豊臣秀次は、戦国時代末に八幡城を築くとともに、八幡山下町として近江八幡の町を開いた。楽市・楽座の経済開放政策により、商業都市としての基盤を築いた。八幡城は廃城となるが、近江八幡は江戸時代を通して、商業都市として発展を続けた。
琵琶湖を見ていて、思ったのだが、京都・大阪が日本の経済的中心であった江戸中期までの時代に近江の商人たちは地理上、非常に有利な場所を本拠地としていたので、こんなにも栄えたのではないだろうか。その時代、商業は回船による水運が中心だった。日本海を航海する回船の荷を京都・大阪に運ぶとなると、京都の真北は山が深いので、小浜や敦賀から一度陸路に出て、それから琵琶湖を経由するのが一番楽そうに見える。となると、琵琶湖東岸の地は、その要となりそうだ。
近江八幡の旧市街地に立つ旧西川家。屋号は、大文字屋。
座敷より、主庭を見る。
振り返ると、裏の茶庭が見える。
旧市街地の中心の新町通り。徳川時代には、朝鮮との国交も回復し、朝鮮の使節団がこのすぐ後ろの京街道筋で昼食をとった記録もある。
新町通りでは、あまり広くない庭でも松を生かして、緑が豊かに見える。
八幡掘り沿いの桜が満開。人出がとても多かった。
この後、遅い昼食をとる。
琵琶湖を見ていて、思ったのだが、京都・大阪が日本の経済的中心であった江戸中期までの時代に近江の商人たちは地理上、非常に有利な場所を本拠地としていたので、こんなにも栄えたのではないだろうか。その時代、商業は回船による水運が中心だった。日本海を航海する回船の荷を京都・大阪に運ぶとなると、京都の真北は山が深いので、小浜や敦賀から一度陸路に出て、それから琵琶湖を経由するのが一番楽そうに見える。となると、琵琶湖東岸の地は、その要となりそうだ。
近江八幡の旧市街地に立つ旧西川家。屋号は、大文字屋。
座敷より、主庭を見る。
振り返ると、裏の茶庭が見える。
旧市街地の中心の新町通り。徳川時代には、朝鮮との国交も回復し、朝鮮の使節団がこのすぐ後ろの京街道筋で昼食をとった記録もある。
新町通りでは、あまり広くない庭でも松を生かして、緑が豊かに見える。
八幡掘り沿いの桜が満開。人出がとても多かった。
この後、遅い昼食をとる。
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