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和加布都努志命‐出雲大社 心御柱・・・4 続々☆歴史の中の「経緯」★12

2024年03月29日 | 続々☆歴史の中の「経緯」
阿太加夜奴志多岐喜比賣(下照比売)の父親は 大国主であるとして
母親が
多紀理毘売命(田心姫)
八上姫
2説あるということになるが・・・
 
ここは、八上姫と同様に考える。
田心(たごり姫)姫
田は祀る 心はそのままで
祀心の姫ということにすると
田の中の十は ヤハウェであろう。
 
もしかすると、
八上姫は田心姫?
 
一方で事代主
『古事記』では大国主神と神屋楯比売命の子とされ、『日本書紀』、
『先代旧事本紀』では大国主神と高津姫神との子とする。
多岐都比売命(神屋楯比売命・高津姫神)
 
古くは三穂津姫(元・田心姫/多紀理毘売命)を主祭神とし、併せて事代主を祀った。
事代主は田心姫(豊玉姫)の連れ子として、大国主のもとに再婚されます。
 
つまり?(異説として)
多岐都比売命(神屋楯比売命・高津姫神)の子供である事代主を
田心姫/多紀理毘売命が 連れ子として大国主のもとに嫁いだ?
再婚なので・・・田心姫/多紀理毘売命は、前夫の間に設けた事代主を連れて行った
前夫は誰じゃ???
 
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しっかり、混乱しているところに、
追い打ちがかかってきます。
 
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事代主は田心姫(豊玉姫)の連れ子として、大国主のもとに再婚されます。
 
豊玉姫の子供は・・・・
ウガヤフキアエズということになります。
トヨタマヒメ

豊玉姫は海神(豊玉姫の父)の宮にやってきた火折尊と結婚し、火折尊はその宮に3年間住んだが、火折尊は故郷のことをおもってなげいた。これを聞いた豊玉姫は、自らの父である海神に「天孫悽然として数(しばしば)歎きたまう。蓋し土(くに)を懐(おも)いたまうの憂えありてか」と言った。海神は火折尊に助言を与え、故郷に帰した。帰ろうとする火折尊に、豊玉姫は「妾(やっこ)已に娠めり。当に産まんとき久しからじ。妾必ず風濤急峻の日を以て海浜に出で到らん。請う我が為に産室を作りて相い持ちたまえ」と言った。

のちに豊玉姫は約束の通り、妹の玉依姫を従えて海辺にいたった。出産に望んで、豊玉姫は火折尊に「妾産む時に幸(ねが)わくはな看(み)ましそ」と請うた。しかし火折尊は我慢できず、ひそかに盗み見た。豊玉姫は出産の時にヤヒロワニ(『古事記』では「八尋和邇」、『日本書紀』一書では「八尋大熊鰐」)となり、腹這い、蛇のようにうねっていた(『古事記』)。

豊玉姫は恥じて、「如(も)し我を辱しめざるならば、則ち海陸相通わしめて、永く隔て絶つこと無からまじ。今既に辱みつ。将(まさ)に何を以て親昵なる情を結ばんや」と言い、子を草でつつんで海辺にすてて、海途を閉じて去った。これにより、子を彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊と名付けたという。

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なんとも 理解がおいつかないのですが・・・
それでも
仮に事代主がウガヤフキアエズであるのなら
美保神社の天千木が ウガヤフキアエズ(事代主)であるといえるのですね(!!!!)
 
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宗像大社の社伝では、以下のようになっている(三女神の神名や配列などに 古来、種々の変遷もあったが現在では以下のようになっている)。

  • 沖津宮 - 田心姫神(たごりひめ)
  • 中津宮 - 湍津姫神(たぎつひめ)
  • 辺津宮 - 市杵島姫神(いちきしまひめ)

『古事記』では、化生した順に以下の三神としている。

沖ノ島の沖津宮 - 多紀理毘売命(たぎりひめ) 別名 奥津島比売命(おきつしまひめ)
大島の中津宮 - 市寸島比売命(いちきしまひめ) 別名 狭依毘売(さよりびめ)
田島の辺津宮(へつみや) - 多岐都比売命(たぎつひめ)

 

田心姫神(多紀理毘売命)が大国主命の妻

『古事記』の大国主神の系譜では、大国主神との間に阿遅鉏高日子根神(あぢすきたかひこね・味耜高彦根神)と下照比売(したてるひめ)を生んだと記されている。

市杵島姫神(狭依毘売)が 灯明命(饒速日であるとも)の妻

多岐都比売命

『先代旧事本紀』では後に大己貴神に嫁ぎ、八重事代主神と高照光姫命を生んだと記されている。

また出雲では阿遅鉏高日子根の子である多岐都比古命の妻とされる。

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なんにせよ、大国主は 宗像三女神のうち、

ふたりと、婚姻を結んでいるということになる。

そして、一般的に言われている宗像三女神は

スサノオの「娘」ということになりますから

スセリビメと合わせて 

スサノオの娘3人と 婚姻を結んだ…ということになります。

そして、前記事の中の1文

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写真ではうまく写せなかったですが、御神紋は蔓三つ葉柏!こ、これはスサノオの紋章ではないか!?
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蔓柏は、恵比寿様・・つまり 事代主の神紋
 
蔓が釣り針のようにも見えるので
よく覚えている。ただし 何故 三柏(三柏がスサノオ)なのか????
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これも スサノオの娘の多岐都比売命の子供なので
三柏の継承はうなづける。
 
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このようなことから・・・
根拠はないものの
和加布都努志命 は、事代主ではないのか?
と、思ってしまうのです。
 
出雲大社の心御柱(中心)に和加布都努志命が
正面を向いて祀られている。
その後ろに大国主
出雲大社-

御本殿の高さは8丈(24メートル)にも及び、“大社造”と呼ばれる日本最古の神社建築様式を 今に伝えています。
その特徴は切り妻、妻入りの構造で、平面は九本の柱が田の字型に配置された 正方形の間取りとなっています。
その中心には心御柱と称する太柱があり、その正面向かって右側の側柱との間は板壁となって殿内が仕切られ、この壁の奥に大国主大神が御鎮座されている御内殿(御神座)があります。
従って、御神座は御本殿と同じ南向きではなく、西向きになります。
御内殿の前室には板壁に接して御客座があり、天之常立神・宇麻志阿斯訶備比古遅神・神産巣日神・高御産巣日神・天之御中主神の別天神5柱の神をお祀りしており、 又、中心の柱である心御柱の近くには大国主大神の御子神である和加布都努志命(牛飼神)がお祀りされています

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高天原族と大国主との国譲りを

取り持った(と、いう言い方もおかしいが)のが

事代主であり

本殿の神々の配置も

高天原族と大国主の仲立ちをするかのように和加布都努志命が居る。

そして、後々の事代主の繁栄を考えると

仲立ちの意味合いも 強固なものであると考えられる。

すると、なんらかの理由があって

(事代主は、死んでいない?ので???)

事代主を心御柱におけないので

和加布都努志命をおいた。

そして、

和加布都努志命の名前を紐解くと

和加布都努志命‐出雲大社 心御柱・・・1 - 憧れのAudio☆お知らせブログ☆ (goo.ne.jp)

で、書いたように

和加布都努志命
和をもって都を布く志を貫く
なんて、意味になる
 
和加布都努志命
和をもって都を布く志を貫く
 
この名前は 大物主の言葉を思い出させる。
 
獲加布都努志命
「都を布く志を貫く」ことに加わろう(協賛・協力・獲得)
と、とると
大物主の協力にも通じてくる。
 
そして、この大物主を
高天原族に当てはめると

「都を布く志を貫く」ことを獲るとともに都を布くことに加わる( 替わる・政権交代に賛助する)

=国譲り

と、なる。

と、なれば、獲加布都努志命=事代主

と、思いたくなる。

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美保神社の天千木・地千木がだれにあたるか・・・

主祭神は 美穂津姫・・とあるのだから

おそらく 美穂津姫が天千木であると思う。

(世間一般で言われている 男千木(天に垂直)には、男神 女千木(天に水平)には女神

と、いう考え方をしなくなったのは 基本的に 男千木が国津神 女千木が天津神 という説に従った。だが、それだけでは、矛盾が生じることがあり そのあたりを解明してくれたのが 日御碕神社だった。

日御碕神社では スサノオが(天に水平)ー女千木ー天津神ー女神ー

その横(下)に建てられた天照を祀る宮は、(天に垂直)ー男千木ー国津神ー男神

完璧にどちらの説も当てはまらなくなったのだが・・・

由緒書きがあり、

スサノオ(日御碕神社)は夜の日本を守れという天意を受けている。

逆に 天照(伊勢神宮)は 昼の日本を守れという天意を受けている。

と、ともに

天千木は天を受ける形

地千木は横を押す―外圧を押すー守護の形

と、聞いていた。

 

天意を受けたスサノオ(日御碕神社)では、

スサノオが天意を受ける天千木

下に建てられた天照の宮は この場所においては

天意を受けたものを守護する立場なので 地千木

 

例えば かもす神社だったか・・・

イザナミ イザナギが祀られているが

ここは、天千木。

イザナミ・イザナギは 

国生み・神生み というお役を担い果たしたわけですから

天意をうけたものとして 両神ともにて天千木を掲げていると思います。

なので 他の神を祀る神社の中の小さな拙社・客社などでさえ

天千木を掲げられていることが多いのです。

**************

追い打ちに追い打ちが続きます。

獲加布都努志命=事代主であるのなら

美保神社の天千木 (横並び二つの千木‐天地)

阿陀萱神社(縦並び二つの千木‐天地)

双方ともに 天千木は 獲加布都努志命=事代主

と、いうことになってきます。

が、主祭神が それぞれ

美穂津姫(元田心姫)

大神の御子高姫命(亦名下照比売亦名雅国玉神亦名阿太加夜奴志多岐喜比賣亦名大倉比売)

と、なっています。

美穂津姫(元田心姫)にしろ

阿太加夜奴志多岐喜比賣=下照比売にしろ

何故 天千木になるか 説明がつきません。

そこで、阿太加夜奴志多岐喜比賣を解字してみようと思いました。

まず、阿陀(太) 阿田と阿陀(太)の暗喩で

われは祀る ユダあるいはユダ国での信仰(ヤハウェ)ととってしまう自分が居るので

素直に阿陀(阿陀萱神社の阿陀)を調べてみました。

すると・・・

阿太の阿太の養鸕部の始祖(『古事記』では、「阿陀(あだ)の鵜養(うかい)の祖(おや)」と記される)

『記』の記述には、神武天皇が東征のおり、熊野村で大きな熊に出会い、突如疲れてしまい(『書紀』では神の毒気に当てられた、とある)、高倉下(たかくらじ)の持ってきた剣、佐士布都剣神(さじふつのかみ)によって救われた。さらに八咫烏の先導により吉野河の河尻(河口)、現在の五條市あたりへ入ったところで、

時に筌(うへ)作りて魚(うを)を取る人有り、爾に天つ神の御子、「汝(な)は誰(たれ)そ」と問ひたまへば、「僕(あ)は国つ神、名は贄持之子(にへもつのこ)と謂ふ」と答へ曰(ま)しき〔此は阿陀(あだ)の鵜養(うかひ)の祖(おや)〕。 (その時、うけを作ってそれで魚を取っている人がいた。この人を見て、天つ神の御子の伊波礼毘古命(いわれびこ の みこと)が「おまえは誰か」とお尋ねになったところ、「私は国つ神で、名は贄持之子(にえもつのこ)と申します」とお答え申し上げた〔これは阿陀の鵜飼の祖先〕)。訳:荻原浅男

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場所も人物も年代も違うのだが

〔これは阿陀の鵜飼の祖先〕という言葉が気になって

さらにネットを読み漁ると

式内社 阿陀比売神社御由緒
◎鎮座地奈良県五條市原町24番地(旧指定村社)
◎御祭神主神阿陀比売大神【阿陀津比売命】-木花咲耶比売命
御子火須勢理命(富之須佐利乃命・火須芹命)
御子火照命
御子彦火火出見命以上四柱を祀る。

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はい?

御祭神主神阿陀比売大神【阿陀津比売命】-木花咲耶比売命

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阿陀比売神社 (奈良県五條市原町) - 神社巡遊録 (jun-yu-roku.com)

奈良県五條市原町に鎮座する式内社です。

当社の創建は崇神天皇十五年と伝えられ、その後奈良時代の神亀五年(728年)に藤原武智麻呂から神戸を寄進されたと伝えられています。

南九州、特に薩摩半島を拠点としていた「阿多隼人」と呼ばれたが当地に移住し、彼らの信仰する神を祀ったのが当社だと考えられます。

『新撰姓氏録』大和国宇智郡に見える「阿陀郷」とは当地一帯と推定される一方、薩摩国には「阿多郡」および「阿多郷」が見え、現在の鹿児島県南さつま市の北部一帯と考えられます。その辺りが阿多隼人の本拠だったのでしょう。

阿多隼人が畿内の内陸である当地に移住した経緯は不明ですが、彼らについては記紀の神武東征の段に既に見えており、極めて古くから当地に居住したことが推測されます。

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