考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

質の高さって。

2010年12月22日 | 教育
内田先生twitter

>ネットの世界は「質の高い情報」(その人以外には発信できない種類の情報)を持っているか「質の低い情報」(誰でも言いそうなこと)しか持たないかによって、現実の社会以上に急激に階層が構築されつつあります。この情報階層社会は現実の格差社会よりさらに排他的に階層化する傾向がありそうです。

でも、実際のところ、「>(誰でも言いそうなこと)」を「質の高い情報」だと思っちゃう人の方が多いのだろうな。
少なくとも今のマスコミは、そう思っているんじゃなのかな。その方が、大多数の賛同を得て、お金が運ばれてくると思っているのかなぁ。

2 コメント

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まとまらない新年の (わど)
2011-01-02 08:18:20
明けましておめでとうございます。ほり先生もtwitterを始めたんですか。おれもやろうかな。

ところで情報がもつ質の高低、その量的な差異がもうひとつ明確に理解できません。
 高:その人以外には発信できない
 低:誰でも言いそう
こう並べてみると、なにも新奇・珍奇なニュース性について言及しているわけじゃなさそうですね。そうではなくて、「言う」「発信する」、つまり考え。
考えてみると(笑)、教育現場やタクシー現場の違いがあってもおなじ日本の中で、おなじ日本人として、ある共通した体験をしているわけです。ですから情報の高低という量的な差異は、考えの広さや深さ、視線の角度、高低(ローアングルも悪いものじゃない)などに存在しているのでしょう。
ところが一方では、量的な差異は、ある種の同一の価値観を前提にしています。これは差別構造とおなじなんですね。金持ち/貧乏人、勝ち組/負け組etc、の価値観とおなじ構造になっています。ここに「理性の狡知」を感じたりします。
したがって、「この情報階層社会は・・・さらに排他的に階層化する傾向」があるとの内田先生のご指摘には納得できるものがあります。たとえ内田先生が、ご自分を質の高い情報発信者だと規定なさって、差別構造を強化されているとしても。
また、ほり先生のご指摘ように、「>(誰でも言いそうなこと)」を「質の高い情報」だと思っちゃう人も多いだろうとのご推測も、同一構造のなかでは十分に起こりえる普通の現象となるはずです。
実際のところ、民主主義とか平等とは何でしょうか。こちらも苦しんでいるのですが、人の存在や言葉を、同一の価値観のもとに評価するところには、民主主義や平等はないのだろうと考えています。みんなそろってゴールインは、生徒の運動機能(生徒の個)を無視しなければ成り立たない同一価値観(均一価値観)に基づくので、奇妙にも典型的な差別表現になっていると思います。
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価値観の探求 (ほり(管理人))
2011-01-02 11:22:08
わどさん、あけましておめでとうございます。コメントをありがとうございます。

twitter、やってないけど。内田先生のをパソコンで読んでるだけです。

民主主義も平等が善であるという価値観も、実のところは価値観の一つでしかないでしょう。

ウサギとカメはいかにしたら平等な立場を得るか、と人間の個々人の平等もあまり価値はかわらんような気がしたり。←暴言かも。
個々人の能力の差異は、「人類」という種が生き残るための方策にすぎないでしょう。
そういう意味では民主主義とか平等は、無価値なのかも。とよくわからずに書いてます。

どこかで内田先生、書いてるけど、「ニッチ」、生息域を異ならせることが生き延びる術でしょう。その意味で養老先生は、インドのカーストはワークシェアだと言ってましたけれど、社会制度等が変わらなかったら、そうなんだよねぇ。封建制度や世襲もそうかな。

文化って言うのは、分化に他ならないものだろうしねぇ。サッカー大好き少年に野球をやれと言っても、あまり乗ってこないだろうな。それと同じ。あ、でもこれは、同列だな。質の高さの肯定とは関係ないか。しかし、サッカーは考えるスポーツで、野球は監督の指示に従ってもけっこう出来るスポーツらしいから、日本人には野球の方が向いているとか何とか。

高低という語を使うと、同じベクトル上の話になるから、何を軸にするかという視点を明確にするとよくわかるでしょう。その意味で、内田先生のベクトルが何か、ちょっとはっきりしないのかもしれないなぁ。

私は、「軸」の、明確化、価値観の明確化がけっこう大事だと思います。前提を問う態度です。これ、難しい気がする。
源氏物語の話で、ある先生に私が「文化は元々は男のものだ」と言ったら、その先生が、平安文学が女性によることを念頭に置いてのことでしょうが、「女性のものだ」と言ったけれど、そういう表層的な意味じゃなくって、本質としての話のつもりだったけれど、通じなかった。
前提条件が異なっていたのだろうな。
と脈絡なく書いてしまっています。

よく言われるだろうけれど、差別と区別は違うと言ったりするけど、人間の場合、「お金」という万物の尺度を持っちゃったものだから、難しいですね。同一次元にすぐに載せるクセができちゃった。
根源にあるのは、同一尺度に載せるという抽象だね。
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