考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

sence(誤)とmilion(誤)など

2011年08月21日 | 教育
 英語の綴りには「間違えやすい綴り」というものがある。英語教員なら経験的にみんな知っている。
 その生徒が出来るのか、そうでないかは、よくある間違いをするかしないかでかなりわかる。間違いやすそうな綴りで素直に間違う生徒は、たいてい、出来ない。授業で、あれほど気をつけろ、と言っても間違える生徒は、残念だが、どんなに良い子であっても、正直、見込みがないと思う。間違えた綴りで点を失うから出来ないという判断をするのではない。綴りそのものや点は表層的な問題である。(この理解をしない生徒が多い。そういう場合、伸びない。)意識が散漫なのが致命的な欠点なのだ。ここが重要。散漫さがあちこちで顔を出すことになるから、あちこちで間違える、そもそもから間違えて覚える元凶になる。だから見込みがないのである。
 けっこうできる生徒でも、間違えることはある。しかし、間違えて書く際に、「あれ、これ、どっちだっけ? sかcか。lが1つか2つか?」と迷ったかどうかが問題である。今の生徒は「迷う」ことを悪いことだと思っているように感じるが、「迷う」とは「意識化」に関わる思考のプロセスだから、勉強の基本を踏まえている。どんどん迷えば良いのである。
 勉強の基本は「いかに意識化するか」である。「意識化」という表現は、本当のところ正しくないかもしれない。通常「意識化」は「言語化」を意味するが、ここでは、言語化までに至らなくても「なんだか、これは、違うんじゃないのか?」と感じることが大事なのだ。「意識化」「言語化」は、「感覚」を基盤にしない限り本物にならない。「何だか変だ」と感じることで、意識化が始まり、具体的に、senseはcではなくてsだ、とか、millionのlは2つあるなどの言語化できる意識に変わる。こうした、謂わば「丁寧な」順序立てた思考があるかどうかが重要なのである。だから、先生からsenseやmillionのsやl2つは間違えやすいから気をつけろ、と言われたから覚えた、というのは全く応用力にならない。まあ、senseはちょっと特別な感じがあるが、millionに至っては、billionも同じであるし、middleも似たようなものである。このあたりのところで、ピピッと来るかどうかが、まあ、ぶっちゃけた言い方だと、「アタマが良いか悪いか」に通じる。

 で、こういう「綴り」の話をすると、「綴りと読解は違う」とか何とか言い出す人がいるが、わかってない。同じである。(このあたりのことに気がつかない限り、偏差値55は抜け出せない。←我ながらくどい。)

 で、millionやsenseなど、具体的に言うと、「じゃあ、ほかは?」と問う。で、試験に出そうな他の例をたくさん教えてくれるのが良い先生、良い参考書だと考える。こうして思考がどんどん羅列になる。詳しくなることでレベルが上がるはずなのに、どんどん思考は平板化する。「偏差値55」だと、発想がここになる。自分自身の内面化というか、それがわかっていない。あくまでも、直ぐに点に結びつく形でしか理解しない。
 「言葉」は、表だって出てくる性質を持つ。これが良いものでもあるが、根源的に持つ限界もそこにある。(だから、本当に偉い人は本を書いていない。イマドキだったら、たぶん、論文もブログも書いていない。笑)

勉強も何も同じ

2011年08月21日 | 教育
 聞いた話。
 国内でかなりのシェアを占める製品を作っている工場の人によると、大事なのがKKDなのだということらしい。KKDは、勘、経験、度胸だそうだ。
  
 ほほう、すばらしい。
 勉強をするときに大事なのも、同じである。
 
 同じ勉強をしても、同じように文章を読むにせよ問題を解くにせよ、「勘」を磨くことが重要だ。単なる当てずっぽうの「勘」でなく、2つめのKである「経験」、それも、微細な違いしかないような経験を積むことで自分の感性を養うのだろう。その感性に裏打ちされた「勘」だ。
 Dの「度胸」は、判断力、行動力だろう。ぐずぐずして決断をしなかったら物事も思考も進まない。「経験」を基盤にした「勘」がひらめいたら、「度胸」を出して、決定をするわけである。文章読解も、数学の問題を解くのも全く同じである。

 今の生徒の学力がないのは、「経験」を摘まない、よって、「勘」に至らない。かつ、自分で判断する「度胸」がないから直ぐに「先生、これで合っていますか?」と聞いてくる。だからである。
 合っているか合っていないかくらい、自分で判断をすれば良い。たとえそのときは間違っていても、経験と勘があれば、かならずや「正しい答え」が自ずから出てくるものである。半年、1年の年月がかかるかもしれないが、そのときには、驚くほどの「力」が付いている。
 勉強なんて、そんなものだ。
「いや、一つ、一つ、その場で正しいことを習得していくことが大事だ」と反論する人もいるだろう。おそらく、そう教えることで自分の商売繁盛につながる人か、それとも、「ちゃんとした勉強」をしていない人である。(勉強の出来も、せいぜいで偏差値55であろう。)またここで、「ちゃんとした勉強って、何ですか?」と問う人は、ちゃんとした勉強の経験がない人である。自分であれこれ悩んで勉強をする。それが「ちゃんとした勉強」である。人から教えられたことをその通りに覚えたりやったりするのはちゃんとした勉強ではない。ちゃんとした勉強は、小刻みに震え、ときにのたうち回り、キャッキャと飛び跳ねる生き物みたいなものだ、たぶん。それがKKDの勉強である。

面白いかわかりにくいか

2011年08月16日 | 教育
 私の話は、面白いと思う人にはものすごく面白いけれど、つまらないと思う人には全くつまらない、あるいは、何が言いたいのかさっぱりわからないらしい。いずれにせよ、何が面白いかとは、話の内容そのものの問題ではなく、受け手の主観である。
 経験的に感じるのは、私の話を理解しないとは、具体的にどういうことかを想像しない場合(私の話はたいてい抽象的。具体例に乏しい。)と、おそらく、「人が何かモノを言う」のは相手に何かを要求したいときだと解釈するから、のいずれかが理由ではないかと思う。で、後者に関しては私は何も主張「私は~したい」も要求「~してもらいたい、~してくれ」もしない、つまり、主張とか要求という「結論」がないから、結論を求める人には「何が言いたいのかわからない」ということになる。
 仕事でも大部分の日常では、言葉はほとんどが主張か要求である。それ以外では、情景描写「今日は暑いですね」は、共感か話のタネを提供するコミュニケーションの基礎作りにすぎない。もっとも「今日は暑いですね」にしても、相手の部屋の中だったら、クーラーをつけてくれ、窓を開けても良いか?などの要求だろう。ま、ほとんど、言葉は、相手に何かを要求する際の便利なツールとして機能する。この点で赤ん坊が泣いておっぱいが欲しい、おしめを替えて、と要求するのと変わらない。(「泣く」は純粋な感情の発露だけでない。)
 で、私の話はほとんど全てが、後者、「今日は暑いですね」である。(笑)
 だから、今日の気候に関心のない人や「だから、どうだって言うんだ? どうしようもないじゃないか」と思う人には面白くないどころか、全くの無意味、無駄、それどころか役立たずの邪魔モノに映るだろう。でも、「今日は暑い」の言に「私も確かに今日は暑いと思う」とか「いや、私は今日はさほど暑くないと思う。湿度が低いからね。でも、ほりさんは湿気のことを気にしないで温度だけで判断しているのだろう」などと思う人にはそれなりに面白いと思う。

本当に偉い人は本を書いていない訳

2011年08月13日 | 教育
 歴史上の本当に偉い人は、本を書いていない。名前を書くのも恐れ多いような人は、誰も本を書いていない。弟子が言行録としてまとめているだけである。

 本は「言葉」を使うが、言葉は所詮、記号に過ぎない。記号は「それそのもの」で決してない。記号は、人と人の間に介在する共有物であるものの、人の「それ」と自分の「それ」が全く同じとは限らない。「あ」という言葉をAさんは「あ’」と解釈し、Bさんはさらに「あ’’」とか、あるいはひょっとしたら、「い」と理解する可能性だってありうる。
 本当に偉い人は、言葉とは、実体ない、人に解釈されるだけのものだということと、本当に大事なことは決して言葉などの代替物で表現されるものではないことをちゃんと知っていた。だから、言葉がすべての「本」を書かなかった。
 偉い人にとって大切だったのはあくまで、眼前にいる「弟子」そのものだった。「教え」とはすべて、弟子が師匠から直に得た、しかし、弟子による所詮「解釈」でしかない。それが「師匠の言葉」として後世に伝えられているものである。ちょいと興味深く思うのは、「師匠が伝えたもの」という「能動」ではなく、あくまでも「弟子の判断で解釈されたもの」という「受動」だと言う点だ。主体になるのは決して師匠でなくて弟子だという点だ。(この受動態の文の主語は「弟子」である。)

 学校の授業も、本当のところは、「本当に偉い人」がやったようなものではないかと思ったりする。
 先生は受動態の文で言うと、「by ~」の「~」に過ぎないということだ。言葉を駆使する教授内容も、直接的には「記号」に過ぎず、受動態の文の主語は、「生徒」そのものである。本当に大切なのは、教科書や本に書かれた「言葉」たる学習事項の陰に隠れがちの「学ぶ人」そのものである。教える事項を主語にする受動態の文を作ることだってできる、と思う人もいらっしゃるだろう。この発想が「本」である。しかし、二次的なものにすぎない。
 近頃、勉強をする際、学習内容の習得を目的とする「テクニック」的な方法がよく紹介されている。訓練の仕方によって、確かに効率が良いようだが、私はそれはまたちょっと別の話だろうと、違和感を感じている。
 私が大事だと思うのは、学ぶ人に変化をもたらす「プロセス」ではないかということだ。結果的に身に付く学習事項や教授内容を否定するわけではないが、取って貼り付けられる知識や方法論は本当のところ次善である。現代人の知識の量は、古の人と比べてずいぶんと多種多様だ。人類は、そうやって少しずつ賢くなってきている事実はあろう。しかし、だからと言って、現代人の方が古人よりはるかに素晴らしく進化したわけでないのは明白だ。
 また、今の時代を表す言葉は「結果」「目的」になるのではないかと思ったりするが、生まれて生きて死ぬ存在である人から「時間」を抜くことはできない。「結果」「目的」という概念の本質において、時は必ず止まらなければならない。人が生きるとき、死が結果だったり目的たり得るのは、日常的な感覚で健康的でないだろう。「記号」も時を持たない。だから、人を生かすことを旨とする本当に偉い人は本と縁を持たなかったのだろう。
 教えたり学んだりする上で本当に大事なのは、言葉のない「阿吽」じゃないかと思ったりする。生徒を叱るときや勉強の「わかったか」「はい」が時に言葉を超えることは、教員だったら誰しも経験するだろう。反省文という結果だったり、試験の点数ではない。「阿吽」そのものに時間はないが、「阿」の人「吽」の人それぞれが「阿」と「吽」それぞれに至るにはものすごい長い時間がかかるものだと思う。

「わかる人はわかる」を認めない

2011年08月07日 | 教育
 内田先生ブログ「歩哨的資質について」は、粗っぽく要約すると、微細なシグナルを感じる人を適所に配置する重要性を述べている。

>私たちの社会制度のさまざまな箇所で「ほころび」が生じている理由を私は端的に「歩哨」の絶対数が減ったことだと思っている。

>司法や医療や教育はひろく社会的共通資本の中の「制度資本」にカテゴライズされるけれど、これらはいずれも「わからないはずのことが、わかる」という人間の潜在能力を勘定に入れて設計された制度である。
>これらはいずれも「存在しないもの」とのフロントラインに位置する「歩哨的制度」である。

 以上、引用。
 
 では、なぜ、「歩哨」の絶対数が減ったのだろうか?

 --私が、お答えしましょう。 
 答えは簡単です。
 「「わかる人はわかる」では説得力がない。それで、世の中が通ると思うのか。わからないメンバーも納得させられる客観的、科学的、数値的証明や論証ができない主張や考えは正しいと言えない。」という考え方が入り込んできたからです。
 この主張の論拠は、「誰でもが平等、公平な立場にいるのだから、理由なく特定の言説を優先させるわけにはいかない」という公平・公正重視の思想で、「感度が高い人であっても、横並びに、感度の低い人に合わせるべきである」です。この観点で生成してきたのが「マニュアルの整備」という思考法であり、実践です。「マニュアル」は、感度や感性を持つ個性を認めません。「誰がやっても同じ」がマニュアルの長所です。
 また、これとは別に、「自分が納得することが重要だ」という思想が根底にあるということもあって、「わからない人」は堂々と「納得できない。説明しろ。」と主張します。なぜ自分が納得することが重要かは、その陰に、「わからない人」、つまり、世のあらゆる人はあまねく、現在の自分の資質、つまり、能力や感性を高めたり、それ以上に開発せずして、世の中のありとあらゆることすべてを了解しうる、と思い込んでいるからです。少なくとも自分が関わること、興味関心を持つことに関して、自分が今持っている度量衡では計量できないものの存在を全く認めない、「自分にはわからないものがある」ことをうすうす感じることすらない、ぶっちゃけていうと「自分にわからないことはない。適切な説明さえあれば、必ずわかる」と思っているのです。一種の万能感でしょう。

 私は教育現場の人間ですが、このような場にしばしば出くわします。

 そもそも、生徒は、未だ未熟な存在であるにもかかわらず、「自分が納得することが大事だ」という思想に関わる「自分の度量衡では計量できないもの存在」を認めません。
 理由は、ちゃんとした勉強をしていない、未知に挑む姿勢で勉強をしてないからです。「自分にはわからないけれど正しいことがある事実」を全くと言っていいほど体験してないのです。試験の「80点」は、「80わかる」であって、決して「20わからないことがある」でないのです。(ちなみに、イマドキの子どもは、テストが返却されると、○を確認して「出来た」と思います。×を見て、「ここを間違えて、残念、しまった」と思いません。だから、学力が伸びない。)勉強は、本当のところ、「わかるため」ではなく、「わからないことがあることを知るため」のものです。
 さて、今の私の言葉に、あなたは納得しますか? 
 おそらく非常に多くの方は、今の言葉を「まさにそのとおり!」と受け取るよりも先に「(そうではあるものの、)必ずしも、それだけではない。知識の習得も大事だ。」と瞬間的に思ったはずです。意外でしょうが、その受け取り方がまさに「テストの○を重視する」思考法なのです。「でも。。」と納得なさらないでしょう。「でも、やっぱり、知識がないと生きていくことだってできないわけだから、知識の習得を目的に人は勉強をするのだ。『わからないことを知る』というあなたの言うことも理解するが、知識の習得だって同様に、いや、それ以上に大事だ。得る者がなかったら、誰も勉強しないよ。」とおっしゃるでしょう。その通りですが、この考え方の根底にあるのは、「わかる」や「知識を得る」と、「わからないことがあると知る」を並列させてとらえる思考です。私が問題にするのは、思考の根っこにある思考法が何であるかを知らずに深い理解はなしえません。重要なのは、「わからないことがあることを知る」に、「知識の習得」は自ずから含まれるという事実です。「わからないから勉強をする」が根底にあり、その上で、「わかること」が出来てくるというとらえ方です。知識の取得などの「わかる」ことと、「わからないことを知る」は、決して並列するものではないのです。しかし、並列させる勘違いというか、取り違えが近年ひどい。「大事なのは80のわかること」としかみなさず、「100のわからないことを学習したら、80はわかったが、20はわからないことが残った」と思わないのです。見方を少し変えると「残った20のわからないこと」に何の価値も見いださないということです。換言すると、勉強によって得る知識、考え方が「結果的に得られる手段」としてしか認めなということです。これで「自分がわからないこと」に目を向ける姿勢が育つわけがありません。
 また更に、「物事はわかりやすいことが大事だ」と多くの方が思っていることでしょう。これも根底にあるのは同じ思考法です。「わかりやすさ」「わかりにくい」という言葉は背後にあるのは「必ずわかる」という前提です。でなければ、こうした表現は使えません。
 というわけで、今は、子供も大人も、心の底では「自分の度量衡で測れないものの存在」をほぼ全く認めていないことがわかります。

 さて、付帯状況的な説明はこれくらいにして、直接的な説明に戻りましょう。
 
 私は、教育に関する、ごくごく狭い範囲ではありますが、ある一定の事項に関して、相当に感度が高い方だと思っています。生徒を見て、いかにも顔に書いてあるではないかと思われることがあります。
 しかし、同僚からは「必ずしもそうとは言えない。客観的な証明がいる。」「そんな風にとらえるのはほり先生だけだ。」と否定されます。最も多いのは、「私はそう思わない。そんな風には感じない。」です。また、否定のされ方には、広くあまねく、社会的に何となく流布している考え方を根拠に否定されることが多いように思います。

 正直言って、上記のような反応は、私にとって非常に苦痛です。他の「わかる人」にとっても同様ではないかと思います。なぜに「自明のこと」を論証しなければならないのか。当たり前のことを、なぜ、当たり前だ、で通じないのか。
 日本という「空気」の中では、「波風を立てない方が良いなら黙っている方が良い」または、「自分のアンテナの感度を下げ、鈍い人に合わせる方が世の中円満になる」ので、高い感度を否定することが良しとされます。これが、自分の周りにいる人たちに対する(おそらく内田先生的に言うと)相手に対するdecencyになるでしょう。ですから、高い感度を強く主張できないのです。だって、「わかる人にはわかる」は「わからない人にはわからない」と同義ですから、どうしようもありません。

 「感度を伝える努力をしたらどうか?それが高い人の責務ではないか」とおっしゃるかもしれませんが、基本的に無理でしょう。その人がどれだけ、どのように、その感性を磨いたかという身体的とも言える経験がその人の感覚や感度を作り上げます。ですから、似たような体験や経験がないと、わからないのです。しかし、今の時代は身体性が軽んじられています。
 身体経験が共有できないものであることと関連しますが、「感覚」「感度」は他人が計量できるものではありません。(ちなみに「計量」とは、共通に通じます。)「痛み」を共有できないのは「痛み」を計量できないのと似ているでしょう。共有できないものは実証が不可能だということです。実証とは、共有することに他なりません。
 また、高い感度でもってなし得る「成功」は、結果的には「何事も起こらない」という形でしか現出しません。「起こったかもしれないのに起こらなかったこと」は、そもそも「ないもの」ですから、実証も検証もできません。
 ネット上であれ何であれ、「言葉」だけが浮遊し、妙な「力」を持ち始め、ずいぶんと長い時間が経ちました。言葉は「記号」ですから共有されるものです。ちなみに、人が意識的に共有できるのは、「記号」だけです。つまり、実証の際に必ず用いられるのが記号であると言うことになります。計量の単位になる数値、すなわち数字も同様、記号です。
 ものを教える場合に「わかること」「わかりやすさ」が重要視されるのは、教える方法が「記号のやりとり」を前提にしているからでしょう。今の時代は「共有する」ことが重視されていると言えるでしょう。この観点で言うと、「わかる人はわかる」は「共有できない」ことを前提とするから毛嫌いされて当然です。
 これら上記の事情で、歩哨がいなくなるのも当然と言えるでしょう。

 「わかる人はわかる」は感性や感度という絶対的な世界に基づいています。また、人間が「かんぬきと戸」を管理する「歩哨」を必要とすることも絶対的な世界においてのことです。しかし、「共有」は人間関係という相対性に準拠します。(ここ、舌足らずかも。「わかる人にはわかる」でしょうが。)この意味で、今はやはり、「人間関係」という相対性が優位の時代で(←持論)、子供や自然という絶対性がないがしろにされているととらえることが出来ます。
 日本の社会が、平等化し、個人の能力の伸長より、何より公平公正さ、しかも、「公平公正な評価」という人間関係に準拠する相対性が重視あれ、誰しもが同じ権利と義務を主張するようになってくれば「>歩哨の絶対数が減る」のも当然の帰結です。

無意識を意識化する

2011年08月06日 | 教育
 勉強が出来る子と出来ない子の違いは、感性という感覚の問題と、無意識的に知っていることをいかに意識化できるか否かの問題だろう。
 出来ない子は総じて鈍感である。差異に気がつかない。出来るようになりたかったら、感覚を鋭敏にすればよいわけだが、これがなかなか難しい。しかし、結局、究極の学力増強は、この方策で、これしかない。
 「感覚」の視点でいうと、そもそも情報が入力されないとき、さらに、入力されてはいれも気がつかなければどうしようもない。たとえば「目が見えない」状態は、目からの情報入力がされていない。これはどうしようもない。近視や老眼であればレンズの助けを借りる必要があるだろう。しかし、入力はされているのに「見えない」ことがあるらしい。失明していた人が手術をして見えるようになるときとは、包帯を取って、それですぐに感動の一瞬が訪れるわけではないと聞く。光が目に入っても、脳がそれと認識しない限り「見えた」ことにならないからだそうだ。だったら、「脳に意識をさせる」ことが勉強について重要になろうというものだ。同じ脳みその話だから当てはまろう。
 また、昔、教材で読んだ話だが、足が動かないせいで歩けなかった子供が歩けるようになった話があった。専門医の指導で、訓練士や母親が足を動かす体操を施すことで脳を活性化させ、逆に、自分の意思で足を動かせるようにし、少女は歩けるようになった感動的な話である。(そういえば、コミュニケーション英語とか何とか言われてから、この手の教材がなくなったなぁ。)
 キュービズムのピカソが天才なのは、通常は無意識に行っている脳の中の空間ととらえ方を外に出して表現した点である。デュシャンの「階段を下りる裸婦No.2」は運動モジュールを描いた。ピカソもデュシャンも、作品の様相は全く異なる。しかし、いすれも網膜に映る絵画ではなく、脳の絵画である点が一致している。(←「見る脳・描く脳」岩田誠著にあるよ。)彼らが天才なのは、「無意識的に我々誰もが知っていたり行っていることを意識化した」からである。ニュートン万有引力の発見も同じである。
 だったら、同じことを勉強で行えば良い。無意識を、無理矢理にでも意識化させるのである。これ以外に、効果的な方法はないだろう。
 この意味で、作業的な訓練を特別な指導なしに単なる作業として行うことは、必ずしもその生徒の意識化する能力や感性を育てるわけではないから良い学習法と言えない。この点、上記の足の運動とは異なるだろう。昔、英語ではパターンプラクティスが流行ったが、効果的でなかったのですぐに廃れた。もし、「作業に効果があった」としたら、作業そのものが触媒のような働きをして生徒が自ら意識化することを発見したからである。もっとも、同じ作業であっても、指導者が適切に、つまり、生徒の感覚や意識化する能力を固めるように指導すれば、効果が異なるだろう。
 具体的にどうするかは、教科によるし、教える事項による。確実に言えるのは、勉強を教えることとは、単なる作業や、単なる知識の伝授では決してないということだ。