考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

質の学習と量の学習

2013年03月24日 | 教育
 勉強でもスポーツでもおそらく同じだろうが、何かの習得のためには、質と量の両側面が大事だ。
 わかりやすのは「量」である。数学の計算が素速いから短時間にたくさんの問題が解けるとか、漢字をたくさん知っている、英単語をよく知っているから速く読めるだろう、とかである。で、また、「量」と「質」を比べると「量」は目に付きやすい誰でもが気がつく尺度である。ところが「質」は目に見えないことが多い。だから、意外に気にしない、気がつかないものだ。さらに、「量」が多いと「質」が高くなることが多い。だから、うまくなりたかったら、できるようになりたかったらたくさん練習をする。
 というわけで、一般的に、勉強やスポーツのさまざまな問題は、「量」の問題であるととらえられる。、
 しかし、「量」だけで片付くわけはない。
 内田先生の「言語を学ぶことについて」で述べられていることは、「質」の問題に関わるものだ。「技能」としての英語力は「量」に還元される。しかし、内田先生が重視する「むかしの子どもが・・・・何年もかかってじわじわと身につけた英語力」や「熟達した日本語の遣い手」は「質」が違うと見て良いだろう。
 「量」は、いわば個別のバラバラの知識である。しかし、「質」とは、何らかの観点からの統合、分析的な見方といったいわば「つながり」の観点でとらえられる。構造が重層的なのである。ばらばらの知識はいかに量が多かろうと、該当するもの以外に対する応用は利かない。「ばらばら」がものすごい量に達した場合、やがて質的な転換が訪れることはある。前述の「練習量を増やす」方策が目指すのがこれだ。しかし、どこかに質的な転換の意識があれば話が早い。それが「じわじわと身につける重要性」で、「熟達した遣い手」につながるのだ。「質」が高くなればなるほど、未知なるものに向かう応用的な力と結びつくだろう。量と質という観点で、この違いは大きくはないか。
 昔のコンピューターが得意とするのは「量」の扱いだっただろう。しかし、今はもう、「質」の時代に来ているだろう。コンピューターと人間が将棋で良い勝負をする。「成果」や「結果」を求めれば、やがて至るのが人間の脳みそを全く必要としない世界だろう。

「英語の授業は英語で」の陥穽

2013年03月10日 | 教育
 英語と日本語は全く異なる言語だから、どんなに日本語の熟達してもすぐに英語ができるようになるわけでないし、どんなに英語に堪能であっても日本語が堪能だと言うことにはならない。(「言語」を扱う潜在的な能力として、母語が得意な人が外国語も得意になるということはある。読解力や思考力などが共通するからだ。しかし、ここでは問題にしない。)
 ある程度英語がわかるようになると、日本語を介在させずに理解が進む。今のセンター試験のあの問題量は、これを意識してのことだろうと思う。いちいち訳しながら読んでいるようでは時間内に読み切れないし答えきれない。英語を理解する過程で、全く母語が介在せずに、英語がいきなり理解につながるのだ。それで、今の英語教育が目指すのはこれのようだ。だから、「英語の授業は英語で」となる。これはこれで良い。しかし、それだけで事足りると思うのは、間違いである。この理解がない。

 英語がそのまま自分の脳みそのなかでの理解に通じるということは、非常に個人的な理解の方法と言うことになる。英語を話したり書いたりしている相手の英語を自分はすんなりと理解できるから、理想的に思われる。しかし、もし、自分の近くに英語を理解しない自分の友人がいたとしたらどうだろうか?相手の自分のコミュニケーションは十分に出来るが、自分の友達は蚊帳の外で「除け者」ある。
 「そんなときは、英語が出来るその人が友人に通訳してやれば良いではないか」と思われるだろう。ところが、である。「通訳」や「翻訳」のように、ある言語の別の言語に置き換えるプロセスは、「英語を英語のまま理解するプロセス」と全くの異質な活動なのである。だから、訓練なしにそう簡単にできるものでないのである。
 「そんなことはない。だって、いちいち日本語に訳しながら読むのは時間ばかかりかかる、初心者のやり方である。英語のまま理解する方が遙かに高度だ。」と思っている人は、自分でやってみると良い。(ある程度はその言語に習熟する人に限るが。)英文を読んでふむふむと理解できるが、さて、それをだれでも理解できる母語に直そうとすると、これがなかなか困難なこと、あるいは、とても面倒くさいことに気がつくはずだ。あるいは、いわゆる「翻訳」を読んでみるのも良い方法だ。日本語訳を読んでも、わけがわからないことがある、その理由である。書いている人はもちろん内容を理解しているのである。(ときどき理解してない人もいると思うが。)しかし、その訳の日本語は、ワケがわからない酷い訳になっていることがよくあるではないか。私は、その酷い訳をした人はだからといって英語(他の外国語)を理解していないのではないと思う。「自分はわかっている。しかし、その内容を、母語だけしか理解しない人に伝達できない。」という状況に陥った結果なのだ。これは、自分が努力して習得した言語能力が、非常に排他的というか、セクト的な「内輪のもの」になっているということを意味する。さっきの例でいうと、自分の友人とは自分の優れた能力を分かち合えないということだ。あくまでも、関係が自分と相手の英語話者とで閉じているのである。
 「英語の授業は英語で」は、既に英語が出来る人と英語が出来る自分との関係を深めてはくれる。しかし、英語を介さない人を仲間はずれにする学習法であり、排他性、言い換えると「仲間はずれ、大いに結構」という考え方を無意識的に助長する教授法なのである。

 で、「そんなばかな!」と思う人は、英語の理解が逐語訳の初心者レベルで、英語があまり出来ない人だろうと思うよ。どんな通訳や翻訳のベテランでも、私に同意してくれると思う。

 この排他的「セクト重視」の思考法、自分と違うものを排除する思考法は、ひろく社会に蔓延しようとしている。(すでに蔓延している。)
 「いじめ」もそうだろうし、「グローバル主義」が、資本主義社会のごくごく一部の「金持ち」だけを優遇し、他のメンバーを「奴隷」のように扱うのも、排他主義の1つだろう。
 だからこそ、「英語の授業は英語で」が表に出て国策となったのだろうけど、だからといってそれだけに留っているのでは排他主義に陥るだけだ。
 習得した第2言語をいかにして母語と連関させるかの理解を深めてこそ、本物の学習ではないか。「和訳」は、意外にこれに合致する。しかし、学校でやっている「和訳」では私は足りないと考える。(足りなかったから、「英語の授業は英語で」なんてとんでもない考え方が出てきたのだ。注・現実の学校では、必ずしもそんな授業ばかりとはならないけどね。)
 あのね、もっと視点を異ならせた言語学習が必要なのだよ。
 でも、だーれも、そんなこと、言わない。

英語と日本語の行ったり来たり・その2

2013年03月06日 | 教育
 1/3を辞書を引き引き読むのにかなり労力がかかった。ところどころに引用が入るのだが、これがことのほか難解というか、その昔の大学入試などでは「悪文」とされるような文が多い。一瞬、主語と動詞を見失う。まあ、日本語の文章でも、ややこしそうな文はおうおうにして文構造を考えるから同じである。
 この1/3でものすごく努力したせいか、別の章に目を通したら、けっこうすいすい読めるのである。必要な語彙がだいたいアタマに入ってきたというのもあろうが(文学者の文章でないから使用語彙は少ない。)ホントに、意外に読める。慣れというのはすごいものだと思った。
 さあ、これでテキスト類を読むのもラクにならないかな?(笑)