考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

楽しい英作文♪

2009年01月30日 | 教育
 極めて珍しい気もするが、理系の英作文なのに、けっこう皆が真面目に受けている。予習が前提ではあるが、まあ、これは大してやってないようだ。それでも、「書け!」と言うと、それなりに書く。もちろん、彼らが書くときに(私が考える)普遍的な「コツ」のいくつかを連呼し続けているけどね。(この文ではあの構文を思い出してね、なんてことは決して言わない。そんなのは私が認めるコツでも何でもない。)だから、随分と書きやすいはずである。
 大事なのは、無から有を生み出す力である。それからもう一つ、自分で間違いを見つけ出す力である。これ、かなり徹底して言っている。だもので、まあ、少なくとも、正しい英文を写したところで力にならないことはわかってきていると思う。応用できるのは、基本に戻って考える力だということがわかってきたから良い傾向だと思う。

 板書して添削をするといういつものパターンだが、まあ比較的簡単な英文だけど、ちょっとは難しのもあるから、私もホントは困るのである。だって、正しいかどうか、よくわからない。模範解答の例文はあるが、何だか、アヤシイ答えもあるし。外国人講師に聞くと、これは変だ、と言われたのもある。コロケーションなんて、難しすぎてわからないし。その場で辞書を引くことしばしば。しかし、生徒が書くアヤシイ表現は、「なぜこう書いたの?」と聞くと、大抵は「何となくそう思った」というだけだから、いい加減である。でも、書かないよりずっとマシではあるから、ふつーの言い方を提示して終わることが多い。それから、いろいろなちょっとした冠詞の使い方でも、その違いを私のわかる範囲でしかないけど言明して終わり。ちょっとした「感覚の種」のようなものさえ伝えれば、あとは彼ら自身の中で成長させていけるだろう。で、そのうち私よりずっと遙かに英語は得意になるだろうと思っている。

 添削の難しさは、日本語の作文でも難しいのだから、英語は言うに及ばずである。何が良いかなんて、わかるわけないよー。私のブログの読者なら、よくおわかりであろう。日本語ネイティブスピーカーなのに、誤字脱字は言うに及ばず、脈絡なく書かれてたりするもんね。(と、こんな風に、文体の変化も甚だしい。これはいけないことである。)

 いや、でもしかし、こんなに興味深く授業になると思っていなかった。それにさ、とにかく、少なくとも、文構造がまず破綻してないのだから、驚きなのよ。信じられない。(読む人によっては、レベルの低い驚きと思われるだろうけどね。)


和文英訳の添削

2009年01月29日 | 教育
 生徒が「先生、この訳、これで良いですか?」と鉛筆だけで書いたノートを持ってきても、私は見ないことにしている。
 だって、答えを持ってるんだもん、彼ら。
 で、「答えがあるでしょ?」と言うと、「でも、自分の訳がこれで良いのかどうかがわからないから」とおっしゃる。
 そんなの、当たり前だよ。
 「別に、そんなの、いいじゃない。」ということにしている。それよりも大事なことがあるからだ。「より良い答え(というか、訳の仕方)」を身に付けることである。もし、自分の答えと模範解答が違っていたら、模範解答にある表現を覚えて、次に備えれば良いだけの話である。「今の自分の答え」がどれくらいであろうと、そんなの、どうだって良いじゃないか。試験で出来るのは、「自分にとって精一杯の良い答え」を書くことだけである。ただひたすら、そこを目指せばいいのであって、今現在の実力なんて、どうだって良いじゃないか。
 で、↑この理屈がわからない生徒は、私ははっきり言って、大して伸びないと思う。

 で、この理屈がわからない生徒が増えているような気がしてならないのであるが。理由は、彼らがこれまで常に評価されることによって自己を確認してきた経緯があるからではないかということだ。
 定期試験はもちろん、高校生になってまでの小テストの数々、それで、合格、不合格の判断がされる。合格したら、それで良し、しなかったら、するまで頑張る。この行為の意味は、自分自身は、常に外部(自分ではない人ね)評価に因ってしか確認できない、という弱さだと思う。
 
 それでも、「英訳は、やっぱりきちんと見てやらないと、出来るようにならないよ」と言う人は多いだろう。それは、主語動詞の文構造が全く理解できてないレベルの話である。そこそこ出来るのなら、後は、自分で出来る。うん。
 自分は過去形で書いたのに、模範解答が現在完了になっているのなら、「あ、そうか。こういう状況では現在完了を使うのか」と学べばよいだけの話である。で、授業で、私は絶えず、作文を書く上での注意事項というか着眼点は言っている。だから、ちゃんと自分でやれ。

 それからもう一つ思うのは、彼らはとにかく今の自分の相対的な位置を知りたがっているということである。
 彼らが興味あるのは、これから目指すべき未来の自分ではなく、今の自分なのである。で、たぶん、「今どこにいるのかがわからなかったら、どこに進んで良いのかわからない」という感情である。何を言っているんだ(←言ってるわけでないけど。)と思う。より英語が出来る自分に決まってるじゃないか。よりふさわし表現、より多くの語彙を身に付ければいいだけの話である。それなのに、自分の知っている語彙で、「これではいけないんですか?」と質問する。そんなのどうだって良いじゃないか。新しい表現を覚えていけば良いだけで、今現在の自分の力でやりくりする必要なんて何もない。
 で、「ああ、これでも良いよ」と言うと、もう新しい表現を覚えようとしないのである。うん。このことに対して、私は確信を持っている。なぜなら、もしも「あなたの表現はこれこれの状態の場合なら良いけど、これこれの状況で使えないね。」と言ったとしたら、「これでも良いんですよね」と、とても嬉しそうな返答が返ってくる確率が猛烈に高いことを経験的に知っているからである。彼らの表情に「私はもっと学ばなければならない」という気概は微塵も感じられない。「だって、これであっているのだから、私はちゃんと出来ているのだから、これ以上、学ぶ必要がない」と内心思っているのが見えるのである。彼らは「ほら、先生、今の私で良いでしょ?」ということを確認したいのである。50点でも、80点でも、50点分80点分の自分が認められればそれでいいのである。何が足りないのかより、自分が今持っているモノを確認したいのである。
 
 と言うわけで、私は真っ新な英訳の添削はしない。自分で添削などをして、そのうえで何らかの疑問を持った場合などは受けるよ、もちろん。(←この1文、念のために付け加えただけ。最初は、書くつもりなかった。)


読解と作文

2009年01月26日 | 教育
 読解をしていて文構造がわからないときは、動詞を捜す。(探し方の方策はそれなりにある。)
 和文英訳で何を書いて良いかわからないときは、何でも良いからとにかく主語を設定して書く。書いてから、また考える。

 自分でちゃんと出来た、と思わないと書こうとしないから、いつまでたっても出来るようにならないんだよぉ。。。
 書き込み式の問題集を使っているからこうなる。
 ノートを使うの、ノートを。


勉強の2種類

2009年01月24日 | 教育
 大ざっぱな話だが、国語ができて英語が出来ない生徒はナマケモノである。国語や数学は、まあ、ちょっと勉強をするとできるというか、アタマが良ければそこそこ勉強をすれば何とかなったりする。(と、普段と違うことを書いている・笑)ところが、英語となるとこんなわけにいかない。何しろ現実離れした、日常生活とは一線を画するところにあるモノを習得しないことに出来るわけないので、どうしても「日頃の努力」が必要になる。努力の仕方は、実のところは、何だって良いのだが、とにかく一つ一つの単語や文法の仕組みを理解し、覚えるなどという「努力」が必要になる。だもので、アタマが良いのにサボっている生徒は、受験期になると数学と国語は何とかなっても英語が何ともどうしようもない、ということが実にしばしば起こるのである。

 で、何が言いたかったかというと、何だか前座が長くなったが、勉強というのは、要は、2種類あるということだ。一つは英語に見られるように、地道にでも何でも、とにかくこつこつと「努力」を積み重ねていかないと出来るようにならない内容と、もう一つの「閃き」、上記でいうと国語や数学のようなことである。
 で、今どきの子は、「地道な努力」を「閃き」で何とかしてしまえないか、と常に考えている。で、努力をしない。だから、勉強が出来ないのである。うん。

 それで、大きな勘違いがここに存在する。「地道な努力」と「閃き」が全く相対するモノであるという考え方である。
 だから、地道な努力をないがしろにして、上手いことやる方法ばかりを求める。一攫千金の株で儲けよう、なんていうのも私から見ると「閃き」だけでなんとかしようという考えである。一方、お百姓さんや熟練工でもなんでも、一生懸命にモノを作って、それで、大勢の人が暮らしていける世の中になる。これは、「地道な努力」である。それで(というとちょっと言い過ぎだが)、お百姓さんの仕事などが重視されないから、農作物に高い価格が付かず、そんなこんなで若い人が後を継がない。で、ラクして儲けよう、と虚業が繁栄してきた。で、小学生に株取引を教えるなんて、共同体としての国家を根底から腐らせるようなことまで出てきた。まあ、すべてが、「地道な努力」と「閃き」がそれぞれall or nothingのように捉えられている所以である。

 しかし、実のところ、英語の勉強でも何でもそうだが、「地道な努力」の中に「閃き」の要素が絡んでくるのである。ここのところを理解しないと、「何か上手い方法があるのではないか」という勘違いが生じるのである。
 単語一つを覚えるにしても、「閃き」をもって覚えるのと、ただ単に機械的に無味乾燥に覚えるのとで、努力の仕方が根底から異なる。でも、多くの場合は、そんなことを思わない。努力しろ、と言うと、無味乾燥な機械的な努力だと思っている。だから、つまらないから興味が持てず、勉強する気にならず、勉強をしても心に残らず、「成果」がでない。それで、端から諦めて努力を放棄するか、「もっと上手い方法があるはずだ」という別の形の努力の放棄に至る。
 で、「閃き」とは何か、というと、要は「発想の転換」なのである。国語や数学は閃きが大事だったりするけれど、単語の暗記や漢字の勉強一つをとっても、地道な勉強に「閃き」としての「発想の転換」をもってすることが重要だったりするのだ。それこそ、「わかった!」というのは、「閃き」で、それまでの迷路状態からぱっと抜け出ることが出来るような「発想の転換」があって可能になることである。つまり、勉強とは、総じて「発想の転換力」とも言える力をつける営みなのである。

 勉強は常に「地道な努力」と「閃き」があらゆる点で交錯する営みなのである。で、もっと言えば、勉強は、実のところは「閃き」をいかに自分のモノにしていくか、という訓練であるのだ。
 ところが、世の中一般では、「地道な努力」と「閃き」が、相対するモノである、という勘違いがあるから、勉強もうまくいかない。で、本屋に売っている勉強関係の本は、すべて(と言っていいと思うけど。ほとんど手に取ってないから実はよくわからないけど)勉強に関して、「発想の転換」を提示する内容になっている(はずである)。
 しかし、「発想の転換」は、人から習って身に付くモノではない。自らやってみて、試行錯誤を繰り返すことに因ってしか身に付かない。だから、たぶん、今の本屋に溢れるあらゆるジャンルのハウツーものは、どんな本にも書いてあることは、「これこれを元に自分でやってみなさい、それで体得できるモノを体得しなさい」という内容であるはずだ(と、ホントは読んでないから無責任だけど)。だから、その本を読んだだけでは絶対に身に付かない。自分で実践してみて、それで、わかることがあるような内容のはずだ。(でなければ、成功体験談だろう。)

 で、話を元に戻すと、勉強が出来るようになると言うことは、「発想の転換」という視点で、常に学習内容に対処するということである。
 で、じゃあ、どうやって、そうしたら良いかというと、「基本に戻る」に尽きる。

 で、たぶん、世の中の全てのことについても(学校の先生しかやったことがない私が言うのは説得力がないだろうけど・苦笑)「基本に戻る」ことが重要になるのだろう。
 テレビで、仕事の達人の番組があるけど、生得的な(=身体に関わる)タレント的なものは別として、多くの場合、私が見る分に共通しているのは、彼らはそれぞれの仕事の基本を実に大事にしていることである。うん、どんな分野の人でも、その分野での基本を大事にしている。
 で、基本というのは、固定しているものではあるが、だからこそ、実のところは「発想の転換」をスムーズに行わせてくれる大きな自由を与えてくれるものだと私は思う。だって、その「基本」だけが重要で、他は全く関係がないのだから。軸足がしっかりとしていれば、意外に「動き」というのは自由にできるものではないのかなぁ。あとは、それこそ「努力」である。で、番組に出てくるような人は、決して努力を惜しまない。で、一攫千金を狙えるつもりの人は、「閃き」こそが大事だと騙されやすい人は、努力は労力を掛けなくても自動的に出来るものだと思っている。(「先生がもっとちゃんと上手に教えてくれたら、僕だって、もっと出来るようになるのに。」も同じである。ついでに言うと、どこかで読んだけど、「子供の心に火を付けるのが良い先生」なんていう発想も、同じである。高校生になったら、火くらい、自分で点けろ、努力の種を人に頼るんじゃない。)

 「自由」は「発想の転換」に繋がり、伴う「努力」は、その基軸に従った努力で、なされる努力が間違った方向でなされるはずがない。あるいは、すぐに修正が効く努力で、修正することを厭わない努力なのである。

 で、何が言いたいか、って? 以下、要約。

 基本を大事に、常に発想の転換という視点でもって地道な努力をしていきましょう。勉強というのは、ホントは、そういうことを学ぶものなのですよ。だから、(私が言うのもなんですがこういった発送方法は)いかなる仕事でも役に立つものではないでしょうか。どうやら世の中では、地道な努力は無駄である、と言う発想があるようですが、まあ、若い人の間に多いのかもしれませんが、それこそ、アタマが固いですよ、と私は思います。(何だか、要約でなくなってしまったけど。)

 で、補足。
 で、今の子供の不幸は、閃きと努力を別物だと教わっていることである。
 と、いつものような結論。
 で、学校に行かなかった人の方が自由に発想できるようになっていたりするんじゃないのかな。で、学校無用論が出てきたりしたら、大変だ。方法が間違っているのを、「そのもの不要論」に結びつくのは、本質を捉えてないなという気もするけど、通じるかなぁ。

年間反省

2009年01月23日 | 教育
というのをこの時期になるとし始めるが、教科で、学習指導要領が変わるからそれに合わせてどうのこうの、研修を行って、などと書いていた人がいた。が、その視点で私が述べるならこうなる。

「学習指導要領は、どうせ猫の目のようにころころ変わるから、そんなものは気にせず、ただひたすら生徒の英語力、--得点力でも日常会話力でもなく、後々まで影響を及ぼす基礎基本になる力を育成できる学習態度や学習の方法を徹底的に習得させる。そのためには教育機器などは音声CDなどの最小限に留め、プリントも最小限に留め、黒板とノートを十分に活用させる。試験対策はしない。また、形ばかりのショー的な研修はなるべく無視し、教員間の情報交換を密にする。」

終わり。

器と身体、モノと機能

2009年01月17日 | 教育
 有とか無の話を読んでて思ったのだけど(途中)、器は有で器の中はからっぽという無だけど、空っぽだからものを入れることが出来る。これは単なる物体の存在としての有無の問題というより、「機能」を問うていることになるだろう。養老先生が口や肛門は機能であると書いている。唇はたぶん解剖できるだろうけれど、口は機能を表す語だから解剖できないということではないのかな。それと同じで、器は解剖できるけど、器の空っぽになった部分は、機能を表す部分だから解剖ができない。
 身体は、モノとして存在しているが、単なるモノではなく、動的な平衡状態を保って存在するシステムだろう。これも、身体はモノのように見えるが、実は「機能」にあたるものなのだ。だから、「私のクローン」は「私」になり得ない。「私」とは、多くの場合「機能」を指すのだろう。

 言葉を使うと、静的?なモノと動的均衡状態を持つモノ、それに、機能を表す語も全てが同じく「言葉」で表現されるから、同じ「モノ」だと思うけど、実際は違うと言うことだろうか。

生徒指導というコミュニケーション

2009年01月16日 | 教育
 ときどき通学途上で話をする生徒がいるけど、初めて会話したのは、その子が構内では使用・所持禁止のケータイを身に付けているのを私が見付けたときだ。(私はケータイ釣りがかなり得意なのです。)でも、その後もときどき見かけると話をする。私の顔を見て、「ああ、今日は悪い日だ」と実にかわいらしいことを言う。で、ぺちゃくちゃ話をする。自分は真面目で、勉強も頑張っていることことをアピールする。なかなか健康的な子である。

成果と承認と個性

2009年01月13日 | 教育
 結果を求めたり、それこそ成果主義という考え方は、要は、承認欲求を強く満たすためのものだと思った。
 考えてみれば、当たり前だ。
 それで、承認欲求は、「私を見て」、「私を認めて」と、他人の中にあったとしても自分が他の違うことを認めて貰おうとしたり、あるいは、他人の存在を全く意に介さずに自分の存在を認めて貰おうとしたり、まあ、とにかく、どっちでもいいのだけれど、「承認」は「個性」と深く結びつく。自分が「その他大勢」に振り分けられることが「否」とされるわけだから。

 学校という場所は、たいていの場合、生徒は「その他大勢」に入れられる。でないと、集団で動けない。でも、今の子は、「その他大勢」扱いされることは「自分がない」に等しいと思わせられることになるから、イヤなんだろうなぁ、と思う。そのくせ、「自分たち」という枠組みの中では「みんなと一緒」という、枠組み以外にいる人からは「その他大勢」としか見えない存在であろうとするようだから、まあ、大変なことである。


文章は読むより書く方が面白い

2009年01月10日 | 教育
 特に教育に関するブログは、非常に多くの場合、人のを読むより自分で書いた方が断然面白い。だって、その方が興味深い話題が書かれているもの。(当然である。自分の興味のあることしか書かないのだから。)と言うわけで、自分の文章を読み返すのはけっこう好きである。内田先生じゃないけど、ああ面白いなぁ、みたいに自分で読んでしまう。(笑)でもときどき付け加えたくなったりして、書き足すことがある。まあ、あまり昔のは、共感しない(?)こともあるけど。今の方が思考が進んでいるのだと思う。

 ゴミばっかり。