考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

学校で習うことだけが「知」ではない

2015年02月25日 | 教育
 自民党の礒崎某氏がツイッターで次のように書いたようだ。
 「時々、憲法改正草案に対して、「立憲主義」を理解していないという意味不明の批判を頂きます。この言葉は、Wikipediaにも載っていますが、学生時代の憲法講義では聴いたことがありません。昔からある学説なのでしょうか。」
 この言への批判が多くあるようだが、批判の矛先は立憲主義に関する無知(と呼んで良いだろう)に対するものだ。私も大いに疑問を持つが今回憲法談義についての批判はとりあえず脇に置く。それでもこの礒崎某という方の知見には大いに疑問を持つ。

 気になるのは、「学生時代の憲法講義では聴いたことがありません。」という言葉だ。
 学歴は東大法学部の卒業である。高校時代の勉強はかなりよく出来たのだろう。おそらく文科一類からの法学部進学だろうから大学受験の点では文科一類が文系で最難関だから、また、もし特に現役での合格なら、彼は「相対的にものすごくできた」はずだ。
 高校生で「勉強がよくできる」生徒にも多くのタイプがいるが、共通している点がある。どんな難関であろうと入試は、要は試験だから必ず「試験範囲」というものがあり、大学入試のそれは「高校までの学習事項という試験範囲」でしかないので、生まれ持った記憶力と論理的思考力がその試験範囲をクリアできるほどのものでありさえすれば、授業と受験参考書の何冊かを勉強すれば「自ずから点も取れて試験も合格できてしまう」ものだということだ。(うん。今、かなり能力の高い集団を教えているから、ホント、そーゆーものだということは実感としてわかる。同意してもらいにくいとしたら、このレベルの生徒は少ないというだけの話である。)この方も高校生の時はそんな風によくできたことだろう。
 ここで注意していただきたいのは、試験には「習ったこと以外は出ない」ことだ。特に東大の問題は基礎基本を根幹から理解し、十分な応用ができるほどの思考力を習得すれば「それなりにできてしまう」ものである。それで、この際に必要な「思考力」とは「必要なときに必要な既習事項を迅速に思い出してちょっとした思考過程を経て使う」というものだ。思考過程にちょっとしたコツが要ると言えば要る。が、こうしたコツは人から教えてもらっても教えてもらわなくても、東大を目指す程度の記憶力と思考力の持ち主なら何となく体得してしまうことも多い。
 前置きが長くなったが、まあ、要は、上記にのべたような能力が人よりも優れていれば試験はできてしまい、そのせいで、(ここから大事→)本人も自分は優秀だと思い、自分の思考の方法に何の疑問も持たなくなることだ。「オレ、周りの人間よりできるもん」てなわけで。だから、「勘違い」が起こる。
 この礒崎某氏の大きな勘違いは、「大事なことはすべて学校(大学)で人から教えてもらえる」というものだ。
 この方は、世間的な意味で、おそらくもの凄く「アタマがいい」のだろうと思う。ちょうど我々が小学校低学年のときに、先生から教えてもらうことを習得すると「学校で習った」という思いを強く抱く。ちょうどそのように、彼は大学までに学ぶべきことを、もちろんそれが大学の講義内容だけでなく参考文献なども含めたとしても、容易に理解し習得したという経験を持つのだろう。(ここで「ならば、立憲主義を。。」という突っ込みはなしにしてね。論点がずれるから。)
 多く人の場合、大学に入るまでに、或いは、大学に入学してから自分の知的能力の限界を知るなどして何らかの葛藤をするだろう。(もちろん、レベルが低くても「これは必要ない。オレには関係がない」と、葛藤が生じない人も多い。)しかし、この方にはそうした経験はないのではないか。でなければ、大の大人が、「学生時代の憲法講義では聴いたことがありません。」などという、「学校で教えてもらってないから知らないよ。当たり前だ。」という小学生がよく口にする言い回しは恥ずかしくて出てくるはずがない。それを堂々と公言するに憚らない方が台頭してきているというのは、今の社会の知性がまだまだなのか、日本がどんどん劣化してきているということに他なるまい。

何のために勉強をするのか

2015年02月09日 | 教育
 俗の言うトップ校の生徒を教え始めて思うのは、彼らにとって勉強をするのはあまりにも当たり前のことだから、これまでの生徒の指導、いかに勉強に興味を持たせて勉強させるかといった指導は全くどうでもいいものになる。学力をどのように付けさせるかと言う観点では、これまでの学校と似たり寄ったりとも言えるし、どうしても若干は高度になるから面倒と言えば面倒である。しかし、長年の経験による蓄積があるせいか今のところはさして問題は生じていない(と思う)。3年生を担当するとなるとどうなのかなとも思わないではないが、まあ、何とかなるのではないかと近頃は気楽に考えている。
 そもそも勉強なんて、少なくとも私が教えている英語という教科に関して、教えなければならないことなんて何もないに等しい。(「授業放棄」じゃないよ、念のために言っておくけれど。)自分自身、英語の勉強で(他の教科でもだが)先生に教えてもらったなんて感覚はほとんどないに等しい。勉強なんて自分でできるものだ。勉強をする機会としての授業はあったし、授業という場を通して他の生徒の発言などから学んだことは多いが、先生の存在は化学反応の触媒程度だろうと自分で思う。英語の解釈や表現の間違い、読解そのものの間違いをすることは誰でもあるから、そうした間違いや間違いの正し方、なるべく正確に読むための方法、より良い表現をするための学習法、自分の間違いの可能な限りの見つけ方などは教える。だが、それらを一通り体得したら、あとは訓練だ。おそらく現役で東大京大に合格しそうな生徒以外はなかなか習得出来ない技能のような気もするから授業は必要と言えば必要だろうが、それでもその程度のものでしかない。だから、もうほとんどのところ「勉強は自分で辞書を引いてやればそれでいいんだよ。」で、終わりである。そもそも知識なんてそのあたりに転がっているのだから、あえて私がわざわざ教えてやる必要なんてないも同然なのである。逆に、知識を人から教えてもらうことに慣れてしまうと自分で発見できない人間になってしまう。知性の極み?に近い生徒集団に対して教えてばかりの指導をするのは人類の知性への冒涜だろう。
 だから、最大の課題は、「授業はなんのためのものか」に収斂する。通常の学校のような授業は必要がないとも言えるからだ。もちろん、受験があるからそれ相応の「学力」を付けてやる必要はあるが、学力なんて、それなりにマトモに勉強をすれば試験に対応する程度の学力は能力に相応する程度には自ずから付いてくる。だから、いかに広汎な力にするか、また、更に、日本の遠い将来のことを考えると、彼らがその知性をどのように使うかという観点の方が授業の目的としてははるかに重要になるだろうと思う。
 生徒はけっこう雑談を好む。ことに今の社会の状況を勘案すると、自分たちが生きる世の中がどうなるのか、あるいは、自分たちでどのように構築していくべきものなのか、関心を持たない訳がないだろうし、逆に、関心を持たせなければならないだろうと思う。しかし、こうしたことは、特に私の英語という教科は、その枠内で十分に考えさせることができるだろう。
 というわけで私の授業は雑談が多い。