prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「アイヌモシㇼ」

2024年01月31日 | 映画
観光地化した十勝で英語が日本語と共にアナウンスされていてアイヌがアイヌ語を習っているという逆転が、言語の背景にある力関係を示している。
テレビで「インディペンデンス・デイ」を見ているシーンがあるけれど、あれはドイツ人の監督がアメリカで思い切りアメリカ万歳やっている映画で、かなりアイロニカル。

日本人観光客が主人公のカント(哲学者のカントかと思ったら、アイヌ語で「天空」という意味)の母親に「日本語お上手ですね」と言うのは悪気がないだけに無神経が際立つ。

アイヌの伝統が「守り」に入って、熊狩りが禁止されそうになっているのは現代の感覚に合わないからという理屈はつくだろうが、たとえばアイヌが川から鮭を採るのも禁止されていて、許可をとるのに身長を越すほどの書類を作る必要があった、他民族の「主食」を禁止した例はないとはアイヌ初の国会議員だった萱野茂氏の講演で教えられた。

実際のアイヌの役名と本名が同じというのが一つの主張ということになるだろう。

熊を殺すシーンそのものは記録ビデオ映像の中でのみ現れる。直前に熊の目から見たカットが入ったりする。
亡くなった父親が現れるのはあの世から(おそらく熊が殺されて生死の境が薄れて)召喚されたと解釈すべきか。





「ゴールデンカムイ」

2024年01月30日 | 映画
プロジェクトとすると原作のどこまで映像化するのかと思う。原作が完結していることは知っているが、実は結末までは読んでいない。

長編マンガの原作はどうしても人気のあるうち、つまり連載中に他のメディアに移されることが多く、「あしたのジョー」が連載途中でアニメに追いつかれてしまい、10年後に改めて「2」としてやり直せたのは例外で、それだけきちんと終わっていてラストまで見通せたからだろう。
「進撃の巨人」「鬼滅の刃」といった人気連載が完結しても人気を保てるよう他のメディアに乗り換えながら飽きさせないのは進歩。

キャラクターの再現度が高い割に役者の地もちゃんとわかる。
アシリパの山田杏奈が大きくなったのは例外として変顔の再現度は高いのが可笑しい。童顔に対してきりっとした喋り方が良く、杉本がアシリパさんとさんづけで呼ぶのが不自然ではない。
目が青いのについて何の説明もしていないが、続きまで待てということでしょうね。
終盤長めの回想が入るのは続編に繫ぐためだろうが、唐突に高畑充希が出てくるあたり、これだけ見るにはややバランスが悪い。

クマやオオカミのCGの出来は合格点。クマは日本映画では古くは「君よ憤怒の河を渉れ」から「リメインズ 美しき勇者たち」「デンデラ」に至るまで鬼門だったわけで、安心した。

クマの巣穴の中からの視点で外で何が起きているかを切り取って暗示しながらワンカットで見せるあたりの映画的演出がいい。





「VESPER ヴェスパー」

2024年01月29日 | 映画
主人公のヴェスパーって少年なのか少女なのかわかりにくいのだが、エンドタイトルでラフィエラ・チャップマンと出るので女とわかる。神話的な両性具有イメージを付与していると思しい。
森からコケやキノコみたいなサンプルを集めているあたり、ちょっとナウシカを思わせる。
それと共に連想させるのはタルコフスキーで、木の壁の家や森の中、川面などの質感は「アンドレイ・ルブリョフ」「ノスタルジア」、荒廃したSF世界という点では「ストーカー」ばり。

種が現実にあるいわゆるF1種みたいに一回しか収穫できないという制限をかけられているという世界観は現実的すぎて意外性に欠ける。

ドローンみたいに自在に空中を浮遊する顔の落書きがしてある物体が寝たきりの父親の声を代弁したり、中身がぐちゃぐちゃした内臓状になっているあたりの有機物と古びた金属の取り合わせは面白い。豚の網脂みたいなシートを傷に貼るあたりの感触も目新しい。

主人公側が暴力をふるわず、武装した敵が高速の蛍みたいな虫に貫かれてやられるというのも非暴力という点では一貫している。
ただ2時間近いのはいささかまだるっこしい。音楽が素晴らしい。





「ベネシアフレニア」

2024年01月28日 | 映画
世界有数の観光都市であるベネチアにクルーズ船でやってきたグループが仮面で正体を隠した道化に一人また一人と惨殺されていく。
よくあるホラーだったらキャンプとかホリデーとかに設定するのを外国まわりのクルーズにして非日常感を演出するという寸法。

しかもクルーズ船に対して現地人がすごい反発していて一方で観光業がなければ食いっぱぐれているという葛藤が背景にある。日本はどうなのかなと思った。

白昼堂々と大勢の観光客たちの前で惨殺してもツーリストたちはショーだと思ってスマホを向けるだけという趣向が面白い。





「ある閉ざされた雪の山荘で」

2024年01月27日 | 映画
タイトルに偽りありで、山荘は実際には雪に閉ざされてはいない。そういう見立てあるいは「つもり」で演じなさいという指示があるだけ。
この指示してくる劇作家兼演出家というのが終始姿を現さない処理が結構中途半端なのは気になった。

山荘の2Fを真上から見取り図みたいな平面に開いて見せる「ドッグヴィル」みたいな趣向がちょっと面白い。階段を降りて1Fに向かうと姿が消える。

こう言うとなんだが、集められた集団が歳がみんな20代後半で、役者らしくそれなりに美男美女となると顔が見分けにくい。
アメリカ映画みたいに人種が違えばともかく。

作中に出てくる「そして誰もいなくなった」みたいにフラットな人物配置で途中まで通して、そこから誰か特別な存在(たとえば探偵役)に移行する処理は難しく、この場合かなりムリしているように思える。

劇中に出てくるビデオ映像に記録されている日時は2024年3月4日から7日にかけての4日間。
つまり劇場公開されている時点より未来ということになる。
エンドタイトルで大塚明夫の名が出たと思った。姿を見せない演出家の声か?




「コンクリート・ユートピア」

2024年01月26日 | 映画
大災害に襲われたアパート群のうち一棟だけ倒壊を免れているという図がどうも納得できない。
「パラサイト 半地下の家族」を横にしてみましたといったところなのだろうけれど、阪神淡路大震災の時に明らかになったように、貧困層の住宅だけ壊れて富裕層の住宅は倒壊を免れたという具合に社会的な格差が自ずと出たというわけではないから。

イ・ビョンホンの正体不明の男がヒロイックなのと暴力的なのを併せ持っていてすわ主役なのかと思うと割と中途半端。





「サン・セバスチャンへ、ようこそ」

2024年01月25日 | 映画
アレンらしくウェルズ=「市民ケーン」ベルイマン=「野いちご」「第七の封印」「仮面ペルソナ」 フェリーニ=「8 1/2」 ブニュエル=「ブルジョアジーの秘かな愉しみ」「皆殺しの天使」 ゴダール=「勝手にしやがれ」 トリュフォー=「突然炎のごとく」ともうオマージュというか引用だらけなのだが、意外(というか)なのはクロード・ルルーシュ=「男と女」が音楽つきで再現されたこと。芸術というかゲイジュツ志向ではないのが混じった。

「ペルソナ」のセリフはわざわざスウェーデン語にしているという凝りっぷり。
演出はシンプルで、さらさらとひっかからないように撮っている。

ヨーロッパのヌーヴェルヴァーグをはじめとする映画人はヒッチコックやハワード・ホークスなどハリウッドの監督でも自分のスタイルを持った人は称揚したのだけれど、アレンはあまりそういうことはしない。
音楽の趣味は懐古的だが。

自身のスキャンダルについては黙秘を貫いている。もともと否定しているのだし、ネタになるような性格のことではないが、その分以前と作風があまり変わらないでいる。

「女の平和」の男版はどうだという企画が映画人のパーティーでちらっと出てくる。何だそら(男が戦争ばかりするものだから女たちが夜の生活をボイコットする話)。





「エクスペンダブルズ ニューブラッド」

2024年01月24日 | 映画
EXPENTABLESのうち中ほどのAの文字を4に変えてEXPENT4BLESにしてシリーズ4作目なのにひっかけている。

かなり世代交代気味で、邦題に「ニューブラッド」=新しい血とわざわざ断っているが、スタローンが引っ込み気味で、新しく加入した女(ミーガン・フォックス、レビ・トラン)に東洋人二人(トニー・ジャー、イコ・ウワイス )はどちらもあまり生かされていない。
核爆発に無神経なのには、またかよと思う。

ラストシーン直前に回想入れるっていうのはねえ。
実質ジェイソン・ステイサムとその他大勢。





「猿女」

2024年01月23日 | 映画
ラストが三通りあって、イタリア公開版、ディレクターズカット版、フランス公開版と全然違う。
イタリア公開版はベッドに横たわった猿女の遺体が黒味に囲まれてだんだん小さくなっていく、ディレクターズカット版は死後ウーゴ・トンニャッティ扮する猿女の夫が見世物小屋を開くところまで続く、フランス公開版は猿女が死なないのみならず顔中に生えていた毛が抜けてアニー・ジラルド(当然、美女)の素顔が現れるといった具合。

正直、なんべんもラストを見せられるのは生理的にきつかった。もろに終わりそうで終わらないのだから。考証的、研究としての意義があるのはわかるけれど。

多毛症の女を猿まがいの見世物にして金を稼ぐという最低な真似をしておいて途中で結婚するのにはあれと思ったし、妊娠する(その後の展開は前述の通り分かれるが)ということは性交したわけで、途中から自分が何やってるのかわからなくなってくる、良くも悪くも慣れたということか。一筋縄ではいかない。



「時は止まりぬ」

2024年01月22日 | 映画
エルマンノ・オルミ監督第一作。
舞台は雪に振り込められたダムに隣接された山小屋で登場人物は三人だけ、それも一人が下山してから交代で若いのが補給されるといった調子で、最初から最後まで出ているのは一人だけ。

どんな設備があるのかいっぺんに見せないでダムの内部を順々に紹介したり、その内部に水がたまっているのを手でかい出したり、教会が近くにあるのを吹雪が強まったので避難先にしたりと、いちいち手の届く範囲で危機が起こっては去る。去ってしまえばさほどではないとはいえ、その時はかなり深刻。

↑の写真にあるように雪に人型をつけたり、風邪をひいたらしい未成年にミルクに酒を混ぜて飲ませて、熱がひいたらアルコールくさいというあたりのユーモアがいい。



「せかいのおきく」

2024年01月21日 | 映画
白黒にしたのは糞尿を撮らなくてはいけないせいだろうけれど、そこにふっとカラー画面が混じってくる(糞尿ではない)。
法則らしいものはなくて、ラストカットだけ広角ぎみのレンズを使っているのも、あまり理に落ち過ぎないようにするのが狙いではないか。

おきくが喉を切られて口がきけなくなるのが芝居の見せ場になるかと思わせてそんなに表には出ない。無言の饒舌さといったところに抑えている。

池松壮亮と寛一郎 の二人の衣装のボロさ加減がすごくて逆に手がかかっている。
おきくが半紙に筆で書く仮名文字が上手。





「NOCEBO ノセボ」

2024年01月20日 | 映画
舞台はアメリカかと思ったら、アイルランドのダブリンでした。
監督はロルカン・フィネガンLorcan Finnegan。フィネガン というからアイルランド系かと思って検索してみたが、個々の映画の関係者とするとひっかかるのだが、どういうわけかWikiでは個人としては名が出ていない。個人のホームページは出る。

謎のフィリピン人役のチャイ・フォナシエルは1986年9月27日生まれの37歳。
小柄なもので、もっと若く見える。英語、セブアノ語、タガログ語、ヒリガイノン語を解するとのこと。
フィリピン映画「リスペクト(2017)」に出ているらしく、2018年の第31回東京国際映画祭「CROSSCUT ASIA #05 ラララ 東南アジア」で上映された記録がある。

アイルランドというとITが普及してからは大いに経済発展したが、それまでは貧しい国で、つまりフィリピンのように搾取される側から短い間に搾取する側にまわったと考えていいかもしれない。
フィリピンの民間療法に通じるアニミズム的な体質が前は強かったが、最近は忘れられているということか。

民間療法と書いたが、むしろ呪いと言うべきでフォナシェルが小柄なだけに子供の目線にまで下りてくるのが不気味。
虫だの妙な薬草だのがヒロインが服用する近代的な薬と対照的なようで、似たような位相にある気がする。
ノセボという言葉の意味自体、プラシーボ(偽薬)が何の効果もない薬の効果が信じることで実際に現れるのに対して、患者の否定的な思い込みや心理状態が原因で有害な副作用をもたらす無害な偽薬をいうらしい。

エヴァ・グリーンの痩身と異様に白い肌が病的な印象を強める。





「カラオケ行こ!」

2024年01月19日 | 映画
中学生役の齋藤潤は2007年6月11日生まれの出演当時16歳。メガネをかけているところは何だかハリーポッター第一作の頃のダニエル・ラドクリフとちょっと似ている。
子役出身というわけではなくまだキャリアは浅いが、ヤクザ役の綾野剛が縦横無尽に投げ込んでくる球をキャッチするあたりの堅い表情が器用になりすぎなくていい。

クライマックスのカラオケ絶唱で喉を押さえているのは変声期でムリに声を出しているということか。このあたりは原作の方がはっきり描いている。
合唱部の部長という役のわりにあまりちゃんと歌っておらず発言は批評に徹している。ヤクザたちがよく怒らないものだが、いずれにせよリアルなヤクザではなく「セーラー服と機関銃」みたいなコメディ要員。

「映画を見る会」がVHSテープで「白熱」「四十三丁目の奇蹟」「カサブランカ」「自転車泥棒」といった40年代の白黒映画ばかり見ている。
これ自体一昔前の風俗。ちなみのこのビデオのくだりは原作にはない。
ミナミの再開発も時代色のうちか。

綾野剛はカラオケのマイクを持っての第一声からしてとんでもなく上手く(当人は今はやめているがバンド経験あり)、この人にどこを教えるのかと思わせる。

原作との比較を続けると、合唱部員たち特に女子たちを描き込んでいる。顧問の先生たちも。





「ゴジラ-1.0/C」(白黒版)

2024年01月18日 | 映画
カラーと白黒の両方の版があるのとしては比較的最近では「マッドマックス 怒りのデスロード」があるが、技術の進歩のせいか初めから白黒用の照明で作ったのかと思うくらい微妙な画調が出ている。

今では白黒映画は「せかいのおきく」「花腐し」などそんなに珍しくなく、フィルムだと最初から白黒用のを用意しないといけないわけだが、デジタルだともう少し手前が省けるのではないか。知らんけど。
フィルム時代の「マスターズ・オブ・ライト」のデジタル版みたいな本が出ないものか。

白黒だと第一作の、特に生中継しながらゴジラに襲われる場面のオマージュが生きる。焼け跡のセットの質感も白黒ならではの抽象化をいったんくぐり抜けたリアル感がある。

余談だが、1954年のファースト「ゴジラ」の三年前の1951年、日本映画初のカラー映画「カルメン故郷に帰る」では万一カラーで失敗したのに備えて白黒でバックアップをとっていたのだが、カラーを白黒でプリントしたというより、明らかにテイクが違う。

さらに余談を重ねると、「天国と地獄」みたいにパートカラーを採用した映画で白黒の調子が潰れることがよくあったけれど、今だともう少し上手くいくのではないかな。「笛吹川」みたいに白黒に部分着色したフィルムも、「白い恐怖」で一瞬のカラーのためにそのカットがまるまる潰れたままなのはもったいないと思ったもの。





「ミークス・カットオフ」

2024年01月17日 | 映画
西部開拓史を描いているには違いないが、虚像を剥いでリアルな実像をさらけ出すといったニューシネマ的な手つきではなく、男たちが世にもあやふやなまま道を決めて、それに女たちはついていくしかないという先の見えなさがそののまま「現代」の見通しになっている。

「ファースト・カウ」もそうだったが、1:1.37のスタンダードサイズ。

「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」もそうだったが、字幕で「先住民」ではなく「インディアン」と訳している。当時の言葉遣いを考えればそうなる。
ビーバーが乱獲されてほとんど絶滅したことは「ファースト・カウ」にも言及されていた。

幌馬車が崖から落ちて樽から水が漏れ、そのまま銃を向け合うクライマックスになだれ込むあたりは生死を賭けている割にどこかそれが特別なことではない感じが残る。