連結器と室内灯の交換をしました、 LEDに換装するのは節電も理由ですが古い模型は室内灯がいずれ寿命がきますので交換しています。
オロハネ10と同じカツミの製品です。 室内灯の交換と連結器をどうするか、オロハネ10とつないだままなら「さんべ」ですが、実はこのオハネフ12はとても使い勝手が悪いんです。 尾灯がデッキでなくトイレ側についてるので最後尾でつなげるとトイレが後ろ。 このつなぎ方は本州以南では見たことがありません。 旧型客車のデッキは吹き曝しなので北海道では真冬にオハネフのトイレ側を最後部にした写真は見たことがありますが、デッキが雪まみれになるのでトイレ側を後ろにして貫通路を施錠してたのでしょう。 新宮のオハネフ12のようにデッキ側にシャッターをつけた例もあります(オハネフ1255)。
室内灯はLEDのパネルライトに交換しました。
何度も申し込んでも市の施設の抽選が当たらないので会場を変えて実施することにしました。 当選しても自粛期間中で強制的に取り消しされてついてません。 先日作りましたパワーパックの動作を確認しました。
日本の電気は電源プラグといいアナログのテレビ放送(NTSC)といい富士川糸魚川より西の周波数(60Hz)はアメリカの方式です。 鉄道模型もスイッチマシンやケーディーカプラーがほぼ標準化されてます。
手持ちが結構あるのでケーディーカプラーを使ってますが、118は自分は緩急車用に使っています。
119も持ってますのでこちらも緩急車用でしょう。
6両のACEカプラーを交換します。 トレーラーは床板を外さずに交換できます。
動力車はMPギアと連結器の取付板が干渉しますので車体を外します。「いそばが回れ」ですが横着して車体に傷をつけてからですと遅いので、、、
久しぶりにカツミのオロハネ10を出したら台車がバラバラ、台車とカプラーを交換します。
オロハネ10は電気暖房はなかったはず。
水タンクは鋼製。 何でだろ。
室内灯もLEDに交換しました。 連結器がACEカプラーなのでそのままにしたいところですが、手持ちのオハネフ12と「さんべ」の編成を考えてみます。
先週最終回だった「あん」、そのまま聞いていたのですが、今一つ結末がわからず、本かDVDを買ってくるか借りるか、と思い1週間経ちました。 NHKの「聞き逃し番組」で聞くことにしました。
「あん」の最終回、亡くなった徳江の話を森山が語るところがほとんどですが、「よく頑張ったな、やり遂げたな。」の言葉がが心に残りました。 それは千太郎だけでなく、全ての人に言いたかった言葉、自分に言われた言葉かもしれません。 やり遂げることの尊さを感じました。
さて、頑張ろう。 今日は夏至、いつの間にか彼岸そして冬至、3ケ月は早い。 まもなく志村さんが亡くなって3ヵ月。 寅年の女性はきついけど男性はナヨナヨしてるとか、オカマコントは風呂屋さんもあったとか。
座席の無い古い製品です。 93年頃の30年近く前の製品なので室内灯が電球なのでLEDにします。
パネルライトの旧製品の在庫がまだまだありますのでそのまま交換しました。
連結器も交換しました。 プラの車体にプラの連結器なら耐久性がありますが金属製の車両は定期的に交換することにしています。
かかりつけの医師から安静と充分に睡眠をとるように指示されていますが、家にいると仕掛かりの工作が気になります。
前面パネルの配線が終わりました。 次が整流器(シリコンブリッジ)周りの配線です。
忠臣蔵巡り、今回は毛利庭園です。 乗り換えなしで行こうと思いましたが、登戸で快速急に連絡するので下北沢までノンストップでいきます。 梅雨の合間の晴天で明日から天気が崩れます。
複々線を滑るように走ります。 自粛が解除されたのでそれなりの人出ですが、昔ほど混まず、生産年齢人口が減少してるのでしょうか。 タブレットで下書きしてるといつのまにかポイントの音がして経堂そして地下に入り下北沢、東北沢で地上へそして代々木上原で乗り換え、乃木坂。 乃木邸に行きます。
「203高地」や「明治大帝と日露戦争」を見て、日本人について考え直すことがありました。 乃木邸を見学してたら夫人の部屋にミシンがありました。 二人の子供の服を作っていたのでしょうか。 母を思い出しました。 母を車に乗せて通りかかった時に「ここが乃木大将の家やで。」と言いました。
トンネルを抜けます。
毛利庭園に着きました。 赤穂浪士の碑は毛利家の意向でありません。
都心の緑がきれいでした。
あとは築地の赤穂藩江戸屋敷跡です。 赤穂事件で思うことは、浅野長矩の一時的な衝動からはじまった、と思われがちですが、これまでのことが積もり積もって、おきたことです。 争いごとを美化するともりはありませんが、人が存在する限り争いは起こりますが、そのときできることをやること、そうしないといつまでも悔いになることを学びました。
今になって思うことですが、母は足が不自由だったので車の中からでしたが、東京の色んな所を見せて良かったと思いました。 いつも言ってたのが桜田通りに入るたびに、母の実家が三条神宮道なので「ここをまっすぐ行ったら三条やで、500キロほどさきやけど。」と言ってたことです。