考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

おもしろそうなブログの紹介

2005年06月30日 | 教育
例のごとく、養老孟司で検索したら、「崩壊家庭地方不良校出身東大法学部生の思想表現」(http://d.hatena.ne.jp/fer-mat/)というブログを見つけました。先日から、時々訪問しています。共感することも多く、とても「まとも」な方だと感じるので、紹介したいと思いました。

こういう方が、文科省に入って教育改革をしてくれると良いのになぁ、と願ってやみません。

中学校の二期制

2005年06月29日 | 教育
 週5日制に伴って二期制になった中学校がある。前期・後期でそれぞれに中間テスト・期末テストが行われる。1年間に計4回だ。3学期制だと、中間・期末・中間・期末・(中間)・期末と、少なくとも5回、あるいは6回の定期試験が行われる。定期試験は、午前中のみで行われるから、定期試験の回数が多いと、それだけ授業時間数が減ることになる。また、始業式、終業式のが多ければ、それだけ授業時間数も減る。よって、授業時間確保の名目で2期制取り入れられたようだ。
 
 ところが、知人の子供が通う学校は、2期制なのに、夏休みの始まる前日、夏休みが開けた翌日には「集会」が行われ、当然、午後の授業はない。学期の始業式などはそれと別にあるようだ。これでは3学期制と変わらない、とぼやいていた。テストの回数が減っただけ授業時間数が増えているようにも見えるが、たいていの子供がきちんと勉強をするのはテスト前だけだ。知人は先生たちがラクをしているだけだと言う。同感同感。だって、テストは相当面倒な仕事だもの。2期制だと試験範囲が多すぎて子供は勉強がしにくいらしい。「普段きちんとやらない上に、定期テストの回数そのものも減って、益々勉強しなくなる」らしい。

 学力低下問題は、こんなところからも観測される。


人間と動物の違い:意識的な過去と未来

2005年06月29日 | 物の見方
 人間だけが、過去と未来を意識する。
 過去は、記憶がなかったら存在することすらわからないものだ。それで記憶は、経験の集積だ。経験は、個人の経験だけを意味しない。人間には、世代を超えた経験がある。その一つの見方が歴史だろう。歴史とは集団の経験を何らかの様式で概念化しまとめ上げたものだろう。
 未来は想像の世界だ。過去の経験を基に眼前にないものを想像することから始まったのが未来だろう。
 
 個としての経験なら犬や猫も持っているはずだ。しかし、世代を超えて歴史と名を変えるほどの経験を持つ動物は他にいない。よって、未来を持つ動物も他にいない。抽象化し概念化できる動物は、人間だけなのだ。

 「後悔先に立たず」と言う。これは個人の経験を言っている。しかし、後悔を先に立たせることができる人もいる。賢い人はそうやってどんどん賢くなっていく。しかし、この言明があるからには、普通の人間は、個人の経験もなかなか活かせないものらしいとわかる。
 「歴史は繰り返す」と言われる。成功も失敗もあるだろうが、周期的な流行以外は、大方は失敗を指すに違いない。人間は、個人の経験のみならず、否、まして、集団の経験を活かすことがまだできてないことがこれでわかる。

 このあたりが、ホモサピエンスの知性の限界か。

 しかし、過去と未来を持つ動物が他にいないことを考慮すると、人間はもう少し、そこの所を大事に考えた方が良いんじゃないかと思う。

人間と動物の違い

2005年06月26日 | 教育
 生徒に、「人間と動物とどう違うと思う?」と聞くと、たいてい、「火を使う、道具を使う、言語をしゃべる」などの返事が返ってくる。
 で、2つ書いてみたいと思った。全く関連性がない視点2つだ。

 1つめ。
 先日も授業の雑談がてらちょっと聞いてみたら、真っ先に「人間だって動物だよ」と言った生徒がいた。彼としては、人間も動物も同じだという見方ができることを指摘したかったのだと思うが、私は実はその時むっとした。が、同時に今の小中学校の教育の影響だとも思った。

 むっとした理由は、いやしくも教員が問いかけをしているのに、この場合、「違いを考える」ことを要求しているのに、生徒がその文脈を蔑ろにする発言をしたことだ。こういうのを「揚げ足を取る」というが、授業中という状況で言えば一種の「授業妨害」である。(「先生が解けと言っている問題を解くな」と言っているに等しいからだ。)
 本人は全く悪気があっていっているのではない。その生徒の態度からよくわかる。それで、この生徒は以前もしばしばこの手の発言をしていて、私は気にはなっていた。ただ言い方や態度がソフトなものだから、これまでどの先生からも、あるいは他の誰からも指導されたことがなかったのだと推測する。「本人の気持ちを大切に。そのつもりで言ったこと、したことでなければ、つまり、形だけの問題では叱らない」という今の教育方針が見える。
 それで次に思ったのが、これはまた、一時流行ったか今も流行っているのか、小学校でのディベートのまねごとのような教育の名残かもしれないということだ。下手なディベート教育は、論理展開を教えるどころか、根拠のない批判精神を是としたり、ただの揚げ足取りを勧めたりする訓練だ。屁理屈をこね、やたら口の達者な子供が多いのは、そりゃ、テレビや何やら様々な媒体の影響はあろうが、10年くらい前によく書物でも目にした、ディベート教育の成果ではないかと思う。ディベートを推奨する本の中には、「相手の言葉尻をとらえよう」のようなことが書いてあって、唖然としたのを覚えているもの。(実社会での様々な曲面ではそういうこともあろうが、子供には非常に非教育的である。)
 この生徒は、決して不真面目な態度の悪い生徒ではない。しかし、学習には身が入らず、何か燃焼度の低い、物足りない生徒である。彼は、学校で指導される(←特別な指導という意味ではなく、通常一般的に行われる教科学習などの指導です。)内容の全てを、「ちょっとずつケチを付ける」視点で捉えるのだろう。素直に自分を高める方向に受け入れることがないから、成績も低迷している。(こういう言い方をすると、「物わかりのいい大人」の中には、「この年頃の子供は素直に言うことを聞かないものだ」とおっしゃって彼を弁護するが、伸びてくる生徒は、皆、まっすぐで何かしら素直なところがあるものだ。安易な弁護と同情は、子供の成長を阻害する。)今のままでは、彼は自分でその理由が分からないまま、低迷し続けるはずだ。
 私との付き合いは初めてだから、そういう「ちょっとしたこと」で注意を受けることに慣れてなかったと思うが、賢く成長していって欲しいと願う。

 2つめ。本論。
 生徒には、「人間だけが過去と未来を持つ」と言っている。物理的な過去や未来は、当然他の動物も持っているが、その意味でDNAは一種の記憶装置でもあるが、意識という点で過去と未来を持つのは人間だけだと思う。以下、全てを生徒に話すわけではないが思っていること。

 「伝統」や「古い物」を大事にできるのは人間だけだと思う。それで、古い物を大事にすると言うのは、余裕のなければできない、かなり大変なことである。「捨てる技術」が流行っていた頃だと思うが、数年前の「クローズアップ現代」だったが、「物を捨てる」ことについて、「本を捨てる」ことについて、立花隆さん(だったと思うが)「物を捨てる」のは日本の住環境のまずさのせいだ、と言っていた。ある漫画家の方(30代くらいかなと思ったが)が、自分が小学生のとき(大昔)に国会議事堂を見学した、その時のパンフレットか何かが取っておいてあって、それを使ってマンガの一こまを書いた、だから、役に立たない物はない、という話をしていた。ただ、利用するためにはきちんと整理する必要がある。その意味で、空間、時間共に豊かでないと古い物は大事にできないのだ。それで、そういうことは意識しないとできない、もっも人間らしい行為である。
  
 その点、皇室は立派だと思う。どこかの宮家は、以前のどこかの宮家のリフォームだとか、皇太子が小学校の入学式には自分の新しい制服で行っても、その後は「お古」を着たという話を何かで読んだことがある。天皇陛下のお古である。学習院という学校が、昔のまま同じ制服を制服にしていると言う前提がないとできないことではあるが、制服というのはそもそもそういうものだ。昨今、生徒集めに制服を変えている学校も多いが、本当は情けない話だと思う。そうでないと「今」が生き残れないのは、やはり貧しいからだ。

 「子供の教育」は未来に関わることである。環境問題もそう。「先のことは分からない」という人がいるが、「先のことを知る」ために人間は大変な努力をしてきた。だから、今生きている人が最も大切にされる社会、子供が大事にされない社会は、本当はあまり人間らしくない社会だと思う。

 まだまだ理由付けができるけど、お休みなさい。

解答配布

2005年06月24日 | 教育
 生徒でも小さい子でも、何か難しい問題があったとき、たとえそれがなぞなぞであろうと、自分で考えて解こうとする子と、すぐに答えを聞きたがる子がいる。で、すぐに答えを聞きたがる子の知的能力は、あまり高くないんじゃないかと思ってしまう。

 負けず嫌いとか、チャレンジ精神も関係するのかなぁとも思うけれど、勉強をするというのは、自分の世界を外界へ広げようとすることであって、獲得した自分の世界で満足することではないと思うから、やっぱり、すぐに答えを聞きたがる子は、自ら世界を広げようとする意志が乏しく、ただ、安易に満足したいだけだと思う。
 養老先生が、疑問を持ち続けることが大事だとかおっしゃっていたが、疑問を持ち続けるのはとても不安定な状態で勇気が要るんじゃないかと思う。で、不安定さは、一種の「動き」を内在させるから、自分の世界が広がる方向に転換するだろう。反して、とにかく早く解答を得て安心したいという気持ちは「静止」状態に陥ることだろう。だから、世界が自己満足に終わって、広がりそうに見えて決して広がらない。

 まあ、上記、書こうと思っていたこと違うんだけれど(苦笑)、生徒にやたら解答を欲しがる子がいる。イマドキは印刷術も非常に発達していて、欠席した授業は、友達のノートをコピーさせて貰ってOK。先生の方も、輪転機を2分回せばすぐできてしまうものだから、けっこう気楽に解答を配ってしまう人がいるように思う。生徒が欲しがるから親切心で与えちゃうというか。自分が授業した内容でも答えを配るとか。じゃあ、何のための授業なのかしら?

 私は3年生の何らかの時期だったり内容だったりする場合でない限り配らない。「聞き損ねたのがあるから欲しい」と言ってくる生徒もいるけれど、それで、実際そうなのだろうけど、予習が十分でないから聞き損ねている可能性が高い。多少のことなら友達に聞けばいいのだ。解答配布が習慣化すれば、「どうせ、先生があとで答えをくれる」と思っていい加減に聞くことだってある。最初の失敗は良い薬にして、次から緊張感を持って頑張ってもらえれば、これから何百時間にも及ぶ授業の一つ一つが生きてくるはずだ。目先の利益にとらわれない方が良いと思う。目先の利益と長期的な利は相反することだって多い。
 答えを欲しがるのが熱心な授業態度ではない。教員も生徒も答えを配って答えを貰って安心するだけのように見えることが多い。

 もっとも、私だって時期によって、自分で解答を読みながら学習できることは必要で大切だと思っている。しかしそれは基本的には自主学習の話であるから、学習に対する動機付けが余程しっかりしていない限り、解答配布は害の方がずっと大きいと思う。

作問は楽し

2005年06月21日 | 教育
 テストが近くなると、試験問題を作らなければならない。文法問題はちまちま作ることになる。1つ1点とか2点。いいとこ3点。問題数は多い方が良い。採点は大変だが、試験時間中に生徒が寝るのを防いでくれる。苦手な生徒でも、文法は小問ばかりだから、一応目を通してくれれば、何とかできるのも見つかるだろう。時間稼ぎである。とにかく、寝かせてはいけない。次から次へと作業させた方が、センター試験対策にもなる。この頃は、ちょっとでもひねると出来がてきめん悪くなるので作り甲斐がないからつまらない。

 リーディングなど読解問題も、私の場合はやたら量が多い。たくさん読ませて考えさせる。覚えてきて書いて終わり、の問題だけにはしない。作る方も考える。これ、それなりに楽しい。(教員の仕事の中で、私は作問が一番好きである。)これもセンター対策のつもりである。3年になって、模試でだけたくさん読んでも力はつかない。テスト本文はほとんど教科書通りである。(だから、たいして読まなくても解ける問題はある。)事前にしっかりと勉強をしていれば、何とかできるはずのものだ。できないのは、勉強をしてないせい。採点は面倒だと言われることはある。そんなにしなくても評価はできると言われるが、テストは評価のためだけでない。勉強の動機付けになる大切な要因である。煩雑さを避けてはいけいけない、を信条(ってほどでもないけど。)としている。
 いろいろな考え方があろうが、赤点を出さないようにと易しくすると、平均値あたりの生徒を寝かせることになる。と、定期試験の平均点は上がっても模試の偏差値はじわじわ下がっていく。だって、簡単なんだもの、生徒の勉強をする気が失せるのだ。試験はそれなりに大変なものにしないと誰だって勉強をしたくなくなるものだ。どんなにできない生徒でも。
 まあ、難しすぎるのも良くない。私の場合は、こっちに気をつけた方が良いらしい。で、この頃は大分手加減しているんだけれど、それでも、生徒の基礎学力はだんだん下がっていくから、他の先生からはいろいろ言われる。私と同化してくれる人もいるけどね。(で、私が1年から受け持つ学年は、他学年より模試の偏差値がちょっと良いんだよ。)

話が飛ぶDNA

2005年06月20日 | 生活
 このごろはそうでもない(と信じている)が、子供の頃でも学生の頃でも、友達と話をしていてしばしばきょとんとされたり「話が飛ぶ」と言われたりした。それが今日、母が言うには父もそうらしいということだった。「お父さんと話をしていて、そんなことなかった?」と言われても、全く思い当たる節はない。話が飛ぶもの同士、きっと飛び具合も似ていたのだろう。自分の中では整合性がついている。
 この年になって、意外なところが父親譲りだったとわかったわけだが、これも一種の人生の感慨だろう。

どうでもいいけど聴力

2005年06月19日 | 生活
 なんだか眠れないので。
 
 以前から気になっていたんだけれど、この頃、大型電気店やホテル、レストランに行くと、接客する従業員のほとんどがイヤホンを付けている。きっと中央管制室か何かがあって、客からの要望に迅速に応えられるよう指示が出されているのだろう。

 彼らは、毎日、何時間もそうしている。で、気になるのが聴力である。自分自身の経験もあるのだが、通勤時に右耳だけイヤホンで聞き物をしていたら、ふと気付いた時に右側だけ聴力が落ちていた。それで、即刻止めた。

 人間の聴力は、大きな音を聞くには適さないらしい。できるだけ小さい音を聞くのが動物として生存に有利だからだようだ。イヤホンやヘッドホンの音量は、ややもするとかなり大きくなる。私は小さい音で聞いていた。それでも耳を悪くした。

 学校で生徒を見ると、通学時にウォークマン(最近の呼び名を知らないが)をしている者が多い。自転車通学者などは交通事故も心配だが、彼らは適切な音量で聞いているのかも、本当は凄く気になる。それで、毎日毎日聞き続けて、耳を悪くしないか、本当は毎日気になっている。

 上記働いているのは多くは若者で、聴力の落ち込みもさほどでないのかもしれない。しかし、毎日毎日のことであろうに。それがずーっと続くんだぞ、仕事だもん。

 近頃の生徒の中には、やたら大声で話す者がいる。本人は自覚がないらしい。難聴の老人は大きな声で話すが、それ、若者でも関係ないのかなぁ?

 聴力検査で引っかかるというのは、日常生活に支障を来すときで、じわじわと能力が低下しても検査結果にはおそらく出ないのではあるまいか。また、高校生の場合、健康診断の聴力検査は入学時くらいだけでなかったかなぁ? となると、入学後の変化はわからない。

 ウォークマンが簡単に手に入る生活状況で、多くの職場で、あるいは高校生が、常時耳から電気音を聞き続けるとなると、今後の日本人の聴力は大丈夫なのだろうか? 

 そりゃ個人差があるだろうから、皆が皆私のように聴力を下げることにならないかもしれない。しかし、以前新聞か何かで読んだ。宝塚歌劇ではかなりの音量で歌や音楽を流すらしいが、それでも観客からはもっと大きくと言う要望が出るのだそうだ。劇場側も違和感を感じているらしかった。(数年前に読んだ話で、私の記憶に残っている内容である。)映画館や、劇団四季の音量もかなりものだ。(ちなみに、私が映画館や四季に行かないのはあの音量のせいである。)大音量が宣伝文句にあった何かの広告か宣伝もあった気がする。(←めちゃくちゃ不確定情報だね。)原因確定ができるわけではないが、すでに、日本人一般の聴力低下現象が見えてくるようだ。

 補聴器製造の会社が儲かるのかなぁ? 最近の補聴器はずいぶんと性能が良くなっているらしいが、今後は意外に若年層対象の製品開発が必要になってくるんじゃないのかね。若いときの習慣は抜けないし、じわじわ落ちた聴力は回復しにくいだろうに。(←医学的根拠はないが。)今から2,30年後がターゲットかね? 工学部機械や精密機器進学希望者に補聴器開発で一儲けしたらどうかと唆してみようか。(←これは冗談)

私の辞書指導

2005年06月18日 | 教育
 苔むさずさんのブログ(http://plaza.rakuten.co.jp/kokemusazu/diary/)にトラックバックします。私の話題は紙の辞書だし、なんてたって学校の先生の話は長い、コメントには長すぎる。(苦笑)

 苔むさずさんのおっしゃるとおり、紙の辞書でも、引き方になれないと使いこなせないです。
 1年生の授業では、1学期は、必ず1時間に1回辞書を引かせることにします。(英語の時間は必ず辞書を持ってこいと言います。)多少授業の進度が遅れても辞書引きの方が大事だと考えます。英語学習自立への第一歩ですもの。

 近頃の辞書には、多義語等重要語は、見出し語のすぐ下の小さな枠線の中にそれぞれの意味がおおざっぱに書いてあるものがあります。そういう辞書を使っている生徒はその枠線内だけを見て、訳語をノートなどに写してきます。普通の辞書の場合は、やはり、最初に出てきた訳語。
 私はそれでは辞書を引いたことにならないと思っています。でも、こうなるのも多少仕方がない。だって、辞書なんて引かなかった中学生が、いきなり分厚い細かい文字の羅列を眺めて、適切なものを探すなんて、そりゃぁ大変です。(もちろん、これがちゃんとできる子もたくさんいますが。)
 で(でも?)、私は、調べさせた教科書の語と同じ用例を探させます。これは大変です。場合によってはヒントを出します。友達と一緒に探してもいいよと言うこともあります。辞書引きの最中は、何をして良いのかわからない生徒のところに行って、多少の助言もします。で、見つかったら、必ずノートに写させます。(面倒くさがってなかなか書こうとしませんが。)訳も書かせます。それでまた、前後を見よ、「へぇ~」と何か発見して感動せよと(一応)言います。

 生徒によっては、違う用例を選んで書く子もいます。大事な語の他の用例を知るだけが目的なら、教員が模範を板書すればOKです。でも、それではいけません。自分で勉強できるようになれませんから。最初は試行錯誤で、多少の間違いや失敗(といっても、写して書く英文は辞書の正しい英語ですから、根本的な意味での問題はない。)は仕方がないと考えます。やっていくうちに、自然とちゃんとできるようになるものだと私は信じています。自分で勉強ができる子になって貰いたいんです。いずれは、英英辞書も使えるようにと思って。。

 クラス内でいろんな辞書がある場合は、近くの子と例文の見せ合いをしなさいと言います。でもこれは、多少レベルの高い子たちでないとなかなかしようとしません。

 電子辞書に関しては、のぞき込みにくいので、助言も与えにくいです。辞書によって画面も使い方も違うし。。。キーを何度も押しなさい、くらいしか言えない今の自分。。。

 電子辞書を使って、まず調べるおもしろさに慣れ、それから紙の辞書にはいってもいいかなと言う気もしています。(でも、これではお金がもったいないね。)気楽に引けるのが楽しそうです。

 電子辞書に関しては、まだ試行錯誤状態です。自分でも使いこなせてないのが問題かな?