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和加布都努志命‐出雲大社 心御柱・・・終 続々☆歴史の中の「経緯」★13

2024年03月29日 | 続々☆歴史の中の「経緯」

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はい?

御祭神主神阿陀比売大神【阿陀津比売命】-木花咲耶比売命

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阿陀比売神社 (奈良県五條市原町) - 神社巡遊録 (jun-yu-roku.com)

奈良県五條市原町に鎮座する式内社です。

当社の創建は崇神天皇十五年と伝えられ、その後奈良時代の神亀五年(728年)に藤原武智麻呂から神戸を寄進されたと伝えられています。

南九州、特に薩摩半島を拠点としていた「阿多隼人」と呼ばれたが当地に移住し、彼らの信仰する神を祀ったのが当社だと考えられます。

『新撰姓氏録』大和国宇智郡に見える「阿陀郷」とは当地一帯と推定される一方、薩摩国には「阿多郡」および「阿多郷」が見え、現在の鹿児島県南さつま市の北部一帯と考えられます。その辺りが阿多隼人の本拠だったのでしょう。

阿多隼人が畿内の内陸である当地に移住した経緯は不明ですが、彼らについては記紀の神武東征の段に既に見えており、極めて古くから当地に居住したことが推測されます。

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美穂神社の社名でも №9のところ 

筑紫社 

市杵嶋姫命
田心姫命
湍津姫命

と、宗像社とかでは入っておらず

筑紫との縁があると晒しているわけです。

社名 ご祭神
1 沖之御前 事代主命
活玉依媛命
2 地之御前 事代主命
活玉依媛命
3 客人社 大國主命
合祀幸魂社 大物主命
4 天王社 三穂津姫命
5 地主社 事代主命
或いは御穂須須美命と伝わる
6 久具谷社 國津荒魂神
多邇具久命
  社名 ご祭神
7 客社 建御名方神
合祀切木社 久久能智神
合祀幸神社 猨田彦神
8 糺社 久延毘古命
9 筑紫社 市杵嶋姫命
田心姫命
湍津姫命
10 和田津見社 大綿津見神
豊玉彦命
豊玉姫命
11 天神社 少彦名命
12 市恵美須社 事代主命
13 浜恵美須社 事代主命

日本書紀

天照大神の子の正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみ)は、

高皇産霊尊の娘である幡千千姫 (たくはたちぢひめ)を娶り、

天津彦彦火瓊々杵尊(あまつひこひこほのににぎ)が生まれた。

高天原に住む高皇産霊尊(高御産巣日神)は、自分の孫をよく可愛がり崇めていたので、

天津彦彦火瓊々杵尊を葦原中国の君主にしようと考えた

 

古事記

高天原に住む天照大御神は、

「葦原中国は私の子、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみ)が治めるべき国である」

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瓊瓊杵尊は、国譲りに直にタッチ?していないけど

『古事記』および『日本書紀』正伝によれば、葦原中国平定のために高天原から遣わされた天若日子が、大国主神に取り入ってあわよくば葦原中国を自分のものにしようと目論み、その娘である高比売命と結婚した。天若日子が高天原からの返し矢に当たって死んだとき、高比売命の泣く声が天(『古事記』では高天原)まで届き、その声を聞いた天若日子の父の天津国玉神や天若日子の妻子らは葦原中国に降臨し、天若日子の喪屋を建て殯を行った。そこに阿遅鉏高日子根神が訪れたが、その姿が天若日子にそっくりであったため、天津国玉神や妻子らは天若日子が生き返ったと喜んだ。阿遅鉏高日子根神は穢わしい死人と間違えられたことに怒り、喪屋を大量で斬り倒し、蹴り飛ばして去って行った。高比売命は、阿遅鉏高日子根神の名を明かす歌を詠んだ。この歌は「夷振(ひなぶり)」と呼ばれる(夷振を詠んだという記述は『日本書紀』正伝にはない)。『日本書紀』の第一の一書では、天稚彦の妻の名は記されておらず、夷振を詠んだ者の名としてのみ下照媛の名が登場し、味耜高彦根神の妹であるとしている。

 

各神の年齢はわからないが、

瓊瓊杵尊と高姫命(亦名下照比売亦名雅国玉神亦名阿太加夜奴志多岐喜比賣亦名大倉比売)の年齢は

そんなには、変わらない。と、思える。

歳をとるようになったのは 木花咲耶比売命と(だけ)結婚したあと、と、いうことなので

考えなくても良いのかもしれない(複雑な気分)

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瓊瓊杵尊の国探し?で

『日本書紀』に宮の記載はないが、吾田長屋笠狭岬に留まったとあるのでここに宮があったと考えられる。

『古事記』では高千穂に大きな宮を作ったと記載されている。

吾田長屋笠狭岬ー吾田ーがでてきました。

阿太加夜奴志多岐喜比賣ー阿陀萱神社

阿陀比売大神【阿陀津比売命】-木花咲耶比売命

単純な引き算では 解決しないと思うが 考えてみる。

阿太加夜奴志多岐喜比賣ー阿陀比売=加夜(萱)奴志多岐喜

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まず気にかかるのが

加夜(萱)

萱には 「わすれぐさ」という異名もある。

先にも 書いたが 

音読み(言葉/口頭 に当てはめるため 漢字があてがわれる)の文字も

何らかの意味をきちんと当てはめている(ことが多い)

阿太加夜奴志 を 阿太萱奴志 としたら

萱には 「わすれぐさ」という異名もある。ので

表ざたにできない存在 伏せた存在という意味合いも考えられる。

そして、加夜 で考えると

日御碕のスサノオ (夜の日本を守れ)

伊勢の天照 (昼の日本を守れ)

なので、

夜に加わるという言葉は

スサノオ (出雲)側に 加担(協力)する

昼に加わる なら 天照側?に加担(協力)する

と、いう風にも取れる。

表ざたにされず、伏せられた存在で

出雲側に加担・協力した存在はだれか?

葦原中国を平定するに当たって、遣わされた天之菩卑能命(アメノホヒ)が3年たっても戻って来ないので、次に天若日子が遣わされた。

しかし、天若日子は大国主神の娘下照比売(シタテルヒメ)と結婚し、葦原中国を得ようと企んで8年たっても高天原に戻らなかった。そこで天照大御神と高御産巣日神(タカミムスビ)は雉の鳴女(ナキメ)を遣して戻ってこない理由を尋ねさせた。すると、その声を聴いた天佐具売(アメノサグメ)が、不吉な鳥だから射殺すようにと天若日子に勧め、彼は遣わされた時に高皇産巣日神から与えられた弓矢(天羽々矢と天之麻迦古弓)で雉を射抜いた。

その矢は高天原まで飛んで行った。その矢を手にした高皇産巣日神(『古事記』では高木神)は、「天若日子に邪心があるならばこの矢に当たるように」と誓約をして下界に落とす。すると、その矢は寝所で寝ていた天若日子の胸に刺さり、彼は死んでしまった。

天若日子の死を嘆く下照姫の泣き声が天まで届くと、天若日子の父の天津国玉神は下界に降りて葬儀のため喪屋を建て八日八夜の殯をした。下照姫の兄の阿遅鉏高日子根神(アヂスキタカヒコネ)も弔いに訪れたが、彼が天若日子に大変よく似ていたため、天若日子の父と妻が「天若日子は生きていた」と言って抱きついた。すると阿遅鉏高日子根神は「穢らわしい死人と見間違えるな」と怒り、神渡剣を抜いて喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまった。喪屋が飛ばされた先は美濃の藍見の喪山だという。

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1説に、「葦原中国は私の子、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみ)が治めるべき国である」と命に天降りを命じたが、命は天の浮橋から下界を覗き、「葦原中国は大変騒がしく、手に負えない」と高天原の天照大御神に報告した。

天若日子は、まず、手に負えない騒乱状態の葦原中国を平定してから

高天原族に譲った方が良い・・・と、考えた。

ので、出雲側に協力した。

と、いうのがある。

であるならば

阿太加夜奴志 は、天若日子 であるかもしれない。

阿田加夜奴志 は、阿(私)は田(祀る)加夜奴志(出雲に加担した主)

阿太加夜奴志多岐喜比賣

は、2名の名か

出雲に尽力を尽くした 二人をまとめた名前か?

出雲に尽力した加夜(萱)主(天若日子)を祀る多岐喜比賣という意味合いで

阿陀萱神社には 天千木(天若日子・元は天津神)地千木(多岐喜比賣)

言うことなのかもしれない。

と、なると・・・

大国主神の御子、和加布都努志命 は、(多岐喜比賣)の夫である天若日子で

大国主神の御子ではなく 義理の御子(息子)ということになってくる。

??????

日本書紀は あちこちの風土記やら古事記やら・・を

参照にして、政権側に都合の良いように作り変えている(断言していいのか?)

そして、

『日本書紀』の記録によれば、皇極天皇4年(645年)の乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)において中大兄皇子(天智天皇)、中臣鎌足らによって蘇我本宗家が滅ぼされた際、蘇我蝦夷は私邸に火を放って自害した。この時、蝦夷の私邸に保管されていた 『天皇記』『国記』も珍宝と共に焼かれたが、『国記』は船史恵尺によって火の中から取り出され中大兄皇子に献上されたとされる(皇極天皇4年6月13日条)。 これに関連する情報は『新撰姓氏録』の序文にもあり、『国記』が焼かれたために各氏の出自が失われ偽る者も現れたが、船史恵尺が焼かれようとする『国記』を奉ったとある。

しかし、これらの伝承が事実であったとしても、『国記』は『天皇記』と同じくに現代には伝わっていない。

以上、ウィキからですが・・・

別途

日本書紀のほうも、だいぶ出来上がっていたところを

改ざんされているということであり、

後にも、また、改ざんされているということなのです。

『古事記』は改ざんされている! - ウガヤフキアエズ王朝実在論 (jimdofree.com)

古事記の中身は、むしろ、日本書紀に合わせて 改ざんされていると

感じるところも多くありましたが、

日本書紀に合わせきれない部分と

出雲風土記や各地の伝承などと合致しない記紀ということで

かなり巧妙に話を作っている

と、思えて仕方がない。

その妙な違和感(不一致)を紐解くことができれば

なにか「すっきり」するのではないかと思うのです・・・・。

その不一致のひとつとして、

御祭神主神阿陀比売大神【阿陀津比売命】-木花咲耶比売命

これも

(極論ですが)

阿陀比売大神【阿陀津比売命】-木花咲耶比売命=阿太加夜奴志多岐喜比賣

かもしれない。

**

下照姫の兄の阿遅鉏高日子根神(アヂスキタカヒコネ)も弔いに訪れたが、彼が天若日子に大変よく似ていたため、

天若日子の父と妻が「天若日子は生きていた」と言って抱きついた。

**

親が間違うほど似ている天若日子と阿遅鉏高日子根神

ありえないと思うのです。

天若日子(日子) という名前も 皇太子・若いお世継ぎというような意味合いで

本名ではないように思います。また 太陽神(日)の神の子、という場合もある。

そして、阿遅鉏高日子根神

大国主の子供でありながら 日子とつく。

おまけに、

迦毛大御神(阿遅鉏高日子根神)

大御神とつくのは、

以下の3神。

天照大御神

伊弉諾大御神

迦毛大御神(阿遅鉏高日子根神)

これも、大国主の子としては異例というか・・・

その名前で呼ばせるのを高天原族がなぜ許したのか?

(国津神の分際で・・・と)

おまけにそっくり?

と、なると

天若日子=阿遅鉏高日子根神ではなかろうか?

高天原族の跡継ぎが 大国主命の娘・阿太加夜奴志多岐喜比賣と婚姻を結び

大国主の子になった

阿太加夜奴志多岐喜比賣 神社由緒の通りなら

八上姫との子供 それは、おそらく 大国主命の最初の妻(の子供)

で、あるのなら 天若日子は長男(格)になる)

それは、高天原族にとって ある意味 屈辱

本来 高天原族が中津国をおさめるのがふさわしい

と、いっているのに

日子が 全否定といって良い行動をおこしたとなると

これは捨て置けない。

まかりまちがっても 

天若日子=阿遅鉏高日子根神 などであってはならない。

で、都合よいもみ消しを行った。

(むろん、高天原族でなく 記紀の編纂にあたったものたちが)

と、思えてくる。

さらに 

和加布都努志命 

何人かの大国主の子供も一緒に祀られていたのに

和加布都努志命 だけが残されている。

その名前も 布都努志命(経津主)の子供のような名前。

そして、他の高天原族?同様 南を向いている。

これもまた

天若日子=阿遅鉏高日子根神 なのではなかろうか?

大国主の子供であり 囚われ側であり 高天原族側であり

最初に出雲大社(国譲り以降)を建てたのは

出雲族だったように思う。

天若日子=阿遅鉏高日子根神をどの位置に置くか

相当悩んだのではなかろうか?

そして その名前も・・・。

旨く説明できてないのだが・・・

天若日子=阿遅鉏高日子根神=和加布都努志命=加夜奴志(萱主)

そう考えれば

阿陀萱神社の祭神

和加布都努志命・阿太加夜奴志多岐喜比賣 に納得するところもある。

高鴨神社(御所市鴨神) - Shrine-heritager (shrineheritager.com)


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