考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

面接の練習

2008年01月30日 | 教育
(看護系の面接練習のあと)
「先生、面接、受けたことがあるんですか」
「え? そうだねぇ。。大学入試では面接なんてなかったし。私は、中学入試を受けたから、その時はあったかな。高校入試ではなかったし。他には。。。採用試験の時かな。なんで?」
「いろいろ質問してくるから。。。」
「ああ、そうだよねぇ。。医療系に関しては、所詮素人だからねぇ。何でだろうねぇ、質問ができるのは。そうだねぇ。。不思議だねぇ。。。」

なんてたって、1時間もみっちりやってしまったからなぁ。
私は、質問をしていろいろ答えさせたが、やったのは、実は、その子の中にある「考え」の筋道を付けてやる手伝いをしただけなんだよね。

面接の練習をすると、自分の思いを言葉にするのが得意な子とそうでない子がいるのに気が付く。前者は問題ない。いかにスムーズに話を運ばせるかだけだ。で、下手な子に関しては、これも、言語表現が下手か上手いかの違いだけで、「志望」するからには、どの子にも必ず「志望理由」があるのだ。だから、こちらが誘導して、その「理由」を引き出させる。自分で自分の考えていることに気が付かせる手伝いをするわけだ。予想される質問に、どのように答えたら良いかを教えても、突っ込まれたら、困るのは本人である。だから、どこまで突っ込まれても良いように、自分でしっかりと言語化できるまで考えさせる。「理由」と「目的」が、動機から目標までしっかり結びつけることができるまで思考すれば、どんな質問がきても、それなりの答え方ができるようになるものだ。(まあ、少なくともウチの子たちはそうである。)


「どうしたら彼を~するように説得できるだろうか」

2008年01月29日 | 教育
和文英訳
「先生、わからん。」
「最初から完璧に書こうとするからわからないんだよ。なんでもいいから、知ってる単語ない?」
「う~ん。。。」
「説得するって、どういった?知ってるでしょ?」
「persuade」
「どうやって使った? 文の最初から書こうとするから書けないの。途中からで、いいの。とにかく、書くの。一つの単語で良いから、書く。それから考える。」
(板書)
 How  persuade him to ・・・・ 
「そう、それでいいの。persuadeは、persuade 誰それ、to不定詞でいいのだから、これでいいじゃない。ちゃんとできてるじゃない。『どうしたら』も、how で良いよね。方法だから。How do you come to school?と同じだから。じゃあ、ここから考えよう。これじゃ、主語がないね。『どうしたら彼を~するように説得できるだろうか』だから、主語はだれ?」
「I」
「そうだね。書いてないけど、Iでいいよね。」
(板書)
 How I  persuade him to ・・・・
「で、この文は、平叙文?疑問文?」
「疑問文」
「じゃあ、?をつけよう。大分できてきた。『できるだろうか』だから?」
「can」
「どこに入れる?」
「Iの前」
(板書)
 How can I persuade him to ・・・・?
「できたじゃない。で、もし、『説得する』を忘れてたら、talk 誰それ、だたしこの場合は、into --ingになるけど、とにかく、まずは思い付いたところから書く。最初から、完璧な文を書こうと思わないこと。単語一つでいいから、書いてみる。それから、また考えればいいの。」


doとdoes

2008年01月27日 | 教育
「Doとdoesって、どう違うの?」
「Doesは、heとかsheとか単数のときにつかうよ。」
「三単ってのね。」
「そうそう。A dogとかthe catでも、itでも、waterみたいな数えられないときにも使うんだよ。He plays tennis.ってときに、playじゃなくて、playsを使うでしょ。それと同じ。わかる?」
「うん、わかる。」
「Does he play tennis?のときは、doesを使ってplayになるのはわかる?」
「うん。」
「なんでか、わかる?」
「わからない。」
「それはね、doesにsがついてるでしょ。だから、もう、sを付ける必要がないの。」
「ふ~ん。」
「原形って言うの。辞書に載ってる形なの。だから、ホントはね、I play tennis.というときのplayと、Does he play tennis?というときのplayは、一見同じに見えるけど、違うんだよ。I play tennis.のときのplayは、現在形がたまたま辞書に載ってるのと同じ形になってるだけなんだよ。」

時間切れ。
---しかし、助動詞と本動詞がごっちゃになってることに後で気が付いた。

江戸幕府とスルタン

2008年01月25日 | 物の見方
とは奇妙な組み合わせであろう。
 
 聞いた話。オスマントルコだと思うけど、スルタンが統治していた。しかし、スルタンは世襲制らしいが、血を分けた後継者が一人決まると、他の兄弟は、たぶん、異母兄弟も含まれるのだろうが、皆、命をなくされたらしい。自ら死を選ばされたのか、あやめられたのかどうかは聞いてない。
 「そんなの、人間のすることじゃないよね」という感想がふつーだろう。

 しかし、(と、こんな書き方をすると、おまえ、人間じゃねぇな、と思われそうだなぁ。苦笑)そのお陰で、無駄な世継ぎ騒動や謀反が起こらずにすんだのではないのだろうか。「不要になった高貴な血」が絶たれることによって、「多くの庶民の血」が内乱で流されずにすんだ、東西を結ぶ要地にあって国家が繁栄したということはなかったのだろうか。
 
 このスルタンの例は、「集団と個」の対立にかかわるだろう。
 「帝国秩序の維持」という「集団」の利益を最大の目標に掲げた上での「政策」として、対立的に「個」たる「高貴な若い血」が流れたのだ。

 人間にとって、最も不都合なのは、共同体が維持されない状態、アナーキーな状態であろう。そこでは、個々人の生活、命の基本が全く保証されないからである。現代社会では民主政治が最高のものとされ、専制政治や独裁は否とされる。しかし、アナーキーを土台に想定すると、たとえそれが独裁政治や専制君主の存在であったとしても、アナーキーより「まだまし」「ないよりずっといい」という判断が可能になるだろう。なぜなら、ともかくも「ああするとこうなる。こうならないためにはああすると良い」などの「予測可能な未来」としての「秩序」が存在する。個人の自由などが保証されるわけではないが、「その制度」への適応を図れば、なんとか生き残る道が開かれるのである。
 その点、「王の血を分けた」というだけで命を失わされた者たちには、極めて非人間的で理不尽な仕打ちだったろうが、「帝国」という「共同体」を守ろうとした手段として、考えられ得る方策だったとも言えるのではないか。もし、スルタンが「兄弟」と反目し合い、内乱が起これば、「帝国」はそれだけの理由で潰れた可能性を孕んだはずだ。イスタンブールの繁栄の陰には、おそらく「高貴な血の犠牲」があったのだ。

 その点、江戸幕府さんは全然違う。というか、世継ぎに恵まれないことが多かったというのはあるのかもしれないけれど、それでも、御三家が謀反を起こすことなんぞ、想像し得なかったはずだ。もっと言えば、スルタンの例に倣えばそもそもは邪魔になったはずの「御三家」である。それが時機を得たときに機能したのは、実に幕府の統治がうまかったといえるのだろう。もちろん、民族性の違いが関与したかもしれないし、また、将軍そのものが、常に暗殺や勢力争いの渦中に位置しているという危険を前提としたこともあろう。「毒味役」なんてのは対策の典型だ。(と言って、スルタンに毒味役いたのかいなかったのかどうかは知らない。)
 もちろん、江戸幕府にも「泣いた個人」の存在が数多く陰にあったはずだ。それで、その人たちは、必ずしも「庶民」とは限らなかったのだ。庶民は平和なときにあって、平和を当然のものと欲望する。しかし、その陰で、支配者層の欲望だからといって、皆が皆、必ずしも叶えられていたわけでなかったはずである。

 個と集団の関わりを考えると、なんと人間の欲望とはややこしいのだろう。

 

和文英訳は思考法

2008年01月24日 | 教育
 和文英訳をさせている。黒板に書かせ、添削する。易しい問題だから、みんなできるだろうなーと思ったのに、結構間違えてくださる。(笑)困ったものである。
 間違えるのは、基本例文をきちんと使いこなせていないのがまず一つ。こんなのあの例文を使えばすぐに書けるじゃないか、というのが書けない。文法の四択問題集に、何度も出てきているのになぁ。
 もう一つは、時制と動詞の使い方。名詞が可算か不可算か。相変わらずである。注意力散漫である。

 英作文は、「暗記」ではない。(ちょっと補足:こう書くと、「暗記でないはずないだろ」と言う人が必ずいると思う。「暗記だけに留まらない」という意味です。象徴的に表現しただけ。定期テストだと、「暗記でまずOK」という常識じみた前提がありますから、それを否定したいわけです。)「柔軟な思考法」を要求するものである。「知識」としては、まあ、それなりにある子も多いのだから、後は、「どのように使うか」という方法を学ぶ必要がある。暗記例文にしても、その基本が何たるかを自ら説き起こすことから始めないと使えるようにならない。これが「応用する」ということだ。その構造的な方法論?を学べば、それなりに書けるようになる。しかし、これがまだできていないのだ。

 「教え甲斐がある」という見方もできるが、困ったことである。「私が困ってない」のが問題であるのだよなぁ。

 たまたま不得手な生徒に当ててしまったような気がしないでもないが、う~ん。。。
 私は楽しいから良いんだけれど♪ 英語、できないくせに、この手の授業、結構好きなんだよね。皆さんご存じのように、なんてたって、私は基本(前提)から説き起こすのが好きだから♪

「夜スペ」だってさ

2008年01月23日 | 教育
 さっき、夜スペが実施されると言っていた。
 都教委が反対していたのは、良識があったからではなく、「公平性」「金額」だったらしい。で、公平性に関しては、①下位層には補習授業をしていること、金額については、②安く抑えることで解決したようだ。
 これらが何を意味するか?

 ①学校の先生は、下位層には補習授業をして補ってやることはできるが、上位層を伸ばすことはできないということを実証する。この「できる」は、「能力差」と捉えられる可能性がある。もっと言えば、「公立学校の先生は、アタマの悪い子は教えられるけど、アタマの良い子は教えられないんだってさ」と捉えられることを意味する。

 ②他の中学でも、この取り組みは実施可能であるかということを塾に確認したのだろうか??? 塾は「宣伝」が目的でしかない。他の中学との「格差」は問題にしないのか。(まあ、しかし、予算配分などでも「公立学校間格差」を認めてるからなぁ。。。だから、「公平性」の論理は、そもそもからして破綻しているのである。)

 都教委の関係者は、数学の勉強を基礎からやり直せ。

試験の傾向が変わって良かったよ

2008年01月21日 | 教育
 英語のセンター試験の傾向が変わった。
 「どんどん変わればいいんだって」と言ったら、「ウチの子たちにはきびしいですから、やはり。。」と言われた。
 そんなみみっちい話をしているから生徒は勉強できなくなるのだ。
 毎年、傾向を変え、「対策」を立てづらくさせれば良い。その方が日本の教育はマトモに近くなる。

 えー、今年の最後の長文、段落番号が振ってありました。
 「文章を読むときは、必ず段落番号を振れ」と言ってますが、生徒曰く「始めから振ってあったよ」「それはね、段落毎に読むってのが、それだけ大事だってことなんだよ。言ってたとおりだろ。」
 でも、出来はどうだか知らない。


 

学校教育の目的

2008年01月20日 | 教育
 昨日始まったNHKのドラマで、偉い先生が年取った新任?に「教員の仕事は一生生徒と付き合っていくことだ。その覚悟がありますか」と言う科白があった。(見てたわけではないけど、聞こえた。)

 おいおい、こまるんだよね。間違ったことを言われては、NHKさん。(私、受信料払ってるからね。)

 これも、昨日書いた記事、everyの観点での物言いである。(←これ、今回の結論。)

 「え?なんで?」と思われる人も多いだろうから、ちょっと補足する。
 教員と生徒の付き合いに、確かに、卒業してからも続く付き合いはある。否定しない。(←これも読んでね。)しかし、これは、「付随的に生じる事象」にすぎない。この「勘違い」の罪は大きいぞ。だから、「それ」を目的に教員に成って貰っては困るのだ。
 なぜなら、学校教育の目的は、個としての感覚しか持たないコドモに「共同幻想」を抱かせ、共同体、社会の一員としての自覚を促し、卒業後には、社会の一員として生きていける能力と意識をできるだけ持たせることにあるからだ。この重要性は、人間は決して一人では生きていけない、と言う事実に基づく。
 「俺は一人で生きていくさ」という人で、衣食住の全てを「他人」に頼らずに賄える人は誰もいない。この科白は幻想に過ぎない。これは、「それまで付き合っていた人と付き合わず、他の人と付き合って生きていくことできる」という意味でしかない。
 「お金」もコミュニケーションの手段である。廃棄されたゴミの山から宝を探すこともモノを介在させたある種の「人間関係」に基づく。メンバーシップを抜きに、人間は生きていけない。

 それで、学校教育の最大の目的は、このメンバーシップの一員になるということに関わる。言語活動から、なんやらかんやら、学業を離れたことまで、全てそのための能力育成である。だから、「教員の仕事は生徒と一生付き合っていく」と言う個のレベルでは決してないのだ。あくまでも、「共同体のメンバーとしての「新人」を育てる」ことなのである。

 「一生付き合っていくつもりがあるなら、将来にわたって同じ共同体の仲間になるということだから同じことじゃないのか」と思う人もいるだろう。しかし、全ての生徒と、そのような濃密な付き合いができるわけがない。教員は、何千人もの生徒と関わる。これが可能だという人がいるわけないと取るのが常識だろう。ならば、「付き合いのなくなった生徒」には仕事をしてなかった、ということになる。

 間違って貰っては困るが、一人一人の生徒をしっかりと観察し、その生徒の成長に即した指導をすることの全てを否定しているのではない。しかし、学校教育の根幹は「集団を育てること」であるという認識を基盤に持っておかないと、「何らかの判断」を行うときに間違える危険性が大きいのだ。
 なぜなら、共同体の利益と個の利益は必ずしも一致しないからである。個を見過ぎると、共同体の利益を損なう。それは結局、自分で自分の首を絞めることに成りかねないからだ。これが忘れられるのは最もおそろしいのだ。

 「阿吽」「以心伝心」「腹芸」で来た日本人は、これまで上記で述べた重要性を暗黙の了解として理解していた。しかし、現代社会は違う。ことに学校教育を主管する国家が「個性」を謳いだしてから消え去ったのが、この了解である。だから、お上主導の元、「何だか変だな?」と内心感じていた現場の教員もこれを忘れた。今は、もう、全く忘れられたと考えた方が良い。「社会の変化」「時代の流れ」の一コマとしか認識されていないからだ。

 「阿吽」「以心伝心」「腹芸」も、基本は、「個と個の関係」である。日本人の意識の基本は、「個と個」なのだ。「みんな」は、決してallではなく、everyとしか認識できないというのが私が思うところである。それで、allに近いモノは、「封建制度」だったり、ある意味(←ここ、ちょっと舌足らずかも)、24時間拘束される、農耕社会での共同作業だったり、「村八分」だったりで補ってきたのではないかと思う。しかし、これらは「日本社会の悪しき側面」として全否定されている現代では、「共同体の重要性」は認識させるどころか陰で支えてくれるモノすら失ったのが現状なのだ。

 ゆえに、「唯一」と言っていいほどの「学校教育」においてすら失われているようでは、どんどん共同体が失われれいって当然だろう。「国家」も、基盤を失い、ものすごい格差がこれからも広がっていくことになるのだろうな。
 でも、これもすべて、「みんな」が「個と個だけの方が良い」と思った。だから、ドラマの科白として、実に象徴的に「出現した」のである。


日本語の「皆」はevery名詞だけ

2008年01月19日 | 教育
 「生徒みんなが何々する」を英語にすると、every student does --という言い方と、all (the) students do --という言い方の2つ(正確には3つ)がある。(まあ、今は、theの有無については割愛。)

 使用される名詞はもちろん可算だが、everyは+単数名詞で、allはそのあとに複数名詞が来る。生徒に説明するときには、everyは、点々を書く。それで、一つ一つを指さして、これみんな一つ一つがという意味で捉えるから単数だよ、と私は言っている。Allのときは、大きな○を描く。(○の中の点々は余り丁寧に書かない。)それで、中には複数の要素があるから複数形にするんだよ、と言っている。(いつからそういう説明をし始めたかわからないんだけど。)

 生徒は単数複数の違いをなかなか理解しない。が、この観点の違いは、かなり大きいんじゃないのか。
 
 日本語の「みんな」と言うときは、everyじゃないのか。それで、基本的に、日本語にはallに代わるモノはないのではないか。

 Allのときは、何らかの「集合体」としての見方がある。もちろん、名称を付けるほどのモノでもないし、定形化できるほどのモノでもない。しかし、everyの場合に見られる「個別性」はない、ひっくるめた言い方である。つまり、何らかの俯瞰的な目がそこに働く。

 私は学校で「あなたは全ての生徒を見ていない」と言われたことがある。(記事に書いてるなぁ。)その人の見方は、「全ての生徒を見る」のは、everyの視点で、個別に見る。「この子はどうで、あの子はどうだ」と言う見方である。決して、集合体として「全ての生徒を見る」という意味で生徒を捉えていない。
 ところが、私の見方はallの視点で、複数の個から成る集合体としての見方であることがほとんどである。
 だから、話が合わない。

 私の考え方は、非常に階層的、入れ子的思考法である。Allがすっと馴染む見方をしている。こういったものの見方は、かなり西洋的なものではないか。
 それで、その延長線上にあるのは、「絶対神」なのだろう。だから、「彼」は全てを知り、全てを操る。
 しかし、日本の「神」は「八百万の神」である。これはeveryの概念にとてもよく合う。日本に絶対神はいない。

 だから、上記の人は、非常に日本人的な見方で生徒を捉え、「全ての生徒を見る」ときは、「個別に生徒一人一人を見る」ことだと考え、集合体的な生徒の動向を見ようとしないし、共同体(集合体)として生徒を動かそうとすることをしない。それで、その方が実は一般ウケも良い。「時代の流れ」もあって、「私を見てくれている」になる。(でも、ホントはこれ自己満足的で教育的には効率が悪いんだよ。個人の努力をアピールするのは好都合というのもあるからウケるだけ。)

 なるほどね。

 思考の階層性と風土は、こんなところにも垣間見えるというわけか。

  

「集団と個の対立」のちょっと

2008年01月19日 | 教育
 いつだっけ?割に最近だった気がするけど、内田先生が「冷戦時代の方が科学?が大変発達した」とか書いていた。事実そうだろうと思うけど、その陰で、過労でも何でもで、人が病気になったり死んでたりすると思うよ。
 「集団」としては進んでも、その陰には、必ず犠牲になった「個人」がいると思う。
 ---だからどうだ、ってのは、何も考えてないけど。そう言う事実はあったとしても表に出ないだけだと思う。