熊本熊的日常

日常生活についての雑記

奈良 今度こそ正倉院

2018年10月05日 | Weblog

今年も興福寺の塔影能を観に来た。今年は正倉院を見ようと思い、仕事を休んで平日にやってきた。正倉院は内部を見ることはできない。外から建物を眺めるだけだ。それほど興味があったわけではなかったのだが、近くを通りかかるのが週末ばかりで見ることのできないことが過去3年4回連続するに及んで、眺めてみたいという気持ちが高まった。それで今回は奈良に着いて、宿に荷物を預けてまず正倉院を訪れた。尤も、動線の関係で途中で戒壇院に立ち寄り、続いてたまたま勧進所内の惣持院で特別公開されていた僧形八幡神坐像と公慶堂で公開されていた公慶上人像を拝観する。戒壇院は必ず参詣するのだが、勧進所の門が開いているところに遭遇するのは初めてだ。さらにたまたま僧形八幡神坐像へ向かう宮司の団体にも遭遇する。寺なので合掌するのかと思ったら、僧形ではあっても八幡神だからなのか、立場上そうせざるを得ないのか、二礼二拍手一礼だった。

正倉院は思っていたよりも大きい。校倉造の建物は規模の大きな寺社の境内にはたまにあるのだが、そんな生易しいものではなかった。現在は収蔵品が別の場所に移されて内部は空らしいのだが、一見したところは十分現役の収蔵庫として機能しそうな雰囲気を漂わせていた。倉庫といっても単に文物を収蔵するだけでなく、行事などの必要に応じてそれらの出し入れがあったはずだ。つまり、内部は整理整頓が行き届いていたはずなので、その整いかたや収蔵品の出し入れの仕組みも是非観てみたいと思う。現存するのは一棟だが、これが数棟並んでいたらしい。となると、収蔵品の管理もかなり大がかりな仕組みがあったと思われる。搬送装置類や在庫管理システムがどのようなものであったのだろうか?

盆に妻の実家に帰省した折、敷地の一画にある工場の内部を眺めていたら天井近くの隅に木製の滑車があるの気付き、下してもらって見せてもらった。久しく使われていないので、どれほどの耐荷重があるのかわからないとのことだった。正倉院が現役であった時代の物流も、物の材質こそ今とは違え、仕組みとか考え方は案外同じようなものだったのかもしれない。今なら樹脂や金属でできた機器類がどのような材質でどのような工夫で造られているのか。今なら電動モーターで動かす装置がどのような動力で稼働していたのか。今ならコンピューターで管理されているようなことが、どのような方法で管理されていたのか。

この後、二月堂、法華堂(三月堂)、三昧堂(四月堂)とお参りする。二月堂とその周辺は3月にお水取りで訪れた。お水取りの井戸のある建物に飾られた注連縄はすっかり干乾びてしまっていたが、そのことがお水取りという行事の尊さを示しているとも言える。先日、国立劇場で人形浄瑠璃文楽「南都二月堂 良弁杉由来」を観たこともあり、改めて良弁杉の前に立って見上げてみる。二月堂の回廊に上がりお参りをして、四月堂に上がってご本尊の十一面観音を拝む。この観音様は二月堂から移されたそうだが、二月堂の前は桃尾寺のご本尊だったという。同寺の廃寺で二月堂に移されたのだそうだ。四月堂の旧ご本尊は千手観音だが、こちらは東大寺ミュージアムにおられる。

今日は新薬師寺に参詣するつもりで、東大寺から南へ向かうが、間にある春日大社を素通りするというのもなんなので、参拝する。春日大社の起こりは鹿島神宮、香取神宮、枚岡神社から神様を勧請して祀ったことに拠るのだそうだ。関東で生まれ育った身としては、日本の起源のような大和の地の由緒ある神社が鹿島とか香取とか当時としては最果ての地から神を呼んでくるという話でありがたいと思われるのか不思議ではある。実は、今年の5月の連休に鹿島神宮と香取神宮に参拝してきた。香取神宮裏手には小さな古墳がいくつかあり、古い土地であることはわかるのだが、そういうところを参拝したり歩き回ったところで何かを点頭できるほどの知性も感性も残念ながら持ち合わせていない。今度は枚岡神社に行ってみることにする。

二之鳥居のすぐ外側から中の禰宜道へ入り、道標に従っていくと新薬師寺に出る。途中、不空院の前を通るが、今は一般公開はされていないようだ。

新薬師寺は薬師寺とはちがってこじんまりとしたところだ。門前で住宅の建設工事が行われている。門の真ん前に一般の住宅が建てられてしまうほどに、こじんまりとしている。創建当初は大きかったらしい。南都十大寺に数えられるほどの規模だったという。それが落雷による火災、台風による倒壊などで荒廃したのだそうだ。現在の本堂は創建時に境内の隅のほうにあった仏堂だ。あっさりとした構造で、内部には本尊の薬師如来坐像とそれを円形に取り囲む十二神将像だけ。仏像を密集させるように安置する寺も少なくないが、仏教では数がものをいうとはいえ、参拝するものを圧倒するかのような了見はいただけない。こういう静かな間、仏と対面対談するかのような空間でこそ心ある人は何事かを感じ取るのではないか。よい寺よい仏に出会えたと嬉しい気分になる。

新薬師寺南門に隣接するように鏡神社がある。夕方で、社務所を閉めているところだった。特に述べることはない。

不空院の前の道を通って市街を目指す。ほうじ茶の良い香りのする家がある。門のところに看板が出ていて販売をしているらしい。門をくぐると玄関が開いたままになっている。中に声をかけると家の人がでてきてお茶の説明をしてくれた。一包いただく。この家は今はほうじ茶の販売だけだが、もとは茶粥屋を営んでいたのだそうだ。奈良の茶粥といえば名物のようなもので、宿でも朝食は茶粥というところを見かけるしそういうところに泊まったこともある。どういう縁起があって茶粥なのか知らないが、やさしい味わいで、私は好きだ。

春日大社の緑地の縁の道を歩いていくと志賀直哉旧居の前に出た。最終入館時間ぎりぎりだったが入れていただいた。志賀直哉といえば白樺派、白樺派は民藝の柳宗悦にも通じる。9月には鹿児島での民藝夏期学校で白樺派についての講演を聴いた。こういうことも巡り合わせなので、ここは素通りできないのである。今の人気作家と呼ばれる人たちがどのような生活をされているか全く知らないが、志賀直哉旧居は大きい。台所が大きく、人の出入りが多いのを当然としていたことがわかる。創作というのは大勢の人と交わることで可能になる行為なのだろう。

奈良公園の南辺から浮見堂、青葉茶屋、江戸三、を眺めながら三条通に出る。ここから宿を目指して行こうと思ったが、一旦宿に戻るよりも、夕食を済ませてから戻ろうということになる。本当は、明日、塔影能の後に行くつもりだった竹の館を「下見」ということで今日行くことにする。三条通からやすらぎの道へ折れ、南へ南へ。市街の結構主要な通りだと思うのだが、街灯が片側にしかなく、全体に暗い。その夜道の暗いことに少し驚くが、新潟出身の妻に言わせれば東京が「異常」なのだそうだ。

竹の館はその名の通り内装に竹が多用されている。天井、壁、飾り柱、カウンター、どこも飴色になった竹だ。嬉しいことに天上が高い。適当におでんと冷酒を注文する。その土地の印象をおおきく左右するのは、そこで食べたものであると思う。毎年飽きもせずにこうして奈良を訪れるのは、食べるものにハズレが無いということも大きな理由だろう。