考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

幼稚な問題集で思うこと

2005年01月31日 | 教育
 ここ数年で際だってきたように思う書き込み式問題集。版が大判(昔はA6が多かったと思うから。)B5版で、国語や英語の多くは書き込み式。見ているだけで、実はぞぉ~~っとする。

 いつから日本の高校生はこんなに幼稚になったんだい? 書き込み式なんて、昔は小学校だけだったんじゃないのか? 

 一度やったら「おしまい」である。ノートに何度も何度もやることがない。英語でも数学でも何でも、一度やった問題を繰り返し繰り返しやることで基礎力が身に付き、本当に自分のものになるのに。

 日本は本当に豊かな社会になったものだと思う。問題集が大判になるとは、①紙をたくさん使う。②書き込む欄を作る分、レイアウトでも何でも、問題集製作の作業量が増える。ことを意味する。

 つまり、ものは有り余り、余力のある大人が、余剰の多くを子供の教育に割くようになったということだ。貧乏な国家に最も乏しいのは教育だろうから、これはもの凄いことである。

 中学時代の友人が大都会で幼児教室の何かをやっているらしい。それも結構うまくいっている様子である。昔だったら「表で遊んでおいでね。」だったのが、親の送り迎え、場合によっては付きっきりの教室であろう。(←これは想像。)まあ、「表で遊ぶ」ことが不可能な時代ではあるが、うん、やっぱり豊かなんだよね。子供にそれだけ付き合っていても親子が食べていけるのだから。高校の問題集の大判化、書き込み式も、本質的には幼児教室の流れとほとんど変わりないと私は見る。

 ヒマになった大人は何をなすべきか? 徹底的に子供に関わるのがよろしい。(ここまでは全く間違っていない。)そのためにはどうするか? 幼児教室も良かろうが、子供たちにはできるだけ「ゆっくりと」大人になってもらえば都合がいい。大学の入学式、卒業式はもちろん、--だって、スポンサーだものね--親子で出席する成人式も良いアイディアですねっ。

 よって、高校生にも書き込み式問題集を与える。その方が、紙の消費量も増え、大人の作業量も増え、経済は潤う。生徒だって、何をどのようにやって良いのか、わかりやすいでしょう。小学校の時、そのままの作業をずーっと続ければいいのです。内容さえが違っていれば、「同じことをしている」という感覚が生じるわけがありません。

 今の時代、「わかりやすさ」がキーワード。うんうん唸るほど、子供に考えさせてはいけないのです。なぜなら、苦労をかけるから、と言いながら、実は、考えさせると、子供は早く大人になってしまいますから。そんなの、大人の出る幕がなくなってしまいます。それに、先生だって、書き込み式の方が、決まった形で決まったページを見さえすればよいから、普通のノート点検より仕事がラクです。

 悪いことは何もない。だから、書き込み式。

 まあ、実際のところ、絵本のような中学英語の教科書で、また、プリント類で育ってきた生徒が、高校に入ったからといって、大学ノートが使えるようになるわけじゃない。だから、徐々に徐々に、高校にも書き込み式は浸食してきたのだと思う。(このあたりの教員と教材業者の会話が想像できてしまうよ。)

 で、最終的にはどういうことか?

 書き込み式は、すべてがお膳立てになっている。つまり、誰かの後を行く方法なのです。自分で工夫をする余地がほとんどない。でも、ノートなら、ページや行の設定の仕方、表題の書き方、文字の大きさ、何もかも、自分で考えなければならない。こういうのって、大事じゃない?
 
 私自身、高校時代の歴史の授業は教師が作ったお手製のプリント埋めでした。授業を聞いて、ひたすらプリントを埋めていく。もちろん、記述式の勉強もやったが、基本は、プリントだった。その結果、どうなったか?

 大学に入って、講義を聴いて思った。「どうして大学の先生はプリントをくれないのだろう?」

 誠にお恥ずかしい限りですがそう思いました。でも、大人になって、間違いに気が付きました。それまで大変でした。自分で聞いたり読んだりしたことを自分で考えてまとめる。勉強をするということの基本の道筋は、自分の耳と目を使って、手を使って、つまり、身体を出来るだけ使って、小さな試行錯誤を繰り返しながら、自分で引いて行くものです。それは、自分の行き方を見つけるのと同じことだと私は思います。

 だから、私は書き込み式は誤った勉強方法を、誤った生き方を教えているのと同義だと思います。皆が同じノートになる、勉強しやすい、取っつきやすいから手にしやすいという効率優先の考え方は、日本中がこの傾向になっている今、社会の軋みとなって、見えないところで多くの弊害を出しているように感じます。もちろん、書き込み式だけが要因でありませんが、一端になっている、あるいは、現象として生じていることだと考えます。


小成は大成を妨げる

2005年01月30日 | 物の見方
 甲野善紀さんのことを書いた「身体から革命を起こす」(新潮社)を読んでいます。その中の言葉ですが、今日の内田先生のブログにもありました。一昨日UPした、「エッシャーの階段登り」はまさにその状況です。変に努力して、汗をかくと、満足してしまう。教育関係者は気をつけなければなりません。

 目の前で汗をかいている人をどう評価するかとも関わるかもしれません。(冷たいようだけれど。)汗をかいて小成をなしている人を認めると、大成をなそうとする人を妨げます。でも、たぶん、目の前で汗をかいている人の労はねぎらいたくなるのが人情でしょう。「仕事」をどのように評価するか、はっきりと数値化できない場合は困ります。
 

数的センスと理系文系

2005年01月30日 | 教育
 大学によっては、「志望の動機」を書かせる。「先生、見てください。」と持ってきたものだから、ちょっと覗くと、十数行罫線の入った用紙の欄外に「300字程度で」とあるが、下の方2,3行ほどが空いている。1行目の字数をぱっと数えたら21字くらいだった。書いてあるのが13行だったか、行によってはもっと大きい文字で書いてるものだから、足りなくないか? 私が「これで、300字あるの?」と聞くと、「はい。数えました。」と言う。その時はこれ以上時間がなかったものだからそのまま受け取った。

 あとで数え直すとはやり足りない。250字ほどしかなかった。志望動機書は最後の行までしっかりと書くのものだし、大学だって300字要求するならそのスペースを用意しているものだ。だから、空欄はできない。

 まあ、それより、この子、とても良い子なのだが、欠点が一つある。数学が出来ないのだ。特に記述問題ができない。英語・国語はそれこそ偏差値70だっていく。なのに、数学だけはどうしても55,6で行き詰まっている。本人は毎日毎日数学ばかりやっている。それなのに上がらない。

 私は絶望的な気分になった。この子は、本当に数学が出来ないことが分かってしまったからだ。「たかが志望動機書の字数」ではない。ちょっとした数の感覚がこの子には決定的に欠けている。1行20行ほどで、13行しか書かれていないのに、300字になると勘違いしてはいけないのだ。瞬間的に、本能的に「変だ」と感じなければ、高校で習う数学問題が正確に解けるように決してならない。そういうものだ。(ちなみに数学の先生も同意してくれた。)逆に、難しい数学が出来るということは、数の感覚が身に浸みていることを表す。ゆえに、「三角関数(←たとえばね、)なんて日常生活で使わないから要らない。」では、決してない。数学の問題を解きながら、我々は、数的な感覚かなにか、見えないものを鍛えるのだ。

 この子の担任するのは初めてだったが、1年の時も授業に行っていたから知っていた。だから、理系クラスにいるのを見て大変驚いた。志望学科が理系だからそうなったようだ。2年次の担任も理系に進級したのを意外に思ったという。(私は3年次の担任。)1年次の担任は「彼女は理系タイプだ」と言ったらしい。

 うん、謎が解けた。

 その1年次の担任は、どこをどう見ても、全くの文系タイプで、数学的ものの見方は全くしない方である。よって、その人がその生徒を見て、「理系」と判断してもおかしくない。ところが、2年次担任も私も、教科は全くの文系にせよ、いずれも「文学」専攻ではなく、興味関心は理系方向が強い。この4人について、理系よりか文系よりかを並べると、こうなる。

 文系← 1年次担任  その生徒  私と2年次担任  →理系

 だから、1年次担任が自分を基準に「あの子は理系タイプだ。」と判断しても何ら不思議はない。(正当性はともかく。)2年次の担任も私も、純粋な理系ではない。生徒の文理分けに関して、私はその子がどこまで理系なのか、数学がどこまでついて行けそうか、本当に考える。(で、女子の場合、たいてい反対することになる。それで正解。本当は、「数学ⅡBまで、生物Ⅱまで」のコースが最善だが、ウチにはない。まあ、このコースにせよ、いつ決定するかの問題は残る。)

 ちなみに、私は「文系の中の理系」か「かなり文系っぽい理系」、数式を見ても「美しい」と感じることは出来ないし(私の知っている範囲だが、数学専攻者は皆、「数学は美しい」とおっしゃる。)、物理は力学で落ちこぼれたから純粋な理系ではないと思う。(まあ、単にアタマが悪いだけかもしれないが。)かといって、文学や詩歌がわかるわけでない(というか、ほとんど興味がない)。でも、言語を介在させない芸術は、感性でよ~~く分かる。だから、自分では芸術家だと思っている。(笑)

偏差値48と58の壁

2005年01月29日 | 教育
 英語のセンター試験第3問のAは、短い文章に2カ所空欄があり、それぞれ選択肢4つから最も適する接続詞、あるいは副詞等を入れる問題である。Bは2題あるが、これも短い文章である。空欄はそれぞれ一カ所で、文章外に書いてあるそれぞれ3つの文を文意が通るように並べ替える問題になっている。Cは4つ程度の段落からなる。そのうちの3つの段落にはそれぞれ2カ所空欄がある。この問題文とは別に、3文が提示されており、その3文それぞれが文章中のどこにはいるべきものかを問う。ただし、各段落には1文ずつしか入らない。

 第4問の図表問題も生徒泣かせだが、この第3問、なかなか興味深い。生徒はいろいろ難渋する。

 まず、日本語の解答を読んでも「わからない」生徒がいる。順接と逆接、「だから」と「しかし」の区別も、文章中に使われるとわからないらしい。BやCはより複雑だから大変だ。英文を正確に読み取って文章の流れをつかまなければいけない。多くは、説明して勉強させて、練習させて、やっと分かるようになる。それでも分からない生徒もいる。勉強しても分からない、これは「壁」である。

 センター試験ではないが、'This is because 'と'This is why 'のどちらかを選ばせる問題があった。「それは・・だからである」と「そういう訳で・・だ」の違いだが、これ、偏差値50くらいだと、意外に出来ない。たぶん、「だから」も「訳」も、共に「理由」に関わる語彙だから区別が付かないのだろう。しようがないから、「結果が先+This is because +その理由」「理由が先+This is why +その結果」と分解して教える。これで、大体分かってくれるが、それでも混乱する子はいて、全く同じ形式の問題が2,3週間後に出ていても何割かは間違えていた。

 同様に、「目的」と「理由」の違いのよく分からない生徒がいる。共に、「A→B」という流れがあるのはわかるからかえって混乱するのだろう。「理由」は矢印の根本で、「目的」は矢印の先だという違いがわからないのだと思う。

 いずれにせよ(論理にもならない程度の)論理が分からないということだろう。

 もちろん、そんなこと、説明しなくても分かっている生徒はちゃんといて、退屈そうである。

 又聞きだが、業者によると、生徒の成績上昇は、偏差値48と58のあたりにそれぞれ「壁」があるらしい。第3問形式で言えば、勉強しても出来ない生徒は48の壁にぶち当たった生徒で、勉強して分かるようになった生徒は偏差値50台に載る。しかし、偏差値58の壁はおそらく破れない。(もちろん例外はつきものですよ。)勉強しなくても出来る生徒は最初から偏差値60台にいる。最初から偏差値50台の生徒は、説明を受けると「なるほど」と思って思考を整理する。偏差値60台の生徒は、自分から説明ができる。こういう違いがあるかもしれない。生徒の顔色を見て授業をしているとそんな風に見える。

 偏差値70以上の生徒は、滅多にお目にかかれないからよく分からないが、彼らには「ひらめき」が感じられる。これがない生徒は、どんなに勉強をしてもなかなかどうして偏差値70に達しない。「一を聞いて十を知る」に近い応用力にはやはり何かが必要なのだろう。それ以上の能力の違いは、私自身の能力の限界があるからよく分からない。

 まあ、それでこういう生徒たちを相手に勉強を教えて大学に入れようとしているわけだが、まだ論理の手前にいるような子たちを相手に教育を行う大学の先生こそ大変だなぁと思ってしまう。

 誤解ないようにしたいが、上記は「勉強」のみの観点である。偏差値40台であっても人間的魅力にあふれたすばらしい良い子は多い。何とか希望を叶えてあげたいと思うが、正しい漢字が書けない、計算が出来ない、理由と目的の区別が付かない小学校の先生では困るのも事実だ。

何でもかんでもコトバの時代

2005年01月29日 | 物の見方
 小泉さんが首相でいられるのは、「切り返し」のうまさゆえだろう。その場限りでも何でも、とにかく何か言われたときに言い返す能力。論理性は問わない。相手を黙らせた者勝ち。扇さんが大臣を長く務めたのもそれがあるだろう。彼女もああ言えばこう言うがうまかった。問いの次元とは違う次元で返答するのがコツのようだった。テストの答えだったら大ペケだ。

 新進あるいは、無名の芸術家が登場して作品をアピールするテレビ番組があった。(今もあるのかな?)面白い企画だが、一つもの凄く気に入らない点がある。作者に作品についてコトバで語らせることだ。芸術作品にコトバを要するのだったら、最初から言語だけで表現すれば良いではないか。この番組だけでないが、芸術家に作品を語らせる場がやたら多くなっている気がする。あまりにばかげていると思う。ギリシャのすばらしい古代彫刻にも説明書きが付いていたとでも言うのだろうか。

 生徒に何か言っても、すぐに「何でだ?理由を説明しろ。」と言う。バカ言うんじゃない、自分で考えろ。親も言語化された説明を要求したがる。

 養老先生じゃないけど、何でもかんでもコトバで説明できると思っているのだろう。コトバが全てだと思っているから、反論できなかったら、それで終わりにされる。

 「阿吽」の呼吸の日本は、変わってしまったのだろう。人々の学歴が高くなって、コトバの使い手が増えた。学校は、コトバを教えるところだが、近頃の学校は、実のないコトバを教えている。勉強が、ものの上っ面を撫でるだけのものになった。テストのためのものに成り下がったのだ。教える側も、まして教わる側もわからないままコトバを用いる。

 「バカの壁」や「オニババ化する女たち」などに対する批判をちらちら読むと、書かれたコトバに翻弄されて、コトバだけを頼りに論じている。筆者が書いたことを通して、どういう立場から何が言いたかったかを汲み取ろうとする視点に乏しいと思われる(ことが多い)。(これは批判をするなと言っているのではないよ、念のため。)

 概念(アタマにあるもの)とコトバの関係を思う。多くの人はアタマにあることは全て言葉に出来ると思っているようだ。しかし、授業でときどき言うが、「りんご」で想起されるものは、「apple」で想起されるものと異なる。異言語だからと言うなかれ。日本語でだって同じだ。あなたのリンゴと私のリンゴが同じという保証はない。また、内田樹さんがうまいことを言っていた。物事は言い過ぎるか良い足りないかのどちらかだ、とかそういうこと。あなたの解釈がその人が伝えたかったこととは限らない。この能力のない人は、カウンセラーとか医者などの職は勤まらないだろう。

 それなのに、多くの人はコトバがその人全てだと思っている。「綸言汗のごとし」ではあろうが、それにしては扱いが軽すぎる。といって、ここによしなしごとを書きつづるのもコトバの扱いを軽んじていることになるのだろうが。猫も杓子もブログならそうだね。ということで、仰向いて唾になったが、コトバだけの解釈は、なんだかアタマが悪い気がする。

魂を売る

2005年01月28日 | 教育
 進学指導結果を表にまとめる。進学校ならどこでもやっていることでしょう。

 今年から、ある業者のソフトを利用することになったようだ。大学名等はずいぶん前から模試のコード番号を利用している。何桁かの番号を入れると、大学名から入試の方式まで変換されて出てくる。(関係ないけれど、コンピューター利用のこういった大学入試制度が一般化しているから、住民基本台帳とかもだんだんに抵抗が少なくなったのだろうな。)今更言うまでもないことだろうが、業者のソフトで入力していると、ああ、ここまで落ちぶれたのかと、なんだか気が滅入る。(でも、こんなことを言う教員、私くらいじゃないのかなぁ。。。少なくともウチのがっこでは。)

 業者模試はまだともかく、アタマの良い業者は、模試を離れた学習習慣指導事業?にも乗り出した。もちろん親からお金を取る。私だったら怒るぞ、「学校の先生は何をしている!」

 来年度からセンター試験でリスニングが導入されることになって、リスニング関係のテスト類の攻勢が激しかった。(無視していたら最近は来ないな。)イヤミに解釈すれば、お金をかけて何かやっていれば、対策を立てたことになる、万一失敗した場合の言い訳がつく、とでもいうことだろう。

 いったいどこまで魂を売るのだろう?(あるいは、売らせるのだろう、それが商売だろうが。)

エッシャーの階段登り

2005年01月28日 | 物の見方
 エッシャーの騙し絵をご存じと思います。
 滝のように水が流れ落ちていて、どんどんその流れをたどっていくと、あれあれ、またなぜか元の滝の上方に戻って水が流れ落ちる。
 階段の絵もあった気がします。
 あの階段を一生懸命に上っていきます。頑張って頑張って上ります。汗が出て、充実感もあることでしょう。でも、やがて到着するのは、元の場所で、どうどう巡りのように階段を上り続けます。自分の目の前の段だけを見ていれば、達成すべき目標であり、到達できれば満足感を得られるでしょう。しかし、視点を大きく持つと、さあ、あなたはこれまで何をしていたのでしょうか。

 ああ、怖いですね、怖いですね。。。。。

今日の思いつき(2)

2005年01月27日 | 物の見方
 「理解する」は時間を要するが、「分かる」は一瞬の出来事。

 ↑今日思いついたってわけじゃないんだけれど。。どこかに書いてあるような気もするのだけれど。
 養老先生によると、聴覚は論理で時間に関わるが、視覚には時間が流れない(というようなことをおっしゃっていたはず)。
 英語で視覚に関わる動詞seeには「分かる」という意味がある。
 科学者は小柴さんでも誰でも、それに数学の証明問題は、最初に「分かって」それから実証(証明)するという。これも何かで読んだ。「分かる」のは理屈じゃないんだよね。
 うん、だから、これらはきっと何か関係があるはずだ。

 一昨日、「流行は人生のコンビニエンス」という作文を書いて「草稿中」として投稿したつもりになったら、投稿されておらず、全く消えていた。。。ショックで今はちょっと立ち直れない。。
 タイトルだけでわかっちゃう内容かもしれないけれど、気を取り直して、そのうちまた書く努力をします。投稿したらまた読んでください。どうぞよろしくお願いします。

 

私もそう思うんだけどなぁ。本の紹介

2005年01月26日 | 物の見方
 ちょっと前になるけど、ごま書房の『生きるために大切なものの見方 考え方-宇宙・地球そして日本人』という本を読んだ。3人の科学者それぞれの講演と、師友塾という不登校などの若者の学校をやっている大越俊夫さんとそれぞれとの対談。

 村上和雄さんという科学者の講演をある冊子で読んで興味を持ち、この本にも村上さんの講演があったので興味を持って手にした。村上さんは糖尿病患者にB&Bの漫才を聞かせて血糖値の上がり方を調べて笑いの効果を測定した実験をした人だ。また、日本人だから、ということで、稲の遺伝子を解明した人である。「あなたの心が遺伝子を変える」とおっしゃっている。「サムシンググレート」という考え方でものを見る。全ての考え方の根底に流れる深い思想、哲学のようなものがあるからもの凄く共感できる。

 松井孝典さんは、この本で初めて知ったが、現代人は、宇宙の歴史が137億年だと知ることなどでずいぶん豊かになれるんじゃないかとか、また、自分の体は、生きている間、地球から借りているのだという考え方が、とても自然でいいなぁと思う。でも、ふつーの人は宇宙が137億年の昔から今まで続いていると聞いても、「で、それが何か自分と関係あるの?」と言いそうな気がする。ウチの生徒だったら、かなりの割合でそう言うと思う。勉強や学問は手段としか考えない子が多いから。

 小泉武夫さんの話は、食べ物の重要性についてで、これも自然で良いなぁと思う。今の時代、本当に大切なことがあまりにも軽んじられている。

 どの先生の話も、私のものの見方の好みがぴったり合っていてとても面白かった。わくわく、どきどき。

 私のブログを読みに来てくださる方だったら、たぶん興味を持って読める本じゃないかと思います。一度ご覧になってください。(と、ここでアマゾンか何かのHPに飛べる設定が出来たら良いんだけれど、技術がなくてごめんなさい。)

「くの字座り」はやめなさい

2005年01月24日 | 教育
 「くの字座り」は、私の命名、市民権も何もない用語である。人前では今ここで初めて使った。

 いつ頃からか、生徒の椅子の座り方がおかしくなってきた。非常に浅く腰掛けて、脚は膝関節がないかのようにまっすぐ伸び、足首だけをちょいと擡げる。上半身は背もたれに軽くもたれかける。顔は上を向くから、ちょいと顎を引く。その結果、ひらがなの「く」の字を後方に傾け、両端にちょんちょんと点(頭と足首)が付いたた姿勢になる。腕組みをしていることが多い。あんなに顎を引いたら十分に息を吸い込むことだって出来ないのではないかと思う。(頭の重さだけは最も感じにくい姿勢だろう。)授業もこの姿勢で聞く。試験もこの姿勢で受ける。

 う~ん。本気でやる気はないね。腹が立つから「ちゃんと座れ。」と注意する。なんてたって私は現勤務校で一番口うるさい教員だからね、見て見ぬふりをするわけがない。すると生徒は、無視しようとするか、「勉強してるのにいちいちうるさいこと言うなよ」とさも迷惑そうな顔をするか、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ形ばかり腰掛け直す生徒もいるが、板に付かない。(「椅子に付かない」と言うべきか。)今時の生徒は体格が良いから椅子が小さいのではないかという指摘は当てはまらない。今の高校は机も椅子もサイズが大きい。

 この姿勢で勉強は絶対に出来ない。現に、それこそセンター試験直前、本気になってきたとき、この姿勢で勉強したり試験を受けたりする生徒は誰もいなかった。皆椅子にはそこそこ深くきちんと腰掛けて、前屈みになっていた。

 養老先生に言わせると、日本人は型を忘れた、椅子の座り方を習ってない、知らない、身体をもてあましていると言うところだろうし、実際その通り、彼らは自分の身体の扱い方を知らなすぎる。

 私が小学生の時、黒板の上には大きな絵があった。椅子にしっかりと深く腰をかけた真横から見た子供の姿である。先生も座り方を教えてくださった。そういうものかと素直に従った。順当な教育であったと思う。今の小学校は、もう、こういうことを教えないのかな?

 生徒の反応を見ると、座り方なんてどうだって良いじゃないか、全く習ったことがないというような印象を受ける。また、最近の住居の影響があると思う。いわゆる「リビング」のソファの座り方がこれでないか。机にちゃんと座る時間より、ゆったりとソファにもたれかかってテレビを見る時間の方が多いはずだ。ソファでなければ床に直にあぐらをかいて、脚を投げ出してくつろいで座って、椅子に深く腰掛けたのに近い姿勢である正座なんかするわけない。だから、学校でも自ずからそういった座り方になるのだろう。親も先生も誰も言わないから。

 「くの字座り」に慣れた生徒が椅子にちゃんと深く腰掛けて勉強しようとすると、たぶん背筋や首の筋肉に負担がかかってしんどいのだと思う。だから、勉強しにくく、自分の好む姿勢の方がやりやすいと思うに違いない。しかし、ある程度まとまった時間に集中力を持って取り組もうとしたとき、「くの字」では不可能だ。だから目先の「楽」にとらわれてはいけないのだ。

 今風の考え方は、(推測だが)「せっかく勉強しようとする気持ちはあるのだから、まずはどんな姿勢であっても認めてあげたらどうかね。注意したせいでやる気が削がれたらどうするのだね? それで、現に本気になったとき、改まったわけでしょ? それで良いではないですか。」というところだろう。でも、椅子の座り方って、それほど大層なものかね? 椅子の座り方は基本的な人間の文化、伝統的なというか過去の経験の集積による知恵で、伝授すればそれで済むだけの話だ。一人一人の子供が自分で体験して身に付けるほど大層なものではない。それを教えないのは周りの無責任、ただの教育(と言うより、それ以前の躾)の放棄だ。