考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

本当はお金がかかる趣味の能楽

2005年03月24日 | 能楽
 年度末にもなって、まあ、新しい展開は何もなく、また一年と勤務関係では似たような月日になるのかなと思うと、ちょっと退屈な気もしてくる。人生も折り返しを過ぎて己の来し方行く末も思いたくなるこの頃である。
 
 先回UPした「熊野」の使いの名前が間違っていました。「朝顔」が正しいです。訂正します。

 友人と話をしていて、「これからどうしよう」と、まあ、ちょっと仕事は抜きの内容で、「謡はどうなんですか」と言われたが、能楽関係の趣味は、ホント、純然たる道楽でしかない。物事は、趣味が高じてプロになる、と言う場合もあるが、能楽の場合は、プロとアマの世界が真っ二つに分かれている(はず)。プロというのは、素人さんに謡を教えて生計を立てている。これ、ほんと。能楽の場合は、舞台公演で食べていけないのでそうなる。で、まれに、素人からプロの世界に入る人もいるが、(大学を出て、弟子入りしてという場合は省くと)年取ってからの人は、開業医さんとか、会社役員だったりとか、とにかくお金持ち(のはず)。もの凄~く、お金がかかるのだ。時間と体力と、それなりの能力は当然としても。

 金持ちの人で能楽を趣味にする人は、お温習い会で、舞台に立ちたい人だろうと思う。楽しいらしい。で、私の推測としては、そういうお金持ちの「偉い人」は、人前でしゃべったり何したりという機会が多い(はず)。その度胸を付けるために、能楽の稽古、発表会が役に立っていると推測する。ただの自己満足、自己顕示でないと思う。

 「じゃあ、あなたは?」と問われても、そういうコトには縁がないし、だいたいお金がない。時間も能力もない。

 「では、鑑賞は?」と問われても、これまた時間と金のかかる仕事になる。先回も書いたが、能楽の公演で連日おこなわれるものは基本的にない。「誰それの何々を見る」となったら、その公演それこそ一期一会である。また、最近の人気能楽師は、東へ西へ忙しい。多くは、土日の公演である。いっぱしの能楽鑑賞をしようとしたら、やや高額なチケット購入、交通費の費用に足を運ぶ時間を作らねばならぬという大変な労力を要するわけである。場合によっては、義理を欠かねば能は見ることができない。もう、大変な趣味。(水道橋の宝生能楽堂の上階はマンションだから、老後にそういうところに住めたら最高かもしれないが。)

 と言うわけで、能楽を真剣な趣味とするのは大変な贅沢。

 で、私の今の状態は、ほとんど小謡。一曲通すと習うだけで時間がかかるから嫌だと言っている。(だって、お稽古に行くのが2ヶ月に1回とかいう状態だもの。)その点、小謡は能の「いいとこ取り」で、なかなか楽しい。ちょっとした気分や季節を味わうのには大変よろしい。江戸時代や戦前は、謡を習う人口も多く、能の先生も生計を立てやすかったらしい。その頃も一曲全部を教えていたのかもしれないが、まあ、だけど、今の能の先生たちは、小謡は教えたがらない。理由はわからないけれど。どんどん小謡を教えて、そこから本物の能の世界へと誘えばいいのにね。

 先日は3ヶ月ぶりに稽古に行って、春の曲の一節だけをやることにした。だたし、昔一曲全部を習った曲だ。先生に「このあたりを復習したい」と言ったら、「本当にいいとこどりですね」と言われたが、私って、きっと恵まれているなぁと思った。また2,3日後に稽古がある。全然練習してない。ちょっとはやっておかなきゃ。

 実は、私にだって「下心」はあって、自分の教科が外国語なものだから、能楽の趣味はそれなりに良いことだと思っている。研修などで外国語の教員が集まって話す趣味は、圧倒的に「映画」。私の場合、まったくはずれている。(映画、嫌い。だってよくわかんないんだもの。マンガはよく分かるけどね。)でも、国際化何だのと言われる時代に「ウリ」になるのは自国の文化・歴史だろうと思う。外国語の表現はできるに越したことはないが、要は、内容だってば。その点、能楽でも何でもを趣味にすると、「語るべきもの」を持つことができる。私が教員をやりながら謡の稽古を止めない理由の一つはそういうこと。生徒にとっても、この類のモノは、聞いて見て、「ぷっ。。。くくくくっ。。」と笑い出す子も多いが、新鮮な気持ちで吸収できる生徒もいるのだ。その昔、授業中の雑談で能楽談義をしたときもあったが、「外国語教員による日本の古典」だけでも意外なようで興味深かそうだった。

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