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『はだしのゲン』の故・中沢啓治氏、被爆国の教訓が生かされない現状を憂う【原発日本】

2013-03-05 19:00:25 | 脱原発
『はだしのゲン』の故・中沢啓治氏、被爆国の教訓が生かされない現状を憂う【原発日本】

☆肺がんを患いながら
☆気力をふりしぼって書き記した『はだしのゲンわたしの遺書』
☆(中沢啓治/朝日学生新聞社)だ。

☆「福島のことを考えると、
☆いまもあのころと事態はあまり変わっていないように思います。
☆唯一の被爆国なのに、放射能のことが正しく理解されていないことは、
…なんと情けないことでしょうか」と中沢氏は記している。

☆本書を手に取ったとき、まっさきに思ったのは、
☆中沢氏が3.11以降の日本をどう感じていたかということ。
☆福島の原発事故が起きたとき、中沢氏は「やっぱりきたか」と感じたそうだ。
☆以前からこの地震列島に原発を増設することは危険だと考えていた。
☆なのに、誰も待ったをかけない状況に憤りを感じていたのだ。

☆『はだしのゲン』を再読しようと思う。そこに込められた、
☆何度踏まれても芽を出す麦のようにたくましい人間になれ、
☆というメッセージを噛みしめたい。


Amazon.co.jp: はだしのゲン わたしの遺書: 中沢 啓治: 本
http://www.amazon.co.jp/gp/reader/4904826795/ref=sib_dp_pt#reader-link






「はだしのゲン コミック版 (全10巻)」中沢啓治作・絵 | 株式会社汐文社(ちょうぶんしゃ)

2013年3月5日(火)ダ・ヴィンチ電子ナビより
…………………………………………………………

『はだしのゲン』の故・中沢啓治氏、被爆国の教訓が生かされない現状を憂う

2013年3月5日(火)11時50分配信 ダ・ヴィンチ電子ナビ

2012年12月19日、『はだしのゲン』(集英社/中 央公論社/汐文社他)で
知られる中沢啓治氏が73歳で他界された。

時を同じくして発売されたのが、肺がんを患いながら
気力をふりしぼって書き記した『はだしのゲンわたしの遺書』
(中沢啓治/朝日学生新 聞社)だ。

中沢氏の生涯は、
日本人に原爆の記憶を忘れさせ ないことと戦争責任の追及に費やされた。

本書は8月 6日の広島に原爆が投下された6歳の頃の記憶にはじまり、
戦後の食糧不足の時代を生き抜き、
やがてマンガ家として身を立てていく作者自身を語った自伝 である。

活字で読む原爆体験は、あらためて壮絶だ。
いつもどおり登校しようとした 朝、ものすごい光が目に入り、
気がつけば辺りは真っ暗。
体の上にはコンクリー トの塀と街路樹が重くのしかかっていた。

しかし、その塀に遮られたおかげで、
奇跡的に3千度を超える原爆の熱線を浴びずに済んだのだ。

1メートルほどの距離で立ち話をしていたおばさんは、
熱線を真正面から浴びて黒こげになっていたという。

秒速400メートルの爆風は、
爆心地から半径2キロの木造家屋をぺしゃんこ に押し潰し、
街には焼けただれた皮膚を引きずり幽霊のように歩く人があふれていた。

6歳の頃のこのトラウマにより、
中沢氏は「原爆」の二文字を見ただけで
地獄絵図と死臭を思い出してしまい、
原爆症の不安もあり、ずっと忘れようとしてい たという。
原爆のマンガを描こうなど思ってもいなかった。

ところが、27歳のときに母が亡くなったことがきっかけとなり、
あらためて戦争と原爆について向き合うことになる。
それは、怒りだった。

母の遺骨は、放射能の侵入によって
脆くなっていたらしく、跡形もなく灰になっていた。

また、ア メリカのABCC(原爆傷害調査委員会)が
母の遺体の解剖を迫ったそうだ。

原爆症の人々は、カルテに「標本名」として
記されていたというから、その冷酷さに驚く。

この経験により、中沢氏は原爆から逃げ回ることをやめ、
「漫画の中で徹底的に闘ってやる!!」と覚悟を決める。

やがて1973年に『週刊少年ジャンプ』誌上で『はだしのゲン』の連載を開始。

原爆マンガが『週刊少年ジャンプ』に連載されていたとは驚きだが、
当時はまだ部数も少ない後発雑誌だった。

しかし、社名に傷がつくという理由で単行本化さ れず、
その後、汐文社から第1部全4巻が発売され、100万部を超えるベストセ ラーに。

全国の学校図書館がマンガ本として初めて
『はだしのゲン』を購入する といった動きや、
ボランティアで19カ国語に翻訳されるなど、
中沢氏のメッセー ジは着々と広がっていった。

70歳のときに中沢氏は白内障のため執筆活動を断念するのだが、
実は『はだしのゲン』第3部を構想していたという。

大人になったゲンはマンガ家のアシスタ ントとなり、
やがて本格的に絵を勉強したいと考えフランスに渡航。
原発大国であるフランスで、ゲンは絵描き仲間と共に
原発問題を考えていく……といった構 想だったそうだ。
まさに3.11以降の今の状況につながる物語である。
描かれなかったことが残念でならない。

本書を手に取ったとき、まっさきに思ったのは、
中沢氏が3.11以降の日本をどう感じていたかということ。
福島の原発事故が起きたとき、中沢氏は「やっぱり きたか」と感じたそうだ。
以前からこの地震列島に原発を増設することは危険だ と考えていた。
なのに、誰も待ったをかけない状況に憤りを感じていたのだ。

「福島のことを考えると、
いまもあのころと事態はあまり変わっていないように思います。
唯一の被爆国なのに、放射能のことが正しく理解されていないことは、
なんと情けないことでしょうか」と中沢氏は記している。

『はだしのゲン』を再読しようと思う。そこに込められた、
何度踏まれても芽を出す麦のようにたくましい人間になれ、
というメッセージを噛みしめたい。

文=大寺 明 (ダ・ヴィンチ電子ナビより)

2013年3月5日(火)ダ・ヴィンチ電子ナビ news.niftyより
http://s.news.nifty.com/entame/showbizddetail/davinci-20130305-001775_1.htm

★★★★★★★★★★

【反核・反戦】中沢啓治さん死去 「ゲンは怒ってるぞ」戦争原爆が無ければ!!
http://blog.goo.ne.jp/kimito39/e/cb87e435b8cfe06575ce8391dbdbf2d3

『はだしのゲン』の作者の中沢啓治さん【 広島に落とされた原子爆弾(原爆)で】

広島に落とされた原子爆弾(原爆)で
被爆した子どもが力強く生きる姿をえがいた
まんが『はだしのゲン』の作者の中沢啓治さんが、
19日に肺がんのため 広島市内の病院で亡くなっていたことがわかりました。
73歳でした。「人類にとって最高の宝は平和です」。

その信念を貫き、各地で被爆体験を語り続けた中沢さんは、
朝小でも度々子どもたちに向けて発信していました。
次ページに、中沢さんから小学生のみなさんへ、
最後のメッセージがあります。

73歳、「最高の宝は平和」の信念貫き

広島市に生まれた中沢さんは1945年、
小学1年生のときにアメリカ軍が落とした原爆で被爆。
爆心地近くにいながら奇跡的に助かりましたが、
その日、家族3人を失います。黒い雨が降る中、
「一瞬にして地獄と化した」街をさまよいました。

73年、その経験をもとにかいた『はだしのゲン』の
連載がまんが雑誌で始まると、大きな反響を呼びました。
単行本は十数か国語に翻訳され、発行部数は 計1000万部以上ともいわれています。

目の病気で視力が低下し、2009年にまんがをかくのをあきらめました。
しかし、平和を願う気持ちはとぎれず、
各地で原爆のおそろしさを伝える活動を続けました。

10年に肺がんが見つかり、右の肺の一部を取りました。
手術は成功しましたが、肺炎を発症するなど、闘病生活を続けていました。

来年は『はだしのゲン』が誕生してから40年の記念の年で、
中沢さんの仲間 たちが映画の上映会などを計画していました。
妻のミサヨさんが「絶対に出席 しなくちゃ」と
はげまし続けましたが、かないませんでした。

小1での被爆体験語る情熱 遺作の担当編集者がふり返る

中沢さんは今月、自伝『はだしのゲンわたしの遺書』
(朝日学生新聞社 刊)を出版したばかりでした。
担当編集者の佐藤夏理が、思い出をふり返りま す。

中沢さんが亡くなったと聞いたのは21日、
妻のミサヨさんに電話をかけたときでした。
6月にお会いしたときの満面の笑みが思い出されて、
おなかが重たくなるようなさみしい思いがこみあげてきました。

その日、遺体を火葬したとのことでした。
思わず私は「骨はありました か?」とたずねました。

原爆後遺症に苦しんだ中沢さんのお母さんが亡くなったとき、
火葬後に骨は 残らず、白い粉だけになりました。

生前、中沢さんが
「ぼくの骨も同じように スカスカになっているのではないか」と
気にしていたことを思い出したからです。

中沢さんの骨は残っていました。
「普通は遺骨を見ると悲しくなるんでしょうけど、
私は反対に骨太のしっかりした骨が残っていて、うれしくなりまし た」と
ミサヨさんが教えてくれました。

『はだしのゲン わたしの遺書』を出版したきっかけは、
去年6月29日の朝 小に載った記事です。

中沢さんが肺がんをわずらい克服しつつあること、
まんがの原画を広島市に寄贈したことなどを伝えていました。

まんが『はだしのゲン』は30年近く前、
小学生のときに読んだ記憶はありま した。
でも、その後読み返すこともなく、
原爆について深く考えることもなく私は大人になりました。

記事を読んで「作者の方がまだ生きているんだ」とおどろきました。
原爆のまんがだから、もっと昔の人の作品だと思いこんでいたのです。
病気に「負けてたまるか」とがんばっていると知り、
私は中沢さんが体験したことを聞いておきたいと思いました。

「『はだしのゲン』は私の遺書」

初めてお会いしたのは今年3月。
中沢さんは体調をくずし、広島市の病院に 入院していました。

ベッドから身を起こし、ときおりせきこみながらも
一つひとつの質問に真剣 に答えてくれました。
なかでも被爆の情景の話になると、体を前に乗り出して、
とても具体的に豊 かな言葉で描写されるのです。

「白を中心にして、まわりが青白いリンが燃え狂ったような、
外輪が赤とオ レンジをうわーっと混ぜたようなすさまじい火の玉」。
原爆が爆発したときの ことを語った表現です。
まだ小学一年生だったとは思えないほど克明に記憶し ていました。

一方で、楽しかったことを思い出して語るときの笑顔が印象的でした。
「戦争中に人間の嫌な面をたくさん見たから、
優しさとか愛なんて言葉は嫌いだ」と、中沢さんは言っていました。
けれど、そんな体験をしたとは思えない ほど明るく、
顔をくしゃっとさせて、くったくなく笑う方でした。

亡くなるおよそ一週間前、中沢さんは病室で完成した
本を手に取ることができたそうです。
本の最後は、中沢さんのこんな言葉でしめくくられています。

「『はだしのゲン』は、わたしの遺書です。
わたしが伝えたいことは、すべ てあの中にこめました。

『はだしのゲン』がこれからも読みつがれていって、 何かを感じてほしい。
それだけが、わたしの願いです」
二度と戦争をおこさないでほしいという中沢さんの遺志が、
少しでも多くの 人の心に届いてくれればと願っています。

子らに残したい思いを新たな本に

未来を担う子どもたちにこそ知ってほしい――。
19日に亡くなったまんが家の中沢啓治 さんは、
肺がんの宣告後も「命がつきるまで」という思いで
戦争と原爆のおそろしさを語 り続けました。
生前、自伝『はだしのゲン わたしの遺書』の
刊行にあわせてうかがった 話を紹介します。

学校の前で被爆

「ぼくが広島で被爆したのは、みなさんと同じ小学生のときのことです。1年生でし た」

1945年8月6日、広島に人類史上初めて原爆が落とされました。
そのとき中沢さんは、 爆心地から1.3キロはなれた学校の校門前にいました。
コンクリート製の塀が、鉄をもとかす3000度以上の熱線を防いでくれたおかげで、

中沢 さんは奇跡的に無事でした。

けれども、中沢さんのお父さん、姉、弟は爆風で
くずれた自宅の下敷きになり、火に焼かれて亡くなりました。
さらに四か月後には、
原爆投下の日に生まれた妹まで栄養失調で命を落とします。

「悲惨な場面ばかりで、泣いている余裕もなかった」と
中沢さんは当時をふり返ります。

終戦後は、お母さんと二人の兄のために毎日食事を作り、
畑で野菜を育て、海岸でエビ やカニをとって食料の足しにしていました。

生きることに必死の生活の中で唯一の娯楽がまんがを読むことでした。
小学3年生でまんが家になることを心にちかい、24歳でデビューします。

母のためにかく

しかし、すぐに原爆のことをまんがにかいたわけではありませんでした。
「ぼくは『原爆』という文字を見るだけで、
死体がくさるにおいから腐乱した姿まで
全部ぱーっと浮か んできますから、原爆から逃げまくっていました」

そんな中沢さんの気持ちを変えたのは、お母さんの死でした。
原爆後遺症に苦しみながらも、
一生懸命働いて中沢さんたちを育ててくれたお母さんは、
66年に60歳で亡くなりました。

火葬場で遺骨をひろってくださいといわれたときのことです。
いくらさがしても、あるは ずの骨がなく、
白い粉のようなものが点々としているだけでした。

中沢さんは「放射能というやつは、
大事な大事なおふくろの骨までうばっていきやがる のか」と、
はらわたがにえくり返る思いをしたそうです。

そのときに、それまで正面から向き合うことをさけてきた
戦争と原爆のことに向き合おう と腹がすわったといいます。

「ぼくに何ができるかといったら、まんがをかくことだけ。
だから、まんがの中で徹底的に
戦争と原爆の実態をかいてやろうと思ったんです。
おふくろのうらみをはらしてやろうとね」

そんな思いをこめてかいた自伝的なまんがが
『はだしのゲン』でした。
全身が焼けただれ、
むけた皮膚がお尻からふんどしのようにたれさがっていた人、
全身にガラスがつきさ さってジャリジャリと音を立てていた人、
死体をふんだ感触……。

六歳の中沢さんが目に 焼き付けた光景を、ありのままかいたのです。

73年、「週刊少年ジャンプ」で『はだしのゲン』の連載が始まると
「子どもにあんな 残酷なまんがを見せるな」という声が届いたといいます。

「ぼくは、これからを担う子どもたちにこそ、
昔日本で何があったのかを知ってほしいと思いました」
2010年に肺がんと宣告されてからは、
中沢さんは車いすに乗ってでも講演会に出かけ、 被爆について語ってきました。

「小学生のみなさんは、
原爆と聞くと大昔のことのように感じるかもしれないけれど、
いまの日本にも戦争や原爆の危険はひそんでいます。
一度そうなってしまったら、もうひ とごとだといって逃げられなくなるんです。

戦争や原爆で人間の心と体がどうなるか、
本の中にしっかりと書き残しました。本当のことを知って、
もう二度とこういうことがおこらないように、みなさんの力を結集させてください」

朝日小学生新聞2012年12月25日掲載
http://www.asagaku.com/osirase/hadashinogen/index.html

どの国でも、母は不安です。









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