考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

エライ先生が悪ぶってどうするってんだ

2007年08月30日 | 教育
 学校だと、いろんな配布物がある。各先生の書いたモノとかインタビューとか、まあ、そういうものが中にある。

 時々、極めて不快になることがある。(苦笑)
 主任でも管理職でも、生徒へのコトバとして、自分が高校生の時、こんなことをした、あんなことをした、と言う思い出話に、「何これ??」というのがあることがある。
 例えば、「本来は許可されないことを担任が目を瞑ってくれた。感謝している」とか、「高校生の時に羽目を外すのも悪くない」とかいう内容。
 
 何を考えているんだよ。かつ、それを見とがめない一番エライ管理職も何をしてるんだ。なぜ、差し止めないんだ。
 学校が集団生活をする場であることが全く理解されてない。「個人の場」であると勘違いしているから書ける内容だろう。家庭内で、自分のムスコやムスメに言うのではない。

 現実は「そう」だったかもしれない。しかし、それを教員自らが公言してどうなるというのだ。皆が「それ」を真似たり、「それ」が良いことであると判断する危険性を考えないのだろうか。「学校」という集団として何を目指すというのか。

 「自分」はマトモに卒業し、少なくとも教職という定職に就いた。しかし、「そうなれなかった者」は必ず存在する。ちょっとしたきっかけで崩れ、立ち直れなかったり、立ち直るのにもの凄い苦労をした人だっているはずなのだ。だって、何百人もの生徒集団だから。でも、そんな人は表に出てこない。表に出てないからと言って「いない」とは限らない。「自分」は、タマタマ幸運だったから、多少ワルイことをしても何とかうまくいったのだろう。その可能性は考えないのか。

 教員のくせにワルぶる人は嫌いである。立場をわきまえろ。実際どうだったかはどうでもいい。そんなことで「親しみ」を感じさせなくていいだろう。それが「ふつー」の生徒の態度だったら、学校は学校として機能しない。それで、その人たちの学校が学校として機能していたのは、その人たち以外の生徒が、真面目だったからなのだ。勘違いするな。



 
 

基礎力重視の普遍

2007年08月26日 | 教育
 佐賀北高校です。野球のことはよくわかりません。というか、全然知りません。

 でも、はっきりわかったのは、彼らは、高い山、エベレストに登るつもりで体力作りをし、練習しただろうと言うことです。

 勉強でも同じです。
 英語なら、教科書に出てきた表現のすべてを学習しましょう。その積み重ねです。
 良い文章を徹底的に読みましょう。訳読にしても、文構造から、文と文のつながり(関係)、段落の内容、段落同士のつながりのすべてを理解しようとつとめるのです。「努めることが大事」です。その上で、書き手の主張を読み取りましょう。間違えても良いのです。続けていけば、独りでに「正しい読解」に自ら至ります。


納得していては勉強なんてできるようになるわけがない

2007年08月25日 | 教育
 私はいつも同じことしか書いてない。これだって、何回かここに書いていることの焼き直しである。

 「納得していては勉強なんてできるようになるわけがない」のは、「勉強が出来るようになる」ということが「疑問を持ち続ける」と同義だからだ。(養老先生もおっしゃっている。)「うー、わからない。わからない。」と思い続けるから、ある日、天啓のように「わかった!」と思える時がやってくるのである。だから、「わからない、わからない」と常に思い続けることが、分かることへの最短の近道なのである。
 だから、「わかりやすい授業」はいけないのである。授業は、「ちょっとわからない」ほうが良いのである。別に「言い訳」をしているのではない。逆説的に言っているだけである。この「ちょっとわからない」は、飛躍に至る、つまり、私のコトバで言えば、新しい次元、軸の構築にいたるために不可欠のものだからである。

 こう書いても、「でも、やっぱりわからないなんて、かわいそう。」とか、「でもやっぱり、生徒の気持ちを考えるとわかりやすくないと、やる気がなくなるんじゃないのか」とか、「わからないと次に進めないではないか」と言う人が必ずいる。過激な表現になるかもしれないが、(う~ん、私、「すとれす」がたまってるのかなぁ?笑)私は、「じゃあ、あなたはそんなによくわかっているの?」と問いたくなる。そんなわけないだろうに。中途半端に分かって満足しているだけだってことなのだ。そのことに自分自身が気が付いてないから、「わからないなんてかわいそう」と思うのである。一種の自惚れである。(わっ。)

 もちろん、全く分からない状態で次に進め、なんて言うつもりはない。しかし、多少、わからないことを残しても、次に進むことによって、「わかる」ことが多くある。で、その際の「条件」が、「わからない、わからない」と自分の抱く疑問を数多く担保しておくことなのである。だから、基礎基本の精選は、担保できるほどの余剰がない分、能力を伸ばさない。

 疑問を持ち続けるのは、実はとても苦しい。なぜなら、「すっきりしない」からである。便秘ですっきりしないのと同じである。全部出ればすっきりするのと、わかってすっきりするのとは同じである。(←ほとんど本気で書いている。笑)分かることを求めるのは、ただ「すっきりしたい」という「快感」を求めているだけの話だ。決して本気で「より多くのことを深くわかりたい」と思っているのではないのだ。
 まあ、「わかりやすいことはいいことだ」は、一種の快楽主義という世情の表れでもあろう。
 「わからない」と思い続ける体力が、誰も彼もなさ過ぎる。それで、「わからない」と思い続けたからこそ分かるようになったのだと言うことを、多くの人は忘れる。「わかった!」という快感と事実だけが頭に残り、それ以前の「わからない不快」は、すぐに捨て去ってしまう。「嫌な思い出」だからだ。

 だから、猫も杓子も「わかりやすく、わかりやすく」を求める。「納得すること、させること」を求める。子どもの時から、「納得すること」を求める教育を受けていたのでは、新しい地平の存在に気が付くことができなくなる。「関係ない」「知らん」で済ますことが是認されると思い込む。それだけならまだしも、「今いる自分の世界」以外の世界を否定する考え方に繋がり、学ぶことから逃走することこそが自己のアイデンティティであると考えるようになるのである。


「ワープする宇宙」--読めるわけなさそう(ゴミ)

2007年08月24日 | 教育
 リサ・ランドール博士の本だが、翻訳が出ているらしい。今度のテレビ番組は、東大でやった講演らしい。聞きに行った理学部物理学科の学生さんのブログに書いてあった。
 物理専門の学生さんでも「難解」だった翻訳本。知識がある分野は読めたそうだが、素粒子論になると「難解」というのだから、知識のない私が読めるわけないのかぁ。。
ああ、何だか残念。。

 まあ、めげないでおこう。それより、一応のファン?としては翻訳本を捜して買ってくるのが今のところの仕事だな。(笑)
 (ちなみに、The Elegant Universeは原書と翻訳本の両方を持ってる。)

追記:リサランドールで検索したら、物理学者のご夫婦の奥さんのブログが見つかって、この本、「大学院レベル」だって。もちろん、物理学の。
 ますます、ムリっぽい。といか、絶対にムリか。(笑)

「普遍」を「具体」に当てはめる養老先生のアタマの良さ

2007年08月20日 | 養老孟司
 虫は関節で話をするらしい。人間の関節はすべすべしているからなめらかに動くが、虫の関節には凸凹があるので、ごつごつさせて動くと言う。私のイメージでは、昔々のロボットのようなぎくしゃくとした動きだろう。凸凹をかみ合わせるから同じ姿勢を取り続けることも出来る。しかし、動かせば凸凹が擦れ合うものだから音がすると言う。だから、蟻の巣の中はさぞかし五月蝿いだろうと養老先生はおっしゃる。それで、凸凹は、擦れ合うからには摩滅する。しかし、虫は1年の命だから、摩滅してもその頃には命も終わるから構わないと言う。

 なるほど。
 私が「養老先生がアタマが良いと思う理由の一つに、↑こーゆーことがある。「凸凹は擦れ合うと音がする」「凸凹は擦れ合えば摩滅する。しかし、虫の寿命は短いから構わない。」

 言われてみれば当たり前のことである。
 なぜ当たり前なのか。それでなぜ私は感心をするのか。

 養老先生は、「凸凹は擦れ合うと音がする」という「普遍」を「具体的な事例に当てはめる」からである。凸凹の摩滅と寿命の関係もそうである。

 つまり養老先生は、我々の世界の「ふつーの常識」が昆虫という私などから見れば「特別な世界」にも当てはまるのだ、ということを意識化させてくれるのである。

 あまりにも自然で素朴なモノの見方である。でも、私は、大事なのは、こういった感性ではないかと思う。何事も、人間が形作る世界はさまざまである。しかし、その根底に横たわる普遍的な何かを見出す素朴な「感性」は、ものを見る上で非常に大事なことではないか。

 我々はややもすると、物事を切りたがる。(コトバの性質がそうだからである。)虫は虫、音は音、凸凹は凸凹と、それぞれ別物であるという見方をする。虫は「生物」だし、音は「物理」である。凸凹は「物理」もあろうが形態として「美術(造形)」である。これらそれぞれを別物として捉えて何の誤りもない。「勉強をする」ことの基本は、虫は虫、音は音、というような「切り方」をまずは覚えることにあるからだ。教科、科目が良い例だ。
 しかし、本物の勉強は、そこからまた「何らかの結びつき」を再構築したり、再発見したりすることから始まる。でないと、学校の勉強だって、本当には出来るようにならないのだ。

 養老先生のアタマの良さは、いったんは別物として扱われたモノに「繋がり」があることを思い出させてくれることにある。私は、養老先生は、これがものすごくうまいと思う。

 私が感心する養老先生のアタマの良さの基本は、こういった点である。


目先の傾向と対策でなければ、杞憂であればいいのですが。。

2007年08月15日 | 教育
ときどき拝見しているブログ「英語教育にもの申す」に気になった文言がありました。ココログだとコメントできないので自分の記事に書きます。(TBも受け付けてないようだし。。)

>この企画のために、過去の高校入試のデータを集めて、それをエクセルに入力したところ、なんとデータ件数が4000件近くのデータが集まりました。そのデータの一部を書いてみると、、、公立高校入試では、so ~ that…やtoo ~ to…はまず使用されないが、指導要領を超えている国立私立の入試問題ではバンバン使用されています。とまぁ、こんな風に、実際のデータから、どんな項目が入試のテストに出ているかというものです。

ここを読んで、私はぎょっとしました。
「それで、このデータを何ためにどのようにご利用されるつもりなのでしょうか」と言う疑問です。

特に気になったのはここです。(具体的な記述としての具体例ととらえましたが。)
>公立高校入試では、so ~ that…やtoo ~ to…はまず使用されないが、指導要領を超えている国立私立の入試問題ではバンバン使用されています。
 
この「事実」を明らかにすることによって、公立を目指す生徒の「so ~ that…やtoo ~ to…」の定着度が上がる効果が出るのでしょうか。それで、それ以降の、つまりは高校に入ってからの英語教育は促進されるのでしょうか。

中学の教科書を確かめていませんが、ネット上で捜したら、教科書の「定期テスト問題例」のようなものが出てきました。「3年2学期・期末テスト」で、教科書によってはso ~ that…、too~toが出題されています。この時期に習う内容ではないかと思います。教科書によるのでしょうか、しかし、中学校の教科書で扱っているわけです。

私は、「僕は私立を受けるからso ~ that…やtoo ~ to…も勉強をしなければならない。」「私は公立だから、so ~ that…やtoo ~ to…はやる必要がない」にならないのかしら?
これは、高校に入ってからの英語教育に良い影響を及ぼすのでしょうか。
私は、公立高校の教員なので、とても気になります。

また、なぜ、「国立私立の入試問題ではバンバン使用されています」のでしょうか。これらの構文の習得の確認は、単なる「選抜」のためのものなのでしょうか。それとも、「最低限これくらいは習得しておいて貰わないと、高校英語に繋がらないじゃないか」という高校側からの要求はないのでしょうか。
また、公立高校の英語は、「so ~ that…やtoo ~ to…」から教え始めるのが「順当」と言うことでしょうか。指導要領で具体的に定められていないことは習得を目指さなくてよいということでしょうか。(じゃあ、単語はどうなのよ、と思わざるを得ませんが。)

大学入試に関しても、既に同じことが言えます。かなり明白な形で起こっています。
生徒は、辞書ではなく、重要語の単語集を片手に読解問題を読みます。それで、生徒によって、未知語は、単語集に載っていれば覚える、載っていなければ「覚える必要がない」と判断する傾向があります。
私は、これがホントの勉強だと思いません。それどころか、多大な悪弊を及ぼすものと見なします。

私は2番手校で教えていますが、生徒の話によると、塾の指導によっては、「君の受ける高校は○点を目指せばよいから、確実に○点とれるように、難しい問題はしないように。易しい問題で確実に点を取りなさい」らしいです。(数学が如実。)よって、トップ校でない限り、生徒は、入学後も、試験前には、たとえば、「先生、単語はどれを覚えたら良いんですか。どこはする必要がないのですか」と言う発想で学習に取り組みます。1年生からこの考え方です。これでは、どんどん「差」が付きます。で、「自分の知らないことは全部」というと、びっくりされる。(でも、まともにその言葉通り勉強をする生徒は確実に伸びます。)

その「企画」がどのようなものかを存じ上げないまま申し上げるのは失礼なことかもしれません。しかし、その「企画」が是非とも目先の入試対策ではなく、真の英語習得に繋がるものであって欲しいと願います。
(どうか倫太郎先生の目に触れますように。)


懐かしい?ブログ紹介

2007年08月10日 | Weblog
 ついさっき、今頃になってleibniz0さんのブログを見つけた。
 この人、言葉遣いは悪いが(失礼)、言っていることの本質は正しいと思う。(って、新しいのはまだちゃんと読んでないけれど。)
 以前のが消えていて残念に思っていたから良かった。
 
 みなさんも、どうぞ。ご紹介。
 「東大生が教える日本社会の本当の仕組み」http://d.hatena.ne.jp/leibniz0/
 ただし、くれぐれも「言葉尻」を捉えて勘違いして誤読しないようにしてくださいね。

英語の読み方とアングロサクソン的考え方

2007年08月10日 | 教育
 ある人に、私の授業のやり方を言ったら、「英国語」を教えてるんだねと言われた。まあ、現代文の授業でやっているような読解を英語でやっているようなものだということだろう。そう言われればそうかな。だから、私のテストの問題のいくつかは、その場でしっかり読解すれば答えられる問題が多い。現代文の場合、しばしば言われるのは、「答えは全て問題文にある。」だが、それと同じことを私は確かにやっている。
 とにかく、私は「スカートを伸ばせ」も含めて、「英語の先生」ではないという自覚が十分にある。(笑)
 
 授業では、もちろん、英語で書かれた文章を読むわけで、文章を読むという行為は、思考法を深めることと同義であろう。だから、要は、私がやっているのは、アングロサクソン的思考法を生徒に体得させようとしているのだろうなということだ。それで、私がここに書いている文章は、その逆を行っているだろう。自分が教材を教えながら身に付けた文章構成で文章を書いている。(数学の影響も無視できないと思うが。)

 今の「グローバル」という考え方において、アングロサクソン的な論法?は、力を持っているが、ホントに、この思考法を学ばせて良いの?という疑問が私につきまとう。
 ところで、「アングロサクソン的思考法」と書くと、「じゃあ、アングロサクソン的ってどういうこと? 他の思考法にはどんなのを想定するの?」という疑問を持たれる方もいると思うが、私はこれに答えることが出来ない。他の思考法を知らない、まあ、「なじみがない」からだ。

 以前、「入れ子思考」と「螺旋思考」というコトバで思考法を規定したことがある。入れ子思考は、入れ子構造、つまり、関係詞などを持つ英語の構造がなす技の思考法で、私は入れ子思考法を取る。(私が英語が面白いと思ったのも、関係詞などが作り出す構造の妙味だった。)その反面、ぐるぐると回るように、似た部分を繰り返しながらまるで螺旋階段を上っていくように思考を高めていく方法を取ることは出来ない。(日本語は、こっちに近いと思う。再読してないが、小林秀雄の文章がその典型のような気がする。高校時代、教科書を読んで、「なんだ、この人、最初から最後まで同じことを繰り返し言葉を換えて言ってるだけじゃないか」と思った。だから、難解という気はしなかった。国語の出来る友人もそう言っていた。)

 誰でも人間の言いたいことは、大方一つのことだけである。その説明の仕方が、入れ子構造で説明するか、小林秀雄的に説明するかの違いだろう。(あ、大胆。)
それで、たぶん、脳味噌の構造で、「嗜好」と言うか「指向性」と言ってでも良いようなものが影響して、読解できたり出来なかったり、書けたり書けなかったりするのだろう。

 それで、私は、ひたすら、「英語的思考法」を教える。私の場合は、この思考法が「合っていた」。しかし、生徒はそうでもないだろう。彼らは自分の知らないことを知るため、学ぶために学校に来てはいるものの、日本中が「英語中毒状態」で、英語的思考法の訓練を受けさせられるのも、何だかこれで本当によいのかなぁと思ったりする。

 思考法というのは、人間の根幹である。その根幹をそこまで弄っていいのかなあと思ったりする。所詮人間の持つことが出来る考え方は一つだろう。私はこれが向いていた。しかし、向いてない生徒もいる。その根幹を揺るがすことはないのかなというのが、まあ、何年か前からの悩みというか何というか。。。

すごい先生の話から本物の勉強など

2007年08月08日 | 教育
 (実はよく知らない方だが)とても若い方だが、たぶん、きっとすごい先生だと思われる人がいる。
 部活動も授業もしっかりとするようだ。部活もめきめき成績をあげ(これは目に見えてわかりやすい。)、授業内容も話を聞く分に、これで悪いはずがないと思う。
 言うことが理に適っている。この人の言うことは、ほとんど間違っていない。(ちょっと話をすればそれくらいわかるさ。)

 私は、それなりに多くの先生を知っているが、褒めたくなる人はあまりいない、というか、ほとんどいない。(苦笑)でも、私はこの先生を(私より遙かに年下だが)尊敬する。理論も実践もそうとうなレベルに思われるからだ。
 
 この先生の良い点は、生徒の能力を軽んじていない点である。生徒を伸ばす技能(大きな意味でも小さな意味でも)も凄いと思う。で、かならず伸ばす。もちろん、限界はあろうが、限界まで伸ばそうとする。で、生徒の能力は、実はかなり高いものである。「出来ない奴」と思っても、結構な線までいくことがある。もちろん、皆が皆インターハイに出ることができたり、旧帝大などの大学に入れるわけではないが。

 最初から低い山に登ろうとするのと、とても高い山を目指すのとでは、根本が違うということだ。この先生は、どの生徒にも力の限り高い山を目指させる。
 もちろん、皆が皆その高い山に登り切れるわけではない。しかし、大事なのは、目標が違えば、やり方が異なるということが起こる。
 高い山に登ろうとすればするほど、基礎力がモノを言う。鍛え方が根本から変わる。大事なのはそこだ。

 昔、文藝春秋に、漫画家の池田理代子氏が、なぜ音大を目指したのかを書いていた。日本舞踊をやっていたとき、素人も稽古を積めば玄人のレベルになると思っていたと言う。しかし、ある若手の舞踊家が何か失敗らしきものをしたとき、素人と玄人では、目指す山が違うことを知った、と言うのだ。それまで池田氏は、素人も玄人も、同じ山をルートを違えて登っているだけだと思っていた。だから、時が経てば同じ頂上に到達できると思っていた。が、実は、素人の稽古は、最初から低い山を目指す登り方だったという。それで、彼女は玄人として声楽家をめざした。そのための音大入学だった。

 今の学校教育は、「頂上に到達させること」を目的にしている。「達成感」である。だから、山は低くなる。どんなに低くても頂上は頂上という考え方である。

 ホンモノの力をつけるためには、最初から高い山に登るつもりでいた方が良い。ホンモノの力とは、「応用力」につながるものである。
 低い山に登るのは、勉強では「ごまかし勉強」だろう。「ごまかし勉強」では、難関大学は通らないし、とにかく応用が利かない。基礎基本を身に付け、全体を概観する力をつける、樹木でたとえれば、幹から育て、葉を茂らせるホンモノの勉強をするのが大事である。「ごまかし勉強」は、葉っぱだけを育てようとするようなものだ。そんなのムリに決まっている。
 
 大事なのは、たとえ今は葉がさほど茂っていなくても、大きな幹があれば木は自分で立っていることができるということだ。時間が経てば、葉を茂らせることもできるようになるだろうということだ。
 細い幹にたくさんの葉を茂らせても、葉っぱはやがて落ちる。その後どうなるのか。自分で立っていることすら危ういかもしれない。

 高い山には目指すべき高い頂上がある。そこを目指せば良いではないか。しかし今は、低い山でも頂上に到達することを目的にする。
 なぜ、そんなに頂上に到達することばかり考えるのか。低い山の頂上から、一体何が見渡せるのだろうか。もっと高いところを目指そうにも、それ以上高いところに登ることは決して出来ないのである。残酷ではないのか。「そこで満足しろ」「君の立ち位置は、その低い山だ」と言っているのだ。
 高い山なら、今はたとえ頂上に到達できなくても、「より高いところ」をめざしことができる。一歩上がれば一歩だけ高くなるのである。(ひょとしたら、いつの日か到達することだってできるかもしれないのだ。)その一歩は、いつ何時でも歩める一歩だろう。それなのに、なぜ若いときに「ここまで」と最初から頂上を決めつけ、制限を加えなければならないのだろうか。

 私は、他の多くの先生は、実のところ、生徒の能力(あらゆる能力)を見下していると思えてならない。だから、肝心の基礎基本を大事にしない。本当に分かるのには時間が掛かる。手っ取り早く「効果的に点に繋がる」ために葉っぱだけを付けたがる。やっている当人にその意識はない。(もちろん、私も自戒しないといけないことがあると思うけれど。)