める)、今回は足して2で割ったとまでいかないが、2.2で割ったといったところ。

主演は「gifted ギフテッド」で天才役を演じたマッケンナ・グレイス。役の設定は12歳だが、2006年生まれだからこれが撮影された頃は14歳くらいか。まあ演技は達者だわ、役にふさわしく賢そうだわ、大作の主役を堂々とつとめるわ、恐れ入ります。






「蓮如とその母」

2022年02月14日 | 映画
日本を代表する人形アニメ作家・川本喜八郎の初の長編。
平井清隆の小説「蓮如とその母」が原作。滋賀県同和問題研究所など4団体が映画化を企画。

三國連太郎が重要な役で声の出演をしている。のちに蓮如の教えの始祖である親鸞の映画「親鸞 白い道」を原作・製作・脚本・監督・出演で作っているのとも通じるのだろう。

脚本が新藤兼人で、人形アニメだからといって特に通常のドラマの書き方と変えておらず、セリフ劇をいかに動きに制限のある人形アニメで表現するかというハードルを作ることにもなった。
蓮如は母と姉の存在に支えられる男で、そのあたり新藤にとってはシナリオ技術の提供だけでなくノレる題材とも思える。
親鸞は妻帯を認めたわけだが、蓮如は子供たちのおむつを自ら洗うところからはじめ、子沢山の上に、人はすべて母から生まれるとい教えに加え、女がいなければ男は働けないと説く。

男女の平等むしろ女性の方が大事という教えに加え、どんな卑しい身分の人間でも悪人でも念仏を唱えて阿弥陀如来に身をゆだねれば救われるという教えは鎌倉仏教が広まった根源だろうし、御仏から見ればすべての人は平等だし救われるという考えは今でも通用するところがある。

91分と比較的短いとはいえ人形アニメで長編は大変らしく、実写映像が随所にはさまれる。
それが水増しではなく、美的でもあり、ちょうどいい息抜きにもなっているし、記録的価値もある。

セリフを聞かせるのに口をぱくぱく動かすといった処理はまったくしないのが日本製らしい(ウルトラマンもそう)。アメリカ製アニメがリップ・シンクにこだわるのとは対照的。

セリフを言いよどんだりする、動きがまったくなくなってしまい人形が素の無生物になりそうなところで時間が止まらず、芝居の「間」になっている。このあたりのワザは類がない。

黒柳徹子と岸田今日子が似顔の人形で声が当人がアテているのがゴ愛嬌。
エンドタイトルに原口智生の名前がある。





「さよならテレビ」

2022年02月13日 | 映画
繰り返し子供たちにメディアの役割について説明する場が挿入されるのだが、それが重要なのはわかるけれど、むしろ反語として機能してしまう。

テレビはテレビ的な現実を再生産しているだけではないかという反省の弁はあるのだが、正直外部から見るとわかりきったことを言っているように聞こえる。

公開されたのは2019年、特定秘密保護法が成立したのが伝えられるあたりからして、その危険性がどうしても具体的なイメージを持ちにくい(「効果」が現れるのは時間がたってからだから)

ただ、端的に言って五輪絡みでマスコミは少なくとも全国紙やキー局はまともな批判、という以前の注釈程度すらしなくなった現状にあると、もう生ぬるくて仕方ない。

テレビの中で仲間うちで撮っている分には当人たちは結構ストレスあるのか知らないが、本気でテレビの内部をさらけ出すのなら、外部の目が入らないとダメですね。
これはテレビに限らず、日本の全組織にいえること。





「355」

2022年02月12日 | 映画
タイトルの355って何かと思ったら、アメリカ独立戦争の時に活躍した女性エージェントの暗号らしい。レディという意味の数字としかわかっておらず、今でもまったく正体不明(憶測は何通りもあるが)ところがエージェントとしては理想的、というわけ。

予告編ではタフな女性たちがチームで暴れるアクションもの、というイメージで「チャーリーズ・エンジェル」みたいなマンガチックなのかなと思ったらだいぶ違う。
アクションもストーリーも結構シリアスでハードで、ちょっとわざとらしいが非情な展開もある。
もっともあれだけ大暴れしておいて無名のまんまというのも、いかに隠蔽工作するにしても何だか変。

最初、国も職務も人種もバラバラだった(どころか敵味方だった組み合わせも含む)五人がチームになるまでの段取りがなかなか好調。
お話を転がすきっかけ(ヒッチコックの言う「マクガフィン」)にコピー不可能なサイバー攻撃用プログラムを内蔵しているデバイスというのを使っているのが形があるのでわかりやすい。

今では女性がハードなアクションシーンを演じるのは珍しくなくなっているけれど、迫力十分。マンガチックにする必要なくなったということだろう。
アフリカ系東洋系も含めて大暴れというのがまた、今風に多様性に配慮したところ。
ついでに中国にも配慮して(製作に)クライマックスは上海。

悪チェチェンマフィアという設定。





「フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊」

2022年02月11日 | 映画
休刊になる雑誌の記事という体裁のエピソード集。
いつものウェス·アンダーソン監督作にもましてひとつひとつの場面が完成していて、全編きっちりレイアウトされた雑誌の誌面みたい。

いかにもイメージとしてのフランスの連続なのだが、それが5月革命とかギャングといった、60年代から70年くらいのフランスのそれなのは、ヌーヴェル・ヴァーグ映画経由のイメージということではないか。日本で最もフランス文化が憧れをもって受け止められたのは昭和初め頃だからもっと古いだろう。





「クレッシェンド 音楽の架け橋」

2022年02月10日 | 映画
パレスチナとイスラエルの若者たちを集めてオーケストラを作り演奏会を開こうという、ほとんどムチャぶりみたいな話。
実話というのでないと、納得しにくいくらい。

実際、オープニングから不穏な空気が漂って、無事に済むのかと思わせる。
ロミオとジュリエットばりにパレスチナ人の男の子とイスラエル人の女の子とが恋仲になるが、何年後かには女の子の方が検問所で最初の方で実際にされたように男の子を嫌がらせのように検問するかもしれない、というのがやりきれない。イスラエルは女子にも兵役があるからそういうこともありうるわけだ。

主催者が本業が株のトレーダーでお金に余裕があるからこういう一種物好きな真似ができるというあたり、リアリティがある。
一回、若者たちでとことん罵り合いをさせると言葉が枯れてしまう、いい意味で底が見える。そして納得できないメンバーが残っても否定しないのは大事なところだろう。

対立はパレスチナ人とユダヤ人の間だけでなく、それぞれの家庭内でもある。
ただ最終的な悲劇がどこから来たのか、これまたロミオとジュリエットみたいにいささか早まったというところに落ち着くのは元よりどこかのせいにするのが難しく、強いて言うなら代々続く差別と大国エゴのせいなのだが、そうなると大きすぎてつかみどころがなくなる。

使われているクラシック音楽が有名なものばかりなだけに、演奏会をどういうプログラムで組もうとしたのかよくわからない。
ある特定の曲を丹念にリハーサルを重ねて完成にもっていくという構成になっていない。だからラストシーンも、もっと丁寧に構成すればもっと感動的になったのにという惜しさが混ざる。

モデルになったウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団は演奏会をパレスチナやトランプ政権下のアメリカでも開いているらしいので、現実はけっこう希望が持てるのかもしれない。

新宿ピカデリーのエレベーターに描かれた宣伝用イラスト。




「ギャング·オブ·アメリカ」

2022年02月09日 | 映画
原題はLansky。
「ゴッドファーザーPARTⅡ」のハイマン·ロス(リー·ストラスバーグ)のモデルになった実在のユダヤ系ギャング、マイヤー·ランスキーのこと。
演じるのは東欧系ユダヤ人のハーヴェイ·カイテル。若いときをジョン·マガロ(「アンブロークン」「キャロル」)。

ジャーナリスト(サム·ワーシントン)が老境のランスキー(カイテル)のもとを訪れ、本にすべく聞き出した半生が画面になっていくわけだが、何しろ違法行為だらけなので生きている間に公開したら命はないぞと脅され、しかも3億ドルに及ぶというランスキーの隠し財産を探すFBIが接触してきて、秘密を知るらしい仲間の居場所を調べろ、断ったらランスキーにチクるぞと脅迫してくる(ヒドい)。

このランスキーが昔、若いときにやったことと、今のジャーナリストの家族を含めた周辺に起きることが二元的に平行して描かれる構成は正直まとまりが良くない。

前述の「ゴッドファーザーPARTⅡ」にかぶるところが面白く、もともと隠し財産はキューバ革命以前のバティスタ政権下のハバナのカジノの儲けが原資で、イスラエルのゴルダ⋅メイヤ首相の代理に武器を買う費用の寄付を求められてユダヤ人同士のよしみで多額の寄付をする。
ところがメイヤ首相は米のニクソン大統領から戦闘機の供与を受ける代わりに組織犯罪のトップのランスキーを米に引き渡すべく、イスラエルへの帰化申請を却下し追放処分にする。このあたり、FBIもだが国のやることはギャングよりヒドい。

「ゴッドファーザー」ではなぜハイマン·ロスが終盤寄る辺なく世界各地を転々としていたのかよくわからなかったのが、ピースが嵌まった感じ(本物のランスキーは肺ガンのためマイアミで80歳で死去)。

カイテルは前に「バグジー」でバグジー⋅シーゲルの仲間のキレ気味のギャング、ミッキー⋅コーエンを演じていて、この時ランスキーをベン⋅キングスレーがやっていたのだが、今回のカイテル扮のランスキーも同様に数字と計算に強く、やたら凄むのではなく素人に貸しを作って巻き込んでいくタイプのギャングとして演っている。
だから、ギャング映画らしいドンパチ場面はほとんどない。
このあたりの全然違うキャラクターをカイテルが演じ分けているのを比較して見ることもお楽しみ。

賭場で勝ちおおせることはできない、たまに勝ち続けることはあるが、最終的に勝つのは胴元だ、といったセリフは色々な関係に置き換えられるだろう。

ランスキーを扱ったテレビ映画にリチャード・ドレイファス主演の、ジョン・マクノートン監督の「ランスキー アメリカが最も恐れた男」というのもあるらしい。

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 「ギャング・オブ・アメリカ」 - 映画.com

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