考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

衆議院と参議院

2013年07月22日 | 生活
 私は、確か小学校の5年生か6年生の社会科の時間に、二院制は、大事なことを違う人たちで繰り返ししっかりと話し合って決めるためにあるんだ、と習ったんだけど、近年の、というか、今の二十代や三十代の人たちの小学校あるいは中学校の社会科で、二院制はどんな風に教えられたのかなぁ。

試験勉強と試験対策は違う

2013年07月21日 | 教育
 試験の前には勉強をするのが当たり前だ。
 ここで、2通りの考え方が生じる。一つは、試験の結果は「点数」で表示されるから、なるべく良い点数を獲得するためにはどうしたら良いかという考え方で、もう一つは、試験の種類が何であれ、自分が習得すべきことを確実にし、かつ、深めることができるかという考え方である。
 両者とも「試験の前にしっかりと勉強をする」という観点では何も変わらない。しかし、全く異なる。
 いわゆる「ヤマを掛ける」は、前者である。試験に出そうなことを勉強して出そうにないことは後回しにするか、あるいは手を付けない方法だ。「傾向と対策」も同様である。試験の傾向、つまり、試験に出そうなことを中心に学習するという対策である。「ヤマを掛ける」は、定期試験のように試験範囲があまり多くなく出題が限られているときの方法である。「傾向と対策」は過去問など既に何がどのように出題されるかがわかって可能になる方法である。
 他方、後者は、何が出るかわからないから、どんな問題がどのような方法で出題されようと対処できるように勉強をするものだ。ひょっとしたら「点数」にはつながらない事項であっても振り返って基礎基本を確実にすることを重視するわけである。
 
 さて、賢明な読者諸氏は、この後に続く文章展開はもうおわかりだろう。

 前者の「試験対策」は、目先の勉強だから、点数獲得という観点で効果が高い。英語なら試験に出る単語を中心に勉強をしたり、出題傾向に合わせた勉強である。定期試験だったら、〇〇先生が出題なら、こうした対策をすると良い、などで点数を稼ぐわけだから、もし、問題の傾向が変わりでもしたら、「こんなはずではなかった」ということになりかねない。
 後者は、懸命に努力したことが必ず点数に結びつくわけではないものの、底力を問う問題が出題されると強い。そのときのその試験にはいわば「役に立たなかった勉強」が次の試験に役立つと言うことがあり得る勉強方法である。

 もし、その試験が「最終の試験」ならば、あるいは、(ここが重要であるが、)学習すべきことがその後なにもないのならば、重要なのは圧倒的に「試験対策」であることはいうまでもない。しかし、試験がまだまだ続く、また、試験の後も学習が続くのであるなら、重要なのが上記、後者で示した試験勉強である。

 近頃の流行は、高校生、中学生はもちろん、小学生までもが、まるでそれが「最終の試験」であるかのような「試験対策」が試験のための勉強であると、場合によっては指導さえされて行われていることだ。点数が目的だから、合目的的に、点数につながりにくいものは、捨ててしまうのが賢い方法になる。
 
 今も昔も、ヤマを掛けた勉強はあった。やりきれないと、「捨てる」という考え方もあった。しかし、そうした行為は明らかに意識的で部分的なものだったように思う。「復讐にこんなに時間がかかると思わなかった」というただの「時間切れ」、要は、試験対策を目的にした勉強だったと言うより、何もしないうちに終わってしまった、などが多かった。ところが近年は、勉強をしなければならないと思っているほとんどすべての生徒のすべての思考の根幹に「試験対策」が重要だという考え方が根付いているように感じる。どんな対策をして良いのかわからなかったから勉強ができなかった、みたいな。ただの時間的な制約と言えないように感じるのだ。
 
 学生なら、学習者なら、まして、高校生なら、試験勉強をせよ、試験対策ではない試験勉強をせよ、と思っている私は、ああ、イヤだなぁ、と思う。

絶対性が損なわれている今の教育

2013年07月14日 | 教育
 生徒が単語帳で単語を覚えようとしている。人前だから声は出ていないが、唇動いている。この生徒は伸びるだろう。
 アタマの良し悪しは、本当のところ、自分の能力がどうしたら伸ばせるかどうかを知っているかどうか、また、それを実現できるかどうかではないかと思う。(当たり前っちゃ、それまでだが。)
 結構アタマの良さそうな生徒でも、近頃では「先生、この答えは、〇ですか、×ですか?」と評価を問うてくる。素直な教師は、ついつい、〇だの△だの、×だのと答える。

 〇×なんて、どうでも良いじゃないか。
 それより大事なのは、美しい答えか、どのように正統な思考法でどこまで辿って得た解答かどうかであろう。

 美しい答えしかない答案の束の中に醜い答えが混ざってたら、何らかの減点対象になるだろう。無回答や稚拙な答案の中に混ざっている醜い答えは得点されるだろう。満点にさえなるかもしれない。「点数」というのは、絶対的な尺度ではなく、あくまでも相対的な尺度でしかない。点数なんて、〇×なんて、所詮はそんなものだ。
 生徒が目指すべきは、解答をより美しいものにするべく、より正統に思考する術を獲得すべく、精一杯努力することだけである。

 近年の学習で最も忘れられているのがこれではないかと思う。
 こうした方策は、偏差値が30であろうと50であろうと、あるいは、70であろうと80であろうと、まったく同じである。

 しかし、強硬な反対意見がある。
 「それでは生徒のやる気なくなるだろう。だから、そのたび毎に適切に評価してやることが重要である。」

 私は学校とは一般社会と異なる異様なところだと思う。
 通常の社会は、皆が納得していれば、それで皆の生活が何とかうまくいけば何だって許される側面がある。しかし、学校は、ちょっと、いや、だいぶ違うと思うのだ。
 皆が正しい、皆がそれで良いと思ったことであっても、ダメだとされることがたくさんある。「勉強」とは常にそういうものなのだ。皆の答えが一致したからそれが正しい答えという言うことにはならない。「点数」にしても、実は同様である。模擬試験の採点が、この何年かでかなり甘くなっている。とんでもないところで部分点を付けている。でなければ、生徒か誰かわからないが、要は、苦情が来るのであろう。自分では結構できたと思うのに点がなければ面白くない、ならば中間点でも欲しい、自分が満足したいのだ。

 こうした問題の根源にあるのは、相対性と絶対性の絡み合いだろう。
 学問という絶対を教える場に、人間という相対的な価値観が入り込んできて大手を振るい始めたのだ。相対性とは。言い換えれば「各人が納得するかどうか」「他人を納得させられるかどうか」だろう。
 「納得」が今の時代の大きなキーワードなのだろう。「コミュニケーション能力重視」も、要は、他人にいかに自分の言い分を受け入れさせるか、という「納得」という観点に帰結しうる。

 しかし、勉強を教えて言えるのは、生徒が納得しようとしなかろうと、間違いは間違いで、正しいことは正しいという何らかの絶対的な判断である。しかし、たとえば「達成感」とか「わかりやすいことはいいことだ」など、ある一面では当てはまるが、長期的に多面的にとらえれば必ずしもそうではない事実の洗礼を受けてこなかったかのようなイマドキの子供たちには、こうした「絶対性」はなかなかわかってもらえないもののように思われる。
 
 で、こうした凹みは、僅かな欠損のようなものではあるものの、日本中にはびこる黴のように菌糸を伸ばし、あちこちで胞子を飛ばしているような気がしてならない。
 それが、他人の評価でしか動けない子供たちを量産し、本来なら、自分の判断で十分動ける子供たちの能力をも損ね、なんだかよくわからない付和雷同の気分で動く国民性を生み出し、今の時代を作っているのだろうなぁと、この数十年の教育を顧みて思う。