震災以後、
さまざまな感情を抱えて来た。
不安、恐怖、悲しみ、そして怒り。
自分のものだけでなく
ひとの感じていることも
自分の中に入って来た。
世界中の人たちのメッセージを
you tubeで見るたび
感謝の気持でいっぱいになり、
被災地の映像を見て、
被災地のひとの話を聞き、
被災地を訪れ、
やるせない思い、
無力感でいっぱいになった。
温かい気持も同時にもらった。
こんなにいろいろいろいろ感じている日々が
ずっと続いていたんだなあ、とあらためて思う。
そしてもうすぐ8月。
毎年、8月の初めの週末には
長野で合宿をしている。
おかげさまで、
今年で10年を迎える。
震災以後は、この合宿も無事に開けるかどうかと危ぶんでいた時期もあったけれど、
おかげさまで来週末を迎えられそうです。
たかだか2泊3日だし、
人数も20人に満たないし、
小さなイベントだけれど、
わたしにとっては
毎年タマシイを注ぎ込むような
大切な大切な行事です。
(終わるとバッタリ倒れるのも、変わらない…)
毎年、生きていることや身体への感謝を、とみなさんにお伝えしているけれど
今年はさらに、それを共有できればと思います。
感謝と祈り。
そしてそんなイベント(というより儀式に近いかもしれない)を迎えるにあたり、
自宅修行中。
わたしにとっての修行とは、
「からっぽな器になること」だ。
こうありたい、こうせねば、こうあるべき、こうあってほしい、
そういうある種の「欲」を手放し、
ただの「器」になる。
今年は内側のざわめきが大きくて
なかなかその状態になれなかったのだが、
やっとそれを日常的に感じられるようになって来た。
ただひたすらに掃除をしたり、
蝉の声と風の音を聞いたり、
猫のトイレをきれいにしたり、
かぼちゃを蒸かしたりしながら、
ときどき、台所で踊る。
肩も壊しているし、
思いきり動くことができないのがもどかしいが、
それも忘れて、ただ踊ってみる。
そういうときの踊りは、
柿田川湧水群の池の底から
水がわき出しているような感じで、
(ビジュアルだとこんなイメージなのです)
ただ気持がいい。
そしてただ、それだけである。
それが気持いい。
からっぽになると、
ふっと感じるもの、見えてくるものがある。
そしてそれこそが
信頼するに足るものなのだ。
はたから見たらおそらく、
ただぼんやりうろうろしているだけのようなこの時間が
わたしの「内部」と「身体」をつなぎ、
調整して行く。
来週に向けて。
来て下さる方達が
タマシイの息吹を取り戻し、
喜び、泣き、笑い、歌い、踊り、
内側から浄化される時間と空間を
今年も作って参ります。
さまざまな感情を抱えて来た。
不安、恐怖、悲しみ、そして怒り。
自分のものだけでなく
ひとの感じていることも
自分の中に入って来た。
世界中の人たちのメッセージを
you tubeで見るたび
感謝の気持でいっぱいになり、
被災地の映像を見て、
被災地のひとの話を聞き、
被災地を訪れ、
やるせない思い、
無力感でいっぱいになった。
温かい気持も同時にもらった。
こんなにいろいろいろいろ感じている日々が
ずっと続いていたんだなあ、とあらためて思う。
そしてもうすぐ8月。
毎年、8月の初めの週末には
長野で合宿をしている。
おかげさまで、
今年で10年を迎える。
震災以後は、この合宿も無事に開けるかどうかと危ぶんでいた時期もあったけれど、
おかげさまで来週末を迎えられそうです。
たかだか2泊3日だし、
人数も20人に満たないし、
小さなイベントだけれど、
わたしにとっては
毎年タマシイを注ぎ込むような
大切な大切な行事です。
(終わるとバッタリ倒れるのも、変わらない…)
毎年、生きていることや身体への感謝を、とみなさんにお伝えしているけれど
今年はさらに、それを共有できればと思います。
感謝と祈り。
そしてそんなイベント(というより儀式に近いかもしれない)を迎えるにあたり、
自宅修行中。
わたしにとっての修行とは、
「からっぽな器になること」だ。
こうありたい、こうせねば、こうあるべき、こうあってほしい、
そういうある種の「欲」を手放し、
ただの「器」になる。
今年は内側のざわめきが大きくて
なかなかその状態になれなかったのだが、
やっとそれを日常的に感じられるようになって来た。
ただひたすらに掃除をしたり、
蝉の声と風の音を聞いたり、
猫のトイレをきれいにしたり、
かぼちゃを蒸かしたりしながら、
ときどき、台所で踊る。
肩も壊しているし、
思いきり動くことができないのがもどかしいが、
それも忘れて、ただ踊ってみる。
そういうときの踊りは、
柿田川湧水群の池の底から
水がわき出しているような感じで、
(ビジュアルだとこんなイメージなのです)
ただ気持がいい。
そしてただ、それだけである。
それが気持いい。
からっぽになると、
ふっと感じるもの、見えてくるものがある。
そしてそれこそが
信頼するに足るものなのだ。
はたから見たらおそらく、
ただぼんやりうろうろしているだけのようなこの時間が
わたしの「内部」と「身体」をつなぎ、
調整して行く。
来週に向けて。
来て下さる方達が
タマシイの息吹を取り戻し、
喜び、泣き、笑い、歌い、踊り、
内側から浄化される時間と空間を
今年も作って参ります。