考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

机の上は片付けろ--viewと格差

2011年11月30日 | 教育
 viewという単語を生徒はたいてい「景色」「眺め」と覚える。似た意味の語にsceneがあるが、sceneは、「景色」以外に芝居で使われるような「場面」という意味がある。生徒は英訳をする際、「景色」という語に出くわすとviewとsceneをよくごっちゃにする。私は、viewは、山のてっぺんに立ってぐるりと見回して見える景色のイメージだと勝手に説明している。つまり、同じ「景色」であっても、viewは「全体を見渡す景色」を指すことにより「視野」、更には「見解」など抽象的な意味までもが出てくるのだ、と付け加えて。sceneは「切り取った場面」のイメージだから(←たぶん)viewにある深い意味がない。
 こうしたviewの多義性から考察すると、「見解」「考え」を持つには山のてっぺんから辺りを見回すような空間が必要だということにはならないだろうか。

 生徒が教室以外の場所で勉強をしてする際、ややもすると机の上に大きなカバンを置き、その陰で問題集を広げてこそこそ勉強をしている光景(これ、sceneね)に出くわす。授業中は、英語の教科書の下た横に、前の授業で使った教科書やノートはそのまま置かれていたりすることがある。
 おいおい、君たち、机の上や周りは片付けて、大きな荷物は脇に置いて勉強をしなさい。自分の前にはもっと広々とした空間を作りなさい。でないと、勉強は出来るようにならないよ。
 生徒によって、うるせぇなぁ、という顔をするものがいる。
 ごちゃごちゃした机の方が能率よく仕事が出来る、と言う人もいる。
 こうした環境整備を「人それぞれ」で片付けられることが多くあるように思うが、私は強烈に違和感を感じる。

 まあ、トシいった大人はともかく、それでも、やはり、「勉強が出来る」「仕事が出来る」は、机の周りがすっきりしているものじゃないか。「習慣」によるものだろうが、さかのぼれば子供の時にどのように教えられたかが関わるのではないか。

 子供は何かに夢中になると、他のものは目に入らなくなるから、ごちゃごちゃした中でも真剣にものごとを行うかもしれない。しかし、多少のわきまえのある大人ならば、そんな子供に「片付けろ」と言うものではないか。
 そう、言いたかったのは、文化資本に関わる「格差」は、何も、すべてが金銭に関わることばかりではなく、こうした「躾」になるようなことに起因するだろうということだ。今でも、おそらく成績上位者になる子供は、小さいときからあれこれ細かい躾をうけ、それが習慣となって、「私の場合は机を片付けた方が勉強しやすいの」と言う子に育っているだろう。
 高校生になって、机の上がごちゃごちゃした環境でも気にならない、というのは、その段階ですでにビハインドを負っている。試験前には必ず掃除をしてから勉強をしていた、と言う人は多いだろう。片付けをしない、掃除ができない、というのは、そこですでに遅れているのである。繰り返しになるが、これは、今どきしばしば言われる「人の好み」「人それぞれ」ではない。
 「環境の整備」は「脳の中の整理」に通じるのだ。だからこそ、viewは、viewpoitという語に通じるようになったのだ。広々としたviewでなければ、ヒトは考えることができないのではないか。狭く切り取られたsceneで思考は育まれまい。

 「人それぞれ」に関しては、鉛筆の持ち方もしかりと思う。
 学力の差と鉛筆の持ち方には、私は相関があると思っている。学力が高い生徒は、きちんとした鉛筆の持ち方をするだろう。小さい頃に、教え込まされたと思う。「殴り書き」なら、どんな持ち方でも構わない。しかし、「撥ね」「止め」などの微妙な力加減ができる持ち方は限られているだろう。そうした微細な「運動」が脳みそを刺激し、「線の微妙な違い」を感じ取る能力の違いに繋がり、学習の基盤を作るだろう。
 今の子供たちの学力が低いのは、机の上の片付けでも鉛筆の持ち方でも、かつては強制的に教え込まれてきた「学習の基本の基本」になることがおろそかにされているからだと私は思っている。これらは、決して「人それぞれ」の好みで決まることではない。

この頃の辞書は親切すぎないか

2011年11月27日 | 教育
 近頃の辞書は「学習辞典」のようである。例文にしても、いかにもどこかの問題集に載っていそうなものが多い。生徒用だから、辞書の例文や用例に小難しい単語が使われていると、まあ、それはそれで使いにくいから、見方によってはありがたかろうというものだが、でも、何か、ちょっと違うのではないかと思ってしまう。
 私は、勉強というのは、「ナマモノ」に触れ、ナマモノの触れ方を得ることだと思う。理科や社会は、ナマモノに触れやすい。直に観察すれば良いわけだ。数学も、「数」は、それそのもがきわめて抽象化されたものではあるものの、「抽象というナマモノ」である。国語も何であれ、そうであろう。が、この頃の英語や国語はちょいとばかり偽物くさいニオイがする。
 日本語を使っているからといって、英語を使っているからと言って、学習すべき国語とか英語であるとは限らないだろうと思うのだ。未熟な者が学ぶべきものと、すでにそれなりに獲得したものを持つものが触れるものとは異なると思うのだ。でなければナマモノの触れ方が学べなかろう。多く学ばなければならない者が触れるべきものは、そのあたりに転がっているものではなく、古今東西に渡って「これぞ日本語だ」とか「英語だ」と自信を持って言い切れるものでなければならないだろう。すぐに賞味期限が来てしまうものであってはならないと思うのだ。学んだからには、一生涯に渡る「拠り所」たるべきものこそが、未熟なものたちが学ぶべきものだろう。それで、その拠り所は、時の試練を経たナマモノであるべきではないか。それは、辞書を含めて、全ての教材について当てはまるのではないか。
 それらは、未熟なものにとっては「何だかよくわからない」ものだろう。でも、それで、良いのではないか。だから学ぶに値するのではないか。「何だかよくわからない」からこそ、学ぶ動機になると思うのだ。
 「いや、今は違う。時代が違う」とおっしゃるかもしれない。「時代の流れに即した教育を」とおっしゃるかもしれない。ならば、だからこそ、子供たちの学力は落ちているのではないか。
 ちょっと賢い小学生でも読めるような高校生以上の辞書は、高校生レベルの知性を信用していないだろう。知への欲求を損なうのではないか。「知」とは、「何だかよくわからない高みへの憧れ」である。ならば、すいすいわかった気分にさせる辞書は、外界を自己の内に取り込むには便利だが、未知への欲求のように、自らが外に向かう態度を育成するのとは逆方向を向いているような気がする。辞書は「道具」であって、道具ではないと思うのだ。

予防的指導と事後指導

2011年11月22日 | 教育
 「指導」が良い方向に向かわせるためにするものだ、ということに同意しない人はいないだろう。学校においては、学習指導と生徒指導があるが、いずれにせよ、学習指導なら正しく理解させる指導、生活指導なら悪い方向に逸れさせず健やかに成長させる指導、同様に、学習・生活それぞれに、答えを間違えた場合の指導、悪いことをした際の事後的指導がある。
 テスト直しや悪さをした生徒を叱るのは事後指導である。事後指導の特徴は、明確な理由があることだ。試験ならはっきりと×が付いて返ってくる。解説を聞いて赤ペンで直す。生活指導で叱られる方も、なぜ自分が叱られるのかがわかる。両者とも効果のほどはともかく、明らかに「指導」として労力を払って行われるものだ。
 予習をしない生徒を叱る指導、遅刻する生徒を指導するのは事後指導でありながら予防的指導になる。遅刻は、それだけで大罪だととらえる人も多いだろう。生徒指導の見地からは、遅刻以上の困ったことを生じさせない予防的な指導であるとも見なされる。「生徒に制服を着せる」のも予防的指導である。「制服」はときとして「個人の好み」や身体的な快不快を問われるが、決してそれだけでない。(学習指導については、私はきちんと文字を書くなどの、実にたわいもないことだと思っている。)
 こうした予防的な指導は、当たり前すぎて指導と言えないほどに目立たない。また、「悪いこと」との直接的な関連がなかったり、明らかな学力向上につながるわけでないから、指導されている方は「よくわからない」。こうした予防的指導にはおそらく共通して「やっている方もされている方も理由がよくわからない」ことである。指導する方としては、「そんなのは当たり前だろう」とか「自分がそうだった」など、どうも、曖昧である。
 実は数多く存在するこうした指導は、なぜそうなのかの説明のしようがないことが多い。実に説得力がないのである。よって、「なんとなくそんな気がする」というように、「そうだ」と感じ取る人には信憑性があるが、「説明できないことは納得できない」と思っている人には全く通じないのも大きな特徴だろう。

 今の教育の問題の大部分は、こうした「予防的な指導」が、「説明できない」「万人を納得できない」と言う理由で、ないがしろにされていることではないかと思う。(家庭でも学校でも当てはまろうが。)
 更に言うと、事後的な指導は因果が明解な分、指導者もはっきりする。(予防的な指導は、指導者が誰だったのかはっきりしない。)だから、「個」が重視される価値観において同意を得られやすい指導である。

 ところで、私は試験の後の事後指導が嫌いである。「テスト直し」はまともにさせたことがない。
 理由がわかった。
 「テスト直し」が取り繕うような勉強に思われるからである。たまたまテストに出た問題だけが出来るようになっただけでどうする気だ? と思っているわけだ。テストで60点の生徒は、出来ないのは、その40点分だけであるわけがない。もっともっと、わかっていない出来ないことがたくさんある。だったら、それらを全部やれ。テスト問題は、あくまでも「上澄み」である。「上澄み」を掬って勉強にすには、最低85点程度は必要だろう。
 3年生には「赤本をやれ」と言っている。「そこそこわかっている」のが前提だからかもしれない。

なんて良い子たちなのだろう

2011年11月21日 | 教育
 ある生徒が、ちょっとした役割を果たさずヘマをした。すると、嘲るような笑い声が上がった。お笑い芸人がヘマをして笑いが起こる感じにもちょっと似ているが、とてもイヤな感じだった。無性にハラが立ったからど叱った。
 ま、ことの子細は述べないが、その生徒のヘマは、だれもフォローをしなかったから生じたものでもあった。だから、自分のことを棚に上げて、しくじったヤツを嗤うのはフェアでないのだ。部活や行事だけが協力する場ではない、もっと日常で互いに協力し合え、と怒鳴ったら、うんうん、と何人もが頷いて聞いていた。うなだれている生徒もいた。
 ああ、良い子たちなんだよね。そんな説教もちゃんと聞くのだから。
 能力ってのは、「累進課税」なんだよ。良い共同体を作るんだよ。(と、ここまで言ってないけど。)

答えは与えなくて良い

2011年11月17日 | 教育
 生徒が答えや訳を欲しがる。欲しがるから与える。与えると、与えられるのが当たり前になって答えを欲しがる。
 私は、もっと、人間の能力を信じて良いと思う。答えなんかわからなくても、訳なんかわからなくても、考え方を教えてやれば、そのうち、答えも訳もわかってくるものだ。「正しく考える」というのは、そんなもので、自然の能力だと思う。
 勘違いをすると、間違った知識を覚えることになりかねない。これは、事実である。それでも、与えられるだけの知識が100あったとして、実際に使えるものがどれだけあるか。正しい知識の獲得方法を得ていれば、100以上、200でも300でも得ることが出来る。少々間違った知識があったとしても、100の正しい知識より得るものが多くあるのではないか。それに、第一、教えてもらった正しい100のすべてを習得できるだなんて、誰の経験に照らし合わせてもあり得ないじゃないか。多くの知識を得れば得るほど、自分の「間違い」の矛盾に気がつくものだ。間違いから学ぶことも多い。そんな力を、もっと信じる方が良い。目に見えるマイナスの存在はよくわかるが、目に見えないプラスはわからないものだ。
 人間には、自分でわかる能力が備わっていると思う。知識を得る方法、考える方法の基礎だけで、けっこう出来ることがあるのではないか。英語なら、辞書を引いて自分で考えれば良い。文構造と、ほかのほんのちょっとしたコツ(と言って、重要性が生徒はわからないから、なかなか覚えてくれない。)を教えてやれば、それだけで勝手に生徒は学んでいく。

うふ。

2011年11月14日 | 教育
 週末、あるところで、ある人を見かけた。あまりに至近距離だったので、ついつい、「○○さんですか」と聞いたら、「どちらかでお会いしましたか」と言われた。「テレビで見ました。」
 学校で、「○○さんて、知ってる?」と聞いたが、(案の定、)ほとんどみんな知らないから、ちょっとがっかりした。あー、もうちょっと、自慢したかったのにな。


英語の学習

2011年11月12日 | 教育
 英語の勉強は、「道具」的な語学としての側面と、文章読解そのものに関わる読解と、英語そのものについてや言語や文化、思考法などの多少抽象的なものを学ぶ側面がある。多くは、道具的な語学、語彙や表現を学んだり教えたりすることになる。文法やコロケーションなどもこれだろう。
 しかし、文章読解や他の抽象的な側面も、本来は道具としての英語に関わる。語源から学ぶ語彙や思考法から学ぶ文法がそれだろう。
 先日、ちょっとした研修会があった。多くが英語教員だったが、どうやら、私の授業スタイルというか、コンセプトは、他の先生とかなり異なるような気がした。そこに見えたたいていの先生方は、「道具」的な側面で、「表現」を教える傾向である。まあ、私も教えるのは教えるが、「今日の重要事項はこの表現、この単語」などは、決してやらない。もっと抽象的なことや、あまりにも「当たり前」すぎて生徒が嫌になるようなことをしつこく言い続ける。(だって、覚えてないんだもの。だから、応用力にならないんだもの。)
 「・・・・合わないよなぁ」と思ったひとときでした。

勉強が出来るようになるコツ

2011年11月11日 | 教育
 大ざっぱに言えば、自分がわかること、知っていること、出来ることと、そうでないことをきっちりしっかり区別できる力を持つことだ。今の子は、この力が弱い。「何となく」わかればわからないところや知らない者は無視する。無視して、無視するから、わかったことにできてしまう。それで、「とんでもない間違い」をする。(この先、さまざまな分野で事故品やミスがでるのではないか心配だ。それとも、じきにロボット君たちが活躍してくれるのかな。でも、そのロボットも不良ヒヒンだったら、どうするのかな?)

 私がいわゆる予習プリントを嫌うのは、こうした「自分を独力で知る力」を養わないことが多いからだ。その文章の重要事項などをあらかじめ指示すれば、その文章は読めるようになるだろう。しかし、自分の力で、どうやって食らいつくかという経験的な能力は養えない。
 「そのハードルは高い」と言う人も多い。「だから、補助を与えることは効率よく学習させるために必要だ」
 「補助」が何を意味するか。ならば、いつ、その補助を外してやるのか。
 文章読解でも作文でも、どんなに易しい文章であろうと難解であろうと、正しく読み書きする方法に実は変わりはない。常に、文章という文章で、訓練をする。でなければ、「自立した学習者」になることはできない。
 「自立した学習者」は、「自分で問いを発することが出来る人」だろう。問いのあれこれが記された予習プリントは、阻害するだけだと思っている。かつて私もプリントの類いはたくさん作ってきた。プリント作りは創造的な仕事で楽しいものである。しかし、その楽しみは、本来、生徒自身が味わうべきもので、先生が楽しむものではない。昔、教育実習生に「プリントを作ることが出来なければならない」と言ったことがある。(中には、作れない学生もいた。)自ら問う力がない学生は作れない。文章の読解に高校生も大学生も先生もない。「文章をどのようにまとめるか」は小学生であっても使用と思えば出来ることである。こうした訓練は早ければ早いほうが良い。ただそれだけの話だ。
 そのためには、まず、わかること、知っていること、出来ることの認識そのものをきっちりと持つことだ。これがないようでは、何をやってもちゃんとできるようにはならない。

問題集の解答解説

2011年11月10日 | 教育
 教材出版社が御用聞きに来る。問題集の売り込みで、非常に多くの場合、サブノートのような解説・補充問題集、詳しい解答解説をウリにする。すべて、私は不要と思うもの、あるいは、「邪魔」だと感じるものである。サブノートの類いには、ご丁寧な単語の日本語訳まで付いている。(おまけに価格をつり上げる要因になっている。ああ、もったいない。)こんな「お手軽」で、英語ができるようになるわけがない。
 その証拠にこんな言葉を聞いた。
 「若い先生は詳しい解答解説がないと教えることが出来ないと言うんですよね。」
 こうした詳しい解答解説が出始めて数年かそれ以上になって、「丁寧さ」がどんどんエスカレートしている。こうやって勉強をしてきた世代が、今、教壇に立ち始めた。
 詳しいマニュアルがないと教えることが出来ない教員は、実に「教育の成果」である。