考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / ただし、何らかの明確な「答え」を求める方や、管理人と異なる思考法をされる方には大いに不満が募ることと拝察します。そのような場合は、どうぞ、お立ち去りください。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / 文章に誤字脱字が非常に多く、読みにくいところが多々あります。言葉の使い方が下手なところもたくさんあります。つまり、「悪文」が混ざっているので、かなり高い読解力が必要かもしれません。言葉尻を捉えるのではなく、「主旨」を読み取ってください。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / コメントは、受け付けていない時期がありました。コメントをされる際には、管理人の基本的な考え方をご理解の上、お願いします。 / 管理人からコメントを遠慮してくださいと言われた方は、コメントをしないでください。また、当然のことですが、ハンドルネームは同じものを使ってください。他人と間違えられやすいハンドルネームは使わないでください。/なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

○○大学○○名合格

2012年06月01日 | 教育
 特に全国規模の塾や予備校のパンフレットを見ると、難関大学などの合格者が「○○名合格」と人数が出ている。
 でも、と思う。
 これって、「合格者数」ではなく、「受講者中の合格者の割合」で表したら、どうなるのだろう?
 ほとんど宣伝には使えないだろうな、と思う。
 違うかな?
 塾などの私企業は、100人集まって、そのうちの2,3人がかなり良いところに合格したら、それでけっこう「元が取れる」レベルになるのだろうか、と思ったりするが、真実はいかほどのものなのだろうか?
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勉強は塾でするもの?

2012年06月01日 | 教育
 テレビのさまざまな番組で「高校受験で勉強をしなければならないから塾に行く」といった言説が当たり前のように語られるのをかなり頻繁に耳にする。言っている中学生と思われる出演者も聞いているタレントだったり司会者だったりする人も違和感なく対話し番組が進む。
 私は、受験だからと言って「塾で勉強」という思考法や生活に俄然引っかかりを感じるが、番組司会者がそんな番組の本質と関係ないことは何も問題にせず、お客さんの言うことは何でも「はいはい」と言う店員のようだ。
 こういう番組の放映は、(たぶん)ほとんど全国規模で「中学生は高校受験のために塾に行って勉強をするのが常識である」と触れ回っているのと同じだろう。

 「上手に塾を利用する」という言い方が聞かれることがあるが、学校の勉強は大なり小なり、学校で教えてもらっていることである。それが「塾」に頼らなければならないというのは、学校か、生徒かのどちらかが、あるいは双方に何らかの問題があるとみる方が良いというものだ。
 ところが、こうした考えを聞かない。
 まあ、中学の教科書を見ると、あんな絵本のようなので一体何が勉強できるのだ、と訝しく思われるし、実際、そうなのだろう。とてもわかりにくい。確かに、塾に行ってもっと違う方法で勉強を教わるのも悪くないかもしれないと、さすがの(塾などを嫌っている)私も思う。
 ところが、学校の方は、なかなかなのか、少しもなのか、よくわからないが、変わらない。まあ、文科省の問題があると思うが、学校の先生は生徒ではなく、指導要領を見ていると言うことなのだろうか。(私も教員だけどさ。)

 とても不思議なことである。
 ただ、塾があると良いのは、大卒者の受け入れ先になっていると言うことである。もし、今、塾や現役生対象の予備校、模試業者、通信添削が機能しなくなったら、日本は失業者があふれるだろう。それは、学習指導関係者だけでなく、宅配業者や紙の卸?、さらには製本業者にまで影響は及ぶだろう。これは間違いない。
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無から有

2012年05月26日 | 教育
 本当の意味での「無から有」でないのだけれど、凡人がそういうことをやろうとするのは、なかなか困難である。
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「聞こえませんでした。」

2012年05月14日 | 教育
 校内外を歩いていて、気になる生徒を見かけて声を掛けると、直ぐに止まる生徒とそのまま行きすぎる生徒がいる。名前を呼べばたいていは振り返って止まるが(それでも止まらない生徒がいないと言わない。)、そうでなければ知らん顔をしてそのまま行き過ぎる生徒がいる。それでも(追いかけるときもあるが)呼び止め、止まらなかった理由を聞くと、非常に多くの場合、「聞こえませんでした。」と答える。(「自分のことだとは思いませんでした。」と言う生徒は希。)

 この「聞き終えませんでした。」の理由には、2通りがある。本当に聞こえなかった場合と、聞こえなかったことを理由に逃げようとする場合である。
 しかし、こちらはかなり大きな声を出しているので、聞こえないはずがない。周りの生徒が振り返ることもある。もし聞こえていないとしたら、医療の対象になるだろうし、そのような生徒なら私は把握している。
 該当する生徒に逃げようとしたのだろう、と聞くと、そうだ、と言う生徒もいれば、それでも、逃げようとしたのではない、聞こえなかった、と言い張る生徒がいる。徹底的に指導から逃げようとするのである。
 イヤミに、今のが聞こえなかったら医者に行くべきだと言ったこともある。
 が、通常の聴力で「聞こえませんでした。」が事実としたら、聞こえない方が悪い。

 そう、聞こえない方が、聞こえて逃げるよりも実のところ遥かに悪い。

 球技の試合中、飛んでくるボールに気がつかずアタマにでも当たったとしたら、ボールが悪いのか、それとも、飛んでくるボールに気がつかなかった自分が悪いのか、どちらだろうか?
 言うまでもなく、気がつかなかった自分が悪いのである。そんなメンバーばかりのチームは必ず負けるだろう。
 「聞こえなかったのだから、仕方がないだろう。」と言い訳をする生徒は、負けるチームのメンバーである。

 私が聞こえて逃げるよりも聞こえない方が悪い、と言う理由がこれだ。
 球技の初心者は、自分の方向に飛んでくるボールに気がつかないことがあるだろうが、練習を通して自分を感覚を磨くことで、飛んでくるボールに気がつくようになる。「聞こえませんでした。」と言いきる生徒は、鈍感な初心者のまま居続けようとしているわけだから、それで良いはずがない。
 
 スポーツも勉強も、日常生活も同じである。似た概念の違いに気がつかなかったら、落ちているゴミに気がつかなかったら、学力も付かないだろうし、商店を管理する立場なら顧客を失うことになるだろう。
 内田先生に言わせると、「かくれんぼ」や「ハンカチ落とし」の「気配」を感じるどころではない。呼ばれていることにすら気がつかないようではどんな直感も身に付くまい。生き抜く力になるまい。

 自分で「聞こえなかった」ふりをする生徒は、自分の感覚を鈍磨させることにして逃げて逃げて逃げまくろうとしているのだろう。また、先生を前にした場合、自分が指導を受ける立場であるという自覚が全くないわけでもある。これで勉強だって、スポーツだって、できるようになるわけがない。

 というわけで、生徒にしてみれば、実に、イヤな叱られ方だと思う。
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日本の教育「レミング」論

2012年05月08日 | 教育
 今の教育は、生徒が集合的な意味合いで今後の社会の担い手であることを考えていないように思う。考えているのは、一人一人がどうであるかだけだ。教育は受けた個人の利に処することが当たり前の世の中になっているということだろう。だから、受験をする小学生にも難しそうな試験問題にはチャレンジせずに、点を落とさないための訓練をさせてしまう。その方が、その子供が「受かる」確率が高くなるからだ。「一人の個人が、同年齢集団においていかに有利になるか」と言う計算ばかり働いていて、その年齢集団のポテンシャルをいかに高めるかを全く考えていない。集団全体のポテンシャルを高めたかったら、どんどんチャレンジする生徒が大勢いる方が断然伸びる。しかし、教育が「個人の利益」のためとしか考えない人が圧倒的多数を占める集団は、全体のポテンシャルを落とし、いずれ滅びるだろう。
 みんな、決して頑張っていないのではない。みんな、子供も大人も、皆が皆、一生懸命に頑張っている。しかし、その結果が滅びへの道まっしぐらと気がつく人はいないような気がしている。

 「見回せば誰だって一生懸命にやっているんだよ。そのどこがどうしていけないと言うの?」
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どうでもいいけど、「理想の教師像」記事の人気

2012年05月06日 | 教育
 春になると「理想の教師像」の記事がよく検索されるようだ。
 たぶん、採用試験対策じゃないのかな、と思ったりする。
 でも、私の記事、役に立たないよね。肝心なこと、書いてない。
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本質を教える

2012年05月05日 | 教育
 この頃(でもないけど)思うのは、英語は英語圏の人なら、どんなにアタマの悪い人も英語をしゃべり、そこそこの教育を受ければ書くこともする。人間は母語を獲得する能力は持つらしいが、それぞれの「言語」が独自に持つ「原理」は、けっこう、単純ではないのだろうか、と思うのだ。当てずっぽうである。正しいかどうかわからないが、英語の習得が難しいのは、我々が英語という言語が持つ「原理的な本質」をつかんでいないからではないか、と疑うのだ。

 あの分厚い文法書は何とかならないものか。
 英語の文法はもっともっと単純ではないだろうか。
 文法書には、「語彙・語法」と言った、必ずしも「文法」ではないものが紛れ込んでいる。語彙・語法は文法そのものではないだろう。もっと文法に特化すれば、コトは単純になるのではないか。

 難解な文や文章が「わからない」のは、たいてい、中学英語で学ぶ本質的な文法事項で躓いているからである。意外だろうが語彙の問題ではない。非常の多くの人は、「語彙が難しいからわからない」と考えるようである。「英語が出来ないのは単語を知らないからだ、単語さえ覚えれば英語はわかるようになる」という考えは陥穽である。辞書を引いて、単語の意味調べをしてもわからない人はわからない。自分の英語の間違いに全く気が付かないのも同根である。

 私は偏差値30の生徒であっても80の生徒であっても、同じ教え方で良いと考えているが、その理由が上記である。
 覚えるべき事項はそれなりにあるから、記憶力の優れない生徒はなかなか出来るようにならない。多少抽象的だから、英語の勉強で「りんご=apple」という覚え方に固執する生徒は決してできるようにならない。しかし、最初の「壁」を乗り越えて「思考法」としていったん身に付ければ、必ず読めるようになる。書けるようにもなる(というか、あまりに変な英語を書かずに済む、というか、自分である程度の間違いが間違いだとわかるようになる)のである。逆に、中学英語を「けっ、そんな易しい英語、わかるさ」とバカにする生徒、単語の日本語訳だけ知っていれば良いと考える生徒は、絶対に出来るようにならない。しかし、非常に残念なことに、私の言うことを聞かずに自分の思いこみに固執する生徒が多いのが、如何ともしがたい現状である。
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「勉強」とアルキメデスが死んだワケ

2012年05月03日 | 教育
 授業をしていて感じていたのは、私が生徒に教えていることは、ヒトが生きていくのにホントに役に立たないことだということだ。英語であっても、数学でも国語でも、みんな同じだと思う。
 「勉強は将来の役に立つから、必要だから、やる。あるいは、やらせる」「やっぱり学歴」など、学校の勉強に「意義」を見いだす考え方は多々ある。しかし、これらはすべて二義的なものであろう。一義的には決してそうではないとずっと感じていたその理由がわかった。

 「日本の文脈」で中沢新一が子供時代を思い出してアルキメデスが殺された理由を言っていたことだ。アルキメデスは、地面に向かって幾何学の証明に没頭していたとき、シラクサに攻め込んできた兵士に気づかず、兵士に向かって「もう少しで証明ができる。影が邪魔だからどいてくれ」と言ったものだから、そのままブスッと殺された。アルキメデスの場合、知性が現実世界での合理性や効率性を考えてなかったからやられてしまったのである。
 多くの生徒は、数学の証明で「兵士」の存在に気がつかない、と言うことはない。数学でそこまで徹底して内観しないものだ。しかし、夢中になって本を読んでいたらいつの間にか数時間経っていた、などの経験を持つ方は多いだろうし、道路でメールに夢中になって事故に遭うなんてことが起こるのも同じ理由である。人間は、けっこう、内観したがる性質を持ち、かつ、自分の内観に没頭すると外界に対し非常に鈍感になるもののようだ。
 上記の本にもあったが、内観は危ない行為である。修行僧が危険な場所で精神探求する修行に励むのは、私の目には明らかに二律背反に映る。上記のメールと交通事故も、多少高級に「本を読みたいが、読むとなると睡眠不足になる」も同じである。「内観する人間」としての勉強と、「ヒト」として生きる実生活との折り合いは時に難しいものである。

 勉強を教えていると、私は、生徒に斯くも危険きわまりない「内観に没頭せよ」と指令を絶えず出しているような気がするのである。
 勉強は、基本的に、中沢氏が言っているように「自分の脳の中に独自の世界を広げ」るものである。ゆえに、自分の脳の中の世界を作り上げることができない生徒は決して勉強ができるようにならない。夢中になって本の世界に没頭するのも、本に描かれた世界を自分の脳に再現しているのである。数学にしろ国語にしろ、要は、自分の中にその世界を作り上げることが出来るかどうかが出来るか否かの岐路になる。勉強は丸暗記だけでできるようにならない理由がこれである。「こうした世界を作り上げろ」という課題は、同時に「殺されたアルキメデスのようになれ」と言っているに等しい。
 もちろん、「今は勉強だから内観、2時間経ったら外界に対して感覚を研ぎ澄ます」で良い。しかし、内観するという経験をいかにして持たせるかが、教師の課題だろう。この世界を作り上げる生徒は、だんぜん「出来」がよくなる。ゲームであってもクイズ選手権であっても、強いのは超進学校の生徒だったりすることはよくある話だ。

 この点、今の教育は、二義的な観点ばかりが強調される。放っておくと対象は何であれ内観したがる人間に対して、二義的な観点とは、「内観とは関係がない、『ヒト』として生きるために勉強しよう」である。
 本来的には本末転倒である。人間は誰しも内観したがるものなのである。ちょっと一ひねりすれば、アタマの善し悪しに関わらず「知的好奇心」という名の内観する心を持ち合わせている。(くどいけど)所詮は絵空事でしかない「ゲーム」を楽しむのも同じ能力ゆえである。そうした人間本来が持つ能力を無視するがごとく、二義的な「ああすればこうなる」的な「アルキメデスのように殺されなくて済ます方法」(←これは「たとえ」。)ばかり強調されても、子供は人間として本来持つ内観の能力---知的好奇心も含めて---を発達させることは出来なくなるだろう。この意味で、今の日本の教育は、内観したがる知的存在としての人間が本来持つ能力をひたすら抑制するかのごとく行っているのである。子供の学力はどんどん下がって当然である。と言っても、わかってくれる教育関係者はどれだけいるだろうか?(くどいけど、私がここに書いたことって、偏差値55ではわからない理路だろうと思うよ。)
 唯一、二義的な要素が重視される利点は、「ヒト」として生きるとき、矛盾した悩みを持たずに済むと言うことである。しかし、アルキメデスのような知的存在としての「人間」であり限り、兵士に殺されずに(←たとえです)イキモノとしてヒトとして生きるというのは、「生まれながら知的能力を持つ人間」として、かつ、本来的に二律背反的な存在である人間として、私なんぞは、「そりゃ、ちょっと違うだろ」と、ついつい思えてしまうのである。
 ほりがブログにせっせと駄文を連ねるのも、授業で参考書に書いてないことを話すのも(この頃は、「今はまだ書かれていないけれど、おそらく10年後には、どの参考書にも書かれているはずだ」と豪語して話している。)、この「内観」が関わっている。ほりが「人間に生まれて良かった、今の日本に生まれ、教育を受けさせてもらえて良かった」と思う理由も、ここにある。

 というわけで、ほりは、勉強をする際に「内観する」という知性の働かせ方をほとんど知らずに高校生になった生徒に、せっせとその必要性と具体的な方法を説くのである。
 しかしねぇ、消耗するよ。
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能力そのものを高める勉強をさせようよ

2012年04月30日 | 教育
 つくづく思うだが、イマドキの子供の勉強方法は、自分の能力を高めることを考えてないのではないか。
 元凶は、「効率よく」「無駄のないように」「ラクに」「労力がかからないように」(←ほとんど同語反復)という今風の思考法である。もっとも、能力を高めるための本物の「効率の良さ」はある。しかし、一般に言われる「効率の良さ」は能力を高めないことが問題だと思うのだ。

 たとえば、学習に付きものの覚える能力、記憶力について考えよう。
 たぶん、記憶力を高めるにはどんどん覚えていくことが大事だ。体力を付けるためには体力を使わなければならないのと同じではないか。ロンドンのタクシー運転手の海馬は年を取った人の方が大きいそうである。道を覚える経験の蓄積ゆえである。
 学校の勉強では、学習事項に関して、試験に必ず出題される「今すぐに覚えるべき知識」と「今は必要ないかもしれないがいずれ必要とされるかもしれないし、必要でないかもしれない知識」の両方がある。一般的な「効率の良さ」では、まず、試験に出ることを覚える。「頻出単語・構文」というのが典型である。しかし、記憶力そのものを高めたかったら、両者を全く区別せずに覚える良い。必然的に「量」が増える。が、負荷を掛けることで脳みそは自己の能力を高める。今あるリソースで当座を乗り切るよりもリソースそのものを増やす方策をとる。

 で、たぶん、こんなことを言うと、「せっかく覚えても成果につながらなかったらやる気が削がれる。」「あまりに量が多いとやりきれない。やる気がなくなる。自信喪失につながる。だから無理をさせるべきではない。」「人は、自分の興味のないことを覚えるのは困難である。興味のあることだと覚える。」「必要を感じないことに覚えられないから必要性を感じさせることが大事だ。」と、良識ある人から言われそうである。上記のロンドンの運転手については、「仕事上の必然でできたことだ。無目的には出来ない。」と反論されるだろう。
 しかし、論点は「自分の記憶する能力を高めるにはどうしたら良いか」である。(記憶力は、「例」ね。)この観点で言うと、興味関心や必要性、やる気などは、記憶力そのものの増強とは実質的に何も関係がない、外部的な要因である。確かに人間は、自分が置かれた立場や状況によって行動も思考も変えるから、外部要因で能力を伸ばしたり、あるいは、逆に伸びなかったりする現実があり、上記の反論はこれに基づいているわけである。。
 力説したいが、こうした一般論の根拠は概念的に別種のものである。ここで勘違いをすると間違える。
 つまり、イマドキの教育方針の基底にある考え方は、子供をストレートに、つまり、子供の記憶力(あくまでも「具体例」です。)の伸長を直接的に指導する方策を探ることよりむしろ、子供が置かれている状況を操作、あるいは、管理することによって間接的に子供の記憶力を高めようしているということになる。「競争をさせれば伸びる」「結果に見合った報酬を与えれば伸びる」も同根である。
 もっと具体的に言おう。
 「子供の記憶力を高める」ためには、まず、子供を学習に向かわせなければならない。そのためには、子供が取っつきやすいように、興味関心を促すべく楽しそうで、負担を軽くしてやろう。きっと、子供は学習に喜びを見いだし、学習に向かうはずだ。また、子供に「必要性」を感じさせることも有効だ。将来設計をさせて大人になって必要になることを理解させれば、子供は勉強をするようになるだろう。目標を明確にし、やればやっただけの成果が出るような結果を与えることが重要だ。そうすれば、子供はきっと学習に興味を持ち学習に励み、結果的に、自己の能力を高めるだろう。
 たぶん、このように考えて行っているのが今の教育なのだ。

 ところが、実際には功を奏してない。(これは、論を俟たない。)
 
 私が思うのは、こうした間接的な方策ではなく、もっと直に子供の能力を高める方策を子供に教えてやる方がずっと効果的ではないかということだ。有意義な研究も、大いに余地があるのではないか。
 
 上記の記憶力であるならば、たとえば、イマジネーション、想像力を高める方法を子供たちに教えてやるのである。(イマジネーションに関して言えば、学問のあらゆるものに当てはまるが。)英語の単語なら、小テストや問題を次から次へと与えて勉強をさせる方法を取らせるのではなく(こうした指導をタマに行うのは非常に効果的である。)、語源から語感から何から何まで連関させ、カラダ全体を使って覚える方法を教えるのである。これだけで子供の記憶力は必ず伸びる。ところが実態は、子供は小さいときから、こうして覚える方法を体験してきていないように思われることだ。子供たちは正しい覚え方を知らないから覚えられない。覚えるための経験は、機械的な繰り返し学習の成果で「何となくアタマに残ったこと」を「覚えた」とするものだ。それが勉強だと思い込んでいる。これは、非常に受動的な態度で行う学習だろう。私は、もっと能動的に自らが対象に向かっていく具体的な方法を行えば記憶は確実になり、しかも、応用力に至る効果的な学習になると思うし、事実そうである。しかし、これが出来ていないから、自らの記憶力を高めることが不可能なのだ。また、いったん身に付いた悪い習慣はなかなか捨てられない。高校に入って伸びるのは、小中学校で身につけた悪習を早く捨てることができる生徒である。

 たまたま記憶力について例を挙げた。しかし、読解力でも計算力でも、実質的には何かしら根本的な能力増強法があるだろう。そうした能力の伸長に直結した研究というか、学習法の研究そのものは学校ではおそらくほとんど語られていないだろう。学習とは全く次元を異にする方策で生徒を伸ばそうとしても、思う成果が上がらなくて当然だろう。
 こうした能力増強については、「自分でやっていくうちに身につけるものであって人から教えてもらうものではない」と言われることがある。しかし、単語を覚える方法にせよ文章読解の方法にせよ、実際、言語化し、伝えることができるものである。(英語の参考書の進化から、言語化の実現可能性がよくわかる。)こうした「本質」に関わる事項を的確に指導するか否かで大きな違いが生じる。
 「量」の違いは誰にでもわかるが、こうした「質」の違いはわかりにくいものだ。こうした「わかりにくさ」の一つは「言語化(意識化)しにくい」という特性だろう。この点、言語化や意識化をさせる指導がもっと重要視されて良いと思う。何であれ、「自分で気がつく」という意識化が重要なのだ。「一流」と言われる人が一流たり得ているのは生まれ持った卓越した能力の他に、こうした能力を獲得してのことだろう。だったら、その真似をすれば良い。

 生徒には、意識化の重要性を知らしめ、かつ、意識化させることが「教える」ということにしたらどうだろうか。「意識化するための方法」を教えてやれば良いということである。意識化できない生徒は勉強が苦手である。無意識のままで出来る生徒は天才である。しかし、天才はほとんどいない。多くの生徒は秀才か凡才かだからの話である。だからこそ、教えてやるのである。(念のため書くが、ここで言う「意識化」は、「将来のために必要なことを意識させる」などの学習そのものとは異なる意識化では全くない。)授業は、「いかに意識化する能力を得るか」の伝授と訓練の場であろう。授業の多くは知識や方法の伝授であるが、重要なのは、結果的に得られる知識や方法そのものの伝授だけではなく、同じ知識や方法であっても、上記の意味での意識の持ち方から教える場としたら良いのではないか、ということだ。そのための具体策を研究することが我々の仕事ではないかと思うのだが、いかがだろう。それが、生徒の能力の芽を慈しみ、より高い能力に育んでいくことになるのではないだろうか。
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答案の見直し

2012年04月21日 | 教育
 模擬試験の受験後は、返却された答案の見直しをさせることが多い。学習効果が高いと見なされているからだ。しかし、私は、一般論としてその学習効果を懐疑的に見る。
 偏差値50の生徒の出来は、平均点の30点台後半である。標準偏差が17とすると、偏差値60で50点台半ば、70でやっと70点台である。かなり出来る生徒であっても出題の3割はできなかったということだ。非常に多くの生徒が偏差値50台だとすると、自分が出来なかった問題は6割に及ぶ。模試は受験者を段階的に振り分けるのが目的だから、問題はそれなりに難しい。意外に意地悪な出題もある。(だって、出来る生徒はふつーの問題だとできちゃうもの。)この難しさは、謂わば、「基本のかけ算」的な出題である。「ひねる」までは行かなくても、ちょっと思考力を要するわけだ。しかし、ふつーの生徒が点が取れない理由は、「かけ算」の元になる基本的な事項を習得していないからである。ここが要である。
 模試問題で70点を取るというのは、易しい基本問題のほとんどを習得し、しかも十二分に習得が出来ているからこそ「基本のかけ算」に気がつき、ゆえに、「出来る」わけだが、一方、50台の生徒は、その基本があやふやだから「かけ算」まで至るわけがない。逆に、「かけ算」が「基本」を見えにくくする障壁になる、と私は考える。障壁だらけの中に彼らを放り込んで学習させるのは困難でないか。模試のやり直しが功を奏するのは、偏差値60台半ば以上であろう。そのレベルの生徒なら、解説を読んでも理解出来るだろう。量的にも出来なかったのは残りの3割、4割の問題だけである。しかし、50台の生徒が6割もの問題を復習するなんて、量的にも質的にも無理があるのではないか。それくらいなら、授業の予復習の方が、私はよほど価値があると思うのだ。(自分で模試の復習が出来るレベルなら、すでに、60台になっているだろうとも言えるが。)彼らの多くは、よくわからないまま、間違えたところに正解の朱を入れて終わる。「鉛筆で書いた答案の「間違い」や空欄に、赤で訂正を入れて埋める」ことが彼らの勉強になるのである。それくらいなら、もっと授業に精を出させる方がよほどマシだと思う。彼らの出来が悪いのは、授業の受け方や日頃の学習の方法に問題があるからだという根本的な要因に目を向けるのが真っ当でないかと思うのだ。でなければ、試験を受けた後でないと勉強できない生徒になる。勉強は「後追い」ではない。

 模試の解答解説を教師が行うという方法もあるが、私は嫌いだ。勉強は模試のためではない。「授業で使う問題集だって、元々はそうだ。」と言われるだろうが、模試は生々しすぎる。「だから効果的だ」とおっしゃるかもしれないが、模試の復習はやはり「後追い」の勉強である。その点、授業は「先駆け」である。
 生徒には「後遠い」ではなく、「先駆け」をさせたいものだ。「先駆け」が出来ている生徒は、復習させれば良い。しかし、そうでない生徒にはあくまでも「先駆け」の勉強をさせたい。「先駆け」とは、「学習する上で必ず重要なこと」の学習である。それで、試験とは、いかなる問題であろうと、必ず、そこから出題されるものなのだ。だから、「今回の試験で出る」とか「出た」とは関係なく学習しなければならないもので、「先駆け」になるのだ。授業で問題集をやるとしても、問題だけやるようなことはしないだろう。「全部やる」のである。だから、「先駆け」になる。
 子供たちの人生はこれからだ。子供たちは未来に備えて勉強をする。だから、私は勉強も、「後追い」ではなく、どこをどこからどう見ても「先駆け」を心がけさせたいのである。
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