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霊性(SPIRIT)による、安心を知っている日本人 歴史の中の経緯・23

2023年10月23日 | 歴史の中の「経緯」

実際に天皇のDNAが、何民族であろうとも、

天皇としての「勤め」を果たしてきた・きているという

そのポジションや存在自体がうみだす「事実」は大きい。

最近でもっとも、感慨深かったのは東北地震の時の皇后陛下の言葉だった。

 

馬鹿者記者が、被災直後の中学生に

どうですか?みたいな言葉をなげかけていて

代理、無性に腹が立って仕方がなかった。

報道の為に記者自身もそこにいたのは事実だろう。

だが、ショックをうけている子供に

マイクをむける。

報道するための言葉しか投げかけない。

たぶん、その記者もパニックを起こしていたのだと思いたい。

子供の心に残る傷をかんがえても

存在価値を希薄にする、人を報道の為の道具にするなど

もってのほか。

なぜ、

「あなたが助かってよかった」

と、いってあげれないのだろう。

その言葉が少女のショックをどれだけやわらげていくか。

 

しばらくのちに、PTSDに対する、ケアも必要と被災地に専門スタッフが派遣されるようになったが、

報道の道具にあつかわれてしまうことが、

PTSDにだって、関与することがなぜ、判らないのかと

その時は、画面の記者の顔をなぐりそうになった。

 

日本人はこんな時にかける言葉、思いやる心、どんな思いが人を支えるか

さっぱり、わからなくなってしまったのか。

と、情けなくてしかたがなかった。

 

それからしばらくして

天皇皇后両陛下が被災地の慰問に訪れた。

その時だった。

皇后陛下がおばあさんの手をとって

「よくぞ、いきのびてくださいました」

そう、言った。

 

おばあさんは、くしゃくしゃの顔に大粒の涙をこぼして

「ありがとうございます」

それだけ言うのが精いっぱいだったようにみえた。

 

多くの人が被災し、家族や知人、いっぱい亡くなっていて

家屋もながされ

このさきよるべもない。

もしかしたら、

こんな婆が生き延びてしまって、申し訳ない。という

思いもあったかもしれない。

それが、

「よくぞ、いきのびてくださいました」

その言葉。自分に命ある事を喜んでくださる方がいる。

おばあさんは心底、助かってよかったと思えただろう。

 

まともな言葉をかけれない日本人になったか

まともな思いをもてない日本人になったか

(一部の記者をみて、そういうのも、なんだけど)

その悔しい思いが

皇后陛下の一言で代理も救われた。

 

大丈夫。ちゃんと、道義をわきまえた思いやりを持っている方がいる。

それも、日本の心のよりどころたろうとする天皇家にいらっしゃる。

日本人が忘れかけている「人を思う気持ちと実際にかける言葉」

それをあっさりと行う方がいる。

 

今でも、このことを書くと涙がこぼれて仕方がない。

 

そんな日本の精神と人としての思いをもっているから

そんな天皇をいただいているからこそ

日本人は道を狂わせることがない。

 

***ここでねずさんの独り言から拝借***

神様は、どうして「沼矛(ぬぼこ)」を渡したのでしょうか。

「沼」という字は、「氵(さんずい)」と「刀」と「口」でできた漢字です。
この「刀」は、もともとは「人」という字の変形ですから、口で人を呼ぶ→人をまねく、と変化したものです。
「氵(さんずい)」は河川を示しますが、もともと沼というのは神秘的なところ、霊的なものを感じさせる混沌とした場所を意味します。

「矛」は、文字通り長い柄の先に鋭利な刃物を取り付けた武器の象形で、ただ突くだけでなく、切り払う機能をもった槍、または薙刀のような武器のことです。

つまり「沼矛」というのは、霊的かつ神秘的な混沌とした場所に用いるための武器ということになりますから、「この漂っている国をつくりかためなさい」という神様のご指示と、沼矛(ぬぼこ)は、見事に対になっている言葉とわかります。

天の沼矛を用いて固めるべき場所は「漂っている国」です。それはまだ固まっていない、流動的な状態にあるということです。
別な見方をすれば、国が「国家の体をなしていない」状態です。
その「国家の体をなしていない国」を固めるのは「矛」だと、古事記は書いています。

このことは、価値観がバラバラで、人々が共通の国家観やアイデンディディを持たず、それぞれの個人が手前勝手な幻想でおのれの欲望ばかりをぶつけているような社会、つまり統一的国家としての、あるいは国家家族としての団結も結束も国家国民としての使命感さえも失われたような、混沌とした状況をまとめ上げるのは、「霊的な力で人々を呼び招く、矛の力しかない」ということを古事記は述べているということになります。

もっというなら、国民の意識がバラバラな混沌にあり、それを修理し、固めるためには、その混沌の中に矛、つまり武器を差し入れて、ぐるぐるとかきならすしかない、ということを古事記は説いている、もっというなら、日本の神代からの知恵、もしくはそれが縄文以来の日本人の知恵である、ということになります。

******

価値観がバラバラで、人々が共通の国家観やアイデンディディを持たず、それぞれの個人が手前勝手な幻想でおのれの欲望ばかりをぶつけているような社会、つまり統一的国家としての、あるいは国家家族としての団結も結束も国家国民としての使命感さえも失われたような、混沌とした状況をまとめ上げるのは、「霊的な力で人々を呼び招く、矛の力しかない」ということを古事記は述べているということになります。

*********

霊的な力というと、なにか、オカルトや神秘的なことをさしてしまうかのように

とられがちな現代ですが

霊とは、「精神」「魂」といってよいでしょう。

実際、SPIRIT OF TAKAHASHIという記事をかいてもいますが、

けして、オカルトや神秘ではないわけです。

一つの物事・事象の原点となるべき、コア(核)です。

 

天皇家はなぜ、3000年近くの血統・家柄を存続できたか。

と、いう答えになるともいえるのですが、

一つの物事・事象の原点となるべき、コア(核)

それは、それぞれに持っているものです。

つまり、

霊はひとそれぞれにあるわけですが、

それが、まともな形になっていない。

 

極端に書いたことがありますが、

赤子の時にオオカミにさらわれた?少女が

オオカミにそだてらたていたのがみつかったニュースが

ずいぶん昔に有ったわけですが

少女はオオカミそのものでしかなかったのです。

 

人として、生まれて

霊(SUPIRIT)をもちながら

その環境で

オオカミの精神になってしまう。

 

これは、恐ろしいことです。

欲望だらけの環境にいればそのように。

嘘つきの環境に居ればそのように。

そのように、

霊(SPIRIT)もゆがめられてしまうと言う事に成ります。

 

その霊(SPIRIT)が本当に正しい姿とはどうあるべきか

多く、見本

あるいは、本物に出会わなければ

あるいは、上質のものをしらなければ

それは、判らないわけです。

 

(これはAUDIOもそういうところがあります。

本当に良い音を知らないと、

耳が育たない。)

物事の筋目、道理というものが判らない状態では、

どうにもならない。

 

古事記によって、

天皇がかくあるべきとおそわってからそうなったか?

と、いうと

ちょっと、違うと思うのですね。

 

それは、先にも書いたように、

「天」を意識してきたか、どうかという

ターニングポイントがあったということではないのか?と思うわけです。

 

ヘブライ人がそういう思想をもってきたか?

と、いうと、

代理は違うと感じます。

自分たちに母国はないと

神様にすがって日本にやってきた。

のであれば、

それは、言い方が悪いことですが

自分の欲であると思いますし

天を意識していたのではないと考えます。

 

日本には、元々から

自然信仰・八百万の神々(に似た自然信仰)があり

森羅万象によって

物事を気取って、

自分を見つめなおす。

と、いう精神があったと思うのです。

 

ここは、ねずさんが書いていることですが、

世界の遺跡の中(古い時代を言いますが)

唯一日本の遺跡には、「武器」がない。

と、のことなのです。

 

学びは「自然からでしょう」

動物たちは種の存続のために争いをしますが

相手をころしたりせず

相手が負けを認めたら、それで戦いは終わる。

 と、自然のルールそのままにいきてきていたなら

武器等はなく、

狩猟用具があっただけであると書かれていることには

納得がいきます。

*******

そして、日本人の独特の感性。

それは、今でいう空気読めないの真逆です。

黙っていても、推し量ることができる。

この極端なたとえですが

烏の子のうたなどにあるように

巣にもどる烏をみて、7つの子がいるんだ。

と、思う。

ここまでなら、時期を考えれば子ガラスがいるだろうと予測は付く。

ところが、

「かわいい、かわいい、と鳴くんだよ」

日本人は烏の言葉が判る。(まさか!)

烏の心を推し量るわけです。

 

それと同じように、人の心も推し量る。

*********

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&k=2&m=205053&pgh=28

母音を言語脳である左脳で聞くために、同じような音である自然音まで左脳で聞くように脳を組織化している日本人。
子音をより明確に聞くため、子音のみを左脳で聞き、母音や自然音や音楽を右脳で聴く西洋人、アラビア人、中国人、その他大勢。母音を右脳で聞くため、まず右脳から音声が入り、それから左脳の言語野へ移動する。

そのため彼らは言語主体と、認知主体に断絶がある。だから必ず「I」と言う。日本人は認知主体も言語主体も連続しており、あえて言語主体「私」を発声する必要がない。
会話する人同士が周囲の状況を共有出来ている上で言語が成立します。あえて「私が」と言わなくて良いのです。

 

********

逆を言えば、Iを省けるということは、Iなしでも、IとYOUの区分けができるということばかりでなく

I=WE=OUR=MYMINDという共有感情・共有感覚があるということでしょう。

烏がないたら、子供のことを思っているんだ。

と、いうのは、

逆に、MYMINDの中に、「子供」が居るからでしょう。

例えば、仕事帰りのサラリーマンが烏の声をきいたら

「よう、くたびれたよなあ。明日もがんばろうぜ」

と、いっていると取るかもしれません。

 

自己世界をかさねあわせることができるという言い方の方が適当かも知れません。

 

**********さらに、トカナより******

論理的な思考をする左脳に対して、融即律とは右脳を積極的に使って生きていくことという。大島は、病気で8年間にわたって右脳だけで暮らすこととなった脳科学者ジル・ボルト・テイラーを紹介し、縄文人の心に迫っていく。

「テイラーによれば、右脳だけで生きると物事をカテゴライズしない、男と女とか、上と下とか、そういう区分はなく、常に自分と世界はひとつで幸福な状態だったと言います。そして、右脳だけだと、常にポジティブにひたすら生きることだけを考え、他者、時間、対立、死という概念はなくなっていたのだそうです」

 このような右脳が卓越した世界観から縄文人の精神性を理解できるのだろう。

******

むろん、通常は左脳も使われているのですから、

ティラーのように右脳だけの働きで生きてきたわけではないと思うのです。

けれど、物事を良い風に取る。

と、いう生き方ができれば、ワンネスの世界観に入りやすくなるでしょう。

けれど、実際には日本人は左脳でうけとめていくわけですから、

MY・MINDに

西洋人なら、うるさいとしか聞こえない虫の声に

わびしさ・さびしさのようなものまで感じてしまいます。

こういう うしろがわにある世界までわかるということは

言い方を変えれば、虫とUSになっているわけです。

 

だから、日本人は

みんなと一緒というのが得手てしまったのでしょう。

その時、思いはワンネスなのですから。

******

そんな「共有意識」が、共有という状態でなく

我が事としてはいってくると

良い方向に行けば良いのですが

悪い方向に行けば

同情して一緒に飛び降り自殺とか

レミングの様に集団でパニックをおこすとか

恐ろしいことになりかねないわけです。

 

こういう意味合いでも、

東北地震の時には

とにかく、人心に不安を与える言動は慎んでほしいと呼びかけてきたわけです。

 

そして、子ネズミのストレスへの耐久性で

安心を知っている(母ネズミと一緒にいた)は

回復していく。

と、書きましたが

同じように

霊性(SPIRIT)による、安心を知っている日本人は

必ず、復興・回復してきたわけです。

 

その霊性(SPIRIT)としての父・母となったのが

天皇に他ならなかった。

 

と、代理は思うわけです。

 

ーーー続くーーー

 


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