考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

批判の仕方

2009年07月30日 | 教育
 あまりそういうことはしないのだけど、ネットでぶらぶらしていて、タマタマ内田先生を批判するブログを見付けてちょっと読んだら、なんてアタマの悪い人だろうと思ってしまった。

 そのブログでなくても、大方の批判的な意見は、「当たり前のことだ」「この言説は何にでも当てはまる」「検証しろ」「具体的に説明しろ」である。また、書き手がちょっと端折って書いた日本語を解さない。「オレはウナギだ」「私はカツ」の類を捕まえて、「『オレ』とは人間だから、それがウナギだというのはおかしいのではないか」などと批判する。食べ物屋での会話だと予測しない、まあ、この類がけっこうある。国語力のない人って、ホントに多いなぁと思う。(自分のブログに関しては、『お互い様』と思っている。)

 「当たり前」とか「何にでも当てはまる言説」というのは、私はものすごく高く買う。ニュートンが凄いのは、何にでも当てはまる法則を発見したからだ。それで人類は月に到達した。と、このように書くと、その類の人は、「それは理科の世界だから、社会や人文科学とは違う。」などと言うだろう。普遍に理科も人文もない。立脚点をどこに置くかの問題である。
 「検証しろ」は、学術論文ではないのだし、何を期待しているのだろうと思う。
 「具体的に説明しろ」は、共通点と差異が抽象と具体を作っていることを知らないから出てくる言葉である。こういう人の場合は、具体例を挙げると、「差異」の方を取り上げて、「違う」という。当たり前だ。具体例は常に一つ一つ異なる。そこから何を抽象として取り上げるかの視点の取り方が重要なのだ。これは、もう、はっきり言って、抽象化能力というアタマの善し悪しに関わることだ。分からない人は、或いは、分かろうとしない人は、決して分からない。だから、国語の試験問題になる。
 でまた、「自分が分からないことがあるのは、相手の説明が悪いからだ」と考えている人が多いようだ。(生徒にも、そういう生徒がかなりいるから、私は、大人がそうであっても何ら不思議に思わない。いい加減にしたら~と言われそうだが、偏差値55前後のレベルがそうである。偏差値70以上になると、「自分にわからないことがある」ことを知っているから、こういうことは、まあ、普通は言わない。)「説明されれば何でも自分はわかる」という思い込み、自惚れが根底にある人の言である。近頃の「わかりやすさ礼賛」の弊害である。(ただし、近頃は、偏差値80を遙かに超える場合、ひょっとしたら、イマドキは、「何でもわかる」と思う若い人がいてもおかしくない。だって、近頃の勉強は、試験勉強が勉強だという考え方でいたら、受験程度なら原理原則を押さえて勉強をすればかなり簡単だから、アタマがずば抜けて良い子の場合、ホントに全てを理解してしまうと思うからだ。養老先生は、もの凄くアタマが良いけれど、それでも、高校生のときに、一度成績を落としている。こういった経験の有無が、自分の理解力に対する過剰な自信を生むかどうかの分かれ目になるかもしれない。)

 批判をするというのは、難しい。(と、しょっちゅう、愚痴って批判している私が言うのもなんだが。)自分の立ち位置をはっきりさせないと、批判はできない。立ち位置が異なれば、批判内容も何もかもが変わる。批判が立ち位置の問題であると言うことをもっとはっきりさせた方が、単なる字面を取り上げて「あーだ、こーだ」とぶーぶー言ってもしようがない。

 ん? 「言動不一致」って?
 アホらしくって、いちいち自分の立ち位置まで書かないからよ。

 しかし、(追記)「自分の立ち位置」は、掘り起こすと、嫉妬、妬み、劣等感と優越感という、非常にアナログ的な余りにも人間的な感情に集約される場合がかなりあるのかもしれないと思う。だから、掘り起こすと、かえって良いことはないのかもしれない。
 
 ん? 私の批判の源泉?
 「もー、こんなの、アホらしくって、やってられねぇ~~。いちいち説明させるなよぉ。」

出来ない子

2009年07月29日 | 教育
 校内の試験に失敗して、それで、単位修得のために頑張るのだけれど、彼らの勉強を見ていると悲しくなってくる。まあ、入学当初から私が面倒を見てきたのではないのだけど、どうして勉強の仕方がこうなの?と思う。
 英語は確かに丸暗記でも何とかなる部分はある。それでも、最低限の理解が必要と思うのに、全く出来ていない。これでは力が付かない。点にもならない。中学の英語すら理解していない。付け焼き刃の勉強ばかり。同じ付け焼き刃にしても、理解のある付け焼き刃と理解のない付け焼き刃では力の付き方が異なるだろう。本人の能力や適性の問題もあるのかもしれないけれど、何だか悲しくなってくる。

当たり前のこと

2009年07月29日 | 教育
 私が書いていることは、あまりにも当たり前すぎることばかりである。でも、当たり前のはずなのに、周りを見回すと、当たり前が当たり前でないように思うから、ついつい言葉を駆使して言ってしまう。

 しかし、数学の証明も同じかもしれない。
 答えはわかっている。でも、なぜそうなるのかが、瞬間的にわからないことがあったり、人がいたりする。よって証明が必要になる。それで、証明されても、その証明の意味がわからない場合には、相変わらず「わからない」ということになる。

 そうか。説明的な文章も証明も同じだったのか。
 ん? 
 ----これも当たり前のことだね。
 

生徒が学校で話を聞くということ

2009年07月28日 | 教育
 「先生が話す人、生徒が聞く人」という学校でよくある風景をを念頭に書こうとしている。しかし、このように書くだけで、拒絶反応を示す人がいると思う。
 「先生の話はつまらないから聞く気がしなくて当然だろう」「先生は一方的に話をするだけでなくて、生徒の話を聞くことこそが本当の教育になるのではないのか」「生徒にだって自分の意見や考えがあるのだから、先生の話を聞かせるだけではないはいけないだろう。生徒が生徒なりに考えさせ、意見を述べさせることも大事ではないか」等々。一方、「聞けば良いんでしょ、聞けば。もっと言うと、先生が話をしている間、聞いた振りをすれば、それで良いんでしょ。」という反応もあろう。それで、聞かせることに対して、「無理矢理聞かせても、聞こうとしない生徒には役にも立たないから、聞かせるだけ無駄」と考える方もみえるだろう。もっとも、イマドキのことだから、否定的な考えはまだまだ他にも多々あるだろう。

 「人の話を聞くこと」について、近頃意外に多いような気がするのが、「人の話を聞いたら自分の意見を持たず、その人の言うことをそのまま受け入れる」と言わば、「100%受容型」とでも解釈するものではないかと思う。
 こういう場合、人の話を聞くことと自分の意見を持つことは全く相容れないわけだから、人の話を聞くことがそのまま、全ての自分をなくし、人に対してはただひたすら従順に、自分の意見や考えを持ってはいけないことに繋がる。それで、人の話を聞くこと、より明確に言えば、人から「話を聞け」と言われることに拒絶反応を示す。「話を聞け=お前の存在をなくせ」になるのだろうから。

 学生時代、入学したての頃、クラスメートが「あなたのその言葉は、私の言葉で言うとこれこれということよ」などと言い合うのを聞いて、私は仰天したことを覚えている。
 言葉の定義が人によって異なるということを日常レベルでふつーに会話していたからだ。当時の私にとって、言葉の定義の変容は、国語の試験でしか問われないはずのことで、その時の会話は多少小難しい内容だったような気もするが、日常的な対話でこのような発言が互いの口から出ることに対し、私は異次元に舞い込んだかのような強烈なショックを受けた。
 
 こういった対話は、まず何よりも相手の話をよく聞く、その上で思考をするという過程なしには行えまい。(だから、国語の試験に似てるんだよね。)それで、相手の発した言葉が自分の語彙で説明が付きそうにないときには、自分の語彙を敷衍化して解釈しなければならないことになるだろうし、相手の言葉を自分自身の新しい語彙として獲得して新たな世界観を構築する元になることもあるだろう。それで、相手の意図を十分に鑑み、自分の語彙で説明可能だと思われたときに初めて相手の言葉を自分の言葉に解釈し直すことになる。それでやっと「あなたのいう何々は、私の言葉で言うとこれこれよ」を発することができる。
 何が言いたいのかというと、「人の話を聞く」ことをハナから拒絶するような人は、「あなたの言葉は私の言葉で言うとこれこれよ」という反応が出来ないだろうということだ。「あなたの意図」が、私の知らない世界を表すわけではなく、私が持つ世界観に存在するものの、私の使用語法とは異なる語法で語られたことを発見しなければならないのである。このためには、人の言葉を聞くときに、相手の真意を掴むために仮定や仮説立てを含めてあれこれ反芻し、つまり、うねうねあっち行ったりこっち来たりの面倒な思考を瞬時に行って聞かなければならない。これは、決して安直には行えない話の聴き方で、耳を傾けながらも内面で極めて複雑な思考過程を踏まえるとき、人は本当の意味で「人の話を聞く」のである。これは、自分独自の考えに囚われていてはできないことなので、安易な解釈で「自分を亡くす」と思う人が出てきて当然であろう。しかし、こういった能動的な活動を行っている自分は、「より大きな自分」として存在し、高みを目指すことになる。この違いを認識するか否かの違いが、「100%受容型」や上記のような過程を踏まない安易な発言を奨励する教育方法になるか、それとも、世界観を広げることに繋がる話の聴き方になるかの違いを生むのだろう。

 少なくとも未熟な存在として、「学校」という「未知を知るところ、学ぶところ」に通う生徒や学生が、誰の話であろうと人の話を聞くことを十分に習得しなければ、彼らは学校に来ている目的を大きく外れていることになる。
 もちろん、未熟な者は未熟な者としての言葉や思考を持つだろう。しかし、未熟ながらも自分が持てる言葉や思考にしても、能力に応じた「人の話を聞く」という段階を踏まえないことに、ステップアップは出来ないだろう。未熟な言葉や思考が知識として単に「増量」するだけでなく、更なる高みに到達するには、絶えず人の話を聞き、それが自分にとって新しい世界を構築するものになるのか、それとも既に獲得した自分の世界のどこに位置するものになるのかを自ら確認しようとする能動的な思考を重ねなければならないだろうということだ。これは、不断の努力なくして不可能で、(生徒はしばしば嫌がるが)同じ話を聞かされ続けることでも可能である。むしろ、同じ話だからこそ可能である。同じ話が違うように聞こえるようになったときこそ、人はステップアップしたことがわかるのである。

 世界は、自分が分からないほどに大きく広く深い。その端緒に触れることが学ぶことだろうが、端緒に気がついた段階で、自分の考えなどというものを限定すること、つまり、自分の考えを言葉を使って述べることがそう簡単にできるものでないことに気がつくだろう。極めて逆説的であるが、言葉で表現しきれないものがあることに気がつき、自分の理解が及ぶ範囲だけが世界でないことに気がついたとき、初めて人は高みに登ることができる自分に気がつき、真に学び始めるということになるのではないか。その手始めが、「学校で先生の話を聞く」ことだろう。

公教育に個別指導は本来要らないはず

2009年07月25日 | 教育
 学習指導であれ、生徒指導的な分野であれ、近頃とみに多いのが、個別指導の要素である。

 学習指導に関しては、学校の先生は家庭教師ではないし、授業は集団で受ける前提で、それぞれの生徒の願望は、ご本人たちも保護者も気がついていないが、はっきり言って抹殺されている。「私は4時間目のお腹が空いているときに体育は受けたくない」と思っていても、どうしようもない。「○○先生が良い」と思っても、そうなるとは限らない。それで、好きな先生に教えてもらえることが必ずしも良いことにはならない。(理由は省略。「学校の先生と塾の先生」参照。)

 個別指導の最高峰は、家庭教師である。ビクトリア朝時代の教育法だろう。それで、学校に準じた設備があったとしても、家庭教師的な個別指導が取られることには決してならないだろう。数学や国語だったとしても、「自分と同世代の他の子供」がどのような学習態度でどのような学習の成果を見せるかという相対的な比較が子供にとって大きな刺激になり、学習を深めることになるからだ。だから、たとえば、少人数指導が良い、とされても、意外に、40人規模の集団の方が授業が活性化することがある。「あいつ、すげー」みたいな反応が起こるのは、大人数のときである。(それなりの数がいないと優秀な生徒はいない。)習熟度別授業は、一見、効果がありそうに思われるが、中位以下では刺激が少なくなるという点で実は効果的でない。習熟度の良い点は、高い学力層の生徒集団にとってだけで、中位程度の生徒集団では授業がどんよりすることがある。生徒から良い意見が出ない分、教師がすべてを提示することになりかねない。習熟度別授業は、「上を伸ばし、中位以下はあまり伸びない、たいして変わらない」ことが(意外に知られてないが)多いのである。上が伸びるのは当然である。理解が遅い生徒がいない分、進度も速まり深度?も深くなるからだ。よって、「同じ学力の者を集めた方が学力が伸びる」は、もちろん、(学校にもよろうが、)けっこう幻想だったりする。ただ、満足度という点では、どのレベルの生徒にも授業者にもほぼ好評である。英語だと、数学にも似た文法に限れば、習熟度別の授業はそれなりの良さはある。私だって、習熟度別の授業の方が好きである。スムーズにいくことが多いのでストレスが少ないのだ。しかし、個人的な経験からの実感と直感でしかないが、満足度が成果につながるとは必ずしも言えない。実に奇妙である。ただし、これを検証しろと言われても、ムリです。
 言いたいのは、確かによほど落ちこぼれている場合や数学や文法などの教科は多少別の話になるが、レベル毎に生徒を集めても、みんながみんな伸びるわけではないと言うことだ。生徒は、周りが自分と同じくらいだと安心する。わかればわかったでまた安心する。人と違っていたり、ちょっとわからなかったりすると不安を抱いて、それで一生懸命に勉強することになったりする。なかなか一筋縄にはいかないものである。

 英語だと、英作文は個別指導が良いと思われているようだが私はそうとも思わない。書かれた作文の具体的な間違いは一人一人違うものの、ほとんどが「よくある間違い」で、これは個別指導より板書指導などによる指導で自分の間違いを反省させた方が私は余程効果があると思う。注意力の問題だからだ。生徒が英作文の個別指導を求めるのは、自分の書いた文がどの程度肯定されるかという観点であることが多い。それで、多くの場合、なんとなく自分が思いついた曖昧な表現を辞書で確かめもせずに、試験の採点を頼むかのように「先生、見てください」と持ってくる。私に言わせれば、先生に見て貰いたいのであるなら、事前に英和辞書を引いて綴りを確かめたり、構文集などにもう一度当たり直したりしてから持ってこい、というところだ。それで、自分で辞書を引くなり構文集を開くことそのものがものすごく勉強になるものである。そうなると、あまり先生に見てもらいたいという気分にはならない。(←自分の経験にすぎないが。)もっとより良い表現を習得し、もっと上手な間違いのない作文を書けるようになりたいと思ったら、模範解答でも十分に学習ができるものである。そのうちに、自分の作文の出来なんて、どうでもいいという気分になってくる(と私は思うのだけど)。どんどんより良い表現を覚える方がずっと効率的だとわかってくるのである。大抵の作文は、それまでにどこかに出てきた表現で片付くものなのだ。ただのやる気を持続する目的ではなく、本当に実力をつけるためなら、根拠を持って自分の解答でも良いはずだとわかって初めて質問にくるのが順当というものだろう。先生に見て貰えれば勉強になると言う考えは、先生の赤ペンだけで学習できるという思い込みがあるからである。しかし、赤ペンの量はたかがしれている。高校の学習事項は、先生から直接習うことすべてでまかなわれるわけでない。この理屈がわかるかわからないかで、学力の伸びが大きく変わるものである。個別指導重視は、根本的にこの観点での誤解があるのではないかと思う。
 もちろん、個別指導が「学習の方向付け」という観点なら話は多少変わるが、そんなのは具体的な添削指導でなくても話を聞けばできることで、特別に「個別指導」と呼ぶようなものではないだろう。

 生徒指導的な側面でも、個別指導は、カウンセリングなどの関係があるだろうが、私は胡散臭さを感じている。
 書くのが面倒になってきたが、自然なのは、職員室に行くと、大抵の先生が暇そうにしていて、空き時間には、大方生徒に関する情報交換をしている、という状況だろう。情報交換と言えばカッコイイが、「今日、○○君が授業中に、こんなことを言ったのよ。珍しかったわ。」「○○の奴は、昨日、こうこうしていたから、そのせいでどうのこうの」とか何とかの内容である。それで、彼女に振られた、とか、家で何かあったのだ、とか、部活で悩んでいるとか、最近やる気を出してきたとか何とか、わかって、「じゃあ、少しハッパを掛けた方が良い」とか「アイツの場合はしばらく静かにしておいたほうが良いんじゃないの。そのうち、頃合いを見てオレが声かけてみるわ」などの対応の仕方になる。場合によっては、これは良いチャンスのばかりに、ど叱ってやると後々の問題行動阻止に繋がるものである。あのとき叱らなかったばかりに更なる問題を起こした、ということは起こりうるのである。こういった指導は、日頃の情報交換なしになし得ない。

 今は週5日制のせいもあって、担当授業時間数増え、それで、様々な書類が増えて、おまけにパソコンに向かっている時間が長い。「いかにも仕事をしている」という風景だが、教員の仕事はパソコンに向かうことでも書類を作ることでもない。事細かな生徒情報を得て、教員がその生徒に出会ったときに適切に対応することだろう。廊下で会ったときに交わす一言二言が、かなりの確率でカウンセラーを不要とすることになる場合だって私はけっこうあるのではないのかと思うのだ。時間と場所を設定しないと話が出来ない状況は、なんだか不自然な気がする。生徒の精神構造は、アメーバみたいにふにゃふにゃしている柔軟さを持ち、無秩序に満ちているだろうから、教員も無秩序でふにゃふにゃしたところがあった方が良かろうというものだ。これは、教員はいい加減でいい、という意味ではない。前に書いたような見通しを持って対応ができると言うことである。ところが今はそういった肝心の余裕がないから、動物に近い子供である生徒は無意識にそれを感じ取って学校全体に余裕がなくなってしまうのではないのかな。昔と明らかに違うのは、生徒に関する非公式(?)な情報交換が少なくなってしまっていることだ。それで問題の早期発見早期対処が非常にやりにくい。教員としての勘も鈍りかねない。困ったことである。


社会科の先生

2009年07月24日 | 教育
 社会の先生って、私から見ると、(顰蹙を買うだろうなぁ。。)あまりものを考えない人が多いように思う。考えているように見えて、実は考えてない、という言い方の方が正確かもしれない。重要な注意事項であるが、中にはそうでない人もみえる。しかし、本当に思考する人は非常に珍しいように思う。(今は、地歴公民というのであって、社会科なんて存在しない、なんてつまんないことは言わないでね。)

 推察するに、社会科という教科が出来るためには、少なくとも高校までは、かなりの部分を記憶力に頼る。覚えてなければ答えようがないから、試験の点数だって取りようがない。で、社会科の先生になろうとする人は、まあ、そうでなくても多くの人がそうであるように、高校時代に「先生になりたい」「先生になろうかな」という判断で進路選択をするから、高校生のときに記憶力で賄った成績で、そのまま社会科の先生を志し、実現させることになりがちになる。(これは、工学部で機械科が難しいのが、高校生に機械が人気があるゆえで、機械そのものが難しい科目であると言うわけでないのにちょっと似ているだろう。「たとえが悪い、違う」と思われるかもしれないが、要は、「高校生が、社会人にワープする」ということだ。職業が高校時代をそのまま引きずっているというか。内田先生も、高校生をいかに惹き付けるかが、その学問の存亡が掛かっているというようなことをおっしゃっていた。)よって、記憶力の良い人が多くなるのも頷けるのである。何かを問えばたちところにすらすら出ていくる方が多い。この意味では凄いなぁと思う。

 でも、掘り下げた思考となると、どうなのだろうかと疑問に思うことが実によくある。おっしゃることがなんだか通り一遍で、通説的で、しかも俗世間的で、マスコミ受けするような手垢にまみれた考え方を呈される方が多いように思われる。言うことがつぎはぎだらけで一貫性がない。抽象化の能力が知識に伴わない。私には、自分でものを考えていないように感じられる。でも、そういう方に限って、ご自分では、何しろ知識はもの凄く優れているものだから、自分は人よりずいぶんと優れていると自己判断される方が多いように思われる。
 
 ・・・ということをある社会科の先生に言ったら、「ああ、そういう面があるだろうねぇ。」とあっさり同意された。この人、私が見る分に、ものを考えるとても珍しい社会科の先生で、「先生は社会の先生らしくないですねぇ」とか何とか言ったら、「わははは。。そうかもしれないねぇ。」と好意的に笑っておられました。(注・この会話以降も、様々なことに関して私に対して同意的。)

効果的な教育法が悪弊になるとき

2009年07月23日 | 教育
 (↑魅力的なタイトルだが、大したことはない。以前も書いた気がする。)
 全ての先生が「これこそ良い方法だ!」と思われる教育方法を取ったとすると、その教育方法の効果はなくなる。

 先日、大学の先生のある講演を聴いた。(学校の仕事として。)その後で、質問の時間があった。でも、誰も手を挙げないし、たぶん、教育委員会の司会の偉い先生が「折角の機会ですから。。」とおっしゃるから、は~い、と私は(さすがに声はださないけど)元気よく手を挙げて聞いてみた。その先生の講義内容が、「これこれを防ぐためには、これこれの方法が良いですよ」という内容だったからだ。

 素直なほりは、素直に自分の疑問--上記の(  )の後の最初の2行の内容--を呈してみたら、先生は、「おっしゃるとおり、その通り」と答えてくださった。その前に、最初からこんな本質的な質問が出ると思わなかった、と。また、語ると一晩かかると言っていたから、悪くない内容だったのだろう。

 やっぱりね。

 ほりの考え、大学の先生のお墨付きね♪

 でも、多少は礼儀正しく、また、遠慮深いほりは、「だったら、先生は、地方公共団体主催の講演を全国各地で行うことは止めた方が良いということになりかねませんね」とは言わなかった。

 世の中の「効果的な教育法」は、学習方法であれ何であれ、大方が、低いレベルの生徒でも使える方法であることが多い。これ、とっても良さそうに思われるが、低レベルに合わせた方法を、その方法でなくとも学習可能な高いレベルの生徒に適用すると、多くの場合、彼らの高い能力を発揮しにくくなるのである。もっと言うと、彼らは成長を止めると言うことだ。
 「底上げ」のつもりの方法が、総体的に多少の底上げになったとして、全体のレベルを押し下げてしまうことが実は良くある。

 この事実に、早いところ、みんなが気がつくと良いのにね。
 まあ、無理だろうね。

 「これは良い方法だ!」と聞いて、さっと手を付けたくなるのは、熱心というよりも教える側の思考停止とも言えるのである。

 先輩の先生が経験的に知った内容はちょっと別だが、マニュアル的に伝授できる方法というのは、教える側の手抜きだと私は思う。生徒の学習や成長が「自分で体験する」ことによってしか達成されないのと同様、教師の取るべき方法も、自分で試行錯誤を繰り返して体得したものでなければ決して機能しないと私は確信する。

 マニュアルは、「方式」に過ぎない。しかし大事なのは方式でなく、方式の奥、つまりはその行為の奥に潜む「意味」である。ここで言う「意味」とは、ありもしない抽象ではない。体験から涵養される地に足が付いた実体で、何かの真髄に通じるものである。これは、一人一人の教員が身を以て体験しないと決して体感できないのではないかと思う。

 こんなことを書くと専門家から叱られるかもしれないが、「無門関」という禅の公案集がある。「門無き門より入れ」というまことに矛盾したタイトルの本である。その中の話をちょっと思い出した。
 ある禅僧(ぐてい)は何かを問われるといつも指を一本立てて答えたという。この指は、自分の師匠(天龍)から授かったもののようだ。で、ぐてい和尚がいつも指を立てるのを見ていた小僧が、お客さんにぐてい和尚はいつも指を立てるのかと聞かれ、自分で指を立てて見せて答えた。すると、ぐてい和尚は小僧さんの指を切り落とした。小僧さんは、もう、立てる指を無くしてしまった。
 で、この話は、ものすごく深淵だと思うが---無門関については、弘前大学の先生が書いたちょっと風変わりな解説書の本が取っつきやすい---、話を元の教育の方法に戻すと、方法論を真似ても、我々は「指を一本立てる」と言う形式だけを真似ることになりかねないと思うのだ。もちろん、日本人のことだから、「型」から入っても「個性」を出す。型から入って型を出て新たな創造に至ることはあるだろうけど、教育現場で実際に行われている実態を鑑みると、形骸的な型だけで終わって、真髄に至っていないと思う。誤って継承したりもする。それで弊害が出てくる。で、効果どころか弊害の方がかえって大きくなる。私が見る分(←わずかだけど)に、正しく継承されたマニュアルや方法論はあまりないように思う。受け手がその真髄まで消化しきれない、という場合のなきにしもあらずと思うが。

 私は、もちろん、真髄に起因していると思われる先人の「知恵」はきちんと受け入れるべきである思うが、後は自分で真髄に至るべく、自分でやってみるのがいいんじゃないのか、それしか方法がないのではないのかと思うのだ。少なくとも、思考停止にならない分、子供たちに伝わるものははるかに大きいと思う。
 指を立てようと立てまいと、指を立てることと同じものに行き着くことがあるということなのかな。(あ、偉そう。。)大事なのは指を立てたかどうかとでなく、その真髄に行き着くことそのものなのである。(ますます偉そう。。)この観点で言うと、指は関係がない、ということになる。(←とんでもないかな。)


アタマが良いはずの政治家がちょっと可哀想に思われるとき

2009年07月21日 | 教育
 この記事は、政治ネタではありません。(世上とは全く関係ありません。)

 みんながみんなそうだとは決して言わないが、良い大学を出た政治家はたくさんいるのに、何だか皆さん、あまりぱっとしなさそうである。ときどき、なんだかとってもアタマが悪そうにさえ見えるのはなぜだろうと思った。

 で、わかった。なぜ、アタマが良いはずの彼らがアタマが悪く見えてしまうのかが。
 「またか、くどい」と言われそうだが、偏差値55あたりの壁である。

 現実としてたぶん、アタマの良い政治家さんたちの政策や政治的な理想など、本来、政治家として行うべき仕事内容を一般庶民は理解しない、というのがその理由である。
 
 ずいぶんと酷いことを書いているが、理由がある。(次の段落がその理由である。)
 
 一般庶民が政治家に期待するのは、「じいちゃん、元気にしているか?」「息子さん、あれこれで良かったね」などの人間的な対話だからである。庶民がコロリと参って票を入れるのは、高邁な理想などではなく、人間味溢れるような「じいちゃん、元気か?」などの言葉だと言う。
 ↑これ、いつだったか、林真理子氏が文春の連載で書いていた内容である。実際にエッセイで書かれていた言葉そのものは違うと思うが、大方の内容はこんなものではなかったかと思う。 私は、恐ろしく長い間連載し続けている才女の言葉であるからには信憑性があると見て良いと思っている。読者の共感や信頼がなければ連載が長く続くことがないからだ。(これは、私が彼女の言に信憑性を認めるための客観的な裏付け。)私は、林氏の言は、世の中の非常に多くの人たちの、ことのほか流行や(私にはわけのわからないことがある)時代の流れを作る人たちの代弁者だと見なして彼女のエッセイを読む。「へぇ、イマドキの多くの人(特に女性)は、こんな風に考えているんだ。」と、流行に無頓着な者にとって、彼女のエッセイは実に良い学習材料になると思っている。(これは、彼女の言に信憑性を認める私の主観的裏付け。)

 (前にも書いたかもしれないが、)大学入試の模試の偏差値55前後の学校の生徒の中には、偏差値が45(←いくつもでいいけどかなり低い数値。いわゆる困難校といわれる学校を含む。)の学校に通う友人がいることがかなりある。しかし、平均偏差値が60を確実に越えるトップ校の学校の生徒に、偏差値45(←いくつでもいいけどかなり低い数値)やそもそも大学入試を受けない高校に友人がいることは、たぶん、滅多にない。(念のために書くが、例外は常に存在する。)

 それで、困難校の生徒は、偏差値50~55の学校のことは、「○○校の生徒は、アタマがいい。」など、自分たちと比較して評する。「比較する」のは、「同じ土俵にいる仲間」であることを認めているからできることである。しかし、同じ生徒の口から、偏差値60を遙かに超える学校の名前が出ることはない。なぜなら、偏差値60を遙かに超える学校は、自分たちと同じ土俵にいない、全く埒外の存在であると想定しているからである。おそらく、互いに腹を割っては理解し得ない間柄なのだろう。ゆえに、同じ基準で比較することもない。

 大学入試の偏差値55は、世間一般のレベルで言うと、知的能力としてはかなり高い方である。決して「真ん中よりもちょっと上」ではない。(世の中の18才人口の全てが大学入試の模試を受けているわけがない。文理は影響するが、学部学科を選ばなければ国公立大学に合格できるレベルである。)そのレベルの層は、それ以下の層と「同じ仲間」として通じ合う。しかるに、たぶん、彼らよりもずっと遙かにアタマが良い、それこそ、偏差値70を遙かに超え80も越えるレベルになると、庶民の大多数を占める偏差値55以下の、人口比で言うと相当な割合、もの凄い数を占める庶民の思考法、たぶん、思考と感情が一体となって渾然と混ざり合う思考法(と私は解する)を理解し得ない、ということが起こってくるのだろう。

 よって、アタマが良い政治家さんの中には、どんなに良い政策や主張があったとしても、また、愚策が何であるかを知っていたとしても、「ホントはこの方が良いのになぁ」「それはいけないよなぁ」と心の中では思えても、それが良い政策であることや、愚行になりかねないことを、一般庶民にわかるように理解させることが全く困難、というか、無理であることが既にわかっていることが多いから、ホントに肝心な大事なことは主張できない、主張しなくなる、ついには思考すらしなくなる人がなかりいるのではないか。
 せっかくアタマが良いからこそ思い付くことができる、本当に大切なことであっても口にださないか、思考を停止するか、誰にでも理解できるお茶を濁すような、やってもやらなくても良いようなことやしない方が良いようなことを、まあ、要はつまんないことに置き換えてしまうことになるのではないのか。更にまた、一般庶民が広く普く納得しそうなことに迎合して言う、などの事態が生じることになるのではないか。(全てが全てとも言わないが。)
 それで、「じいちゃん、元気か?」などの言葉でせっせと人気を稼ぐほかなくなる。それはそれで高い能力が必要だろうし、また、大いに気も遣うだろうが、票は集まり、高邁な理想や思想は隠れてしまったとしても政治生命?は繋がれる。そのうち、ますます思考停止に陥り、「政治はこんなものだ」ということになったりすることはないのかなぁ。。そんなこんなで、良いアタマもだんだん悪く(見えるように)なる。

 いつだったかテレビに出ていた政治家さん(誰だか知らない。)を見ていて、良い大学を出ている、たぶん、知的能力がかなり高いと思われる政治家さんの言葉の端に、上記のような「そんな感じ」をなーんとなく受けたことが私はあったのでした。その時私は、「ああ、気の毒に。この人の主張は一般庶民に理解されないんだなぁ。。可哀想だなぁ。」と思ったのでした。

 以上放言。(まあ、実は、以前からちょっと思ってたのだけど。)

読むことと問題を解くこと

2009年07月20日 | 教育
 近頃の生徒は、というか、指導の方法は、読解の方法を教えるためには問題を解かせなければならないと思っているかのようだ。それで、問題集を持たせて問題を解かせたりする。自作問題を作って読ませたりする。教科書本文には、まあ、オーラル指導も考慮してのこととは思うが、必ず英語のQ&Aがある。
 本文を読ませるとき、私は、こうした問題の扱いが苦手である。授業が中断する気がする。それで、時々やり忘れたりする。生徒層によって、非常に不評である。

 「読む」という行為は、常に書き手のと対話である。適切な読解問題は、その助力となるものであろうから、さほど否定的に捉えるべきものではない。しかし、テキストに対峙しながら行う「筆者との対話」は、常に自問自答の形を取る。それで、書かれている言葉の一つ一つや繋がりに細心の注意を払って「ってことは、筆者はこれこれが言いたいのか、それともこれこれと言いたいのか」などの推察を常に行う。
 良い読み手となるためには、常に「推察する能力」が必要になろう。それで、「推察する能力」は、視点の取り方を変える能力でもあると私は思っている。書かれたテクストの中を縦横無尽に思考をくぐらせる、とでもいうか何というか。それで初めて「読む」という行為が成立する。だから、読解の過程においては、誤読や誤解はしょっちゅうであろう。「このAと言う表現からならばBが推察されようが、その後にはCと言う表現が出てくるからBは否定され、新たにDという可能性が出てくる。」等々。それを、「AとCからDが推察される」という読み方をするのは、結果が正しくても真に読んだことにはならないだろう。真の読解力を習得することにもならないだろう。
 そこまで丁寧に読むことを教えることが出来る場は、私は授業をおいて他にないと思っている。「印刷された問題」の視点の取り方には、限りがある。この点、授業は柔軟に対応できる。「ここまでの文章で何が予測されうるか」「この単語で次に何が予測されるか」と言う細かい問いと予測が可能だからだ。(印刷物では重要度や感動がうまく表現できないだろうから不自然になろう。)そこを踏まえた上で、後の文章の続きを読む、最初の予想が覆されることを身を以て体感し、読み進める。
 私が読解の授業が好きなのは、この自由度ゆえであるが、生徒に読み方を教えるのが面白くなったのは、私は自分で文章を書くようになってからだと思っている。英語の先生で、たとえ日本語でもこれだけ多くの文章を書いている人間はあまりいないと思う。もちろん、書くときには、特に、推敲をするときには文章構成の多少を意識する。でなければ効果は少ないだろう。書けば読めるようになる、ということか。この点、ブログの存在は非常に有り難い。

点数ばかり気にするな

2009年07月18日 | 教育
 どうやら指導の仕方に、「この答案だと何点、こう書くと何点」というやり方があるようだが、私は反対だ。
 だって、採点基準なんて、極めて相対的なものだからだ。同じ和訳の問題であっても、受験生集団の相対的な出来不出来で、採点基準は異なるだろう。同じ問題の同じ答えであっても、大学によって得点が変わると言うことだ。学校の試験の採点でも同じことが言える。また、模試でいくら合格可能性が高くても落ちる生徒は、答案の内容が汚いものである。模試の得点方法の中間点や甘い採点基準で点を稼いでも、難易度の高い大学では美しい解答をする受験生の集まりになるから、整然としていない解答は失点が多くなるということである。

 試験の答案でできることは自分にとって最善の答えを書くことだけで、それ以上何もなすべきこともできることもない。この過程として、「ここまで書けたら何点」という指導があるのだろうが、実際問題、生徒にそのような指導をすると、とにかく、彼れはやたら「自分の今現在の点数が何点であるか」ばかりを気にするようになって、理解や習得を目指すという勉強の本来の焦点から目的が逸れるのである。(これ、分からない人には分からないだろうけど。)

 勉強は、決して点を取るためのものではないのである。--この表現は、本当の勉強をしたことがない人の誤解を招くだろう、というか、理解できないだろう。試験の勉強であっても、点取りそのものを目的としては本物の勉強にならないのである。
 私自身、点を取るために勉強をした。しかし、その方法は、如何なる出題方法であっても、いかなる問題が出題されようと、必ず点が取れるための学習だった。だから、山を賭けることもしないし、「ポイント」も何も意識せずに、自分の知らないことを知り、出来ないことはすべて出来るようになることを目的に勉強をした。ただ点数が欲しくて勉強をしていたわけでないのだ。
 点数は「結果」として、相対的なものとして後からついてくるものでしかない。「自分が何点か」は、採点者の恣意によると言っても良いほどだ。だのに、なぜ生徒はあんなにも点数そのものにこだわるのか、私には全く理解不能である。(って、彼らは今まで常に「教育を受ける=評価される」という観点で教育を受けてきたから、そうなっちゃうのだろうな。自分で自分の成長を評価出来ないのである。かわいそうだ。)